【特別公開】『枝角の冠』冒頭部分|琴柱遥

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ゲンロンα 2020年6月23日配信
 2020年6月10日、ゲンロン 大森望 SF創作講座から傑作を集めた電子書籍シリーズ「ゲンロンSF文庫」が誕生しました。ラインナップは、第3回ゲンロンSF新人賞に輝いた琴柱遥さんの『枝角の冠』、同じく大森望賞を受賞した進藤尚典さんの『推しの三原則』に加え、リニューアルされた既刊をあわせた5点です。  これを記念し、『枝角の冠』の冒頭部分を公開いたします。多くの女と唯一の「父」が暮らす群れを描いた力強く切実な物語。大森望さん、飛浩隆さん、東浩紀を審査員とする選考会で、満場一致の大賞となった傑作をぜひお読みください。(編集部)
   わたしがはじめて父を見たのは、一面に霜が下りた寒い冬の日だった。

 

 地面を覆った霜に冬の薄日が差し込み、水晶の粒を撒いたようにきらきらと光っていた。空は明るい灰色に曇って、太陽は白い玉のようだった。何もかもが白い景色の中だけで、父の姿だけが影のように黒かった。そびえたつようにおおきく、いかめしく、そして物悲しかった。  腹を裂かれた鹿が雪の上に倒れていた。はらわたからは、白く湯気がたちのぼっていた。二本の前脚の先、曲がった爪はまだあたたかい血をしたたらせ、分厚い毛並みはほとんど肘のあたりまでぐっしょりとあかく濡れ……。  全身を覆う被毛は黒く、分厚く深い毛皮が全身を覆っていた。尾は長く太く、大蛇のようで、父と鹿との周りを取り巻くように弧を描いていた。その尾から続く線の先が背中につながり、太い首へとつながり、その先に小さな頭があった。頭上には十六枝に分かれた枝角が冠のように戴かれていた。逆光の中、二つのひとみだけが光っていた。霜に照り返す光が眼に差し込み、ひとみは青ざめたような金緑色に見えた。しずかな戸惑いをたたえて、おさないわたしを見下ろしていた。

 

 わたしはあのとき小さな子どもで、男と女の違いも、獣と人の差も分かってはいなかった。けれどこのおそろしい、そして物悲しい生き物が、わたしたちと同じ種族に属するものだということだけは理解していた。鳥と魚を見間違えることがないように、花と貝殻とを見間違うことがないように、たしかに彼はわたしに近しいものだった。同じ赤い血の流れる生き物だった。  だからわたしはうれしくて笑った。父に向かっていっぱいに手を伸ばした。 「おとうさん!」   父はおどろいたようだった。肩の辺りから背中の中央にかけて、たてがみがゆっくりと逆立った。その手に触れてみたかった。まだあたたかい血を滴らせている黒い爪、毛深い前足。  けれども父がわたしを見ていたのはほんの一瞬のことだった。長い尾の先で地面を強くたたくと身をひるがえし、見る間に冬枯れの森の奥へと消えて去ってしまった。

 

 わたしには牙もなく爪もなく、毛皮もなければ尾もなかった。つまりは、どこにでもいるような当たり前の女で、そして、子どもだった。それが当たり前だと思わなければいけない。そう気づいたのは、いったい、幾つのときだったのだろう。

 

 わたしは十三歳。  川岸にひろく広がった草原の中に寝っ転がって、空を見上げている。  初夏の空は青く高く、風に紡がれてはまたほどかれる雲が、強い風に吹かれて流れて行く。土手に茂った夏草の中に横たわれば、視界は高く伸びた草の緑に縁取られる。白くふわふわとした草の穂が、雲と一緒に風に揺れる。  今は夏。冬にはあらかた水が引いてしまう河も、今の季節は満々と水に満たされ、土手に茂った背の高い草が川岸と深い葦原との境目をあいまいにしている。草の葉はちくちくと頬を刺す。仰向けになって草の間に横たわれば、金色の日差しが手足をぬくめる。  あくびをした拍子ににじんだ涙を吸いに、黄色い蝶々が近づいてくる。くすぐったくて首を横に振ると、蝶は空の青みのほうへと再びふわふわ飛んで行く。  と、かすかな水音がした。目を開く。

