ひろがりアジア(9) 反転のユートピア──スハルト政権期インドネシアの「若者向け娯楽誌」と9.30事件の痕跡(前篇)|竹下愛

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ゲンロンα 2021年12月17日配信
前篇

はじめに──「記録」としての若者向け娯楽誌


 インドネシアの街角から、雑誌やタブロイドが消えて久しい。

 2015年から2020年にかけて、スマートフォンの普及率が27%から63%へと急速に拡大したインドネシアでは★1、同時に急速な印刷媒体の淘汰が起こった。一部のメジャー誌は電子版として生き残ったが、ほかの多くは姿を消した。紙媒体の保存に適さない高温多湿な気候や、平均所得から見て決して安くない値段のせいか、スマホを手にした人々の関心はみるまに雑誌から離れていったのだ。

 とはいえ、テレビ受信機の全国的普及や多チャンネル化が90年代になってようやく始まったこの国では、情報のデジタル化が進む2010年代の半ばまで、音楽、芸能、ファッションといったトレンドを網羅して多様なエンターテインメントを創出・けん引していたのは雑誌だった。とりわけ「若者向け娯楽誌」は、そのセンターに立つメディアだった【図1】。かつて街頭のスタンドで、色鮮やかでポップなカバーがほかの雑誌やタブロイドのなかで目を引いたこれらの雑誌は、「新しさ」を身上としたバラエティーあふれる情報で若者たちをひきつけ、巻き込み、主体化することで彼らの意識を方向付け、関連産業も展開させてきた。そのような回路を担ってきた若者向けの娯楽誌は、おのずと時代の記録にもなっている。

 
【図1】90年代以降のインドネシアの若者向け娯楽誌

 
 インドネシアで若者向け娯楽誌が初めに作られたのは60年代の終盤、いわゆる「9.30事件」を挟んで、スカルノ初代大統領の親共的な「旧秩序」からスハルト少将率いる陸軍が主導する西側寄りの「新秩序」へと、政治体制が転換した直後だった。

 65年に発生した9.30事件の真相は現在も謎のままである。冷戦を背景とした国軍と共産党の権力闘争の末、西側諸国から支援を受けていたとされる陸軍は共産党に対して掃討作戦を実行した。そして、軍を率いていたスハルトがスカルノに代わって政権を掌握し、共産党を非合法化した。共産分子とみなされた人々は法的な手続を経ないまま逮捕・拘束、虐殺され、その数は50万人とも200万人ともいわれている。インドネシア社会全体を恐怖と疑心暗鬼に陥れたこの出来事は、その後30年以上にわたって存続したスハルト政権崩壊からさらに25年が過ぎる現在も、禍根とトラウマをこの国の社会に残している。

 この血なまぐさい恐怖の出来事から間もない67年に、若者向け娯楽誌『アクトゥイル Aktuil』が登場した【図2】。後述するように、スカルノ初代大統領が反文化帝国主義の徹底を掲げて西洋のポピュラー・カルチャー排斥を展開していたのに対して、スハルトの新政権は、スカルノの治世からの大転換を印象付けるために禁じられてきた欧米由来のカルチャーを解禁し、プロパガンダに積極的に運用した。既存の一般向け娯楽誌はそのためのミッションを一手に引き受け、スハルトが「新秩序」と名付けた政策の「新しさ」を、ビートルズやハリウッド映画のスターたちの表象とともに大々的に宣伝した。
 
【図2】『アクトゥイル』の表紙

 
『アクトゥイル』がアマチュアの若者集団の手によって誕生したのは、まさにそうした時代のさなかだった。しかしながら、既存の娯楽雑誌とは異なってこの雑誌は政治的・社会的イシューには一切触れず、ひたすらポップスやロック、ジーンズにTシャツにロングヘアーと、新しくポップなカルチャーの情報だけを、その創り手と同じ若者世代に向けて発信した。そして瞬く間にインドネシアの若者世代を席巻し、他誌を凌駕していった。

