善悪を越えた「正義」のために──梶谷懐×東浩紀「アジア的愚かさと公共性について」イベントレポート

ゲンロンα 2022年4月5日配信
 中国を専門とする経済学者の梶谷懐は、2021年7月から10月にかけて、自身のブログで以下3本の記事を発表した。
・「中国思想における「絶対悪」と米中対立」2021年7月25日(https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/07/25/004015
・「「悪の愚かさ」と「アジア」への向き合い方」2021年8月15日(https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/08/15/155059
・「『理大囲城』と「公平な観察者」について」2021年10月1日(https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/10/01/013000
 これらは、中国思想や満州をめぐる東浩紀の言説に応答するものだ[★1]。そこで梶谷は、「悪の愚かさ」や「公共性」に関する東の問題提起を、アジア/中国の視点から捉え直している。これらの記事をきっかけに、2021年11月、ゲンロンカフェでふたりの公開対談が行われた。6時間にわたり繰り広げられた濃密な議論の模様をお届けする。

花森安治-吉本隆明-東浩紀という隠れた系譜

 梶谷と東はこの日が初対面。互いの仕事に関心を持ちつつも、直接対話をする機会を持たなかったふたりは、まずは梶谷の来歴をめぐって盛り上がった。詩人の父と仏文学者の母のもとに育ち、小学生時代の愛読書は『暮しの手帖』。高校時代には、吉本隆明ファンだった父の影響で『「反核」異論』を読み衝撃を受ける。吉本が発行した雑誌『試行』も折にふれ読んでいたという。

 一方の東は、吉本の批判者であった柄谷行人と浅田彰の影響を強く受けている。こうした背景を持つふたりの邂逅は、一見すると不思議に思われるかもしれない。しかし梶谷は「『暮しの手帖』の花森安治と、吉本隆明、東浩紀には繋がるものがある」と言う。その共通点は、独立出版および思想の大衆化である。戦後の『暮しの手帖』から続く生活と思想の距離を近づける運動の、現代における実践者が東だという見解を梶谷は示した。東はこれを受け、自分は吉本からはあまり影響を受けたつもりはないが、未来から振り返ればそのように位置付けられるだろう、と同意した。
 

 
 

「悪の愚かさ」とは何か

「悪の愚かさ」とは何か──本題はそこから始まった。これは東が、第二次大戦期に中国の黒龍江省ハルビンで人体実験を行った関東軍防疫給水部本部、通称七三一部隊を論じるなかで用いた用語だ。彼らの人体実験は、確とした必要性も計画性もなく行われたことが知られている。かといって、頭のおかしい極悪非道な人間が突発的に行なったわけでもない。このように無意味に、無計画に、無自覚に為される悪の特性を、東は『ゲンロン10』収録の論文「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」で「悪の愚かさ」と呼んでいる。

「悪の愚かさ」は人々に記憶されにくい。無自覚に悪を為す加害者はそもそもそれを記憶しないし、他方で被害者は、為された悪に過剰な意味づけをしてしまうからだ。被害者の側からしてみれば、加害が無意味に行われた事実が何より耐え難い。壮大な計画のもとに殺されたのであればまだしも納得がいくゆえに、被害者は過剰な物語化を施した上でその悲劇を受けとめる。ハルビンにあるミュージアム「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」では、当時の日本軍の指揮系統を大きな図にして示し、七三一部隊の人体実験を天皇の命令のもとに行われた壮大な計画の一部として展示している。このように加害が意味づけられることで、その無意味さ=愚かさの記憶は消えてしまうという。

 この問題提起に対して、梶谷は「自分が影響を受けた加藤典洋も、被害者の物語化による白黒はっきりした戦争犯罪の語り方に対して違和感を持っていた」と同意の姿勢を見せる。東は重ねていまの世の中で「悪の愚かさ」を語ることの難しさを指摘した。「現在は、被害者の立場からしか悪を語れなくなっている。そうしないことは二次加害だと見做されてしまう」。ゆえにますます物語化は進み、悪は単純化されていくのだ。