 音を立てぬよう起き上がり、腕に巻き付けていた投石紐を肘まで垂らした。草の間に身をかがめたまま目を凝らせば、ここからそう遠くはない葦原の間を何匹もの鷺がくちばしで水の中を漁りながら歩いている。ふと立ち止まると羽根を広げ膨らませ、嘴で丁寧に突きまわして身繕いをする。  あらかじめ岸辺で拾っておいた石を投石紐につがえた。  何かに気付いたのだろう。鷺たちが一斉に羽ばたき飛び上がった。  跳ね起きると同時に、勢いをつけて投石紐を振り回した。遠心力を受けた紐の片端が指から外れれば、手のひらほどもある石が放たれる。狙いは鷺ではない。石は狙いたがわず、鷺へと掴みかかろうとしていた鷹を撃ち落とした。  鷺の群れはギャアギャアと鳴き騒ぎながら逃げ去ってゆく。わたしは立ち上がり、葦原のほうへと歩いて行く。ざぶざぶと水に踏み込めば、水面はすぐに膝の深さを超える。かまわず水の中を歩いて行けば、もがきながら水に浮いていたのは一羽の若い鷹だった。青みがかった美しい羽。  待っていた甲斐があった。最近、まだ巣立ったばかりの鷹がこのあたりをえさ場にしている様子があると思って狙いをつけていたが、思った以上の大物だ。 「ハイラー?」  わたしを呼ぶ声が聞こえる。どうやら、鷺が騒いでいる様子に気付いてこちらを見に来たらしい。泥に足を取られそうになりながら水から上がってくると、ちょうど、土手の上からふたりの娘が手を振っている。小柄なのがアイ、丸い顔をしている方がニーラ。二人ともわたしと同じ年頃。おんなじ灰色の髪に緑のひとみ。アイは苦笑いを交えたような顔、ニーラはあきれ顔でこちらを見ていた。私は投石紐で鷹の脚をくくって肩に背負い、土手に放り出していた籠を拾う。 「何やってたの、こんなとこで。また怠けてたの?」  何を言ったって、煩いことを言われるに決まってる。だまってそっぽを向こうとするわたしの顔を、それでもアイがのぞき込んでくるものだから、叱られた子供にでもなったような気がした。アイの目の中に、金色をしたわたしの目が写っている。 「ずいぶん立派な鷹だね、ハイラ。最近よくこのあたりにいると思ってたけど、狙ってたの?」 「まあね。まだ飛ぶのが下手な間に仕留めとかなきゃいけないと思ってたんだ」  とはいえ、やるべき仕事を放り出していたのも事実だ。二人の背負った籠の中は野山で刈ってきたわらびの根、山芋の根、他にもいろいろな山菜でがいっぱいだけれど、わたしの籠にはその半分も入っていない。「悪かったよ」とぼそぼそと答えれば、二人は顔を見合わせ、それから、声をあげて笑った。アイは「いいんだよ」とわたしの肩を叩く。首にかけた山珊瑚と銀の首飾りがゆれる。 「これだけ立派な鷹があれば、大ばあ様たちも喜ぶだろうし」 「アイはハイラに甘いよねえ」  ニーラは楽しそうにぶつぶつ言う。鷹の羽の尾羽、風切り羽は、いろいろなことの役に立つ。飾り物にすることもあるし、祭りで神酒を捧げるときの花矢を作るのにも使う。なにより、この羽根は交易品として重宝され、さまざまなものと取り替えてもらえる。 「ほらアイ、口開けて」 「ん」  いちいの木の側を通りかかれば、むしった実をアイが口に放り込んでくれる。ニーラも同じように赤い実を口に入れては、毒のある種だけを吐いて飛ばす。何十年もの間に踏み分けられて出来た小道は次第に上向いてゆるやかな坂になり、小高い丘へと続いて行く。そこに、わたしたちの村がある。

