社会ローカルであること、旅人で...

ローカルであること、旅人であること――『新復興論 増補版』刊行記念インタビュー|小松理虔

ゲンロンα 2021年4月30日配信
 2021年3月11日、東日本大震災から10年の日に、ゲンロン叢書009『新復興論 増補版』が刊行されました。同書は第18回大佛次郎論壇賞受賞作に3万字を超える書き下ろしを収録した決定版です。刊行を記念し、著者の小松理虔さんにインタビューに応じていただきました。
 震災以降、地元である福島県いわき市の小名浜から、つねに現場の声を発信し続けてきた小松さん。しかし『新復興論 増補版』を書き上げたいま、これからは福島の外でも活動をしていきたいと語ります。そこには初版刊行からの2年半で見出した「共事」という新たな立場、そして自らのルーツである小名浜の「宿命」がありました。
 著者の幼少期からの物語を辿り、現在の社会問題へと開く、ここでしか読めない必読のインタビューです。

『新復興論 増補版』を書いて

――まずは『新復興論 増補版』を書き終えての手応えを教えてください。

小松 思いがけないところにたどり着いた、という感触です。『新復興論』の初版は地域づくりの本として書ききった実感があったし、評価もいただきました。しかしそこから2年半の変化をうけてあるていどの字数を書き下ろすと、ほんとうの結末はこちらだったのかもしれないというべつの結論に行き着いたんです。2年半の思いがけない発見から、思いがけない結末になった。同時にその結果にはとても納得しているという不思議な感覚です。

――具体的にどこに納得がいったのでしょう。

小松 「自分の復興」をしっかりと文章化できたことです。いま思うと、初版はどこか「書かされた」部分がありました。それはゲンロンからあと押しされたというだけではなく(笑)、社会的な状況によるものでもあります。初版が出た2018年の前後は、サン・チャイルドの問題や東電の復興本社の社長の不倫など、かなりゴタゴタがあった時期でした★1。同時にSNSでは福島を代弁することへの批判の声が可視化されてもいた。だからこの本を出したら批判も集まるだろうという不安があり、堂々と自分の本として語れない側面があったんです。

 でも、今回は不安はほとんどありません。もちろん福島にはまだいろんな課題があります。けれどいい意味で開き直ったというか、今回は自分自身の復興に対する考え方の変化を書ききれた気がしています。

――小松さんはこの半年で『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、『新復興論 増補版』の3冊を上梓されています。増補版での変化は著者としての経験を積んだことによるものでしょうか。

小松 もちろんそれもあると思います。ただそれ以上に大きかったのは、『新復興論』が「物語」でもあったんだと気づいたことです。この本は社会についての書籍であると同時に、ぼく自身の体験記でもあります。初版の当時、ぼくはこの本をファクトベースで書いたつもりだったし、事実なのだからだれにも文句は言わせないぞとも考えていました。虚構にしてしまうと罪深いとさえ思っていた。

 けれどある劇作家から、「『新復興論』はフィクションとして読める」という感想をもらって、自分がじつは虚構の力を借りていたんだと気づきました。ぼく自身が納得できる物語を、いろいろなひととの出会いのなかで立ち上げていたんです。自分はこういう体験をして、震災でこういう傷を負い、いわきに生まれ育ったアイデンティティが崩れ、それを問い直し、文化やアートの力、外部の力を借りて地域づくりに向かっていった、と。そのことに初版を書いたあとで気づかされました。だから増補版では、初版で書いたことを受け止めたうえで、さらに先まで責任を持って書くことができたのだと思います。

――増補版で追加された第四部「復興と物語」では、その気づきのきっかけとして斎藤環さんの講演も言及されていますね。

小松 斎藤さんの「トラウマをナラティブとして統合する」という言葉を聞いたときに「これはぼくの話だ!」と感じました。ぼくは専門家や有識者が言ったことを、勝手に自分と紐づけて盛り上がってしまうタイプなんです(笑)。今回の3冊では、ほかにも東浩紀さんの「観光客」や國分功一郎さんの「中動態」など、あれもこれも自分の実践に関連づけています。そういう専門家の知見が、地域とのふまじめな関わり方や当事者の閉塞感という、ぼく自身の関心に結びついていると再発見した2年半でもありました。

