ゲンロン新芸術校 第6期グループB展「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった ●1点」レポート──「作品外部との交渉・一過性の展覧会」|鈴木祥平

ゲンロンα 2020年12月18日 配信

 2020年10月10日(土)~10月18日(日)、ゲンロン新芸術校第6期グループBの展覧会「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった ●1点」が、ゲンロン五反田アトリエで開催された。

 受講生からキュレーターとして金盛郁子。出展作家として安藤卓児、 大倉なな、きんたろう、白井正輝、田邊恵利子、メカラウロ子、鈴木祥平が参加。講師には飴屋法水氏、青木美紅氏を迎えた。

 この展覧会では、講師の飴屋氏と青木氏の力もあり、作品と展示空間が共鳴して「不安定な均衡」を生み出していた。このレポートでは、その「均衡」を成立させた要素を紐解きながら、同時に、会場内に構築された豊かさとダイナミズムを伝えられるように書いていきたい。

 まず会場で配布されたハンドアウトにキュレーターを務める金盛が寄せたステートメントを見てみよう。

「偶然を引き起こした得体の知れない根源をあらゆる方法で追求する。そして各々の表現を通じて、偶然という、全く捉えどころのない、見えない敵と立ち向かう。葛藤の痕跡でもある作品は、日常生活で起こり得た偶然に対して下された、彼らの立場の表明でもある。」

 作品を制作した7名の作家はここに書かれた「偶然」そして「葛藤」という言葉に反応した。「偶然」とは作家自身に強いられた境遇や不条理な現実だ。作家たちは、自らの意思を介さず降りかかる「偶然」に「葛藤」する。

 葛藤とは、偶然とどのように折り合いをつけるかという模索とも言えよう。その模索の中で、作品はその場に居合わせた他者や展示空間との関わり方を見出そうとする。
 

展示会場の入り口

 会場の入り口に入るとすぐ、奥へと向かって大胆に配置された安藤の絵画《123[4]567》が目に入る。サブロク板で組まれた支持体は屏風状にせり出し、通路を圧迫している。

 安藤は様々な宗教的モチーフを包括する自身の絵画を、現代の宗教画と位置付けている。その言葉を体現するように、中心には聖母像が描かれた。安藤は母という存在に抱く理想が脆くも崩れ去るその葛藤を、図像の混沌として表した。絵画を貫き穴を穿つ枝もまたその葛藤を思わせる。

 絵画を貫く枝は壁から斜めに立て掛かり、壁や梁、柱といった会場の垂直・水平の線を乱すことで、静的な建築に動きを与えるようでもあった。
 

安藤卓児《123[4]567》

 安藤の作品の裏手、会場の奥に向かって左手の壁には、大倉が《肺色の水》を中心とする絵画を点在させている。絵画の画面内にさらに画面を描く「画中画」の連作だ。

 絵の中央には口づけを交わす2人の人物が見える。大倉はそこに肺のイメージを重ねた。愛し合い口づけを交わす2人はその口から空気を送り合い、まるで2人の身体が1つの肺を形成しているかに見える。大倉は肺という臓器から生と死を想う。羊水に満たされた胎児は水で呼吸し、生まれ出た後は水に溺れてしまう。その過程を通して大倉は、生から死へ向かう生命の実存を画中画に捉えようとする。

 一方、絵が掛かる壁面では窓が開け放たれている。窓と壁面の関係は大倉の描く画中画の構造にも似ており、壁面と窓、画中画はそれぞれが入れ子的な構造として重なるようにも感じられる。

 また、安藤の絵の裏側にも大倉の絵が掛かっているのが特徴的だ。安藤が絵の裏として扱う場所を、大倉は絵を掛ける表として扱う。互いの領域がせめぎ合うこの状況から、両者の葛藤も窺える。

 

大倉なな《肺色の水》

 続いて、大倉と安藤の作品がある壁の向かい側に、扉で隔たれた空間があることに気付くだろう。

 そこはこの会場のトイレである。それと同時に、白井の《draw the circle ●》を始めとするブラックホールをモチーフとした作品が占める展示空間だ。

 白井がハンドアウトに寄せた文章には「人間は境界に生きる」とある。精神病や性自認の境界は人によって判断の異なる曖昧なものだ。社会はその曖昧さに線を引き、人は悩みを強いられる。ブラックホールはその線引きを無に帰す概念として描かれた。それと同時に、ブラックホールはトイレの水が渦を巻いて流れるイメージとも重なる。

 トイレを展示空間として使い、同時にトイレ本来の役割を失うこと無く、これら2つの性質が同居する。トイレとしての使用中は当然極めて個人的な空間となり、ドアを境界に内と外は強く隔てられる。それによって鑑賞者に仕切りの意味の可変性が意識されるようでもある。
 

白井正輝《draw the circle●》

 トイレを背にし、右手に見えるのは、メカラウロ子のインスタレーション《ファインディング しゃけ》だ。モニターに映し出されるのは、物語の語り手である1匹の鮭である。鮭は、鮭と人間の二者の視点で性加害や出産について語る。語りは、鮭という存在から人間の加害性や性差の問題へと展開する。会場全体に響いたその声は、そこで喚起される問いとともに、たとえその場所を遠ざかろうとも消えることなく、鑑賞者の耳にこだまする。

