【特集:コロナと演劇】宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(1) 演劇人としてのあゆみ|宮城聰

ゲンロンα 2020年9月11日配信
第2回
第3回
 いまだ収束の気配が見えないコロナ禍で、多くのライブエンターテイメントが中止や延期を余儀なくされている。そんななか、「東京芸術祭 2020」の開催が発表された。
その総合ディレクターである宮城聰氏は、2007年からSPAC-静岡県舞台芸術センターの芸術総監督を務める。2017年にはアヴィニョン演劇祭のオープニング作品として『アンティゴネ』を法王庁中庭のメインステージで上演している。これはアジア人初の快挙であり、ヨーロッパの演劇界に旋風を巻き起こした。
 SPACの芸術監督になるまえ、宮城氏はク・ナウカ シアターカンパニーを主宰していた。この劇団は語りと動きを別の俳優が担当し、二人一役で演じるのが特徴である。人形浄瑠璃にも想を得たと言われるこの方法で作られた作品はSPACにも引き継がれ、いまも高い評価を得ている。アヴィニョン演劇祭に招聘された『アンティゴネ』、『マハーバーラタ』(2014年)の2作品も、二人一役(言動分離)の作品である。

 全国が緊急事態宣言下にあった2020年5月、静岡県で2000年から約20年にわたり開催されてきた国際演劇祭、『ふじのくに⇄せかい演劇祭』が開催の危機にさらされた。宮城氏は国外の劇団の物理的な移動が不可能になったのを受けて、急遽『くものうえ⇅せかい演劇祭』としてオンライン開催し、成功を収めた。その後も観客に演劇を届ける取り組みを次々と打ち出し、実施してきた。

 ク・ナウカは劇場の外での上演をなんども試みたり、気になる土地にアクセスして、いわば押しかけるような形で海外公演をするなど、型破りな劇団だった。この、型破りな力は、コロナ対策にも生かされている。なお「ク・ナウカ」はロシア語で「科学へ」という意味だ。
 コロナ禍において、演劇人は「演劇とはなにか」「演劇は必要か」という問いに直面した。これらの問いに真摯に向きあう宮城氏の背景には、演劇人としての半世紀の営みがある。コロナ時代、演劇を閉ざさず、開いていくためにはなにができるのか。4時間にわたる熱いインタビューで、宮城氏のこれまでの歩み、現在の活動、未来への希望をうかがった。

 なお、特集「コロナと演劇」では宮城聰インタビュー(全3回)を皮切りに、2019年の東京芸術祭ワールドコンペティションに参加したチリ中国、ニュージーランド、南アフリカ共和国の演劇人たちの寄稿全4本をお届けする。

 

演劇と市民運動と高校のロッカー


 ──コロナ禍にあって、宮城さんはこの数ヶ月、立ち止まることなく次々と新しい取り組みを打ち出してこられました。ゴールデンウィークに開催予定だった「ふじのくに⇄せかい演劇祭」は、急遽「くものうえ⇅せかい演劇祭」に変更されました。海外から招聘する予定だった劇団とオンラインでつながり、ストリーミングや対談、Zoom演劇などで、演劇祭を実現する試みです。また、最近は「劇配!」という企画で、老人ホームなどにソーシャルディスタンスを確保できる演劇を届けたり、電話演劇を実施したりされています。

 このように、コロナ禍でも観客をもとめて演劇をやり続けるSPACと宮城さんの決意にはたいへん励まされます。7月には、総合ディレクターとして「東京芸術祭 2020」の開催を発表されました。宮城さんがいま、なにを感じなにを考えているのか。今日は「コロナと演劇」をテーマにじっくり伺いたいと思います。

 まずは演劇人としての原点にまで遡って、宮城さんの演劇との出会いからお話いただけますか。

宮城聰 演劇を始めたのは高校生のときです。演劇部でした。ぼくが通っていたのは東京教育大学附属駒場高等学校(現・筑波大学附属駒場高等学校)ですが、入学当時、演劇部は存在しませんでした。3学年上だった野田秀樹さんが卒業した時点で、演劇部は部員がいなくなって廃部になっていたんです。