 それと同時に、双葉郡の東日本大震災・原子力災害伝承館のオープンも変化の原因として大きかったです。増補版の「復興と物語」で書いたとおり、伝承館のかわいそうなかんじというか、分裂したかんじというか、双葉郡の持つ弱さがぼくには響いてしまった。もしかしたらその弱さが、被災をしてアイデンティティが壊れてしまった、かつてのぼく自身と同じもののように感じたからかもしれません。ぼくは『新復興論』で「福島でこんな出来事が起きている」という客観的なレポートを書いたつもりだったけど、そこに巻き込まれて生きづらさを感じている自分自身の弱さを開示していたんだと思います。歴史のことを振り返ったり、いわきの産業のことを書いたり、よそのひとたちといっしょにプロジェクトをつくったりするなかで、自分がなぜこの場所で、震災や原発事故のような理不尽な目にあわなくてはいけなかったのか、その意味を探していた。

 この2年半で、書くこととは物語を立ち上げて課題を自分のなかで意味づけ、社会との関係性を更新していくことなんだとわかりました。この半年で立て続けに本を出したので、書くことの意味合いが変わったとより強く実感できました。

――とはいえ、3冊連続で執筆することには大変ではありませんでしたか。

小松 意外とそうでもありませんでした。『ただ、そこにいる人たち』はブログや報告書が下地になっていたし、『地方を生きる』はほかのメディアで書いていたことのエッセンスをリライトしているので、どちらも下敷きがあったからです。

 とくに『地方を生きる』は、だれかに語りかけるように一気に書きました。というかぼくは、本のかたちでしゃべっているんだと思います。じつはぼくはむかし、クリス・ペプラーに憧れてラジオDJを目指していました(笑)。それくらいしゃべることが好きなんです。だから「語りおろし」のように捉えれば、テーマを決めるとわりとさらっと書けてしまう。

 なかでも、どこかに取材に行ってその課題を血肉にしつつ、平易な言葉で体験記を書くことがぼくは得意らしいです。『ただ、そこにいる人たち』の担当編集者からはこの本は「紀行文的人文書」とジャンル分けできると言われ、読者からも「理虔さんがガイドしてくれるように読めた」と言ってもらえます。ぼくの文才がどうこうではなく、取材した風景や感じたものを、これまで見てきたものや歴史と結びつければ、紀行文として書けないものはないだろうと思います。

『新復興論』もそういうテクストで、初版はツアーガイドとして読んだという声もいただきました。社会課題について観光客としてふわっと、けれど自分の体験として強度を持って書くことが、ぼくの持ち味が生きるジャンルだと思います。体験記を書くことで読者に追体験をさせる、その共事的なスタイルに自覚的になれたことも、増補版を書いた達成感につながった気がします。

復興と共事

――いま「共事」という言葉がでました。小松さんは『ゲンロンβ』の連載「当事者から共事者へ」で、社会問題の当事者でも完全な無関心でもない立場としてこの言葉を打ち出しています。『新復興論 増補版』の帯にも「いま必要なのは共事の心ではないか」と書かれていますが、復興と共事はどんな関係があるのでしょうか。

小松 共事は最初、ただの思いつきで、当事者ではなく共事者と言ってみたらおもしろいんじゃないか、と思ってできた言葉です。ただ実際に使い始めてみると、この言葉によって社会の捉え方が広がっていき、思考の解像度が上がりました。たとえば「当事者から共事者へ」では、死に共事するという言い方で、福祉や慰霊について掘り下げることができた。そのうちに、『新復興論』の初版で援用した「観光客」という言葉ではカバーしきれない部分にも、うまくタッチできる言葉だと思い始めました。

 東日本大震災に関して、ぼくは自分自身も当事者だけれど、自分よりも当事者性の強いひとがいる、という立場です。その立場を表すときに、初版で使った「観光客」という言葉ではヨソモノのニュアンスが強く、どこかしっくりいっていなかったんです。そこに「共事者」という言葉がフィットした。つまり共事者とは、ぼく自身の立場が必要としていた言葉なんです。