 若者向け娯楽誌が文化的な意味生産の回路を有するひとつの時代のドキュメントであるのなら、9.30事件を挟んだ政治的・社会的転換をリアルタイムで経験していたはずの当時の読者たちの意識や記憶もまた、そこになんらかの痕跡を残しているのではないか。仮にそうならば、その後30年ちかくにわたって継続したスハルト開発独裁体制下で、その痕跡は後続のメディアにどう引き継がれ、若者世代に何を及ぼしてきたか。このような問いのもとに、『アクトゥイル』とその後続誌のページをめくってみたい。

「旧秩序」から「新秩序」へ


 1959年、初代大統領スカルノは政党乱立により混迷をきたしていた議会を解散して「指導される民主主義」体制を導入し★2、精神的・文化的側面における「インドネシアの個性 Keperibadian Nasional」の必要性を説く「政治宣言 MANIPOL」を発令した。これによって、当時国内ですでに幅広く受容されていたロックンロールやポップスのコンサートやハリウッド映画の上映が禁じられ、レコードは強制的に回収された。長髪や、ベルボトムのジーンズ、ロンドン・ブーツなどのニューモードも禁じられ、都市部ではハサミを手にした取り締まりの警官が、長髪の若者たちを見つけては彼らの髪やジーンズの裾を切り落として回った。床屋や製靴店、テーラーなどには、「ビートルズ風」のモードを希望する長髪の若者たちの注文には応じないよう通達が出された★3。印刷媒体には「新植民地主義・文化帝国主義的な要素の排除と革命遂行の前衛たらんこと」が要求され★4、田畑で労働する国民たちや戦闘服姿の男女の写真が、それまで娯楽雑誌を飾っていたエリザベス・テイラーやゲイリー・クーパーのグラビアにとって代わった【図3】。同時に、当時第一党であった共産党の集会やその傘下団体の活動報告が誌面を埋め尽くした【図4】。

 
【図3】『ヴァリア』誌表紙(1961年)

 
【図4】インドネシア共産党第45回結党大会の記事(Varia、 65年5月)

 
 ところが、1965年9月30日未明に起きた9.30事件以降、インドネシアのメディア状況は一変した。スハルト少将率いる治安秩序回復作戦司令部は事件発生の直後から事態の収拾にあたり、事件は共産党によるクーデター未遂であると発表した。事件後は報道管制が敷かれ、軍系新聞2紙以外の発行が制限された。その後大規模な共産分子掃討作戦が展開されるなか、共産党傘下にあった諸団体やマスメディアは徹底的に弾圧され、発行が再開された新聞・雑誌はいずれも共産党を事件の首謀者として糾弾した。

 娯楽雑誌からは反新植民地主義・反文化帝国主義がらみの言説の一切が消えた。一方、9.30事件からわずか4カ月後にあたる66年2月の娯楽誌『ヴァリア』には【図5】、指導民主主義下では聴取すら禁止されていたオランダのポップス・グループ、ブルー・ダイヤモンズが国軍に招聘されてバリ島と東ジャワの各都市を訪れ、ステージを行った模様が紹介された。そこには「このコンサートは “ゲスタプ” を鎮圧した国軍兵士と国民への感謝のしるしである」という軍司令官のコメントが紹介されている【図6】★5。「ゲスタプ GESTAPU」とは、共産党によるクーデター未遂を指す9.30運動(Gerakan 30 September)の略で、ナチスの秘密警察であるゲシュタポのイメージを踏襲する名称として用いられていた。
 
【図5】1966年初頭の『ヴァリア』誌表紙。図3で紹介した61年のものとはスタイルが変わっている

 
【図6】ブルー・ダイヤモンズのコンサート紹介記事

 
 また事件直後の65年11月には戦略予備軍芸術家協力事業団(略称 BKS-KOSTRAD)と称する楽団が結成され、国軍の名のもとに全国を行脚し、市民への娯楽提供として、スカルノ時代には禁じられていた「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」の楽曲を演奏した。その様子も同誌で報告されている。『ヴァリア』誌の競合誌『セレクタ』誌も同様で、1967年に、長らく禁じられていたファッション・ショーの復活を次のようなコメントとともに伝えている。

