「原音とサンプリングの弁証法」──Illicit Tsuboi×荘子it×吉田雅史「『良い音』とは一体なんなのか?」|ゲンロン編集部

シェア
ゲンロンα 2021年11月19日配信

 多彩なトピックを扱ってきたゲンロンカフェのヒップホップイベント、今回はヒップホップ・ミュージックにおける「音」がテーマだ。ヒップホップにとって、「良い音」とはなにか? この問いを考えるべく、スペシャルゲストが降臨した。それは日本語ラップの黎明期から第一線で仕事をしてきた、トラックメイカー、マスタリングエンジニアのIllicit Tsuboi(イリシットツボイ)。ヒップホップ・クルーDos Monosの荘子it、ゲンロンではおなじみの吉田雅史も登壇し、議論はなんと6時間にもおよんだ。 
 日本語ラップ界のリビングレジェンドが、ゲンロンカフェにインダハウス。このイベントを聞いたあと、あなたにとっての「良い音」も変わっているはずだ。(ゲンロン編集部) 
  
*過去のヒップホップ関連イベントのレポートは、下記よりお読みいただけます。 
・ヒップホップ・シミュレーショニズム再考──さやわか×荘子it×吉田雅史「キャラクターから考えるヒップホップ」イベントレポート(URL=https://webgenron.com/articles/article_20200824_01/) 
・ヒップホップミュージックの言葉とその文学性──菊地成孔×荘子it×吉田雅史「ラップは文学なのか、小説はポップスなのか タモリからケンドリック・ラマーまで」イベントレポート(URL=https://webgenron.com/articles/article20210303_01/) 
・「ヒップホップの起源は、モンゴルなんだよ」──島村一平×吉田雅史 司会=福冨渉「ヒップホップを飼いならす──現代モンゴル、ラップの韻とビートと空間」イベントレポート(URL=https://webgenron.com/articles/article20211005_01/

「原音」のフィルタリング──ザ・ルーツ


「良い音」とはなにか、ひと言で言語化するのは難しい。リスナーの数だけ意見があるだろう。吉田はまず議論の手がかりとして、オーディオカルチャーの「原音主義」をヒップホップ・ミュージックの対立軸として提示した。 

  

 
  

 クラシック音楽のオーディオマニアは、コンサートの生音をどれだけリアルに再現できるかにこだわり、プレイヤーやスピーカー、ケーブルといった機材に高額を投じる。ハイエンドな機器をそろえるだけでなく、オーディオ専用の電柱を庭に立ててしまうひともいるというから驚きだ。「原音主義」は、ある種のラディカリズムと呼べる。しかし、そもそも原音は本当に「良い音」なのだろうか? この問題提起から議論はスタートした。 

 Illicit Tsuboiはこの考え方に異を唱える。なぜか。それは、ライブの生音や、それを忠実に再現するオーディオサウンドよりも、ミキサーでわざと音を汚した音源のほうがかっこいいと考えるからだ。長年ミックスを手がけてきた、音楽の作り手サイドならではの意見だ。しかし、どうしてクリアではない音のほうが「良い音」なのだろうか。 

 それは、ヒップホップがサンプリングカルチャーであることに関係している。USヒップホップは、DJが2台のターンテーブルを使ってレコードの間奏部分をループさせ、フロアを踊らせることから始まった。ヒップホップにとっての「良い音」の基準は、1970年代前半のサウスブロンクスで鳴らされた、ありもののアナログ盤の適度に汚れた太い音、というノスタルジックなサウンドイメージに直結している。 

 荘子itもこれに同意する。写実的な絵画よりも抽象絵画のほうが描かれたもののイメージをかき立てるように、サンプリングで作り出されたトラックのくぐもった音は、リスナーに原音をイメージさせる力があると説明する。 

 レコード音源の一部をサンプリングし、そうして取り出された素材をミックスすることで、原音は幾重ものフィルタリングを通過する。ヒップホップ・ミュージックのおもしろさは、もともとの音はいったいどのような響きだったのかを、加工された音から想像するところにあるというわけだ。 

 ということは、ヒップホップにおいてはレコーディング作品こそがライブの生音よりも「良い音」だということだろうか? そこでIllicit Tsuboiは、生音が良かった例外的なアーティストとして、ヒップホップ・バンドのザ・ルーツ(The Roots)をあげた。1995年ごろアメリカに在住していたという吉田も、現地で見たアーティストで印象的だったのがザ・ルーツだったと意見が一致した。 

  
 
 