 階段の踊り場に部活のロッカーがあるのですが、そこに演劇部のロッカーもまだ残っていました。あるときそれを開けてみたら、野田さんの処女戯曲『アイと死を見つめて』(1972年)のガリ版刷りとか、高萩宏さん(後に野田氏と共に劇団夢の遊眠社を立ち上げた。現東京芸術劇場副館長)の書いた、厚さが1センチもあるような演出ノートなんかが入っていたんです。いま思えば、ものすごく貴重だよね(笑)。そんなこともあって、ぼくは高校1年生の3学期に演劇部を再興しました。だから15歳くらいから演劇をやっています。もっとも当時は、将来プロになれるとは考えていませんでした。

 ──その後、東京大学に進学し、劇団を立ち上げますね。

 じつは、大学に入って一度は演劇を離れたんです。でも、入学後1年が経ったころに、ふたたび演劇というモデルに関心が向いた。きっかけは社会運動です。

 ぼくは高校時代から演劇部と並行して、生徒会や市民運動にも関わっていました。高校の1学年上に在日韓国人の先輩がいたのですが、彼のお父さんが韓国へ渡った際に政治犯として捕まってしまうという出来事があった。当時の韓国は朴正煕パク・チョンヒ大統領の軍事政権下にありました。そして、政権安定に利用するために、在日韓国人を反政府運動に関わる政治犯に仕立て上げて逮捕するという事件がなんども起こっていたんです。この身近な事件がきっかけで、高校時代から政治犯の救援運動に携わるようになりました。

 当時は日本全国のあちこちに政治犯支援組織があった。それらはキリスト教系だったり、学生運動出身のひとたちが作ったものだったり、いろいろでした。そうした運動では、大きな問題が目のまえに現れると、なんとかしようとまずは一致団結する。ところが、政権が一種の見せしめとして出した死刑判決が助命嘆願によって無期懲役に減刑されるなどして、運動が長期戦になるにつれ、グループ同士の思想のちがいのようなものが顕在化してくる。そのちがいは、具体的にはすごく些細なことなんです。けれども、おかしなもので、そこがちがうと根本的な立脚点が異なっているような気になる。そして、もはやいっしょに運動することはできないと感じてしまう。

 ただ、冷静に考えればそれはあたりまえなんですね。100人いたら100通りの価値観があるわけだから。最初のうちはひとつの目的に向かって結束できていたし、高揚感もあった。ところが短期的な目標を失ったときに、お互いの考え方のちがいに気づき始める。そもそも運動というのは「たったひとりじゃできないことを集まってやろう」というものです。それがどんどんバラバラになって、グループが分裂していく。そして結果的に、運動としての力を持たなくなるんです。

宮城聰氏。コロナウイルスの感染拡大防止のため、インタビューはZoomを介して行われた。

「連帯を求めて孤立を恐れず」


 ──つまり、お互いの思想のちがいから徐々に分断が生まれ、運動そのものが破綻してしまうということでしょうか。

 69年頃に、全共闘で用いられた「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンがありました。しかし、ぼくは自分が大学生だった70年代後半、かつてたしかに想定されていた「連帯」というものがなくなっていくさまを間近に見るという経験をしたわけです。そして「ひととひととの連帯なんてものはそもそも可能なんだろうか」という絶望を味わうと同時に、どうしたらそれが可能になるのだろう、なんとか可能になる方法はないのだろうかと考えるようになりました。

 連帯がなければ、たとえば世の中に大きな不正が出てきたときにも、世の中を変えることができません。他方、思想というものは、突き詰めれば全員ちがう。この「ちがう」ということを大前提にしながら、どうすれば「みな孤立しているけれど、でも連帯する」ことができるのか。それを考えたとき、演劇というモデルが浮上してきました。