しばらくのブランクのおかげで我が国のモード界が世界に後れをとってしまったのは否定できない。しかし “ゲスタプ” の発生後、インドネシア国軍と、国民の協力体制によってそのもくろみは打ち砕かれ、我々には新たな風がもたらされた。すべての国民にとって希望あふれるこの新たな風によって、停滞していた我々のモード界は復活を遂げた。★6


『アクトゥイル』登場


 西ジャワ州の州都バンドンで『アクトゥイル』が創刊されたのは、スハルトが第2代共和国大統領に正式に就任しておよそ1年が過ぎた67年の6月であった。既成の娯楽誌がこぞって新政権のプロパガンダを展開していたさなかに誕生したこの雑誌は、欧米のポピュラー・カルチャーを主なコンテンツとしながらも、政策プロパガンダとは一切無縁ないでたちで登場した。55年のアジア・アフリカ会議開催地となったバンドンは、植民地都市として建設されたコスモポリタンな気質の学園都市で、新秩序政権の樹立を支持する学生運動の中心地でもあった【図7】。この街に住む3人の音楽好きな若者たちが、彼らの一人の実家が営んでいた市内の小さな印刷所をベース・キャンプとして『アクトゥイル』を創刊したのだ★7
 
【図7】現在のバンドン市内 撮影=Agung Bakti Sarasa

 
 もともと『アクトゥイル』はバンドン一円の若者世代をターゲットにして制作されていた。当初のサイズは16×21センチ、わら半紙に活版印刷が施された全36ページのミニコミ誌で、創刊号には外国雑誌からの音楽関連記事の翻訳や欧米のポップスやロックの歌詞のほか、バンドン市内で週末に行われていた音楽フェスティバルの話題が掲載されていた★8。5000部の創刊号はただちに完売し、以降は隔週で発行された。

 その後まもなくスタッフの一人が西ドイツに留学し、滞在先のハンブルグから「『アクトゥイル』特派員」の肩書で情報発信を始めた。当時のインドネシアでは、海外の雑誌が欧米の音楽事情を知るための唯一の情報源だったが、国内に届くころには早くても発行から3、4カ月が過ぎていた。それに比べると、西ドイツからエアメールで送られてくる写真入りのレポートは、現地のテレビ番組や雑誌をソースとしたものでも十分に新しかった。そして、ほどなくして叶ったイギリスのポップ・シンガー、エンゲルベルト・フンパーディンクの単独インタビューがさらに反響を呼び【図8】★9、『アクトゥイル』は地方ミニコミ誌の枠を超えて全国に流通するようになった。
 
【図8】『アクトゥイル』に掲載されたエンゲルベルト・フンパーディンクのインタビュー記事

 
 政権交代でメディアの規制が緩んでいた当時のインドネシアでは、海外にアクセスできる富裕層の若者たちの間で、手持ちの洋楽レコードを披露するための、ハム無線を用いた「アマチュア・ラジオ」と呼ばれるミニ放送局立ち上げが流行するなど、欧米のロックやポップスがかつてない勢いで巷に流れ出していた。しかしながら当時、それらの楽曲の歌い手を、目で見ることのできるチャンネルは皆無だった。そこにあった需要に応えるように『アクトゥイル』は毎号ロック・スターのステージ・パフォーマンスの写真やカラー・グラビアを掲載し、ポスターを付録にした【図9】【図10】。著作権の意識が希薄であったので、多くは海外雑誌からの転載で、印刷の技術や経験のない若者たちが、ハサミや修正液を駆使し、試行錯誤で作り出していた画像はいかにも粗雑だった。それでも、それらのビジュアル情報が若者たちにとっていかに貴重であったかを物語るように、創刊から3年足らずで『アクトゥイル』の発行部数は当初の6倍にあたる3万部に増加し、70年には大手の工場に印刷が委託された。その後も発行部数は伸び続け、10万部に迫る数字を維持するようになる。そしてこの雑誌は、72年末には国内最大の発行部数を誇っていた総合誌『テンポ』を上回る12万部という、インドネシアでは異例の数字を記録して、紛れもないメジャー雑誌に成長する。
 
