異常と批評の奇妙な邂逅──小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性──SF作家、哲学と遭遇する」イベントレポート

シェア
ゲンロンα 2022年1月25日配信
 2021年10月にハヤカワ文庫から刊行された異常論文集『異常論文』。本イベントはその刊行を記念して2021年11月10日ゲンロンカフェにて行われ、シラスおよびニコニコ生放送にて配信された。
 登壇者は『異常論文』の編著をつとめたSF作家の樋口恭介、異常論文「SF作家の倒し方」を寄稿したSF作家の小川哲、批評家・作家の東浩紀。三者による鼎談により浮き彫りになったのは『異常論文』の異常論文集としての“異常さ”であった。
 以下イベントの様子をかいつまんでレポートする。
 

異常論文の成り立ち


 イベントは、Twitter上のやりとりを起点に編まれた、『異常論文』の成り立ちの紹介からはじまる。なお『異常論文』の「異常」な生成経緯についてはゲンロンαにて樋口自身の言葉で語られている。(樋口恭介「異常論文のこと」)

 上記記事で説明される通り、そしてイベントでも言及された通り「異常論文」というジャンル名は「異常独身男性」や「異常中年男性」といったネットミームをもとにした樋口による造語かつ固有名詞であり、その字面から直接想定される「異常な論文」「論文SF」よりも広い意味をもっている。それが『異常論文』の異常さの所以である。

 ネットミームから生まれた『異常論文』は、刊行されるとSFやアカデミズムの外まで届く大きな反響を呼び、スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義からも激賞されたという。では、「異常論文」の定義とは何か?

 
 
 
 樋口が語ったところによれば、それは「虚実を問わず思弁がハンパなく溢れ出している散文」である。ここで「散文」という言葉が選択されている通り、それは「小説」や「論文」といった枠組みよりも広い範囲を指している。じっさい樋口は、異常論文は「小説的でなくてもよく」「論文的でなくてもよい」とする。つまり異常論文は「小説でありかつ論文でもある」ような、双方の重なる作品を指すのではない。この定義を聞いた小川は、それはむしろ小説や論文といった既存の言葉では定義されてこなかった名前のない領域に与えられた名前なのではないかと応答した。樋口もこれに同意し、「異常論文」は批評にもまた近いジャンルでもあると付け加える。

 このかなり広い定義は、小説や論文や批評をあまり区別なく読んできたという、樋口自身の小説観・論文観・批評観をかなり反映していると言えるだろう。おそらく樋口を編者としなければ(Twitter発という経緯から言っても)『異常論文』は生まれなかっただろうし、仮に生まれていたとしてもまったく異なる内容になっていたはずだ。それゆえ同書の特殊性は樋口自身の特殊性に支えられている。

SFとビジネスとの距離


 こうした話題を受け、東が樋口の仕事の現状、なかでも「SFプロトタイピング」について問題提起したことで、議論は急激に展開した。SFプロトタイピングとは、まだ実現していない未来像をSF的想像力により試作(プロトタイプ)し、それをもとに議論を行うためのメソッドであり、ビジネスの領野でも注目を集めている。樋口もまた多くのSFプロトタイピング案件を手掛けており、筑摩書房より『未来は予測するものではなく創造するものである』という関連書を刊行している。

 東の問題提起は大きく3点ある。ひとつ目は、SFとビジネスの連携であるSFプロトタイピングが、70年代から80年代にかけて勃興したセゾン文化やニューアカデミズムと同じ道をたどるのではないか、という危惧だ。

 
 
 
 東は浅田彰を例に挙げ、文化とビジネスとの連携に警鐘を鳴らす。浅田の影響力が当時と比較して低下した(と見える)ように、資本主義や巨大ビジネスに過度に接近した文化人は、消費された末に見捨てられる可能性がある。文化とビジネスの連携において、最終的に損をするのは作家や思想の方なのではないか。

 これはニューアカデミズムの後続世代として登場し、時代の趨勢を見てきた東ならではの観点であり、本イベントの座組によって生まれた独自の視点と言えるだろう。

 ふたつ目の問題提起はSFプロトタイピングや異常論文の位置づけに関するものである。樋口は自身の活動をニッチなものとして捉えているが、果たしてほんとうにそうか、という問いだ。樋口は自身の仕事を、大きな物語を復権する試みではなく、大きな物語のすきまにあるまだ反映されていない欲望をすくうものであると述べる。たとえば「異常論文」という言葉をつくることで自分は、「小説」にも「論文」にも回収されない「思弁が爆発している散文」の魅力の受け皿を作り出した。そうしたニッチを後押しするものとして人文学やSF的な想像力があるのではないか、と。これに対し東は半分同意しつつも、むしろ20世紀は異常論文が多すぎる時代なのではないかと反駁した。東によれば、レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』など近年注目を集める思想は、まさに「思弁が爆発している散文」であり、「異常論文」に近いものであるからだ。