 ぼくは批評家ではないし、アカデミズムの人間でもない。だからどこにも行けない所在のなさを抱えていました。その中途半端な自分のスタンスを、共事者という言葉によって肯定できた。もしいま、なにかの専門家から「おまえの言う共事者なんて無根拠だ」と言われたとしても、ぼく自身が世界との関わりをつくるための言葉なのだと、胸を張れると思います。

――『新復興論』が自分の物語だったように、共事者も小松さん自身の立場だということでしょうか。

小松 そうですね。そもそも共事は、ぼくが家族との生活で日々感じていることです。ぼくの妻は新潟出身で、福島に来たのは震災後です。娘も震災のときにはまだ生まれていません。だからぼくにとって震災は、いちばん身近な家族にすら伝わらない部分がある。彼女たちに自分の当事者性を強調しても、家族の仲がギクシャクするだけです。でも震災から離れれば、妻は妻で両親を早くに亡くし、命が限りあるもので、ひとは明日にも亡くなってしまうかもしれないものだという経験をしています。そういうレベルでならば共感をすることができる。

 そうやって、社会を大上段から語るのではなく、自分の手の届く範囲のものから言葉にしていくあり方が共事です。自分が関わっているのは半径数メートルでも、それがどこかで社会に通じている。だから専門的な言葉を有しているひとたちだけではなく、それぞれのひとが自分の現場から、自分なりの社会の捉え方を堂々と言葉にしていくことが大事だと思います。立場で遠慮せずに、みんなが自分の手の届くところから社会について考え、言語化していいんじゃないか。

 ぼくは専門家よりも言葉は少ないけれど、新しい観客をつくり、専門知を社会に開くことは得意なのだと思います。いい言論空間をつくるためには、質の高い言論だけではなく、ひとを巻き込んでいくメディアの役割も必要です。それには「あなたがやってることがすでに批評なんだ」と肯定する回路が絶対に必要です。ぼく自身も「理虔さんがやってることは批評だ」と東さんたちに言われて、はじめてそう気づきました。批評として書かれてはいないけれど、結果として批評になってしまっているものに光をあてることが、ひいては専門知や批評の世界を豊かにすることにもつながるはずです。

 だからぼくは、ぼくが自分なりにおもしろく活動することで、ひとりでも「自分のやっていることは批評なんだ」と目覚めてくれればいいと思っています。じつはそのために、あえて「自分なんて」と弱気な書き方をしているところがあるんです。たとえ自己卑下のように映っても、専門家ではない立場から書くことで、おなじように当事者という枠組みからこぼれ落ちてモヤモヤしているひとに「理虔さんもがんばってんだな」と感じてもらいたい。彼らに届く言葉であるために自分を相対化しているつもりです。

 インテリがカルチャーを考えることだけではなく、ひとの居場所や社会との関わりしろをつくることも批評だとぼくは考えています。そうやって批評をひらいていくという役回りをポジティブに考えるようになりました。そのちょっとひねくれた自己肯定感を、うまく言語化してくれたのが「共事者」という言葉です。その言葉にぼく自身が救われたんです。

外側からローカルを見なおす

――小松さんがそうした共事的な批評観を持ったきっかけはあるのでしょうか。

小松 もちろんもともとこんなことを考えていたわけではなく、ゲンロンで文章を書き始めてからの考え方です。ただ、むかしからどこにいても「外側」に行ってしまい、そこからローカルを再発見することを繰り返していることは関係あるのかもしれません。小名浜から平地区の磐城高校に行って、東京の法政大学に進み、こんどは地方局に就職して福島に戻り、地方はつまらないと思って上海に渡って、いまでは逆にローカルに目覚めて小名浜に戻ってきた。その小名浜でも旧交を温めるわけではなく、新しいひとや県外のひととばかり付き合っています。

――かなりフットワークが軽いですよね。上海に渡ったことには理由があるのでしょうか。

小松 当時付き合っていた彼女に振られたのがきっかけです。振られたつぎの日には会社に退職願を出していました。

――ええ!