 演劇の場合、メンバーの考え方のちがいはつねに顕在化しています。議論をするとみんな意見がちがう。なのに、なぜかそのメンバーで一本の芝居をいっしょにつくっていたりする。むしろ、そうじゃなかったらおもしろくならないですよね。

 もし軍隊みたいに価値観が統一されている劇団があっても、おもしろいものはつくれないでしょう。演出家と俳優では価値観も視点もちがう。けれどもそのちがいがおもしろい。でも、なぜ演劇にはそんなことができるんだろう?  演劇という仕掛けに「連帯」のヒントや可能性があるんじゃないか、と大学2年のころに考えるようになったんです。

 ──社会運動に参加するなかで直面した分断や孤立が演劇に向かわせた、と。ちなみに、大学では具体的にはどのような演劇活動をしていたのですか?

 最初はクラスメイトといっしょに演劇作品をつくって、学園祭で発表していました。また、台本の稽古以外に、普段からトレーニングやメディテーションをして、また、いまでいうワークショップみたいなこともやっていましたね。インドの宗教家のバグワン・シュリ・ラジニーシ★1の影響を受けたりもして。当時、ラジニーシの活動は世界中に広まっていて、東京にも道場があったんです。

 70年代後半、反体制運動が「敗北」したあとに「やはりいまの世の中がいいとは思えない」というひとはたくさんいました。ラジニーシの道場のような場所はそういうひとたちの受け皿になっていた。井の頭線にも、弟子の証の首飾りをかけたひとがいっぱい乗っていましたよ(笑)。

 70年代末から80年代初頭は、反体制的な気分を持ったひとたちがニューエイジ的な精神世界や気功やヨガなどの「東洋体育」に惹かれていた時代でした。資本主義が正しいとは思えない、でも共産主義や社会主義が正しいわけでもなさそうだ。とはいえどう闘っていいのかよくわからない。ならば自分を変えていこう、と。そのなかで、ぼく自身は演劇に可能性を見出そうとしていました。そこで、大学では「冥風」という劇団を立ち上げました★2

 ──そのころ宮城さんが上演していた作品は、政治的な内容ではなかったということでしょうか。

 冥風では、唐十郎さんの戯曲とオリジナル戯曲を半々くらいずつ上演していました。当時の日本社会の仕組みを肯定はしていなかったけれど、かといってあからさまに政治的な内容の作風ではなかったです。全共闘世代ほどの熱狂や傾倒はなかったものの、唐さんの戯曲にある民衆性のようなものに共感を抱いていました。オリジナルの戯曲も、当時まだ右肩上がりの日本で、大衆消費社会から取り残されているものに寄り添うような作品が多かったです。

 そうやって何年か大学で演劇をやっているうちに、考えていることはちがっても、相手の存在を受け入れることができるのだと実感するようになりました。たとえば政治的なテーマについて話してみると、決定的に相容れないことを考えているメンバーがいたりする。それでも「相手の全体は許容できる」という感じがする。どうしてそんなことが起こるのだろう? と不思議でした。

一人芝居『ミヤギサトシショー』から「二人一役」システムへ


 ──宮城さんは冥風を率いて約10年にわたって活動された後、1990年にク・ナウカを立ち上げています。どのような経緯があったのでしょうか。

 当時、学生劇団がプロ化するケースはよくありました。でも冥風は、プロの劇団を目指しているわけではなかった。むしろ「自分育て」というか、ワークショップに時間を割いたり、いろいろなトレーニング方法を開発したりしていました。

 そうこうするうちに、やがて20代も終わりに近づいてきた。モラトリアムも限界で、なにを中心に生きていくのか、そろそろ決めなきゃいけないなというころに、友人の友人で山口さんというひとが「宮城の一人芝居をプロデュースしたい」と言い出したんです。自分自身では、自分に才能があるかなんてまったくわからない。でもひとがおもしろいと言ってくれるならやってみようかな、と引き受けました。