【図9】『アクトゥイル』のカラー・グラビア

 
【図10】『アクトゥイル』付録のポスター

地図にないコミュニティー


『アクトゥイル』はインドネシアに初めて登場した「若者向け娯楽誌」だった。政治的・社会的テーマを若者世代が論じる「若者向け雑誌」は独立闘争の時代から存在し、学生運動の指針にもなっていた。また、時事ニュースとともに映画や音楽、ファッションの話題も扱う一般の「娯楽誌」も、読者の年代を選ばないドル箱として大手各社から発行されていた。一方、「若者向けの唯一の娯楽誌」をキャッチフレーズに登場した『アクトゥイル』は、若者たちの好む娯楽情報をメインコンテンツとしたこと以上に、欧米に由来する娯楽情報の消費を「若者らしさ」の指標とし、読者を「若者世代」と呼ばれるひとつのカテゴリーとして主体化する媒体だった。

 70年の10月には、判型が当初の約2倍の21×29.7センチ(A4サイズ)に拡大された。発行部数の増加とともに読者の投書や投稿が急増したためである。あらたにフォトコンテストや小説、漫画の懸賞に、後述する「反逆の詩 Puisi Mbeling」コーナーなども設けられた。読者参加による誌面作りが進められたことで、各地に読者組織(AFC:Aktuil Fans Club)も誕生した。編集部のあるバンドンを皮切りに、72年までに、インドネシア国内だけでなくアムステルダムやシンガポールを含む30以上の都市に作られたAFCは、各地のアマチュア・ラジオ局やミュージシャンらの協力を得てコンサートや各種イベントを主催し、地域の読者たちを繋いだ。全国のAFCを繋ぐ「アレナAFC」のページでは、各地のさまざまな活動が報告された【図11】。とりわけ注目されていたのは、政権交代による洋楽の解禁以降、各地で編成されるようになったロック・バンドの動向だった。この読者のページを通じて地方のバンドが次々と全国的な知名度を獲得し、各地に「遠征ライブ」に乗り出す。それによってインドネシア全土を挙げたロック・シーンが誕生していたのだ【図12】。
 
【図11】「アレナAFC」のページ

 
【図12】東カリマンタン州のロック・バンド「グマス」のステージレポート

 
 それらの新たな人気バンドのパフォーマンスにはそもそも『アクトゥイル』がインスピレーションを与えていた。フリスが述べるように、ロックとは、電子機器の発達を背景とした音の増幅と視覚的な効果を特徴とする音楽だ★10。先進諸国間ではすでに、最新の映像技術や録音技術に支えられながら、音響と視覚によって複合的に表現される「ロック」が流通していた。だが、当時のインドネシアでは、『アクトゥイル』に掲載された海の向こうからのレポートや、まだめずらしかったカラー写真やポスターを通じて初めて本場のロックの興奮を想像した若者たちがほとんどだったのである。

『アクトゥイル』には、音楽情報のほかにも連載小説やコラム、投稿コーナーなど人気コンテンツがあった。これらの読み物の多くに共通していたテーマは「大人世代への異議申し立て」である。小説やコミックには長髪の「怒れる若者」が、大人世代への反抗に明け暮れるさまが繰り返し描かれた【図13】。読者による自由詩投稿のページもあった。寄せられる詩はいずれも大人たちを破天荒にこき下ろすものだった。「反逆の詩」と題されたこのコーナーを主宰していたのはこの雑誌のカリスマ編集者、レミ・シラドである【図14】【図15】★11。ヒッピー然とした長髪がトレードマークのシラドによる煽りたてが毎度誌面を盛り上げ、「反逆の詩」を目玉コンテンツにしていた。
 
【図13】若者の姿を描く、連載小説のイラスト

 
【図14】「反逆の詩」のコーナー

 
【図15】レミ・シラド(1969年)

 
 このような「大人世代への異議申し立て」は、当時世界を席巻していた「カウンター・カルチャー」のスタイルを踏襲していた。欧米に発する「カウンター・カルチャー」の嵐は、反資本主義やベトナム反戦を掲げる若者世代から大人世代への異議申し立てとして展開されたムーブメントで、ロックはそれを集約する表象として世界の若者世代に受容されていた。しかしながら、ロックに熱狂したインドネシアの若者たちが、反戦や反資本主義などのイデオロギーを同時に受容していたわけではなかった。インドネシアにおける「カウンター・カルチャー」は、そもそも政権交代後の資本主義システムが解禁したものめずらしい「舶来のぜいたく品」であったのに加え、レッド・パージの嵐が吹き荒れるなか、ベトナム反戦論を語れる空間はどこにもなかったからだ。