小松 会社には「彼女に振られて世の中にムシャクシャしてるんで辞める」とは言えないので、「JICA(海外青年協力隊)で日本語教師として国際貢献をしたい。この思いは固い」と言いました。するとむこうも「高い志があるならしかたない」と(笑)。そのあと実際に短期の日本語教員養成講座に通い、上海に行って日本語の先生をやりました。あまり物事を深く考えないので、フットワークはたしかに軽いですね。

 法政を志望校にしたのも、有名かつ受かりやすそうだという理由で、高一のはじめには決めていました。大学では中国史のゼミに入り、やはり周縁に関心を持って、現代中国の新疆ウイグル自治区での民族統治をテーマにしました。国際関係の政治学者やジャーナリストの本を読み漁り、人民日報の日本語版を検索して、いいとこどりをしたまとめサイトのようなルポルタージュを卒論として書いたんです。

 そのなかには、実際に新疆ウイグル自治区に行ったときのフィールドワークのような文章も入れています。たまたま旅行したときの記録だから「なんちゃって」ではあるけれど、現地のひとと言葉を交わした感触が、現実の課題――当時は同時多発テロのあとでした――と結びついているのはいまと同じです。フットワーク軽く行ったさきで、壁にぶち当たり、その都度物語を立ち上げてがんばってきたのは、むかしから変わらないのかもしれません。

――小松さんはこの3月に出た『新潮』で、柳美里さんにインタビューをされています★2。そこで柳さんは、自分の祖父や父母は旅人で、ご自身も「ここだと居を定めてしまうと、なんだか居づらくなってしまう」と話しています。いまの話を聞くと、小松さんも旅人であるように思いました。

小松 インタビューでは対比のために、あえて小名浜に根差した人間として話をしましたが、じつは、ぼくにもどこにも居場所がないなという感覚は強いです。柳さんと同じように、どこ行っても「ここ」の人間ではないんです。

 人間関係についても同じで、たとえば出版賞のパーティーでは出版の人間ではないから編集者と名刺交換をする必要はないと感じてしまうし、逆に食のフェアではやはり自分は生産者じゃない、半分ライターだと思ってしまう。

 けれど、その居場所のなさを求められるケースもあります。たとえばシンポジウムなどでは、アカデミックな立場から専門的に語る大学の先生たちに対して現場の意見や疑問を率直にぶつけて欲しい、と声をかけていただくことは多いです。それはきっと、ヨソモノだからこそのポジティブな役割を期待されているんです。専門家は自分の専門を語りますし、立場上「わからない」とは言いにくいし、素人目線で「それってどういうことですか?」とはなかなか聞けません。ヨソモノは道化も演じられるし、なにかまちがえたときには考えを改めると言えます。そういうひとがいないと言論空間は成り立たない。

 ぼく自身が「うみラボ」をやっていたときも、素人だったからこそ、自分たちの理解がまちがっていたというときにも、そのまちがいを素直に訂正できました。そもそも地域復興の本として『新復興論』を書いたけれど、震災前は双葉郡に原発があることすらなんとなくしか意識してなかったし、原子炉が何基あるかも知らなかったはずです。

――震災前にはいわきは双葉郡や原発のことをあまり見ていなかったのでしょうか。

小松 それはまちがいないです。いわきは浜通りでいちばん発展した都市で、もっとも東京に近いので、目線が東京に向いているんです。逆方向の双葉郡は、いわきよりも田舎として見られていて、ぼくが高校生のときは双葉から通っている同級生は「郡民はもう電車がねえから早く帰れ」といじられていました。震災のときも、いわき市民の多くは、最初は、大変な思いをしたひとたちを助けてあげようというスタンスだったはずです。けれどそこで交流が生まれたり、いろいろな噂のようなものを聞くようになり、じつは原発のあった双葉郡のほうが、いわきよりも豊かだったと知らされた。東電と双葉郡との距離感は『新復興論』にも書きました。いわきのひとたちには、ほんとうに双葉が見えていなかった。だからこそ震災後の軋轢も大きくなったのだと思います。