 ──ソロ・パフォーマンス『ミヤギサトシショー』ですね★3

 ええ、駒場小劇場からスタートして、当時の登竜門だった「スタジオ200」の目に止まって。小林恭二さんの小説を動きながら語る『純愛伝』『小説伝』などですね。一人芝居というのは自分で自分を演出する。いわば自分という役者の長所を一番よく知っている演出家が、それを引き出すわけです。だから効率がいい。2年くらいやっていたら演劇界でそれなりに知られるようになり、個人活動はプロ化していきました。

ミヤギサトシショー『蟹は横に歩く』より(1993年、作:宮沢章夫、演出:平田オリザ、出演:宮城聰) 写真提供=ク・ナウカ

 一方、冥風の方は「自分育て」のアマチュアのまま。そんななか、冥風のメンバーからも、プロとして演劇をやりたいといった意見がちらほら出てきました。そうした声に背中を押され、90年に冥風をやめてク・ナウカを立ち上げました。でもク・ナウカを立ち上げたときは劇団ではなく、プロデュース形式だったんです。

 このときは、ぼくが劇団という制度に対して懐疑を抱いていた時期でした。劇団にするとメンバーが組織に依存してしまうのではないか。それはクリエイティブではないんじゃないか、と。当時の演劇界では、有力な劇団でも10年あまり続くと壁にぶつかり解散する、というケースがけっこうありました。学生劇団のころは対等だったメンバー同士でも、10年ほど経つと上下関係が生まれてくる。ク・ナウカは、一人ひとりが孤立(独立)したアーティストでありながら、それでも集まっているという状態でありたかった。だからあえてプロデュース形式を選んでいました。

 当時、青山円形劇場主催の「青山演劇フェスティバル」で、プロデュース公演ばかり5-6本上演するという企画がありました★4。そのうちの1本を手がけることになり、1990年の3月にオーディションをしてク・ナウカのメンバーを集めました。その段階ですでに、ひとつの役を語る俳優と動く俳優を分割する「二人一役」のアイデアがあったんです。ただ、これを導入することで、お客さんが舞台で語られる情報をキャッチするのがいくらか難しくなることは予測されました。そこで、だれもが筋を知っている戯曲が良いだろうと思い、『ハムレット』を選びました。

 ──なるほど! のちにク・ナウカの代名詞ともみなされるようになる「二人一役」の構想はこの劇団を立ち上げるまえからあったわけですね。その着想はどこから生まれてきたのでしょうか。

 一人芝居では、たくさんの役をひとりで演じますよね。だから、この形式は「ひとりの役者がひとつの役になりきる」という近代的な演劇のパラダイムに対する反逆といえる。落語もそうですが、語り手は何者でもない一種の空の瓶みたいなもの、といった考え方がある。これは近代的自我の超克、人間至上主義へのアンチテーゼともいえるでしょう。そういった試みの鏡として、今度は「複数の俳優でひとつの役をやる」ということを考えました。

 もうひとつ、一人芝居をやっていたときに「これって日本語がわかるお客さんしかおもしろくないよな」と思ったんです。日本語が伝わらないお客さんには、どう届けたらいいのだろう。英語を勉強して英語で一人芝居をやればいいのだろうか?  

 ぼくは子どものころから映画とか音楽とかほかのジャンルの芸術も好きでした。でも、それを楽しんでいるときに、その作品がどの国のものかなんて考えなかった。「芸術」というひとつの土俵の上で向きあえるからこそこの道に進んだはずなのに、演劇を選んだとたん日本語という壁のなかに閉ざされてしまっている。なんとかその壁を乗り越えられないかと考えた結果、セリフを言うひとと動くひとが別々であればいいのだ、と思いいたりました。

 外国で上演するときは、セリフを言うのはその国の言語をしゃべる俳優がやればいい。逆に日本で上演するとき、動きをやる俳優はどの国から来たひとでもいい。後々「日本語をしゃべっている日本人の身体を見せるほうがおもしろい」という方向に考えは変わっていきましたが、二人一役という手法を使えば、日本語という”保護貿易”を打破できるのではないかと思ったんです。

エイリアンとしての演出家


 ──ところで、ク・ナウカを劇団化することになったきっかけはなんだったのでしょうか?