 これはみっつ目の問題提起にもつながる。ビジネスの領域で歓迎され産業政策にも取り入れられるカーツワイルの思想や、Meta社へと改名したFacebook社など、ビジネスの領域にSF的発想がとりいれられる事例は多く見られる。しかし、そうした思想は地に足がついていないか、または過去の反復になっているのではないかという指摘である。

 小川はこの論点に重ね、技術の進歩への注目に偏重したSFプロトタイピングの問題点を指摘する。たとえば過去のSFでは、映話(映像通話)が未来の技術として描かれがちだった。だが技術的にも価格面でも映話が現実的になった現代において、それらは実際にはあまりつかわれていない。小川はその理由を、顔の見えない電話や情報量の少ないチャットのほうが、コミュニケーションに都合がよかったからだと分析する。

 この例が示すように、技術の進歩と人間の需要は必ずしも一致しない。しかしビジネスにSF的視点を取り入れようとすると、どうしても技術を進歩させることをスタート地点として考えてしまう。だが、そうした技術やサービスを人間が実際につかうか、そしてそのとき人間がどうなるかという、人間に焦点をあわせた視点がまずは必要なのだと小川は語る。これを彼は、「道徳の進歩への視点」と表現した。

 ここに至ってSFプロトタイピング否定派──東・小川──とSFプロトタイピング肯定派──樋口──という構図がぼんやり浮かび上がってきたかに見える。が、イベントが進むにつれ、事態はそう単純ではないことがわかってくる。

ディック的・ギブスン的


 この構図が崩れたのは、東がSF的な奇想のふたつの類型を示したときだった。作中に出てくるガジェットやギミックが「開発できそう」なウィリアム・ギブスンと、「開発できなさそう」なフィリップ・K・ディックという対比である。

 樋口が指摘したように、この2分法は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」等で東が以前から使用しているものである。その文脈を加味するなら、前者が「開発できそう」なのは、たとえ未知の技術であっても、それを支える空間などは現実世界と似たものとして表現されるからである。それに対して後者が「開発できなさそう」なのは、むしろそのような現実認識を成り立たせている要件を問い、混乱させる技術であるからだと整理できるだろう。そして基本的にはディック的なものこそが東が評価する奇想である。

 
 
 
 東はさらに前者──ギブスン的な奇想を「役立つ」奇想だとし、SFプロトタイピングが(SF的想像力を「役立てる」ことを志向する以上)ギブスン的な奇想に属するのではないかと問う。

 これに対し樋口と小川はともに、SFプロトタイピングにも幾つかの流派があるとする。そのうえで、たしかにギブスン系SFプロトタイピングもあるものの、自分たちはディック系のSF作家だと位置づけるのだ。

 じっさい、樋口の編んだ『異常論文』を見ても、収録されている異常論文にはディック的な作品が多い。たとえば鈴木一平と山本浩貴による異常論文「無断と土」は、VRホラーゲームという「開発できそう」な技術を扱っているものの、その興味はあきらかに、音によってプレイヤーの多重化を生み出し「不気味なもの」を生成するという、ディック的奇想に属する。こうした『異常論文』のディック的な性格は、編者である樋口の立ち位置に端を発していると言えるだろう。

 これまでに挙げられた問題提起も多くは、ギブスン系SFプロトタイピングにヒットするものであった。したがってディック系を自認する樋口は、東・小川による問題提起に真正面から対立する訳でもない、微妙な立ち位置とならざるを得ない。結果としてイベントでは、樋口の態度が煮え切らないものとして映り、東と小川が樋口をけしかける場面も見られた。

東浩紀の倒し方


 このようなSFをめぐる議論と並行して行われた、小川・樋口という東の熱心な読者による、東浩紀観の衝突やすり合わせもこのイベントの見どころのひとつだった。

 小川・樋口はともにハヤカワSFコンテスト大賞を受賞してデビューしており、その審査員のひとりが東である。加えて小川は東大表象文化論における後輩でもあり、樋口はデビュー作『構造素子』において東の『クォンタム・ファミリーズ』から直接の影響が伺えるほど熱心な読者でもある。しかし二人は、東の文章に魅力を感じる部分が異なっていた。

 小川は東浩紀『存在論的、郵便的』を読むことで、現代思想の本が読めるようになったと語る。小川にとってポストモダンについて書かれた文章は、いずれも理解不能な電波ポエムのように見えていたのだと言う。しかし東はそれを明晰に、意味が一意に取れるように読み解く。小川はこうした、東の出自に由来する科学哲学的な書き方によって、哲学書を読む際には著者がなにを問題としなにを切実に問いたいかとを引き受ける必要がある、とわかったのだと述懐した。

 
 
 

 一方で樋口は東の文体や文章構成における魅力を語る。東の文章はAメロ、Bメロ、サビ、といったポップスやアニソンのような音楽的な構造をしており、散文にあらわれる音楽性こそが魅力だとするのだ。互いに作風の異なる小川と樋口は、東の異なる2側面のフォロワーであり、異なる影響を受けつつ自身のスタイルを構築してきた作家と言えるだろう。