 大きな岩の上にいくつもの小石を積み上げた道標がある。ここから先は村の敷地。あたりは余計な木が切り払われて広い空き地となり、今の季節は一面に白百合が咲いている。  道の向こうに見えるのは、茅葺きの丸い屋根を持った家々。もう何百年もそこに立ち続けているのだという七竈ななかまどの木。もう臼で木の実をつく音や、機を織る合間にお互いに物語をする歌声が、聞こえてくるかのようだった。 「そういえば、明日か明後日ぐらいにお客様が来るらしいんだって。ニーラは聞いた?」 「そうなの? 初耳だよ。ハイラは?」 「ううん」 「おもてなしにどんな物語をするか考えておきなさいって言われちゃったんだよねえ……何がいいのかなあ」 「バア様たちに期待されてるってのも大変ね。ええと私はねえ、ちょっとハイラ、何ぼうっとしてるのよ。ハイラ、ハイラ?」  ニーラに腕を引っ張られて、ようやく我に返る。わたしは無意識に足を止めていたらしい。「ごめん」と謝って歩き出しながら、けれど、もう一度だけ振り返る。  わたしの故郷はとても豊かだ。秋にはたくさんの木の実を実らせる森――かしくぬぎの実、長い実を持つ小楢こなら、椎や栗の森は自然のものではなく、代々の長老であるバアさまたちの厳重な管理の元に作り出されたものだった。秋には茸、あけびややまぶどう、諸々の山の幸、一年分の食料をまかなって余りあるほどの木の実の収穫があり、春先にはかたくりやうばゆり、夏になれば百合や葛の根のたぐいをもたらしてくれる。  一方、夏にはゆたかな流れとなり、冬には水が引いて湿原となる大河もまた、ゆたかな恵みの源でもあった。春から夏にかけては河を遡上してくる鱒の群れ、冬には遙か北国からおとずれる鴨や鴫などの鳥の群れ。秋になれば山には鹿が群れ、鳴き交わす声がもの悲しく夜に響く。季節ごとに満ちては引き、また打ち寄せる自然の営み。  夏の終わり、河の水量が減って川底のやわらかい土が見え始めると、肥沃な土の中で眠っていた種が一斉に芽吹き、川床一面に花を咲かせる。錦の帯のようになる。けれどそれもほんのひとときのことで、風花が舞いはじめるころにはすべての花が咲き終わり、山々を金や赤に彩った紅葉も散り落ちる。そうして降りはじめた雪がすべてを覆い隠す。  季節が巡るそのたびに、そのすべてを産まれて初めて見たかのように思う。移り変わり立ち替わり姿を見せてはまた消える、その鮮やかさの前に立ち尽くし、声をなくしてしまう。  そうして思う。これらすべての向こうに、父がいる、と。  わたしたちの世界、日差しの明るく差し込む恵み深い森や河の向こう、月と夜が支配している世界に、もうひとり『にんげん』が住んでいる。まるで獣のように四つ脚で歩き、言葉を知らず、愛を知らず、女とはまるで逆のもの。  男、というものが住んでいる。 「ハイラはいっつもぼんやりしてる」  ニーラがおかしそうに言う。アイはわたしの腕を引っ張って歩きながら、ニーラをにらみつける。 「そんなに森がいいんだったら、もう、森に住めばいいのに」 「ニーラったら!」   いつものからかい文句に、わたしは曖昧に笑ってうつむいた。あの子は変わっている、すこし気のおかしいところがあるとひそかにささやかれていることを知っている。

村へと続く坂道をあるいてゆくと、ふと、奇妙な喧噪が聞こえてくる。村が不思議に賑やかだ。けれども不穏な様子ではない。 「もう来たの? ずいぶん早かったじゃない」  と、ニーラが声を弾ませた。

 

 村での暮らしは、普段は至極おだやかなものだ。  野に出て一日の糧を集めるのも、水を汲み薪を拾うのも気の合う相手と一緒。日向に集まって刺繍をする間にも弓をけずる間にもお喋りは絶えず、かまどに火をおこし、臼で木の実をひき、煮炊きをするうちに誰からともなく呼びかけあって食事を共にすることになる。夜には革を噛みなめし木皮や苧麻を手んで、子どもたちは火の周りにたかるようにして物語をねだる。  それが、今日ばかりは今日は臼も糸巻きも放り出し、皆が村の中央にある広場に集まっている。  広場の周りにオバたちも娘たちも皆があつまり、なにやら楽しげに笑ったり声をあげたりしあっている。その真ん中にひとりの女の姿がある。わたしの声に振り返って目を見開き、それから笑って大きく手を振る。目尻の入れ墨、環の耳飾り。着物の上から青銅のピンでマントを止め付けた、この辺りとはすこし違う風情の衣装。 「タイシャ!」  思わず走り出し、そのまま飛びつこうとするわたしを「まって、まって」と笑って静止する。よく日焼けした顔は銅色で、目じりにできる笑い皺が優しい。 「あたしに大怪我させる気かい。猪みたいな娘だねえ」  こんなに大きくなっちまって、とわたしの肩を、腰を、尻をたたく。わたしは自分の目線の高さがタイシャを追い越していることに気づく。 「お久しぶりです、タイシャおばさま」 「ああ、久しぶりだね、アイ。それにニーラ。本当に大きくなったこと」  地面を叩いて、横に座るように促す。見れば地面にはあざらしの革が広げられ、その上には様々な小間物が並べられていた。瑪瑙や碧玉、ガラスのビーズ、様々な色に染められた糸、長さも太さも様々な何本もの鉄針、刃物。このあたりでは手に入らない魚皮や干し昆布を束にしたもの、薄焼きの器のたぐい。そして何より、紡錘型に固められたいくつもの塩の塊。 「ずいぶんと間を空けちまっただろ。その分、いいものをたっぷり仕入れてきた」  タイシャはわたしたちの仲間ではなく、河をずっと下ったところにある集落に住んでいる。それがときどき船に帆をかけて河を昇ってきて、色々と珍しいものを持ってくる。河に水量がある間、そうやって河岸の村を巡って様々なものを交換して回るのが、タイシャの村の夏の生業なのだ。  と、タイシャはわたしが肩にかけていた鷹に気づいたらしい。「おや!」とうれしそうな声をあげる。 「立派な鷹だ! あんたが獲ったのかい」 「ハイラったら、狩りばっかりどんどん得意になっちまってねえ」  ちょうど両腕に荷物を抱えて戻ってきた年かさの女が笑いながら言う。一抱えもある包みを地面に下ろして広げる。交易に使う品の中でも特に高価なものは、虫に食われたり傷んだりしないように、普段はひとまとめにして家の梁のところに吊るしてあった。

