ニッポンの保守──2020年桜の陣(2) 改憲と女系天皇|小林よしのり+三浦瑠麗+東浩紀

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ゲンロンα 2020年5月3日配信

 2020年3月28日に行われた小林よしのり氏と三浦瑠麗氏、東浩紀の鼎談番組「ニッポンの保守──2020年桜の陣」。『ゲンロンα』ではその模様を、3回に分けてお届けしています。コロナ禍に対する社会の反応、そのなかでの言論人のあり方について議論された第1回に続き、第2回の更新となる今回は、憲法と天皇制がテーマです。3人が考える理想の改憲とはどのようなものか。そして令和以降の時代に、天皇制と皇室はどのように変わっていくべきか。日本の社会に深く切り込んだ対話が展開されています。
 この座談会の模様はVimeoにて全篇をご覧いただけます。こちらのリンクからぜひお楽しみください。(編集部)

「理想の改憲」とは


東浩紀 ここからさきは、いまの日本が抱える問題について議論したいと思います。第一の論点は憲法です。コロナウイルスで情勢が変わり、安倍政権下での改憲がおこなわれるのかは不透明になりましたが、改憲は今後も問題になり続けると思います。小林さんは以前から「立憲的改憲」の運動をされており、対米従属からの脱出を訴えていますよね。

小林よしのり はい。安倍改憲案のように、憲法に自衛隊を明記するだけでは意味がない。「戦力」という言葉が必要です。そして、その戦力をどのように統制するかを書く。そこから始めないと、結局アメリカに従属することになり、国家に主体性が生まれない。現状では自衛隊が軍隊と認められていないから軍事法廷もなく、たとえば自衛隊員が現地住民を事故で死なせてしまった場合も、日本側で裁くことのできる機関がない。現地の住民が自分たちのやり方で裁くのに任せたら、どんな刑罰が待っているかわからない。

 憲法に「戦力」と書けば、自衛隊は事実上軍隊と一緒になり、軍事法廷も作れるようになります。安倍政権は、自衛隊という名前を明記すると言っているけど、そうしたところで自衛隊は軍隊にも戦力にもならないよ。

三浦瑠麗 とはいえ、だれしもが自衛隊を特別視しているのは確かですね。ほかの省庁などの組織は憲法に書かず、自衛隊だけ書くというのは軍として扱っているわけです。野党も「シビリアン・コントロール(文民統制)」は重要だと日頃から認識しているわけだから、自衛隊を「みなし軍」として見ていることは確かです。わたしはシビリアン・コントロールを憲法に書き込むべきだと考えています。

 そのためには、まず、やりたい改革を憲法・法律・慣習の3つに分けることが必要です。

 慣習とはなにを指すのでしょうか。

三浦 憲法でも法律でも規定されていないしきたりのことです。たとえばアメリカでは、議会が戦争犯罪などを精査する際、非公開の委員会で軍人から話を聴いて調査しますが、こうした調査委員会設置の権限は各国で憲法や法律に定められていることが多い。日本ではそもそも自衛官は国会の質疑にも出席しません。議員が自衛官から話を聴く場は想定されていない。これは「慣習」によるものです。統幕長の国会答弁を阻む法律はないのに、文官が答弁する。この弊害はたとえば、自衛隊南スーダン派遣日報隠蔽問題でも明らかです。文官が言うことにはフィルターがかかります。自衛官が内部事情や自らの認識を伝えたくても、答弁の機会がない。

 あるいは本来憲法の管轄であるべきなのに、法律で扱われている事項もあります。たとえばイラク戦争でも用いられた特措法がそれにあたります。この法律は、自衛隊の派遣に国会の承認が必要であることを定めています。ですが軍事作戦の国会承認は法律ではなく、憲法によって決定されるべきです。

 その腑分けをしたうえで、実力組織としての戦力を憲法で位置づけると同時に、国会による軍事作戦の承認、その予算や人員に関する権限、そして理念としてのシビリアン・コントロールも憲法に明記するのがわたしの理想の改憲です。現行の憲法には、内閣が文民で構成されなければならないという条項しかない。安倍さんが当初、憲法記念日に改憲を打ち出した時には、やはり行政府による統制が前面に出ていました。国会と司法による統制を憲法事項とする案ではなかった。すると従来のまま国会による統制は法律事項になってしまっています。

シビリアン・コントロールとはなにか


 そもそもシビリアン・コントロールという概念はいつ生まれたのでしょう?