 その原因はきっと、いわき自体が炭鉱の時代から、あるいは磐城平藩のむかしからの周縁だからかもしれません。だからこそ、さらなる周縁として双葉を求めてしまっていた。開沼博さんが『常磐線中心主義』のなかで書いたとおり、いわき駅のある常磐線自体が東京の周縁の象徴です。ぼく自身、震災前はいわきより北の駅はほとんどわからなかったし、20歳になるまでは双葉郡に行ったことも10回ぐらいしかないんじゃないかと思います。震災で常磐線は途切れていましたが、そもそも人々の意識のうえではつながっていなかったんじゃないでしょうか。

 けれど震災後、ぼくは地域のことを考えるようになりました。震災前と震災後で、ひとが丸ごと入れ替わったような変化ですよね。ひとはまちがえることも考え方が変わることもありえます。あやまちを許容する社会のほうが軌道修正しやすく、生きやすいと思います。いまの時代、なにが炎上のたねになるかわからず、より正しい議論を求められていますが、それが強まって隙を見せられなくなっているひとも多く、息がつまるような感覚もあります。

 もちろん他者の目線や社会的な正しさは大事ですが、修正可能なまちがいを責め立てられて、さらにその立場にこだわってしまうひとも多いでしょう。他者と関わりながらも、結局大事なのは自分がどうありたいかだと思います。だからぼくは最近、「復興は自分だけの復興でいい」という言い方をしています。自分の人生を生きることが、いちばんローカルな「復興」だと考えているんです。

ルーツとしての小名浜

――小松さん自身の「自分だけの復興」には、やはり地元の存在が大きいのでしょうか。

小松 そうですね、ぼくの根本は、やはり小名浜で生まれ育ったことにあります。『新復興論』にも書いたとおり、小名浜はソープ街がある町で、身の回りに猥雑なものがいくらでもありました。たとえばぼくが小学生のときは廃工場が遊び場で、年上のガキが撃ち合いをしたあとのBB弾を拾い集め、自分たちで撃ち合っていた。あるいは運送会社をやっている友達の家で、運転手の詰所に山積みになっているエロ本を読んだりもしていました。周りには期間労働者の下宿も多かったです。そういう環境で育ったからか、オレらはメインストリームじゃないよな、みたいな宿命を感じているんです。

 それを最初に自覚したのは、スポーツ推薦で進学校の磐城高校に入学したときです。そこで同じ陸上部のメンバーから「小松くんは小名浜水産に行くと思ってた」と言われた。小名浜水産高校は当時、いわきを代表する超ヤンキー高校で、つまり地元の陸上界隈では小松は「小名浜のヤンキー」だから絶対にそこに行くと思われていたらしい(笑)。実際、ぼく自身は不良ではなかったように記憶してますが(笑)、仲のいい友人にも剃り込み入れたやつらがいっぱいいました。

 そのときはじめて、小名浜がどういう目で見られてたのか、他者の目線から自分のローカルを相対化できたんです。生徒会長をやったけれど勉強ができたわけではなく、高校でも国立大や早慶を狙うメインストリームのコースではありませんでしたし。

――生徒会長をされていたんですね!

小松 それは小学校と中学校のときですね。といっても、クラスでエロ本が見つかって先生に怒られたとき「小松が持ってきた」と身代わりになるようなかんじでした。みんなが仰ぎ見るようなかんじではなくて、ガキ大将の延長ですね。その意識はいまもあって、いま、社会について論じたくても言葉にできない中途半端なひとの側に立ちたい、と思っています。たまたま大佛次郎論壇賞をもらいましたが、「立派になっちゃったな」とは思われたくないんです。結果的に賞をもらえただけで、工場街で生まれ育って、廃工場をかけずり回ってエアガンをぶっぱなしていた足場には、どうがんばっても縛られている。

 そこには当然、複雑な思いがまざっています。ぼくは小名浜のなかでも海岸エリアではなく、工場地帯の出身です。このあいだ岩手県の釜石に行ったとき、製鉄所が24時間動き、つねに発動機の作動音が街中に響きわたっているのを聞いて、「めっちゃ小名浜の音だ!」と反射的に感じてしまいました。波が寄せて返す音ではなく、カモメが鳴く声でもなく、工場の音が懐かしい。そこには忸怩たる思いというか、誇りやプライドとある種の悔しさがないまぜになった感慨があります。それがぼくにとっての小名浜です。
 