 それをまとめて取り出してきたらしい。こちらもどっさりと積み上げてあるものは、クロテンやイタチ、白キツネのやわらかい毛皮や、黒く強い毛でおおわれた熊の毛皮、袋角や熊の胆、骨に角。河床の泥から洗い出した琥珀の玉。ひとまとめにして束ねてある鳥の尾羽から一枚を抜き取ると、「見事な羽根だ」とタイシャは目を細める。 「最近は鷹の羽根がよく売れる。東の方でいくさでもあるんだろうね」 「どうしていくさがあると羽根が売れるのさ?」 「さぁねえ。矢羽にしたり、被り物の飾りにしたり、色々らしいね。まあ、今回は奮発して金物をたくさん仕入れてきてよかったよ」  奮発した、というだけのことはあると、わたしはタイシャの広げた荷物をしげしげと眺める。特に高価な絹や漆器以外にも、青銅や銅、鉄で作られた様々な品物。鏡や鈴のたぐいがあるのは珍しいけれど、初めて見たというわけではない。けれども中には妙なものも混じっている。 「たぶん、それは剣だと思うんだけれど」  わたしの視線に気付いたようで、タイシャは木の皮で作った鞘ごと、剣らしき何かを取り上げる。一応は柄のようなものも付けてあるし、鞘を払えば刃物であるということもわかる。けれども剣にしてはずいぶんと分厚いし、刃だって三日月のように曲がっている。 「剣だったら、宝刀にできるんだけどねえ」  宝刀は武器ではない。四季折々の祭祀に欠かせない道具の一つだ。けれども、この形をした刃物を剣に数えて良いものだろうか。ばあさまの一人が首をかしげると、「だよねえ」とタイシャは苦笑いをした。 「今回はありったけ荷を引っ張り出してきたものだからね、こういうものも混じっているというわけさ」  こういう用途の分からないものを持ち込まれることもあるとはいえ、タイシャのように交易をする者の存在は貴重だ。鉄の針がなくては毛皮を縫うことはできないし、鍋がなくては煮炊きをすることもできない。革をなめすのにも相応の道具は必要だ。逆にタイシャが出入りをしている村の中には、熊の胆や袋角と言った薬の類い、弓や漁具に使うための角や骨が手に入らないところだってあるだろう。  だとしても、と嬉しそうに様々な色の糸を手に取っていたアイが首をかしげる。 「でもタイシャ、去年はどうしたの。鹿どころか熊の皮まで、蔵から溢れちまうとこだったんだから」  だいたい、今回はタイシャひとりだというのもおかしい。普段だったらもっと人を集めて舟に帆をかけ、塩や脂のたぐいのような、重たくかさばる荷物を持ってくるのに。  オバたちとタイシャは顔を見合わせた。どうやら、そういう話をしていたところらしい。やがてタイシャは苦い顔をして、がりがりと後ろ頭を掻いた。 「来なかったわけじゃないよ。何回も舟を出そうとはしたんだ。けどねえ」  あたしらの方で、『男』がね、とタイシャは言う。 「老いぼれちまって、手当たり次第に女を襲って殺して回るようになっちまって、手におえないことになってたんだよ。何年も、一人も子どもが産まれなくってね――― 大変な思いをした」 「おやまあ。じゃあ、あんたのとこの誰が次の男になったの」 「あんたらは知らない娘だよ。目が青くてね、力が強くて、いっとう良い漕ぎ手だった。幼馴染は泣いてたよ。いっしょになる約束をしていたのにって。あの子の娘に乳をやって、あたしの娘に乳をやってもらうはずだったのにって。けど今じゃその子も孕み腹をしててね、多少かせいで良い物のひとつも着せてやりたいと思ったもんでね」  ずいぶんとやる気なはずだ。オバたちは笑って、「タイシャ、その子はあんたの何なの」と肘で脇腹をつつく。タイシャはまた照れた顔で頭を掻いた。 「いや、歳が離れてるのはわかってるが、あの子に赤んぼが産まれたらあたしと一緒になってくれないか、添え乳をさせてくれないかって頼むつもりでね。だって、あたしの産んだ子どもらはみんな手を離れてるだろ? 働き者でいい子なんだ。あたらしいつがいが欲しいんだよ。あたしじゃもう乳の出もよかないだろうが、赤んぼにもあの子にもひもじい思いはさせないつもりさ」  わたしは思わず、タイシャの胸元を見つめた。

