「文化」を語ることの不可能性と可能性──磯野真穂×さやわか「そもそも、文化ってなんだろう──文化人類学とカルチャー批評から考える」イベントレポート

ゲンロンα 2022年3月29日配信
 昨冬、ゲンロンカフェでダイエットとルッキズムについて語り合い、好評を博した磯野真穂(人類学者)とさやわか(物語評論家)。2021年11月、そのふたりがふたたび邂逅した。今回論じるのは、ズバリ「文化」について。学問研究と批評・評論それぞれのフィールドにおいて、「文化について考える」とは何を意味するのか。イベント名に恥じない「そもそも」を皮切りに、ふたりの対談は「文化」という言葉がもつイメージの変化をさぐり、また研究・批評そのものの限界を探る議論にまで発展した。笑いの絶えない約3時間の対談から、その一部をレポートする。(ゲンロン編集部)

文化は定義できるのか

 イベント冒頭でまず話題になったのは、「文化」という言葉の多義性だ。さやわかは、文化をほぼ「人間の社会的な活動全般」と広く捉え、批評活動をおこなっている。だが、「文化的」「文化人」「サブカルチャー」「ポップカルチャー」といった言葉の一般的な使われ方からもわかるように、多くの人は自らが属する文脈に合わせて、「文化」という言葉を限定的な意味で用いている。さやわかの「カルチャー批評」に対しても、「文化」概念をより狭く考えている人々からの「そんなものは文化ではない」といったコメントが寄せられることがあるそうだ。

 磯野は、E.タイラーやW.H.グッドナイフなどの文化人類学者による、よく知られた文化の定義をいくつか紹介した。いずれも説得力があるように見えるが、習慣と学習の境界はどこにあるのか、人間と動物の差異とはなにかなど、どうしてもあいまいな部分が残ると磯野は苦笑する。「文化を定義することは不可能ではないか」ということこそが、長年にわたる文化人類学の探求がたどりついた現在地なのだ。

 文化を定義するということは、つまり、文化とそれ以外を区別することだ。しかし、どんな事象であれ「これは文化ではない」と言い切ることは難しい。その点をラディカルに追及するあまり、近年、文化人類学の分野では「文化」という言葉をつかうこと自体が避けられていると磯野はいう。だが、多少問題をはらんでいたとしても、「文化」という言葉でこそ語れるものもあるのではないだろうか。「文化」という言葉の功罪をめぐって、ふたりの議論は続いた。ぜひ動画本編を視聴し、盛り上がるコメント欄の雰囲気とともに堪能してほしい。

 

人間を表象する言葉からわかること

 イベント後半では、人間の人生や肉体を表象する言葉やその変遷について議論が交わされた。たとえば「親ガチャ」という言葉がある。どんな両親のもとに生まれるかによってどんな人生になるか決まってしまうということを、スマホゲームに登場する「ガチャ」に例えた表現だ。

 磯野は、この表現には「時間」が流れていないのではないかと指摘する。ゲームでは、ガチャを回し、アイテムがでてきた瞬間に当たり外れかが決まってしまう。つまり、親子関係が時間の経過によって育まれるものであるという本質が、「親ガチャ」という言葉からは抜け落ちてしまっているというのだ。「親ガチャ」は自己責任論を批判する文脈では役に立つ言葉かもしれないが、人生の不確定要素やリカバリーの可能性について考えられていない。

 IT社会の用語が人間やその行動を表現するために使われる例は、他にもたくさんある。「リセット」や「キャンセル」、「ブロック」などもそうだろう。SNSでの炎上や激しいバッシングに代表されるような、実在の人間を「キャンセル」し「リセット」するかのような行動様式も、テクノロジーがつくりだした発想に人間の生き方が影響されている例ではないだろうか、とさやわかも応答する。

 人間の行動様式がいつの間にかテクノロジーに影響され、そのせいで他者とのコミュニケーションがうまくいかなくなっている。こうした状況にどう対処すればよいのだろうか。

 磯野は、そういういった現象全体をあえて「テクノロジーがつくりだす文化」といった形で名指すことで、知らぬ間に生じていた分断に目を向けることができるのではないだろうかと提案した。「文化」という言葉によって人類の行動様式を相対化し、照らし出すことこそが、文化人類学が本来得意としていたアプローチだったはずだ。

 

多様性の「つらさ」

 イベント終盤の質問タイムでは、視聴者からのメッセージを受け、「多様性」がテーマとして取りあげられた。さやわかは、いまの日本では「多様性」という言葉が喚起するイメージの範囲が狭い、ということを指摘した。人種や性だけでなく、年齢や職業、学歴など、本来はあらゆることが多様性の基礎となるはずだ。多様性を重んじるならば、自分を不快にする誰かの意志や個性も認めなければならない場面があるだろう。

 だとすると、多様性は心地よいものとは限らない。そう指摘すると、多様性の良さや意義を否定していると捉えられ、反発されてしまうリスクもある。では、どのように多様性の実践の難しさや複雑さを指摘すれば良いのか、それが現在さやわかが直面している困難なのだという。

 磯野は、人間は本来、多様性が苦手なのではないかと感じるという。文化人類学者として接してきたさまざまなエスノグラフィー(民族誌)には、人々が「自分と違う人たち」とは深く関わろうとせず、ギリギリのところでやりとりをする様子が描かれている。人間には、誰しも許容できない一線があり、すべての人がつながることはできない。そのうえで多様性を実践していくためには、上手に「すれ違う」必要がある。叩いたり差別したりするのとは違う、「すれ違いの作法」が必要とされているのではないか、と磯野は結論づけた。

 
 

 紙幅の関係で本レポートでは触れられなかったが、文化にまつわるさまざまなクリシェ、医療の限界、ジェンダーやエイジズムなどについて、幅広い観点から示唆に富む議論が交わされた。ぜひ動画でご確認いただきたい。(堀安祐子)

 

 シラスでは、2022年5月13日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。

磯野真穂×さやわか「そもそも、文化ってなんだろう──文化人類学とカルチャー批評から考える」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20211113/

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