 そんな出自の積極的な意味を探したい。とくに震災後は、自分はどこから来てどこに行くのかを考えずにはいられませんでした。自分がなんで生き延びたのか、なんで福島に原発があるのか、小名浜に生まれ育ったことの意味はなにか。『新復興論』を書き、「共事」という言葉が生まれたことで、その足場を肯定しながら論壇に関わることをポジティブに捉えられました。同時に学生時代からの自分のあり方も、ストン、と納得がいった。その意味で、小名浜出身であることと共事者であることは、共通しているのかもしれません。ぼくはずっと、マイナーなものの仲間であり、同時にカウンターだったんです。

 ぼくは地元とか土地とか歴史とか、あるいは霊とか先祖とかばかり言っている自分を、保守的な人間だと思っています。ただいわゆる「保守」とちがい、日本という国にはあまり思い入れはありません。ぼくと地続きなのは小名浜なので、小名浜が楽しく豊かな場所であれば、それでいい。

小名浜を背に福島の外へ

――最後に、『新復興論 増補版』を書き上げたいま、これからやりたいことを聞かせてください。

小松 ふたつくらいあって、ひとつには大学院に入りたいと思っているんです。ぼくは大学時代に最小限の単位しか取らなかったので、いまになって学術的な論の立て方は大事だと感じるし、学問をしておくべきだったと思います。もちろん単純に、院に入って専門家をあっと言わせたいという思いもある(笑)。

 一方で、地方の現場にはアカデミズムに匹敵する言葉があり、ひとがいます。そこに足場を置いているぼくは、大学の研究者が喉から手が出るほど行きたい現場の課題のフィールドワークを、365日できるおいしい立場にいるのかもしれない。だからぼくがやるべきは大学院に入ることではなく、現場に大学と同じぐらいの知的な財産があると発信していくことかもしれないし、そのほうが身の丈にあっているかもしれません。

 けれど大学にも、現場の意見を大事にしたいと感じているひとがいます。ぼくが大学に入れば、アカデミズムと地域をつなぐ役ができるかもしれないと思うんです。だからいちど院を修了したうえで、在野に戻っていまのスタイルを貫くこともおもしろいかなと考えています。実際には仕事に追われてむずかしいし、こうして行ってみたいと考えているときがいちばん楽しいのかもしれませんが。

 もうひとつは、いまはなにより、書くことをもっとしたいです。今日最初に話したように、最近文章力がついたというか、書くことへの苦手意識が消えたというか、自分は書けないわけではないのだという感触を得られました。むかしはライター的な短い文章を短時間で書くかんじだったのが、いろいろなことを書くうちにだんだんと思考が深まり、自分の文体が変わってきていると感じます。ぼくはあまり深いことは書けなくても、深く自分と向き合って書くことはできるんだと思いました。

 もちろん自分の経験に引きつけすぎて他人のことを書けないのはまずいし、取材をしても「こんな問題があり、それについて専門家はこう言ってます」ということを書いただけでは不十分です。けれど取材したことを自分の言葉で、いままでの経験や興味関心と結びつけて書けば、浅いものとしては読まれないはずです。その点、ぼくは地域活動家なので、食いぶちをえながら他人のことを取材していると言えます。書くためにネタを探しに行っているわけではなくて、ほかの仕事で得た知見からテーマを絞って文章を書くことができる。つまり現場の仕事があるから、書くネタが集まってくるわけです。

 けれどその一方で、地域活動家の仕事から解き放たれて、ほんとうに書くだけの環境に身を置いてみたい気持ちもあるんです。ようやく自分なりの文体やリズムがなんとなくできてきたと感じられ、それが自信につながった。書きながら文章がかたちになり、構成がしっかりして主張がクリアになって、「こことここがこうつながるのか」と美しく整えられていく。それが心地いいんです。だからいまはとにかく、取材したり書いたりすることの強度を高めていきたい。なにかいい体験できたときは、早く書きたいという気持ちになることが多いです。逆に気持ちが乗らないときは全然進まないんですけど(笑)。