 舟をこぐためによく引き締まって鍛えられた腕。刺繍を施した襟の袷の下、すこしばかり垂れぎみになりつつもまだたっぷりと豊かな胸乳。この乳を赤子に含ませる。乳を吸わせる。その赤子の母親とは、産み親と乳の親の関係になる。その赤んぼが立派な娘になり、子を産みオバとなるまでの間、二人で育てることになる。  タイシャが視線に気づいてこちらをみた。わたしは思わず目をそらした。オバたちの賑やかなおしゃべりのなかで、アイだけはそのことに気付いたらしい。色糸をより分けていた指を止め、わたしのほうを見る。 「さあ、さあ、あたしのことはもう良いだろ。毛皮も羽根も琥珀も、たっぷりもため込んでたんだろ? ありったけ出しておくれよ。でないと、あたしがかわいい娘っこをもらいそこなっちまうんだから」

 

 その日は歓迎のごちそうになった。百合の根には胡桃がすり混ぜられ団子にされて、ぶつ切りにした大きな鱒と一緒に塩の利いた汁にされた。なまずは泥付きのまま灰の中に転がして丸焼きにし、蜂蜜や果実を醸したとっておきの酒までが振る舞われた。明日は子どもらでみんなで水辺に出て卵を取ってきてくれ、と賑やかにオバ衆は言い合った。なにせひさしぶりの客人だ。骨惜しみすることなくたっぷりともてなさなければ村の沽券にかかわる。  久しぶりのお祭り騒ぎ、そして久し振りの塩やら干し魚やらをたっぷりとつかったごちそう。村でも長に近いオバたちにはこの後のしたたかな交渉が待っているのだろうけれど、それ以外の村人たちに関係があるはずもない。娘たち普段の倍も時間をかけて髪を結い合いお互いに化粧を施し合う。竈の周りからはにぎやかなおしゃべりが聞こえる。何もわからずにただはしゃぎまわり、甘い木の実の汁で口元も指も真っ赤に染めたこどもたち。  そして、とっておきの客人をもてなすために、久方ぶりに取り出されてきた『語り部の衣』…… ……そんな中、村からも幾分か離れた薄暗い場所で、わたしはひとり、水鳥をさばいて羽根をむしり、はらわたを抜いていた。  そこにふと、呼びかける声がする。アイだ。振り返ったわたしは、華やかな装いに目を細める。 「ハイラ、聞いていってくれないの?」  そこに現れたアイは場違いなほど華やかに装っていた。手にも顔にも描かれた美しい文様、何代もかけて細かな刺繍を施した上着の上には、幾重にも重ねて首にかけた琥珀や瑪瑙の首飾り。そうしてさらに高価なガラス玉、青銅や銀、そして山珊瑚を連ねた飾り。 「わたしが好きな話は、みんなが聞いても面白くないでしょ」 「そういう問題じゃないよ。私の話なんて聞き流せばいいからさ、美味しいものを食べて、飲んで、楽しめばいいのに」  わたしは困って、笑うことしかできなかった。立ち上がってアイの頬に頬をすりよせ、鼻と鼻とをこすりあわせた。血にまみれた手が貴重な装束を汚さないように細心の注意を払いながら。  わたしは皆に交じってご馳走の準備だけれど、アイは最初から晴れ着を着せられて、上席に座らされることが決まっていた。ひたいにも目にも化粧をしたアイはとてもきれいだったけれど、視線はどこか不安そうにゆれている。わたしはもう一度、アイのひたいにコツンとひたいをぶつけてやった。 「ねえ、ほんとうに来てくれないの?」 「お祭り騒ぎは苦手だもの。目の前で聞いてなくても、きっと応援はしてるから」 もし、わたしがつまらなさそうな顔をしているところを見たら、物語が途中でつっかえてしまうかもしれない。アイにはそういうところがあった。そんな縁起の悪い真似をさせるわけにはいかない。