 ザ・ルーツは、バンドメンバーにDJがいない代わりにトラックをすべて人力の楽器演奏で作り上げる。ミキサーで徹底的に加工された彼らのライブサウンドは、原音でありながら、原音ではない。まるでレコード音源のような音色が、ライブでも再現されているのだ★1。 

 リバーヴ(残響音)が極端に抑えられた甲高いリムショット(スネアドラムのふちを叩く奏法)が印象的なザ・ルーツのドラマー、クエストラヴ(Questlove)は、サンプリング・ドラムマシーンの名機SP-1200の音を再現するように叩いているはずだとIllicit Tsuboiは指摘する。ここには「キャラクターから考えるヒップホップ」でも話題にのぼった、機材のキャラクター化の議論とも通底するものがある。 

 ヒップホップ・ミュージックのトラックは、もともとサンプリングが基本になっていた。しかし90年代のUSヒップホップ黄金期以降、生楽器という「原音」をどう取り合わせていくかが、音作りにおける最大のテーマとなる。ザ・ルーツは、そのひとつの解答を示したと言えるのだろう。 

 

サンプリングから生楽器へ──ドクター・ドレー


 イベント後半は、ヒップホップの名盤を紹介しながら具体的な「良い音」についての議論がかわされた。 

 吉田によれば、USヒップホップ・シーンは80年代半ばまでニューヨークが中心だったが、90年代に西海岸を中心とするGファンク★2が生まれ、東西でしのぎを削る黄金期をむかえる。そして、ウェストコーストのシーンの中心にいたのがラッパーでプロデューサーのドクター・ドレー(Dr.Dre)だ。 

 ドレーはギャングスタ・ラップで名をはせたクルー、N.W.Aを脱退後、ファーストアルバム『The Chronic』(1992)、そしてセカンドアルバム『2001』(1999)を発表する。この2作品でドレーはサンプリングの音を生楽器に置き換え、よりハイファイな音作り★3を試みている。 

 吉田がイベントで取り上げたアルバムは、ヒップホップの歴史を変えたといわれる『2001』だ。Illicit Tsuboiはこのアルバムについて「奇跡に近い」、「完璧」と惜しみない称賛をおくる★4。 

  

 
  

 生楽器を使用すれば、レコードからサンプリングしたときに発生するノイズが排除されている。ハイファイ・ヒップホップと聞けば、いきおい「原音主義」的なアルバムと思うかもしれないが、Illicit Tsuboiの評価はそうではない。

『2001』のクリアなサウンドは、アルバムを構成する要素の一部にすぎない。このアルバムのミックスは生楽器の「原音」を引き立たせることを目的にせず、原曲のトラックやラッパーの声の魅力を最大限引き出すことに徹している。 

 Illicit Tsuboi自身がミックスを手がけるときも、「音の良さ」は最優先事項ではない。なにを差し置いても、「かっこいい」曲に仕上げることを目指す。原曲の良さを引き出すために、ミックスで音を悪くすることも珍しくないという。一聴したときの音の良さが先行していないほうが、逆説的に全体的な音の良さへとつながると考えているからだ。 

『2001』のミックスは、ドレー自身が行なっている。ドレーの「良い音」を聞きわける耳とエンジニアへの指示出しは「神の領域」だという。ぜひ聞いてみてほしい。 

 

サンプリング・アート──カニエ・ウェスト


 ドクター・ドレー『2001』の同時代にはシンガー・ソングライターのディアンジェロ(D’Angelo)が傑作『Voodoo』(2000)を発表している。ロック、ソウル、R&Bのサウンドにヒップホップ的感性を取りこみ、ネオ・ソウルと呼ばれるムーブメントを牽引した。アルバムには先述のクエストラヴや有名プロデューサーのDJ プレミアらが参加している。これもIllicit Tsuboi一押しのアルバムだ。 

 このように00年代初頭まで、ブラックミュージックのイニシアチヴは、ドレー、ディアンジェロ、クエストラヴら生音主体のアーティストが握っていた。しかし、カニエ・ウェスト(Kanye West)★5の登場によりその勢力図は大きく塗り替えられることになる。 

 カニエが2004年に発表したファーストアルバム『The College Dropout』は、ソウルミュージックからの大胆なサンプリングや元ネタの早回しといった、独創性あふれるトラックメイキングでセンセーションを巻き起こした。 