 1993年、鈴木忠志さんが富山県利賀村で主催する「利賀フェスティバル」で『サロメ』を上演したんです★5。このとき、同じくフェスティバルに参加していたロシアの演出家、アナトリー・ワシーリエフの劇団が『ヨゼフとその兄弟たち』の稽古をしているのを見ました。

 彼らは、とにかくずーっと稽古していた。そして本番では、みんな若い俳優たちながら、共有している身体的教養の厚みを感じさせられた。作品にはまだ荒削りな、まったく未完成な部分もあったのですが、全体としては演劇的基礎を共有していることによる厚みがあり、迫力があった。当然ながら、SCOTの上演を観ても同じ厚みを感じます。こうして、やはりプロデュース形式では世界で通用しないのではないかと思い始めました。「おもしろいこと考えたね、この演出家」という程度ではダメだ、この厚みが伴わなければ世界で長くやっていくことはできない、と。

 身体知の共有とは、同じ時間や空間を共有するなかで、他人の持っている身体感覚に自分が共振するという現象です。それは本番に向けて2ヶ月ほど稽古して叩き込んだところでできることではない。ちょうどこの年、韓国でク・ナウカ初の海外公演がありました。その経験にも後押しされて、年末から翌年始めには劇団化しました。普段から固定したメンバーで稽古をするようになって、冥風で延々やっていたトレーニング方法が役に立ちました。

 ──世界に通用するレベルでご自身の作品世界を表現していくために、俳優同士の身体知の共有が必要だと考えたわけですね。そのために劇団化が必要だ、と。

 そうです。とはいえ劇団化して最初の1-2年は、二人一役もまだ作家(演出家)の「思いつき」に見えていたと思います。目的ではなく、手段として機能するようになるまで3年くらいかかった。1996年の『天守物語』でようやく、アイデア自体を見せているのではなく、作品の世界観を実現する方法として二人一役が有効だ、という状態まで行き着きました★6。つまり、本来観客にとって身の回りでは出会うことのない「非等身大」の劇中人物を、現代の俳優のスケールに合わせて「等身大化」して演じることで観客に親近感をもって楽しんでもらうのが今日の主流派のアプローチですが、それとは逆に、非等身大のまま舞台に出現させることができたということですね。

 ──劇団になることで、演出家としての宮城さんと俳優との関係性に変化はあったのでしょうか?

 劇団をやっているうちに、ぼくが演出家として俳優にとってどういうひとになればいいか、だんだんイメージができてきました。それは「エイリアン(異星人)」です。たとえば劇団でツアーを重ねたりしていると、だんだん一体感が欲しくなってきたりする。でも演出家はいつまで経っても、役者から「あいつはなにを考えているかわからない」と思われるような異質な存在でいなければならない。人間界にひとり火星から落ちてきた日本語がしゃべれるやつが混ざっているぞ、というような存在です。

 ぼくが自分で戯曲を書かない理由は、自分にはたいしたことは思いつかないと思っているからです。自分の思ったことがそのままかたちになっても、既視感があってぼくにとってはおもしろくない。むしろ、ぼくが思っていなかったようなものが舞台に現れてほしい。ぼくのほうは演出家として、役者からは出てこないような提案をしなければなりません。

 俳優に「それ、おもしろそうですね」とか言われるアイデアは、じつはたいしたことがない(笑)。逆に俳優が「おもしろくないんじゃない?」とか「陳腐じゃないか」と言うようなアイデアのほうが、かたちにしたときにおもしろかったりする。俳優がアイデアを聞いただけで「おもしろい」と感じることは俳優にはすでにイメージできるということです。つまり、それはたいして斬新ではないのです。

 この世にまったく新しいアイデアなんてほとんどないわけです。「陳腐じゃないか」と思われるアイデアはみんなが捨てている、だれも本気で取り組んだことのないアイデアなんですよね。何人ものひとが思いついているけれど、馬鹿馬鹿しいほどのエネルギーを投入した人間はこれまでいなかった。そういうアイデアに取り組んでこそ、やっと精彩を発揮できる。