 アイは何かをいいかけて――そして口をつぐんだ。晴れ着を血で汚さないように気をつけながら、そっとわたしの背中に手を回し、頬に頬をすりよせる。 「今度ね、私、きっとハイラのための物語をしてあげる。ほかの誰にも聞かせない、二人っきりのお話だからね。だから今日は我慢する。……でも、美味しいものはちゃんと、たくさん食べてよね」  アイがにぎやかな喧噪のほうへと、振り返り振り返り去って行く。わたしはほっとため息をついた。  アイは賢い。語り部のバアさまたちからはすでに後継者として扱われているらしく、十三歳という年で、山珊瑚と銀との首飾りを与えられていた。すばらしいことなのだろう、とわたしは思う。実感はまったくわかなかった。  鳥の羽をむしり、はらわたを洗って戻ってくると、もてなし役のひとりがうれしそうに迎えてくれる。かわりに中に香草やら春のキノコやらを詰めては串で留め、タイシャが持ってきてくれたばかりの塩をぜいたくにまぶす。また他の誰かが汁に味を付けるための棒鱈を槌で叩いている。他の女たちは賑やかにおしゃべりを続けていた。タイシャが一緒になりたいと言っていた娘の話、他の村に立ち寄るときに聞いてきたのだといういろいろな噂話について。けれどわたしは一人で黙って手を動かしながら、タイシャの聞かせてくれた話を何度も頭の中で反芻していた。  死んだ男の話、代わりに男になった娘の話が、なぜだか耳から離れなかった。  そこに人が住んでいる限りはかならずある話だ。女がいるところには、かならず一人は男がいる。女は女だけで子孫を残すことができないから、どうしても、男なしでは暮らせない。  けれども男はみんな、しょせんは獣だ。  老いぼれて弱くなると狂暴になり、子を残すこともできなくなり、それどころか自分に取って代わるものが現れることを恐れて、手当たり次第に女たちを殺し始める。けれどもきっと、そうなると、代わりの男が現れる。ムスメたち、まだ子を産んだことのない若い女たちの中でもいちばん強いものが、ある日、男へと変貌する。そうして己の父であった男を殺し、代わりに男へと成り代わる。  タイシャの村で起こったのは、きっと、当たり前の出来事だった。  けれど、男になってしまったというその娘は、いったい、自分の運命についてどう思っていたのだろう。  そうして、将来はつがいになろうとまで言い交わしていた娘は、今は己ではない女とつがいになろうとしている。彼女は……彼は、今は何を思ってるんだろう。  遅くまで続いたお祭り騒ぎが終われば、それぞれくたびれて眠くなった順に寝床へと引き上げてゆく。まだ外では太鼓を鳴らし歌い物語る声が聞こえていたけれど、分厚い茅葺きの屋根を持った家の中に入れば、それも遠くなる。  くたくたになったアイが戻ってきたのは、村でも一番物語のうまいバア様たちが、古く大切な物語をはじめる頃合いになってからだった。  アイを待っていたわたしは、水瓶に汲んであった水で顔を洗って化粧を落としてやり、複雑な形に結った髪をほどくのを手伝う。細い肩には重たい首飾りを外し、ずっしりと刺繍が施された貴重な上着を脱がしてやる。