「現在形の歴史」の罠

 被害者の立場からしか悪を語れなくなっている──東の言を受けて梶谷は、その風潮を後押しする言説として、中国思想史研究者、溝口雄三の「現在形の歴史と、どう向き合うか」(『中国の衝撃』東京大学出版会、2004年)を紹介した。同稿で溝口は、被害者の感情に向き合い、歴史を「現在形」で捉えることの大切さを説く。たとえば、中国は南京大虐殺の被害者数を30万人と主張しているが、これは過去の実際の死者数よりむしろ、日本に対する現在の「苛立ちの度数」を表している。したがって数字の正誤よりも人々の感情にこそ向き合うべきだと溝口は言うのである。

 これに対して異を唱えたのが、実証史学の研究者、古厩忠夫だった。彼は「感情記憶」と「事実記録」を対立させてはならないと主張し、被害者の感情に寄り添った「現在形の歴史」に警鐘を鳴らす。被害者の感情を強調しすぎると、善悪の二項対立を生み、逆に議論が閉鎖的になってしまうからだ。

 東は古厩の立場に同意を示し、現代は「実証的な数字にこだわること自体が二次加害だとされ、政治的な立場の表明だとみなされてしまう」状況にあると分析をする。そのような単純な構図に陥ると、知とは何かという根底が揺らいでしまう。

 善と悪、あるいは加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で戦争の歴史を考える必要がある、と東は強調する。では、それはいかに可能なのか。ふたりは文学にその可能性を探っていく。

「アジア性」をいかに捉えるか

 梶谷は、七三一部隊をテーマにしたケン・リュウのSF短編「歴史を終わらせた男」(『宇宙の春』所収。早川書房、2021年)を紹介し、過去の戦争犯罪を客観的に裁くことの不可能性を突き付けていると評価した。加害と被害が渾然一体とした出来事をそのまま描き、過去を理解することの難しさそのものを読み手に手渡してくれるものが優れた文学である、と。

 つづいて村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社、1994/1995年)が話題となった。東は『ゲンロン10』の論文で、『ねじまき鳥』の「井戸に潜る」という行為を、善悪の二項対立ではない仕方で戦争の記憶と向き合うことのメタファーとして捉えていた。

 

 
 

 梶谷はそれに同意する一方、『ねじまき鳥』における蒙古兵だけなぜかステレオタイプに描かれていることに注目した。

『ねじまき鳥』には、蒙古兵が生きた日本兵の全身の皮膚を剥いで殺していくという残酷で印象的なシーンがある。この「皮剥ぎ」は「アジア性」の象徴として書かれているという。村上自身がエッセイ「ノモンハンの鉄の墓場」(『辺境・近境』新潮社、1998年)の中で、「皮剥ぎ」シーンの舞台となっているノモンハンのハルハ河を訪れたときのことを、次のように書いている。

「彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの『効率の悪さ』を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない」。

 村上は、非効率的で非合理的な暴力性を「アジア性」と呼ぶ。これは、柄谷行人が言うところの「狂気めいた暴力性を持つアジア」(『終焉をめぐって』、福武書店、1990年)を連想させる。しかし、いざその「アジア性」を描出しようとすると、村上でさえステレオタイプにしか描けない。

 梶谷はその理由を、自己認識としての「アジア」と向き合い言語化するのが如何に難しいか、ということの表れだと捉える。村上は、中国戦線で戦った父親のことを念頭におき、中国人とフェアに向き合おうとする作家だ。だから村上の作品には中国人が多く出てくる。彼ら自身はステレオタイプには描かれない。しかし皮肉なことに、その感性を内面化して「アジアの暴力性」を描こうとすると、『ねじまき鳥』の蒙古兵のような紋切り型になってしまうのではないか。

「僕たちにとってアジアは影のようなものだ」とうなずく東は、現実の議論でも様々な齟齬が生じるのだと話を引き継いだ。日本人はヨーロッパ的な原理とアジア的な感性の双方を身につけている。表向きはヨーロッパ的な議論をしていても、裏側にアジア的な含意を汲み取ろうとするので、表面だけ見ていてはやり取りが成立しない。お互いがお互いの言っていないことを読み合うようなアジア的感性を身につけていなければ、日本においては説得的な議論ができないのである。