 そうは言っても、「なにを考えてるかわからない」と俳優から思われても、やはり「でもまあ、やってみるか」とも思ってもらわないといけない。それには「こいつといっしょにやってきて、これまでもそこそこおもしろいものができた」という体験を積み重ねるしかありません。そのくらいの関係が「エイリアン」ということですね。

呼ばれなくても押しかける


 ──その後ク・ナウカは、海外での自主公演にも精力的に取り組んでいきます。今回「いま、窓の外を見よう」というメッセージと共に東京芸術祭 2020の開催を発表されましたが、それは当時から、演劇が国を超えて世界をつなぐ言語になり得ると考えていたからでしょうか。

 人間と人間は理解しあえない、しかし理解できるときがある。そんな奇跡の瞬間を求めて演劇をやっている。そのことを確認したくて、あるいは証明したくて、ずーっと演劇をやっているんです。お客さんが日本人だけではどうか、と思うのもそれが理由です。できるだけバックグラウンドや価値観のちがうひとたちと出会いたい。そして「それでも理解しあった」と感じられる瞬間がある、と思いたい。

 だからこそク・ナウカは招聘されていない国にも自分たちから飛び込んでいきました。2000年のロシア公演などがそうで、それは演劇リテラシーにおける先進国で作品を見せることで、自分たちの芝居のクオリティがどう評価されるのかをたしかめたかったからです。一方でチベット、敦煌やパキスタンなど「今まで海外の現代演劇なんて上演されたことがない」という場所にも行きました。いずれも呼ばれたわけではなく、基本的には押しかけです。

 ──呼ばれていないのに押しかけるのは、かなり勇気がいることですよね。

 国際演劇祭など、受け入れ側に「来てください」というスタンスがある場所では、世界の演劇界共通のフォーマットが前提にあります。そうしたフォーマット、つまり現代演劇というパラダイムがそもそもない場所にも行きたかった。ところがチベットで上演すると「いやあ、チベット演劇と日本演劇がこんなに似ているとは!」なんて言われる。パキスタンでは「千歳百歳にただ一度、たった一度の恋だのに」(『天守物語』の見せ場のセリフ)なんて日本語で言っても、そのとき拍手が湧く。ふしぎでしょ? これほど隔たった人間同士でも、なにかしら共有できるものがあるんですね。

 ──現代演劇を受け入れるフォーマットがない国には、どのようにアプローチしたのでしょうか。

 勝手にビデオを送りつける(笑)。

 ビザを取るためには向こうから招いてもらう必要があります。チベットの場合は、テレビ局の劇団があって、この劇団の人々がぼくらのビデオを見て、北京の共産党組織を通じて「呼びたい」と言ってくれたんです。「たくさんの書類にたくさんのハンコをもらわねばならなかった」と言ってました。ありがたいことですよ。現地で公演本番を迎えたものの、共産党の偉いひとの到着が遅れてなかなか幕が上げられない、なんてこともありました。そういう体験を通じて「彼らはいま、こういう体制のなかで生きているんだな」と実感したり。

ク・ナウカ『天守物語』チベット公演(1999年)より © 六渡達郎

 そのころは、どの国に行っても必ず、公演だけでなく、現地の演出家とのワークショップをやっていました。たとえばパキスタンはイスラム教徒の国なので、観劇はもちろん稽古も男性と女性は別々にしなければならない。パキスタンの演劇界の発展のために何十年も頑張ってきた、というようなひとから「わが国の演劇をどうにかしたい。どうしたらいいか」と訊かれて「いや、まずは男女いっしょに稽古できるようにしたらどうでしょうか?」なんて答えたこともありました。

 ──それだけ環境や前提が大きく異なる国に行くことで、「これだけ隔たっているのになぜか理解できる」という瞬間を、演劇を通して見出そうとされていたのですね。

 パキスタンに行ったときは、ちょうど独立50周年にあたるということで、在パキスタン日本大使館が応援してくれました。そのころ、インドまでならともかくパキスタンまで日本の劇団が来たことは一度もなかったみたいでした。