 メカラウロ子は、モニターの背後で元々本棚として使われていたシェルフを利用し、独自に行なったフィールドワークの資料を展示している。また、備え付けの冷蔵庫にも人工イクラなどを置き、展示に利用した。会場に予めあった備品をまるで作品の為に用意したかのように機能させているのも、この作品の1つの特徴だろう。
 

メカラウロ子《ファインディング しゃけ》

 その作品の前に位置するのは、私鈴木の《プレセッション交点》だ。この箱型の立体作品は、内部を覗くと暗闇の中で回転する光が見える。蓄光塗料を塗布した円盤が装置から光を受け、それによって長時間露光で撮影した星々をモチーフにした光の模様が円盤に表れる仕組みとなっている。

 コロナ禍において、「会いたいのに会えない」という状況を強いられたことにより、人と人との間に果てしない距離感を覚えた。これまで通りに人と会えない状況に感じた他者との遠さを、この地球から宇宙の天体までを渡す距離と重ねている。

 外から中を覗き込んで鑑賞するこの作品は、会場という空間の内部に更に内部を持つ構造体として立地している。それにより、展示空間という「箱」とこの作品を入れ子構造として捉える事も出来るだろう。

 

鈴木祥平《プレセッション交点》

 会場奥の壁を埋めるのは、きんたろうの《花嫁*奉行 ~台所ニ大蟷螂ノ怪ヲ見ル圖~ 》だ。床から天井まで達する巨大な絵画に描かれるのは、女性が食卓に対して負うプレッシャーの象徴である食器や食品が合体した怪物と、それに立ち向かう女性の姿である。それはきんたろうが実家で母と姉と共に暮らす中で憧れを抱いた、強い女性像だ。

 そして鑑賞者がこの絵を観る時、きんたろう本人の姿も度々視界に入る。彼は絵に描かれた女性と同じ、台所に立つ時の格好に着替えて、絵に加筆し続ける。

 作品と会場の台所との間を行き来しながら自らの絵と向き合い続ける彼の振る舞いは、そこに描かれた情景と重なるようでもある。

 

きんたろう《花嫁*奉行 ~台所ニ大蟷螂ノ怪ヲ見ル圖~ 》

 その裏手にある奥まった空間に構えるのは、田邊のインスタレーション《原始神母》である。田邊はこれに加え、会場の軒先の柵に無数の迷い犬のチラシを貼った。このチラシと作品は、展覧会の始まりである入り口と、終わりである最奥の部屋にそれぞれ位置している。

 この犬は名前を「あめ」と言い、田邊の「子供」でもある、ゴールデンレトリーバーだ。田邊はこの展示空間で、自身とは種の異なる子供「あめ」に纏わる独自の神話を体現した。それは誕生した生命がやがて土に還り、再び生まれ変わる終わりなき循環の物語だ。そこに犬と人間という種の違いなどは無く、同じ生命として扱われる。

 そして偶然にも会場の始まりと終わりに「あめ」が存在する。その事実もまた、終わりが始まりに戻る循環を思わせるようだ。
 

田邊恵利子《原始神母》

 冒頭にも記したように、会場に展示されたこれら7名の作家たちの作品は、他作家の作品や展示空間そのものといった作品の外部と交渉していたようだった。

 続いて、キュレーションについて書くことにしよう。

「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった ●1点」。展覧会のタイトルであるこの言葉は、一読すると奇妙な文章で思わず2、3度読み返してしまう。まるで言葉の意味が成立する前に解けていくような不確かさを帯びているようだ。会場には、これに似た文章が各作品に対応して配置されている。

 金盛は「点取占い」で扱われる独特な言葉選びを参照し、独自の言葉を紡ぎ出した。展覧会を作る私たちの間でいつしか「おみくじ文」と呼ばれていたそれは、捉え所なく鑑賞者と作品の周りに漂う。

 鑑賞者が作品と対峙する一対一の緊張にふと飛来する不条理な一文が、鑑賞者の意識の外側から思いがけない偶然を呼び込む事が出来るのではないだろうか。
 

会場に配置された「おみくじ文」の1つ

「おみくじ文」に加えて、この展示空間の演出にも注目すべきだろう。

 例えば、会場内で作品や鑑賞者に向かって倒れかかるかのように傾くスチールラックが印象的だ。こうした演出の成立には、講師の飴屋氏、そして青木氏の仕事がとても大きい。

 スチールラックを始めとする、掃除機や脚立、麻雀卓などの物品は、まるで重力を失ったかのように傾いたりぶら下がりながら配置されている。それらは崩れたり倒れたりする未来を予感させるように、不安定で動的だ。

 飴屋氏と青木氏のこうした演出が作品の領域に踏み込み、作品もまたその演出を利用した。その結果、空間全体が何処か綻びも残しながら、束の間、この展覧会という形を留めていたように思える。

「おみくじ文」、作品、作品外部のあらゆる要素、そしてそれらを包括するインストーラーによる空間の演出。これら何か1つでも消失するだけで途端に崩れてしまうかのような一過性の均衡を、この展覧会は保っていたのではないだろうか。

 

 作家とキュレーター、そして講師としてもインストーラーとしても関わった飴屋氏と青木氏。各々が互いの領域を時に細やかに、時に大胆に侵していくようにしてこの展覧会は作られたと言える。「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった ●1点」は、その過程をも体現していたのかも知れない。

撮影=株式会社ゲンロン
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1992年東京都生まれ。ゲンロン新芸術校第6期生通常課程。

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