三浦 すでにプラトンの『国家』で、統治者は哲人政治家と軍に分けられています。

 けれども、古代ギリシアのポリスでは市民イコール兵士でしょう。その市民のなかですぐれた人物が哲人王になるという発想なので、シビリアン・コントロールとはいえないのではないでしょうか。
三浦 プラトンは、統治者は軍人じゃないほうがいいと考えているんです。軍人は下位支配階級であるべきで、上位支配階級はシビリアンがなるべきだと。その理想が実現することはなかったのですが。

 サミュエル・ハンティントンのような安全保障を重視しながら民主的価値を守ろうとする政治学者は、明らかにプラトンの『国家』の影響を色濃く受けています。シビリアン・コントロールは基本的にここに端を発しているとわたしは考えています。中世には逆戻りするけれども、近代以降、高位貴族はふたたび戦場では戦わなくなり、軍人になるのは下級貴族というような身分の区分けが生まれてくる。

小林 古代まで持ち出されるとちょっと感覚が違うな。

 近代の国民国家でも国民は兵士になりうる。徴兵制がそうですね。

三浦 シビリアン・コントロールのふたつの意味合いを混同する人が多いのですが、最も源流にあるのは民主国家以前の概念です。つまり、政治的な意味でのコントロール。政治は本来シビルでなければいけない。つまり、政治の場では軍人とは異なる発想の人が上に立たなければならない、という考え方。もうひとつは民主主義ができたあとの概念で、大衆が軍をコントロールしなければならないという考え方です。

 徴兵制は民主国家より先に存在していました。第二次世界大戦後、多くの国が民主国家になって、徴兵と民主制を組み合わせた新たなかたちでのシビリアン・コントロール概念が再構築される。そこで、クーデターを起こさない健全な民主主義国家であるためには、市民が軍服を着て兵隊のなかに入り、兵隊を教化しなければいけないという価値観がうまれました。現在のシビリアン・コントロールの概念が成立したのは1950年代です。

小林 日本の場合は特殊で、戦前に大臣のなかに軍人がいて、政権のなかで力を持ちすぎたから、戦後は軍人を入れず文民だけで支配しようということになったわけでしょう。

 それに、シビル、つまり市民の概念がそもそも崩れている。市民=兵士であるという感覚が消え失せて、「市民は戦争には絶対行かない」「国家を守る責任を持たない人間こそが高度な市民である」という話になっている。それではシビリアン・コントロールと言っても当てはまらないよ。

三浦 シビリアン・コントロールは行政府と立法府のどちらかだけを重視しすぎてはいけない。行政だけが軍を統制すると、かつてのイギリス議会が懸念したように、国王の私兵になってしまいます。だから、三権がともに自衛隊に統制をかけるかたちにする必要があるんです。行政は運用や人事権において統制をし、議会は予算の承認や有事の際の行動の承認を行い、司法は軍事法廷の最終結審を最高裁で行なって軍隊や行政の隠蔽を阻止する。三権の統制があってこそ、シビリアン・コントロールが効力を持ちます。それを念頭に、憲法と法律と慣習をセットで設計して考えていくべきです。

改憲草案をどう見るか


 改憲案として、具体的にはどういう文面がいいと思いますか。

小林 いまの憲法では、自衛隊が存在しているにもかかわらず「戦力は、これを保持しない」とあることが大問題です。まずそれを変えないとどうにもならない。いまの改憲案は「自衛隊の存在を条文に書きましょう」と、人気のある自衛隊を口実に使った情緒的なものでしかない。