 アイと一緒に毛皮を重ねた寝床の上に横たわり、二人で帯を解き、お互いの衣で二人の体を覆った。丸い屋根を持った建物同士がつながりあった家の中はひろく、あちこちの薄暗がりの中に寝床がしつらえられている。寄り添い合うようにして眠りはじめている女たちの姿がそこここに見える。むずる幼子に添え乳をしながらまどろんでいる女もいるし、遊び疲れて抱き合ったまま居眠りをしている女たちもいる。アイは私の腿へと腿をすりつけてくる。わたしがそっと抑えた手の下で、アイの乳房がやわらかくつぶれる。芯があって硬い乳の感触に、まだ熟しきらない胡桃の実を思いだす。 「アイ、大丈夫?」  小柄なのに強靱で、普段は弓に張った弦のようにぴんと背中を伸ばしているアイ。その体が今日はくたくたと私の腕の中に倒れ込んでくる。まるでしおれた花のようだった。そんなに疲れているのかな。皆の前で物語をするというのは、それほど力を使うものなのだろうか。わたしの体の上に体を横たえて、乳房の間に頭をもたせかけて、アイはようやくほっとしたような息をつく。 「本当に来なかったんだね、ハイラ。ひとりでどうしてたの?」 「物語を聞きに行けなかった代わりに、たっぷりと食べさせてもらったよ。おかげでおなかいっぱい」 「本当に? ひとりでいたら、すぐ、へんなこと考えはじめるくせに」  同じように、お互いの衣で体を覆いあって横たわっている女たちは他にも何人もいた。こうやってお互いにむつみあい、抱き合って眠れば、冬はあたたかいし、夏は汗ばんでひんやりとした肌で肌を冷やし合うこともできる。ぴったりと胸をあわせるようにして抱き合うと、アイの首飾りの玉が肌に押しつけられる。堅い感触を感じる。 「何を考えていたの?」 「タイシャの言っていた、殺された父について。あと、あたらしく男になったっていう娘について」 「ふうん」 「どんな気持ちなんだろう、歳をとって女を殺さなきゃいけなくなったり、若い男に殺されたり。だって、そうやって殺したり殺されたりする相手もみんな、もともとは自分の子どもだったはずでしょう」 わたしはまだアイの胸が平たかったころから、ふくらみはじめた乳房にぽっちりと椎の実のように硬い芯ができはじめたときまで知っている。アイだってわたしの脚の間や脇の下がまだすべすべとした素肌だったころから、やわらかくたよりない毛皮に覆われ始めたころまで、全部を知っているだろう。  わたしの太くたくましい腿で、まだ子どもみたいにまっすぐな足を挟んでやる。アイの腿の内側は、汗で心地よく濡れていた。 「そうだよね、タイシャが言っていた女の子なんて、そうだったはずだものね。男にならないで済んだんだったら、もう、子どもがいてもおかしくないし……でも、やっぱり、男なのに子どもが居るってなんだかおかしい気がする」 だって、乳をやって育てることも、抱いてあやしてやることも、背におぶったまま野や森に出ることもない。女だって、自分で産んだのではない子の親になるには、きちんと自分の乳を含ませてやらなければいけないのだ。 「ごめん、やっぱりよくわからない。だって男って、雄の蛇のようなものでしょう? 雄の蛇に卵は産めない。男じゃ人の子の親にはなれないよ」  アイはわたしの胸元に顔を摺り寄せ、足の間のやわらかい毛を撫でる。アイはわたしは髪も体毛もゆたかで、ふかふかとよい香りがするところが好きだという。脇の下に鼻をつっこむように顔をこすりつけられて、すこしくすぐったい。 「男はみんな獣なんだからさ、きっと、私たちみたいには考えないんじゃないかな。最初から一人で生きていけるようになることが『男になる』ことでしょう? たぶん、私たちとは全然違うんだよ」  ほんとうにそう思う? とわたしは言いかけた。ひとりぼっちでも淋しくないと、親も子もない生き方をしていても平気だと、同じ人間だったはずのものがそんなにも変わってしまうと思うのかと。でもそこで、わたしだって女なのだから、男の気持ちなんてわかるわけがないと思いだす。