 その二人が、小川の『異常論文』収録作「SF作家の倒し方」になぞらえて、東浩紀の倒し方を議論する一幕もあった。

 小川はウェブでの炎上を仕掛けることが有効ではないか考えたが、東はこれを否定する。炎上はこれまで何度も経験しており、対処もできるためだ。一方、樋口がひねり出したのは「監禁」という方法だったが、それが現実的にむずかしいのは言うまでもないだろう。これらを受けて東自身の口から語られた「東浩紀の倒し方」はじつにシンプルなものだった。曰く。それは東と対話をしないことである。

 東はそこに、小説と批評の「コントロール権のありかた」のちがいが関わっていると語った。小説は出した時点で作者の手からはなれ、読まれ方をコントロールできない。したがって小説を書く作業はつねに孤独なものである。一方で批評や評論は出したあとでも評者の手からはなれずコントロール下に置かれつづけ、書いたテクストをもとに他者と対話ができる。東は自身の経験から、自分の思考が他者との対話を前提とする批評に特化したものだと語る。逆に言えば、他者が居ないと頭が働かないため、小説の孤独さに向いていない。したがって東と対話せず、東が話すことに適当な応答を繰り返せば、東は対話を通して思考を展開することができずに、そのうちノイローゼになる──というのが本人による「東浩紀の倒し方」であった。

境界的なありかたと、そのむずかしさ


 さて、9時間という超長時間に及んだこのイベント全体を通して感じたのは、樋口恭介という作家の境界的な奇妙な立ち位置と、それに起因する『異常論文』の異常さであった。

「異常論文」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは「異常な論文(形式の小説)」、先の言葉で言えば「小説でありかつ論文でもある」ような作品だろう。たしかに『異常論文』のなかにはそうしたイメージに合致する作品もあるが、そうではない作品も多い。それは前述のように、編者である樋口の定義する「異常論文」がもっと広い概念であるからだ。

「小説的でなくてもよく」「論文的でなくてもよい」異常論文。この広い定義には樋口自身の経験が反映されている。樋口はデビュー以来、自身の小説に対し「これは小説ではない」といった反応をうけてきた。そこで、狭い小説観に収まらない自身の作品や、樋口が魅力を感じる他人の作品のために用意されたのが「異常論文」という名前であった。その意味で『異常論文』の異常さは、樋口自身のその境界的な立ち位置によるものだと言える。

 イベント中盤までの樋口の姿勢が煮え切らないものとして東・小川に映ったのも、そうした彼の境界的なありかたに起因しているだろう。イベントの最中にたびたび流れた不穏な空気は、むしろ『異常論文』の異常さをとらえるヒントになるという意味で、ポジティブに受け止められうると感じた。

 一方でそうした境界的なありかたをつづけることのむずかしさが語られたイベントでもあった。

 たとえば東はこれまでさまざまな分野の境界で仕事をしてきている(そのことは小川・樋口というタイプの異なる2人の作家が東を介して架橋されていることからも伺える)が、そうした仕事は評価がされにくいと本人は語る。どちらの領域からも「よそもの」とされ、評価の対象外とされたり無視されることがあるからだ。こうした困難は『異常論文』がリアルタイムで直面する問題でもありうるし、また同じような立ち位置にいる樋口が、これから遭遇する問題でもあるだろう。

 イベントの終盤、小川は異常論文というフォーマットでしか生まれないものがあると見解を述べ、樋口はそうしたものを生み出し続けるフォロワーが現れればよいと語った。また小川から樋口に「おもしろい小説を書け」と熱いアドバイスが飛ぶ場面もあった。異常論文というジャンルまたは樋口恭介という作家が、これからその困難にどう立ち向かい、なにがうまれてくるのか。それはSF的想像力がさまざまな分野との関わりかたを探るうえで待ち受ける困難を占う、注目すべき未来であると思えた。

 



 ここでは異常論文に関わる話に絞ったが、イベントの話題は多岐にわたった。ポリティカルコレクトネスやメタ認知と知性。黒塗り等の検閲から『三体Ⅱ 黒暗森林』の解決とシラスの関係など、本レポートに収められなかったさまざまな話があり、気付きがあった。

 放送時間の延長後、アルコールが解禁され急激に加速した樋口が本領を発揮するさまも本イベントのおおきな見どころのひとつだろう。かつて樋口が東に送ったメールが発掘されるという熱い出来事もあった。そうした模様はぜひ動画を確認されたい。(名倉編)

 
 
 

 シラスでは、2022年5月10日までアーカイブを公開中(※)。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
 ※小川哲さんの小説『君のクイズ』(朝日新聞出版)が日本推理作家協会賞〈長編および連作短編集部門〉を受賞したことを記念して、視聴期限を2023年11月16日まで延長し再公開しました。(2023.5.16更新)
小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性──SF作家、哲学と遭遇する」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20211110/
 

名倉編

京都府出身。〈ゲンロン 大森望SF創作講座〉第1期受講生。『異セカイ系』で第58回メフィスト賞を受賞しデビュー。
    コメントを残すにはログインしてください。