 それゆえ政治的・社会的メッセージが不在の『アクトゥイル』の「異議申し立て」は、ひたすら価値観やスタイルの違いを根拠に大人世代を「奴ら」と罵ることで、若い読者たちに「俺たち」の「新しさ」と連帯を確認するモチベーションをもたらした。また、「ロック」の定義、ジーンズや長髪をめぐる大人世代との摩擦など、若者たちの周辺にあるコンテンポラリーな話題をテーマとした誌上討論が長期にわたって展開された。読者と編集者が誌面という同一空間に集い、罵詈雑言や怒号を交えながら激論をとばしていたこの雑誌は、「新しい」ものを受容し、同世代的なシンボルを生み出すことを基軸に展開する、若者たちにとってガンパートのいう「地図にないコミュニティー」であった★12

「領土・領域」からの離脱


「新しさ」の追求こそが「若者らしさ」の証であるというコンセンサスのもとに、独自のジャンルを展開した『アクトゥイル』と先行雑誌との間にはギャップがあった。それは政変の前後を問わず、先行する雑誌のなかで繰り返し強調されてきた「インドネシアの個性」という言説の取り扱い、そして「領土・領域」というコンセプトに対する意識の違いである。

 アンダーソンが指摘するように、多民族からなるインドネシアの印刷媒体は、流通する領域全体に「インドネシアの個性」にまつわる言説を注入して均一に行きわたらせて、読むものを「インドネシア人」として主体化した★13。スカルノ時代から存続する既成の娯楽誌が、いずれも「インドネシアの個性」という標語を掲げて時の政権の政策プロパガンダに徹し、政局が転換するとただちにポピュラー・カルチャーの取り扱いさえ改めてきたのも、そうした役割が建前にあったからだ。
 ところが『アクトゥイル』において「インドネシアの個性」を称揚する言説や、政治的・社会的話題が取り上げられるのはまれで、むしろ排除されている。1967年の創刊当時に20歳前後だった若者を仮に「アクトゥイル世代」としてみよう。彼らは民族的出自にかかわらず、独立後の共和国で公用語と定められたインドネシア語で学校教育を受け、インドネシア国民としてのアイデンティティーを自明のものとして育った最初の世代であり、独立国家としての領域確保に心血を注いできた先行世代とは全く異なる歴史的体験を経てきた。

 このような体験の差から来る意識のギャップに加え、「アクトゥイル世代」の読者らが自らのアイデンティティーの源とする「新しい」文化体験は、それ自体がグローバルな越境性・脱領域性をひとつの特徴としていた。部数の拡大とともに、ロンドン、ニューヨーク、東京など10を超える世界の主要都市には、当地のインドネシア人留学生が特派員として配置された。彼らからは現地の最新情報に加え、「西ドイツのテレビで観た、アメリカの黒人歌手ジェームス・ブラウンによるパリ公演の衛星中継」といったような★14、エレクトロニクスとグローバル化がすでに進んだ先進諸国に所在して初めて可能なレポートが届けられた。これらのレポートは、衛星中継はおろか、地上波のテレビ放送でさえ普及する以前だったインドネシアの若者たちの感覚を「脱領域化」するのには十分だった。読者たちのアイデンティティーを「インドネシアの個性」に縛り付けようとする領土・領域の問題が排除されるのは必然ともいえた。

 さらに、「インドネシアの個性」そのものがやり玉に挙げられることもあった。スハルト大統領2期目の再選がかかった総選挙を控えた71年ごろ、都市部では当局による「ゴンドロン(長髪)狩り」が復活した。「ゴンドロン狩り」はスカルノ政権の末期にも「新文化帝国主義の取り締まり」のために行われていたが、今度は解禁されたカウンター・カルチャーに触発された若者世代の反体制化を戒める当局の示威行為であった。表向きには「共産党(PKI)再来の警戒」と「インドネシアの個性護持」を理由としていたこの取り締まりに対して、『アクトゥイル』は若者世代を代表する立場から反発を表明している【図16】。
 