三浦 安倍さんの改憲アプローチが情緒的であるのはおっしゃる通りで、ふたつの点で不十分です。ひとつは小林さんが言うように、9条第2項(「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」)をいじっていないから自衛隊が「戦力」にならないこと。もうひとつは軍事力に対する国会の関与になんら言及していないことです。

 わたしも憲法9条2項は削除すべきだと思っていて、そこは小林さんと同意見です。そのうえで、小林さんとおそらくちがいがでてくるのは、なにを法律事項にし、憲法事項にするかという点です。本来法律事項で定めるべきことを憲法に書き込むと、柔軟性が損なわれて想定外の事態に対処できなくなってしまう。でも、この点は議論をしていけばいいでしょう。

小林 まずは「戦力」だよ。国会の関与だけがあっても、肝心な「戦力ではない」という前提がある限りどうにもならない。
三浦 理想は9条第2項完全削除です。9条第1項(日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。)は国際法と同義なので残すべきです。第2項を削除すれば、交戦権などのややこしい話もなくなり、自衛隊を軍隊であると内外に言えるようになる。

 けれども自民党には9条第2項を削除するようなガッツはない。安倍改憲案は、公明党のおもわくもあり、当初の理念からだいぶ変質してしまった。

 けれども、改憲の理念は単に自衛隊を軍にする事だけではありません。ここは内閣総理大臣が統制するだけでなく、「国会の関与」を憲法に位置づけなければ民主国家の軍として扱う要件を満たしません。その重要性は高村正彦さんをはじめとして自民党の一部にも理解が広がっており、とりわけ公明党がその意義を主張するようになってきています。

 日本国憲法は米国が作ったのに、英米の憲法概念としてもっとも重要視されてきたシビリアン・コントロールが入っていなかった。これは明らかに不備でしょう。内閣総理大臣の指揮権と国会によるシビリアン・コントロールが明記されれば、自衛隊の派遣について国会が積極的な役割を果たさざるをえなくなるでしょう。それ以上の書き込みは必要ない。

 三浦さんは、国会によるシビリアン・コントロールが改憲案に書かれてないことに不満を持っていると。

三浦 いえ、ずっと主張してきましたし、理解が広がってきたので、いまのたたき台草案には盛り込まれています。

 そうなんですか。自民党の改憲草案はインターネットで公開されているので、見てみましょう。

「第九条の二。前条の規定はわが国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として法律の定めるところにより内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。自衛隊の行動は法律の定めるところにより国会の承認その他の統制に服する」。

三浦 1文目はとりあえず「自衛隊」と書き込まれただけでなにも変わっていません。2文目は大きな意味を持っている。民主国家として日本を再スタートさせようと思うなら、国会による統制について憲法に書かざるをえない。これは法学者の小林節さんや法哲学の井上達夫さんも言っていることですね。

 いまの9条第2項は交戦権を否定していて、これがある限りは専守防衛を外せない。結果として自衛隊は戦力ではないと言いながら、実際には専守防衛のためにかなりの武器を持たざるをえない。毎年5兆円規模の防衛費を使って、高価な米国の兵器を買っている。

 社会保障費が増大するなかで防衛費の大幅な拡大は難しい。だからこそ9条第2項を外してこの5兆円を有効に使わせてくれないかと思っています。けれど国会では憲法解釈や専守防衛の定義ばかりが論じられていて、武器の購入を含む予算についての議論は乏しい。専門知識もなく、ほぼ丸呑みです。国会議員には制服との交流もなければ軍事的な知見もないし、秘密会も開かれませんから。

 小林さんはこの草案をどう評価しますか。

小林 「国会の承認その他の統制に服す」とあるけれども、「戦力」ではなく「実力組織」と規定されているんじゃ仕方ない。これでは警察の延長線上から一歩もはみでようとしていない。憲法は、縛る対象が重要です。国家をどうやって縛るかに目を向けないと。