 書くことは生きている以上は続けられることなので、いろんなことを書いていきたい。実際、いまも動いている連載や単行本の企画は複数ありますし、つぎはフィクションも書いてみたいと思っています。

――小松さんがフィクションを書くのはとても楽しみです。いまの話を聞くと、書き手として順風満帆というかんじですが、反対に悩みなどはないのでしょうか。

小松 震災から一旦離れて書いてみたい、というのはありますね。この3月には『新潮』のインタビューのほかに『文學界』にも寄稿していますが、逆に言えば文芸誌からぼくへの依頼は3月にしか来ない。そういう意味でぼくは「福島の震災を語るひと」なのでしょう。もちろん、震災や原発事故はぼくが書くテーマのひとつであるけれど、この先も書くことを続けるためには、震災をいったん離れ、ほかの分野についても書けるようにならないと、とも思うし、別のテーマを書いているのに震災と出会い直してしまったり、震災を考えることにつながってしまったりするかもしれない。だから、いまはもっと範囲を広げて書きたいと思っています。それもフィクションを書いてみたい理由のひとつです。

 それにぼくが「福島のひと」として扱われている裏には、ぼくがいることで福島を語れなくなってるひとがいると思うんです。ぼくは福島を代弁しているつもりはないけれど、目立って発言をしているから、それがおもしろくないひともたくさんいるはずです。ぼくは震災後の福島で「10年選手」になって、メディアに出ることが増えて、当事者性が非常に強くなってしまった。若いひとたちもいるし、チャンネルが増えれば、またべつの関わりしろができるはずです。

 ぼく自身としては、生まれ育った小名浜にはもちろん愛着があるけれど、ローカルアクティビストとして地域でやってきた方法論が他県でもほんとうに活きるのか、まちづくりのプレーヤーとして試してみたいという個人的な動機もあります。それにはたぶん、この数年ぐらいしかチャンスがないと思う。だからそのために、環境を変えることもありかなと思っています。いまは「いわきの小松理虔」だと思われているかもしれないけれど、いつかはほかの県に移住してしまうかもわからない。移住はむずかしくても、短期的に地域おこし協力隊としてほかの地域に行ってみたり、自宅は小名浜のままどこかに安いところを借りて2拠点で活動をする可能性も十分にあります。

――そうすると大学院にも行きながら書き仕事をしつつ、2拠点で活動をしたい、と。あらためてフットワークの軽さを感じるインタビューでした。

小松 そうやって外側を求めていくこと自体が、まさに小名浜的なのだと思います。さきほどの柳さんと同じで、ぼくも3年くらいひとつの職場で安定し始めると居づらくなるというか、不安でしょうがないんです。なにか変化してないと、これでいいのかと怖くなってしまう。逆に言うと福島で10年以上、地域活動家をしてきたことは、ぼくにとっては奇跡的なことです。それはありがたいことですが、さらにありがたいことに、ほかにもやりたいことがたくさんあるんです。『新復興論 増補版』で復興についてはあるていどかたちになった。これからは福島から発しながらも、もっと外に出る仕事をしていきたいですね。


2021年3月5日
聞き手・構成・注=編集部

★1 2018年8月から福島市の教育文化複合施設「こむこむ館」前で展示されていた、ヤノベケンジによる立体作品《サン・チャイルド》が、風評被害を広めるなどの批判の声を受けて同年9月に撤去された。同作は胸部に「000」と表示されたカウンターの付いた防護服を着た少年をかたどったもの。
 また同年の4月には、東京電力福島担当特別顧問だった石崎芳行が、南相馬市で復興活動にあたっていた女性と不倫関係にあり、金銭などの便宜を図っていたことが週刊誌により報道されていた。
★2 「柳美里ロングインタヴュー――時の目盛りが壊れた後で」、『新潮』2021年4月号。柳の発言は110ページ。
「本書は、この増補によってようやく完結する」。

ゲンロン叢書|009
『新復興論 増補版』
小松理虔 著

¥2,750|四六判・並製|本体448頁+グラビア8頁|2021/3/11刊行

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1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司

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