中国における「人民」と「公」

 このイベントは「アジア的愚かさと公共性について」と題されていた。後半は「公共性」へと重心が移された。

 まず論題に上がったのは、中国における「人民」の概念についてである。梶谷の解説によれば、毛沢東は次のように「人民」を定義した。曰く、抗日戦争中は日本への協力者が、国共内戦時は国民党に近い市民や企業が、そして中華人民共和国成立後は「社会主義建設を敵視し、破壊する全ての社会勢力」が「人民の敵」だとされた。つまり、絶対的な権力者によってまず「人民の敵」が名指しされ、「人民」は「人民の敵ではないもの」として、否定神学的に定義されたのだ。

 毛沢東時代は「人民」という言葉が頻繁に使われていたが、改革開放路線以降には「人民の敵」を名指ししなくなった。かつてそう名指された資本家も、国を富ませ人民に利をもたらすのだから「人民の敵」ではないとされた。アリババのジャック・マーでさえ共産党に入党している。

 ところがここ最近の中国では、ふたたび「人民(の敵)」という言葉が頻繁に口にされるようになったという。それはコロナ禍に関連している。習近平は「人民戦争」という表現をしばしば使う。ゼロコロナ戦略を掲げる習近平の偉大さを、毛沢東時代に日本住血吸虫症を撲滅したときの輝かしい勝利の記憶と重ねてアピールするようなキャンペーンも行われているようだ。ここで「人民の敵」とされているのはウィルスであり、国民の中に敵をつくっているわけではない。「人民」の中には、コロナ禍でさらなる富を築いた巨大IT企業の経営者も、その巨大産業が生み出すギグワークに疲弊させられる労働者も含まれている。

 しかしそうではないケースもある。2020年の終わり頃からIT企業を叩き始めた事例だ。独占禁止法に引っかかると言っては罰金を課したり、教育の加熱を防ぐという理由でオンライン教育を一斉に禁止したり、アリババやテンセントに対して巨額の寄付を出させたりしている。言うとおりにしないと「人民の敵」にするぞ、と脅しをかけているのだ。

 以上の事例からも明らかなように、中国の社会は「公平性」を重視する。日本においては「公」という言葉は、「私」の対立概念としてある種の領域性を意味する。しかし中国において「公」とは、「公平性」を表す概念であるという。それゆえ、公平性を求める「公」の感覚と「権威主義体制」は矛盾しない。公平な治世が行われていれば、人民は大人しく権力に従うのである。これこそが、中国において「権威主義体制」と「公共性」が矛盾なく結びつく所以である。

「功利主義的監視社会」をいかに批判するか

 それゆえ中国について、「人権意識が低いために監視国家になっている」と解釈するのはやや的外れかもしれない、と梶谷は指摘する。中国の人々は、功利主義的に監視社会を支持している。梶谷と高口康太の共著『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書、2019年)で問題提起されているように、中国には監視社会的な公共性というものがあり、これは西洋の監視社会の問題とは別に考えなければならない。

 中国はこれからもデジタル監視社会へと向かっていくだろう。梶谷は東の『一般意志2.0』(講談社、2011年)を引きつつ、「デジタル・レーニン主義と『一般意志2.0』の世界は、実はすごく近いかもしれない」と言う。東自身も、情報技術を駆使して絶えず人民の意志をチェックしつつ「なんとなく良きに計らう」統治は中国共産党に近いと認める。そのようなパターナリズムを肯定する同書の理論をどう修正するかが自身の今後の課題だ、と東は述べた。

 その第一歩として東は、今の時代に必要なのは功利主義批判だろうと述べる。近年功利主義の人気は高まっているが、コロナ禍のようにシミュレーションがうまく機能しない状況下においては、その罠が明らかになる可能性がある。2、3年後の近未来を想定して功利主義的な判断を下したとしても、結果的に誤った判断だったということが後々判明するかもしれない。