 基本的に日本人は自分たちで憲法を作ったことがない。だから憲法とはなにかすらわかっていない、かなり遅れた民族です。「なんのために憲法がいるのか」がわからない。たとえば「公務員は公の為に尽くす」と憲法に書いてあるけれど、森友学園の例を見れば、それを守らなくていい状態になってることが明らかです。まず国民に憲法はなんのために作るか、議論を起こすことが必要なんです。

民衆に語りかけること


 ぼくは日本社会の問題は、9条の問題に象徴されていると思っています。9条をふつうに読めば、明らかに自衛隊を否定している。ところが勉強すればするほど、「いや、あれはじつは自衛隊を否定していないんだ」ということになっていく。学問を学ぶことが、最初の直観を否定することになっている。これは専門的な科学ではよいのかもしれませんが、社会をつくるうえでは問題です。いまの日本では、「法律で定められていること」と「社会の実態」が違うことに疑問をもつのではなく、その矛盾を適当に折り合わせて呑み込む技術が「大人の知性」だということになっている。このような状況は改革の意志を削ぐし、そもそも原理的な思考全体を抑圧しています。だからぼくは、9条に関しては、小林さんがおっしゃるように「戦力」と書いた方がいいと思います。そのほうが子どもでもわかるからです。これは9条にかぎりません。たとえば婚姻に関して24条では「婚姻は、両性の合意のみ」と記されています。この「両性」は、日本語としてふつうに読めば男と女を指しています。けれども木村草太さんは、この規定は両性=当事者同士の合意が大事だというところに重点を置いているものなので、現行憲法も同性婚を否定していないと主張している。このような主張はいっけんリベラルで、多様性を肯定するものにみえますが、じつは立憲主義にとって本質的に危険です。このような操作を繰り返していると、どんな条文でも、一般市民の解釈がたやすく専門家の読み替えによってひっくり返されることになってしまうからです。同性婚を支持するひとはむしろ改憲運動をするべきです。

三浦 小林さんは以前、もし立憲民主党が憲法改正に関する国民投票で完全な護憲派のロジックに基づいて反対したら、「わしは安倍改憲草案につく」と言ってましたよね。
小林 憲法を教典にしてしまうことは最大限に悪いと思っているからね。ただ、「安倍改憲につく」というのは敗れたときよ。まずは戦わなきゃいけない。まず立憲的改憲とはなにかについて国民に啓蒙せずに、ただ政権の案を改良していては、この国は100年後も変わらない。明治憲法を発布するとき、国民は「絹布の法被」を貰えると思っていた。戦後はGHQに憲法を与えられた。そのときからなにもかわってない。わしはとにもかくにもこの国をまともにしたい。

 ぼくもそこは悩むんですが、改憲派につくしかないですね。安倍改憲は戦後はじめての改憲なので、それを肯定するか否定するかには、ふたつの問題が混ざっています。ひとつは内容について、彼の改憲案でいいのかどうか。もうひとつは改憲それ自体について、そもそも改憲そのものがいいのかどうか。このふたつがいっしょに問われてしまう。結果として安倍草案の内容を批判するだけですまなくて、改憲そのものを否定する勢力に対しても抵抗しなければいけなくなっている。だから議論がねじれてしまう。

三浦 わたしは理想的な憲法と安倍改憲案のあいだにギャップがあることについては批判しています。安倍政権にできることはなにか。いまの政権にできる最良のことをしてほしいと思っているだけです。繰り返しますが、安倍政権には9条第2項を削除するだけの力はありません。そもそも、シビリアン・コントロールに対するビジョンや政軍関係の知識は日本の統治機構や政治家にはない。安倍さんには、9条周りで改憲したいという気持ちだけがある。それなら公明党に頑張ってもらって、国会の統制を憲法事項にするという、改憲派の欲望は満たさないかもしれないけれど、立憲政治にとって重要な改革を通すべきだと考えています。わたしは政軍関係の研究から始めた人間として、シビリアン・コントロールを重視しているし、それは憲法概念から説き下ろしつつ日々改善が必要な分野なのです。国会の承認を憲法に入れることが持つ、民主国家にとっての、憲法概念上の大きな意味をもっと多くの人にご理解いただきたいですね。

改憲をめぐる議論は自衛隊を憲法にどう位置づけて制御するかが中心となった




 ところで立憲的改憲といえば、山尾志桜里さんが立憲民主党から離れました。今後、立憲的改憲の運動はどうなっていくと思われますか?