 公演終了後、パキスタンの文化庁長官のような立場の女性がスピーチをしてくれました。「こんなに若いアーティストが、自分自身でお金をつくってわざわざパキスタンまで公演しに来た。この精神をわたしたちパキスタン人は学ばなければならない」と。ぼくは感動してしまった。自分たちがあたりまえにやっていた活動を、思いもよらないところから評価してもらえたからです。

 行ってみないと気がつかないんですよね。行ってみたら出会いがある。行くまで気がつかないことに、行ってみてはじめて気がつく。行ってみて救われる。救われるだろうと思って行くわけじゃなくて、ともかく押しかけてみたら救われる。そういう経験に力をもらいながら、ク・ナウカは海外公演を続けていました。(第二回へ続く)

 第二回では「ほんとうに世界から疎外されているひとたちに演劇を届けたい」という思いからク・ナウカの活動を休止し、SPACの芸術総監督に就任した経緯を語る。また静岡という地域社会の「これまで劇場に来たことのない観客」との出会いが、いかにしてアジア人の演出家として世界で初めてアヴィニョン演劇祭のオープニングを飾った『アンティゴネ』を生み出したのか。立ち止まることなくコロナ時代の演劇を模索し、実践し続ける宮城氏の思考の旅を追う。

 
2020年8月7日
聞き手=石神夏希、上田洋子
構成=石神夏希、ゲンロン編集部


★1 インドの宗教家・神秘思想家。1970年代初頭にインドのプネーに「アシュラム」と呼ばれる道場を開く。身体を重視するホリスティックな教えを説く講話に世界中からひとが集まる一方、「フリーセックスと瞑想の宗教」とも呼ばれ物議を醸した。アメリカ・オレゴン州に巨大コミューンを建設し、熱狂的な信者たちと90台以上のロールスロイスを含む巨額の寄付を集めたが、バイオテロをはじめ複数の嫌疑をかけられ国外追放となった。
★2 宮城が東京大学入学後の1980年に立ち上げた劇団。正式名称は「冥風過劇団」。東洋体育を応用した独自の俳優訓練法を開発し、駒場小劇場を拠点に活動。1990年の脱退まで一貫して宮城が演出を務めた。
★3 山口哲一によるプロデュースで1986年に開始したプロジェクト。宮城自身の演出・出演により小説を脚色なしで語るというシンプルな形式ながら、音楽を含む総合芸術としてのクオリティの高さや宮城の俳優としてのインパクトで話題を呼んだ。現在も“伝説の舞台”として語り継がれる。
★4 1985年にオープンした青山円形劇場は、80年代の「小劇場ブーム」および、いわゆる「小劇場すごろく」(小劇場界のサクセスストーリー)の上位に位置づけられる。1987年に開始した「青山演劇フェスティバル」は日本の演劇界において当時最も影響力を持つ演劇祭のひとつ。遊◎機械/全自動シアター、劇団☆新感線、MODE、山の手事情社、青年団、ナイロン100℃、遊園地再生事業団など数々の人気劇団が参加した。
★5  1976年、鈴木忠志の率いる早稲田小劇場 (1984年にSCOT=Suzuki Company of Togaと改称) が本拠地を富山県利賀村(現在の南砺市利賀村)に移し、合掌造の民家を改造した劇場を「利賀山房」と名付け活動を開始。その後、利賀村と協力して野外劇場・稽古場・宿舎などを増設、1982年には日本初の国際演劇祭「利賀フェスティバル」を開催。以降、”演劇の聖地”として世界の演劇人の尊敬を集めている。
★6 泉鏡花原作、魔界の姫と人間界の鷹匠との幻想的な恋物語。異界の者同士の間だけに成立する純粋で究極的な恋を、独自の「二人一役」の手法で表現。革新的な演出として高い評価を得た。1996年の利賀公演以来、全国各地に仮設された異なるロケーションの野外劇場およびインド、パキスタン、中国、韓国、エジプト、アメリカ、フランスなど世界各国で上演された、ク・ナウカ代表作のひとつ。