 アルバムごとに作風を変え、ときにラップを放棄したり、ゴスペル作品を手がけたりしてきたカニエだが、サンプリングだけは手放さなかった。今年8月にリリースされた待望の新作『Donda』でもやはりサンプラーが使われており、サンプリング・アートの天才と目されている。 

 荘子itは、カニエだけでゼロ年代以降のひとつのヒップホップ史を語ることができると話す。大きな理由が、彼のプロデュース能力の高さだ。 

  

 
 

 カニエは大学在学中からラッパーのジェイ・Zに曲を提供するなど、プロデューサーとしての手腕も卓越していた。カニエがプロデュースした、ネオ・ソウルのラッパー、コモンのアルバム『Be』(2005)を聞いてみてほしい★6。サンプリングと楽器演奏が見事に共存しているアルバムだ。Illicit Tsuboiは『Be』について、ヒップホップの音に関してはこれ以上のクオリティのものはないと評価する。 

 このように00年代はカニエが率いるサンプリングの時代となった。だが10年代に入るとドレーと同じカリフォルニア州コンプトン出身のラッパー、ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)がスターダムへと駆け上がる。そうして、生音ヒップホップがふたたび領土を回復することになる。 

 ケンドリックの作品で特筆すべきは、ジャズとヒップホップの融合だ。サードアルバムの『To Pimp a Butterfly』(2015)では、ロバート・グラスパーら現代のジャズ・ミュージシャンが多数参加し、ジャズの演奏のうえでケンドリックがラップをしている。ドレーやディアンジェロの系譜につらなるマスターピースであり、2010年代を代表するアルバムとなった。 

 このようにUSのヒップホップ・ミュージックはトレンドのチェンジを幾度も繰り返してきた。そのなかで「良い音」はどのように目指されてきたのか? それは大まかに言えば、サンプリングベースのサウンドと、楽器演奏の「原音」とのせめぎあい、あるいは両者のバランス感覚が作り上げてきたと、ひとまず整理できるだろう。 

 イベントではドレーやカニエのほかにも、ウータン・クランやア・トライブ・コールド・クエスト、そしてIllicit Tsuboiも制作に関わったブッダ・ブランドの名曲『人間発電所』も話題にあがった。 

 また、このレポートでは大幅に割愛したが、すべてのヒップホップクラシックには優れたミキサー、エンジニアの存在があった。吉田がプレゼンする名エンジニアたちにもぜひ注目してほしい。 

 Illicit Tsuboiがミックスを手がける作品は、ヒップホップに限らずロックやポップミュージックなど、多岐にわたる。しかし、音源に関していま一番チャレンジングな音楽ジャンルは間違いなくヒップホップだと話す。 

 イベントのアーカイブ動画とともに、今回紹介されたアルバムをぜひ実際に聞いてみてほしい。ヒップホップを通してあなたが「良い音」について考えるきっかけになるはずだ。(宮田翔平) 

  

 
  

シラスでは、2022年3月8日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。 

 


Illicit Tsuboi × 荘子it × 吉田雅史「『良い音』とは一体なんなのか?──ヒップホップとミックス、音を視る魔術」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210908/

 


★1 The Roots - What They Do(URL=https://www.youtube.com/watch?v=ijYcnszH0Fk) 
★2 カリフォルニア州で誕生したヒップホップのサブジャンルのひとつ。ニューヨークで流行した、サンプリングベースのざらつきのあるサウンドと異なり、楽器を多用したスムースでハイファイなサウンドが特徴。代表的なラッパーに、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、2パックなどがいる。 
★3 ドレーがハイファイなサウンドを目指した理由のひとつが、西海岸の車社会だ。走行中の車のロードノイズやエンジン音にも負けない、低音と高音を強調したいわゆる「ドンシャリ」系の楽曲が、ドライブ中のプレイリストとして若者たちから人気を集めた。アメリカ合衆国の東西における聴取環境の差異がヒップホップにもたらした影響については、吉田の論考「アンビバレント・ヒップホップ(3) 誰がためにビートは鳴る」に詳しい。(URL=https://webgenron.com/articles/gb003_07/) 
★4 Dr. Dre - The Next Episode(URL=https://www.youtube.com/watch?v=nL2HPPHdPAA) 
★5 カニエ・ウェストは今年10月18日、自身の本名を「イェ(Ye)」に改名することをカリフォルニア州の裁判所から認められたが、本レポートでは「カニエ・ウェスト」と表記している。 
★6 Common - The Corner ft. The Last Poets(URL=https://www.youtube.com/watch?v=6mnKNr2Tiq8

    コメントを残すにはログインしてください。