 胸元に銀灰色の髪がこすりつけられる。その髪に鼻を埋めて、わたしはアイのにおいを深く嗅ぐ。 「ハイラって、いつも面白いことを考えるよね。お話でも、男が出てくる話ばっかり聞きたがるもの」  アイの声はやさしかった。胸が苦しくなるぐらいに。  わたしがこんな話をする相手はアイだけだったし、わたしのことを笑わないのもアイだけだった。アイはわたしのお母さんの乳を吸い、わたしはアイのお母さんの乳を吸って育った。わたしたちは姉妹だ。そして幼なじみでもあるし、きっと、恋人でもある。みんなきっと、わたしたちがお母さんたちのようになるだろう、なってほしいと思っていることだろう。 「アイはおぼえてる? わたしに毛皮を作ってくれたこと」 「うん、おぼえてるよ。草をいっぱい集めてきて、草のつるで縛り合わせてね。でも、すぐにバラバラになっちゃって」  アイはくすくす笑う。わたしは鼻先をかるく噛んで抗議する。  たわいのないままごとだった。あの子はみんなのばあちゃんになる、あの子は大人のおばさんになる。なのにわたしが『父』の役をやりたいと言ったら、みんなから変な顔をされた。そうして女の村に男がいるなんておかしいと、ワイワイ言われ、砂利を投げられ棒でたたかれて、追い出されてしまった。  わたしは草をたばねた尻尾を引きずって川岸まで逃げていき、うずくまってそこで泣いた。でも、迎えに来てくれたアイが手をひっぱって連れ戻してくれても、草でつくった皮を脱いだりしなかった。アイは途中で木の枝を折り、まるく輪にして、わたしの頭にのせてくれた。まるで角みたいに見えるように。  わたしたちはみんな、年頃を迎えればつがいを作って子をもうける。つがいを作れない理由があったり、子どもを持てない体であっても、かならず誰かしらの子どもに乳をふくませ母として育てることとなる。さらには孫が生まれてバアさまと尊敬されるようになりもする。  それ以外の『何か』があると思うなんて、ハイラはすこし、気がおかしいのだろう。  そう思わないでくれるのは、アイだけだった。 「もうすぐハイラも大人になるんだよ。すぐそばで男が見られるでしょう。そうしたら、いろんなことが分かるんじゃないかな」  ごろごろ薪の上をころがりにいけるでしょ。オバたちの言い方をまねて、わざと、冗談のように言う。わたしはムッとして、文句を言う代わりにアイの肩にかぷりと噛みつく。 「そういう意味で見たいわけじゃないよ」 「そう? 私は見たいけどな。赤ちゃん、ほしいもの。できれば自分で産んだのが」  子どもが欲しければみんなそうする。ごちそうを持って森の中に入ってゆく。そうして男の縄張りで『ゴロゴロ薪の上を転がって』帰ってくれば、しばらくすると腹がまるく膨れてくる。そこで何が起こるのかぐらいわたしだってわかっている。  でもわたしが言いたいのは、そういうことじゃない。

 それに、わたしはとても近くで男を――父を見たことがある。誰にも、アイにすら言ったことはないけれど。  あれはわたしがまだちいさな子どものころで。  あのころわたしは、夜ごとに遠く、近く、森の向こうから聞こえてくる奇妙な鳴き声を聞くたびに胸がさわいで、一晩中眠ることができないこともしょっちゅうだった。  あれは鹿の鳴き声だよ、とかあさんは言った。村の中でたった一人、わたしと同じ金色の目をしたかあさんだった。鹿は恋をするとああやって鳴いて恋人を呼ぶ。角があるのが姉鹿、角を持たないのが妹鹿。春になると姉鹿は高い声で鳴き、妹鹿をこいねがう。  違うんじゃないかしら、とわたしは思った。人間と違って、動物は牡と牝が一対になって恋をする。あれは牡と牝ではなく姉と妹なのだとお話の中ではいうけれど、実際は、姉と称されているのは牡の鹿であったり、妹と称されているのが牝の鹿であったりした。わたしは牡鹿が見たかった。伝説に出てくる角冠のように、人間の男に似ているという生き物が見てみたかった。  そうしてとうとう村を抜け出したわたしは、そのまま道に迷い、森をさまよって、さまよって――そして生まれて初めて、『男』を見た。  とても同じ人間だとは思えなかった。分厚くからまりあった黒い毛並み、長い尾、そして枝角。歳経た巨大な木のようだった。枝分かれした角の間に白い太陽が光っていた。  わたしがもし十分に育っていたのだったら、あの男は、わたしが『薪の上で転がる』ために来たのだと思ったかもしれない。けれどわたしはまだほんの子どもだった。見つめ合っていたのはほんの一瞬のことだったろう。男はすぐに森の方へと去って行った。背中がわたしを拒んでいた。恐ろしくて追いかけることができず、けれど、あの男が去ってゆくのが哀しくて、泣き喚いたことをおぼえている。  おとうさん。

 

 お、とぉ、さん。  お―――とぉ―――さぁ―――ん。

 

 何故叫んだのかは誰にも言えない。きっとわかってはもらえないから。  皆が言うはずだ。おとうさんだなんて、お話にでてくるだけの言葉じゃないか。産みの親でもない、乳を与えられたこともない、そんなものをこいしく思ってどうする。いつ、いなくなってしまっても、いつ、別の男と入れ替わってしまっても、誰も気にしない、きっと男ども自身ですら気にしないだろう。その通りだ。わたしはおかしい。『おとうさん』が恋しいなんて、誰にも言えるはずがない。  あの時の気持ちをどこへやればいいのか、わたしは未だに計りかねている。

(つづく)



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琴柱遥

青山学院大学文学部教育学科・日本宝飾クラフト学院宝石学部卒。ペンネームの由来は谷崎潤一郎『春琴抄』より。
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