 

【特集】コロナと演劇公開日
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東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(7)|レミ・ポニファシオ(ニュージーランド)2020年11月中旬公開予定
*「コロナと演劇」第7回として掲載予定でしたレミ・ポニファシオ氏による寄稿は、事情により掲載されないことになりました。お待ちいただいた読者のみなさまにお詫び申し上げます。(編集部)
 

【東京芸術祭ワールドコンペティション】
ウェブサイト:https://tokyo-festival.jp/

主催:東京芸術祭実行委員会[豊島区・公益財団法人としま未来文化財団・フェスティバル/トーキョー実行委員会・公益財団法人東京都歴史文化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)]

東京芸術祭ワールドコンペティション2019年度受賞作公演

「東京芸術祭ワールドコンペティション」は、2019年から新たに始動した、東京芸術祭のプログラムです。昨年度はコンペティションを開催し、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの5地域と日本の推薦人により選ばれたアーティストが東京に集い、6つの作品を発表しました。最終日には、舞台芸術を評価する新たな「尺度」をめぐって審査員たちによる白熱した議論が交わされ、2作品が受賞作に選出されました。

今年は、本コンペティションで最優秀作品賞を受賞した、戴陳連ダイ・チェンリエン[北京、中国]による『紫気東来―ビッグ・ナッシング』と、観客賞を始め多数の賞を受賞した、ボノボ[サンティアゴ、チリ]による『汝、愛せよ』の2作品を映像上映・映像オンライン配信の形式でお届けいたします。「2030年代に向けて舞台芸術の新たな価値観を提示し、その提示方法が技術的に高い質を持つ」と評された作品を、改めてご覧いただく貴重な機会となります。この1年、大きな社会の変化を経て上演される作品が、皆さんの新たな議論のきっかけとなれば幸いです。

<映像上映>
料金:前売り・当日 1演目500円

『紫気東来−ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/7(土)13:00/16:00/20:00
   11/8(日)13:00/16:00
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
関連記事:【特集:コロナと演劇】これは私たち共通の物語──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(4)|戴陳連
https://genron-alpha.com/article20200925_01/

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト
※ソーシャルディスタンスを保ち、客席数を減らした状態で開催します
※未就学児童の入場不可

<映像オンライン配信>
料金:1演目500円

『紫気東来−ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/8(日)13:00

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30

※映像上映と同じ内容となります(当日24:00まで視聴可能)
※『紫気東来−ビッグ・ナッシング』の戴陳連によるレクチャーパフォーマンスも無料配信予定

 各プログラムの詳細およびチケット情報などは、東京芸術祭ワールドコンペティションのウェブサイトをご覧ください:https://worldcompetition2020.tokyo-festival.jp/

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1959年東京生まれ。演出家。SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督。東京芸術祭総合ディレクター。東京大学で小田島雄志・渡辺守章・日高八郎各師から演劇論を学び、1990年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出で国内外から高い評価を得る。2007年4月SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を鋭く切り取った作品を次々と招聘、またアウトリーチにも力を注ぎ「世界を見る窓」としての劇場運営をおこなっている。2017年『アンティゴネ』をフランス・アヴィニョン演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演、アジアの演劇がオープニングに選ばれたのは同演劇祭史上初めてのことであり、その作品世界は大きな反響を呼んだ。他の代表作に『王女メデイア』『マハーバーラタ』『ペール・ギュント』など。2006〜2017年APAFアジア舞台芸術祭(現アジア舞台芸術人材育成部門)プロデューサー。2019年東アジア文化都市2019豊島舞台芸術部門総合ディレクター。2004年第3回朝日舞台芸術賞受賞。2005年第2回アサヒビール芸術賞受賞。2018年平成29年度第68回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2019年4月フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。写真=Takashi Kato

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