小林 立憲民主党は憲法審査会に山尾を出さない方向にしていた。けれども、彼女はいまは党を出たので、憲法審査会に出ることができる。立憲民主党とは関係なしに、立憲的改憲の議論で勝てばいい。なにかが間違っているなら、徹底的にやるべきです。だからわしはつねにトラブルを生んでしまう。オウム批判すれば暗殺部隊がくる。伊藤詩織さんを擁護して山口敬之を「レイプ魔」と言い、山口から訴えられてもいます。けれども、「山口何某は、確たる証拠はありませんが、かなりのパーセンテージでレイプをした疑念が残ります」と穏当な書きかたをしても、なにも伝わらない。脱・属国に賭けた西部邁は、最後は自死しました。無念だったと思います。そしたらわしが引き継ぎましょうとなる。そのわしももう66歳で、残りの人生が10年あるかどうかもわからない。とにかく相手を斬り殺すつもりでやるわけです。いままでどれだけ妥協して解釈改憲ばかりやってきたか。そう考えると、安倍改憲の訳のわからないものをいじくって修正を促すというような態度は、擁護にしかならないと判断します。そうではなく、一から啓蒙をやらんとだめ。自分たちで憲法を新たに作る機運をまず盛り上げないと立憲主義にならない。そこがいちばん大事です。

 小林さんは運動家と思われがちですが、むしろ思想家ですよね。実現可能性とは関係ないことも言っていて、筋として通っています。

三浦 闘争路線を取るのは取られたらいいと思います。けれど小林さんが、憲法の議論を体制派/反体制派の二項対立に落とし込んでしか語らないことには落胆がありますね。日本の憲法論議には、どのように民主主義体制をつくり、それと異質であるはずの軍をどう保持していくのかという議論が欠けている。それは優れて思想的な問題であり、わたしはつねにそこと向き合ってきた自負がありますよ。

小林 それは仕方がないよ。一般の人間がわからないんだからどうしようもない。わしは庶民に語りかけているから、かなり熱量を多くしないと説得力すらなくなってしまう。

女系天皇を認めるべきか


 第二の論点として、皇室の話をお伺いできればと思います。改元から1年近くが経ちました。昨年4月、新元号が発表された直後に政治学者の原武史さんと対談を行なったのですが、原さんは平成流の皇室のあり方には美智子上皇后の影響が強くあったと見ていました。令和ではそれはどう変わるのか。とくにおふたりは女系天皇の議論に意見があると思うので、そちらを中心に伺えればと思います。

小林よしのり

1953年生まれ、福岡県出身。漫画家。大学在学中に描いたデビュー作『東大一直線』が大ヒット。代表作の一つ『おぼっちゃまくん』は社会現象となり、アニメ化もされた。92年より連載中の『ゴーマニズム宣言』では、世界初の思想漫画として社会問題に斬り込み、数々の論争を巻き起こしている。最近はネットでの言論も盛んに行ない、Webマガジン「小林よしのりライジング」やブログでの発言が注目されている。近刊に『天皇論「日米激突」』 (小学館新書)、『慰安婦』(幻冬舎)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

三浦瑠麗

国際政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、株式会社山猫総合研究所代表。ブログ「山猫日記」主宰。単著に『シビリアンの戦争——デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)、『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)、『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書) 、『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書) 、『21世紀の戦争と平和: 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』、『孤独の意味も、女であることの味わいも』(ともに新潮社)。
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