エピクテトス2.0――ソーシャル・ディスタンスをこえて 山本貴光+吉川浩満+斎藤哲也「新型コロナウィルス、エピクテトスなら、こう言うね。」|ゲンロン編集部

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ゲンロンα 2020年4月22日 配信
 ゲンロンカフェでは年末の恒例イベントとなっている「『人文的、あまりに人文的』な、人文書めった斬り!」。この人気シリーズの登壇者3名が、4月16日、ゲンロンカフェに集った。今回のテーマは、およそ1900年前にギリシャで活躍した哲学者エピクテトス。山本貴光と吉川浩満は、3月に『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)を上梓したばかり。また、斎藤哲也も、昨年に出版された『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(荻野弘之著、ダイヤモンド社)でライティングを担当している。  第1部第2部、あわせて5時間の鼎談から見えてきた、エピクテトスの教えと、その現代的な意味とは?  本記事の内容に関心を持たれた方は、以下のリンクから議論の全容をぜひお楽しみください。(編集部)  第一部 URL=https://vimeo.com/ondemand/genron20200416no1  第二部 URL=https://vimeo.com/ondemand/genron20200416no2
 
 

心の平穏のための哲学、その使いかた


 哲学史上もっともシンプルだと斉藤が評する、エピクテトスの哲学。シンプルな教えだからこそ、簡単にわかった気になってしまうものだが、肝心なのはその「使いかた」だろう。第1部では、エピクテトスに私淑しているという山本と吉川が、彼の教えを伝授するとともに、その使いかたを披露してみせた。  吉川によれば、エピクテトスの哲学の特徴は、理論と実践が一体であることだ。つけくわえて、ヘレニズム哲学が共通して目標としたのは、心の平穏だという。これが哲学の目標と聞くと驚いてしまうほど、身近なトピックと言える。斎藤はその背景に、ローマ帝国の強大化があると指摘する。当時のローマは「パクス・ロマーナ」と呼ばれる繁栄期を迎える一方で、政治と個人には距離ができていったという。現代でも似たような現象は起きている。では、そんな状況で求められた心の平穏を得るための理論とは、どんなものだったか。  それは、「権内」と「権外」の区別だという。いいかえれば、自分がコントロールできること(権内)と、できないこと(権外)との区別だ。「ひとは、自分がコントロールできないことには悩まない。困りはするけれども」と吉川はいう。「権外」のものとは、たとえば「他人」や「災害」だ。では、自分の身体は「権内」だろうか? シンプルな区別をつくり問いを生むことが、エピクテトスの哲学の魅力だと山本はいう。  斎藤が危惧するように、「権内」と「権外」の区別を固定的に考えてしまうと、現状維持で満足しろという危険なメッセージにつながりかねない。重要なのは、この区別をものさしとして、自分はいまなにができるかを問うこと、そして、ポジティブに「権内」の領域を増やそうとすることだ。山本はそう総括した。

技術は「権内」を広げたか?


 現代に生きるわたしたちは、エピクテトスの教えをどうアップデートすればいいのか? 第2部は、この問いから始まった。  スマートフォンとグーグルマップによって迷子にならずに済んでいるという山本は、テクノロジーが「権内」を広げるという視点を提示した。このように考えると、アプリのひとつひとつが「権内」を増やす装置として見なせるという。  一方、吉川は、人間の自然に対する知識が増えたわりには、「権内」の領域は広がっていないという。また、テクノロジーが新しい悩みを生む例として、出生前診断を挙げる。技術が進歩することで、積極的に診断を取り入れるかどうか、新たな判断が必要になった。診断を受けるかどうかという悩みも生まれるし、診断結果がさらなる悩みにつながるかもしれない。
 
 この難しい問題に対して、斎藤はアップデートの鍵として「他者」を挙げた。第1部では「権外」の典型として挙げられた他者だが、コントロールできない他者とともに悩み、考えることで、「権内」だけでは解決できない課題に光が見えてくることもある。

「権外」だからこそ考える


 新型コロナウイルスが蔓延するいま、エピクテトスがよみがえったらなんというだろうか。吉川はこう答える。  まず時間をくれというにちがいない。なぜなら、彼はコロナウイルスを知らないから。バカげているようでいて、これは本当に大事なことだ。なぜならストア派の教えは、自然を正しく知り、自然と一致して生きるというものだからだ。そのあと彼がいうであろうことは、医療従事者や政策決定者はともかく一般市民には、できることはそれほどないということ。いいかえれば、目覚ましい対応、たとえば医療行為や政策決定そのものは、わたしの「権外」の事柄である。そういうわけで、できることはそれほどないにせよ、数少ないできること、確実だと思われるところから対策をして、失敗したら修正していくしかない。
 
 質疑応答では、吉川から「新型コロナウイルスの三すくみ」という図式が提示された。過去のペストやエボラ出血熱と比べて、新型コロナウイルスは個人にはそれほど強くない(コロナ<個人)。他方で、現代社会のような緊密化・ネットワーク化した社会にはめっぽう強い(コロナ>社会)。コロナウイルスは社会に取りつく病気であるともいえる。そして、現代人はそのような社会なしには生きていけない(社会>個人)。新型コロナウイルスの厄介さは、こうした三すくみの関係によって理解できるのではないか、という提案だ。  べつの角度から、斎藤はこう指摘する。助け合いというと、わたしたちは人々が集まるイメージをもつ。コロナウイルスがもたらす困難とは、わたしたちがいままでイメージしてきた助け合いが通用しないことだ。ひとが直接会わずに、どのような助け合いができるのか。いまこそ、新しい協力のかたちを発明できるかもしれない。  「物理的なディスタンスがあっても、社会的なディスタンスを近づける努力が必要だ」――吉川は、こう締めくくった。    時間をかけて知り、考えること。これが、コロナウイルスについてエピクテトスがわたしたちに教えてくれることのひとつだ。議論や質疑応答の過程で幾度となく繰り返された鋭い指摘は、エピクテトスの教えの実践といえる。
斎藤哲也×山本貴光×吉川浩満「新型コロナウィルス、エピクテトスなら、こう言うね。 ──未曾有の危機に人々が不安や悩みを抱えるいま、古代ローマの人生哲学をアップデートする」 (番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20200416/
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