【図16】「ゴンドロン狩り」を揶揄するコミック

 
 この時期、目玉コーナーである「反逆の詩」のページは「ゴンドロン狩り」を糾弾する過激な自由詩で埋められ、主宰者のレミ・シラドは「インドネシアの個性」を、「PKIの遺物」と罵った。このような言及は、たんに政府主導の民族主義的言説への反発というだけではなく、反共政策への間接的な合意表明でもあるということも見落としてはならない。しかし、それ以上に注目するべきなのは、「インドネシアの個性」に罵詈雑言をあびせてプロテストを煽り、PKIという「忌まわしい」言葉をあえて軽妙に繰り出すことが意識の反転を生み出し、「カウンター・カルチャーの気分」が作り出されていた、ということだろう。(後篇につづく)

画像提供=竹下愛



参考文献
[論文]
竹下愛『新秩序期インドネシアのポピュラー・カルチャー:若者向け娯楽誌にみる「新しさ」の構築』、大阪大学言語社会研究科博士論文、2011年。

[定期刊行物]
Aktuil 1967-1978
HAI 1978-1998
Selecta 1957-1972
Varia 1957-1973

 




★1 Karmila Machmud. “The Smartphone Use in Indonesian Schools: The High School Students’ Perspectives.” Journal of Arts and Humanities, vol. 7, no. 33, 2018, pp. 33-40. ResearchGate, doi: 10.18533/journal.v7i3.1354.(2021年12月14日にアクセス)

★2 スカルノは、西欧的な議会制民主主義がインドネシアの政治的腐敗と混乱もたらすのみであったことを強く批判し、自らの強力な指導のもとに、民主主義、社会主義を調和させた政治体制の確立を主張した。

★3 日刊紙 Sinar Harapan、 1964年10月24日。

★4 1960年国民協議会決定第2号。

★5 Varia, No. 407, 1966. なお「ゲスタプ」を表す「9.30運動」という呼称に対して「9.30事件」とは、クーデター未遂事件の後に展開されたスハルト陸軍少将による共産党の掃討作戦全般を指している場合が多い。

★6 Selecta, No. 279, 1967.

★7 『アクトゥイル』の歩みについては、元スタッフの各氏にヒアリングを行った。

★8 Aktuil, No. 1, 1967.

★9 Aktuil, No. 10, 1967.

★10 サイモン・フリス『サウンドの力』、細川周平、竹田賢一訳、 晶文社、1991年。

★11 レミ・シラド Remy Sylado(1945-)南スラウェシ州マカッサル生まれ。舞台、評論、ミュージシャンとマルチに活躍。19世紀のジャワの華人社会を描いた『茶売館 Ca Bau Kan』、19世紀のバンドンで娼婦に身をおとす白人女性を描いた『ジャワのパリ Paris Van Java』、1740年にジャカルタで発生した華人大虐殺を描いた戯曲『1740年10月9日 9 Oktober 1740』など、多くの歴史小説も記している。

★12 ゲーリィ・ガンパート『メディアの時代』、石丸正訳、新潮選書、1990年。

★13 ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』、白石さや、 白石隆訳、NTT出版、 1997年。

★14 Aktuil, No. 102, 1972.

竹下愛

大阪大学大学院言語社会研究科単位取得退学。2011年に同大学院で博士号取得(学術)。東京外国語大学非常勤講師。専門はインドネシアの現代文化・文学。
1995年に国立インドネシア大学文学部に留学。以後年に二度はジャカルタを訪れ、下町のコミュニティーで地元の人々のお世話になりつつ生活。映画、ノベル、雑誌など、ポピュラー・カルチャーのテクストの編まれ方、消費のされ方、グローバル化やデジタル化なかでの変容を日々観察している。
訳書にアユ・ウタミ作『サマン』(木犀社)、共著に『インドネシアのポピュラー・カルチャー』(めこん)、『東南アジアのポピュラーカルチャー』(スタイルノート)など。
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