 たとえば中国のゼロコロナ戦略は短期的には成功したように思われ、中国型の「功利主義的監視社会」の有効性を唱える向きもあるが、長期的にそれがうまくいくとは限らない。中国は「コロナを押さえ込むことに成功した」という前提で社会制度の設計を進めているが、他の国々は「コロナは押さえ込めない」ことを前提に社会制度を組み直している。両者が存在する世界では、長期的には権威主義体制の弱さが露呈する場面も出てくるだろう。自由や人権を尊重する社会の方がうまく機能するという結論が導かれる可能性がある。

「中途半端なコミットメント」の効用

 その後、論題は正義論と制度設計へと移った。梶谷はアマルティア・センの『正義のアイディア』(明石書店、2011)を紹介した。センは、カントやロールズを「先験的制度尊重主義」と呼んで批判する。これは「公正」や「正義」の本質を定義し、その本質に適うような社会を実現しようとする態度だ。このような正義論は現実的には機能しない場合が多い。そこでセンは、正義を「より良い状態を目指す態度」として再定義する。ある状況を比較して、少しでも改善されていれば、それは肯定されるべきなのだ、と。

 では、その「より良い」状態とはどのような基準で判断されるのか。センが依拠するのは、アダム・スミスの「公平な観察者」という概念である。梶谷は、センのこの議論を引き継ぎ、公平な観察者たることを可能にするのは、社会に対して「中途半端にコミットメントする態度」ではないかと提案する。

 これに対して東は、次のように応答する。「中途半端なコミットメント」という概念は、イベントの前半で取り上げた、二項対立ではなく三項鼎立で考える姿勢と深く関係しているのではないか。ここで言う中途半端さとは、0と1の間の0.3や0.5を意味するものではない。0でも1でもない、数字に還元されないものこそ、二項対立を乗り越えて機能する第三者なのである。

 そのような立場は、具体的にはどのようなものか。東は、ランダムに連れて来た人、という表現を使って説明する。ランダムに連れて来た人のひとりひとりは、確かに公平ではないかもしれない。しかし、公平な一人を探そうとすると、厳密な0.5を求めることになり、カント的な正義論に逆戻りしてしまう。「中途半端なコミットメント」による「公平な観察者」を実現するためには、確率的な原理を必要とするのだ。

 

 
 

 イベントではこの他にも、公共性を持続させるための制度設計や、ドキュメンタリー番組『理大囲城』の紹介、2019年の香港民主化デモの問題点や2010年代と1960年代の学生運動の類似性など、ここでは紹介しきれなかった大小さまざまなテーマが論じられた。

 とくに最後の質問コーナーでは、1時間にわたって、よりアクチュアルな問題に接続した議論の掘り下げが行われた。市民と人民の違いとはなにか、いまの中国のナショナリズムの高まりをどう見るか、アジア的な公共性とコロナの防疫対策の関係性など、アジア/中国の「公共性」をめぐる問題群に対して多角的な見解が語られ、最後まで見応えがあるイベントとなった。

 

 梶谷は東の2018年のトークイベントを見てブログ記事の第一弾を書いた。その後、ツイッター上での東からの反応をきっかけに、「悪の愚かさについて」の論考の存在を知り、その議論の重要性を認識したと言う。同時に、日中間の戦争責任をめぐる問題にアンテナを張っているはずの自分が、東の論考の存在を知らなかったことにショックを受けたとも語った。「悪の愚かさについて」は、言論人や研究者からもっと盛んな応答があってしかるべきだったと指摘する梶谷に、東は、かつて戦没者の追悼をめぐり加藤典洋や高橋哲哉が論争していた時代とは、いまは全く状況が異なるのではないかと返していた。

 右と左とにはっきり分かれ、それぞれが絶対的な正義を主張する世界には、議論の生まれる余地はない。かつて論争が成立したのは、みなが絶対的な正義などないという前提に立ち、互いに意見を異にしながらも、正しさに対する逡巡があったからだ。いまでは、そのような語りは思弁的な遊びと見なされるようになってしまっている。

 この会話は対談冒頭で交わされたものだが、イベント全体の目標を端的に表していたように思う。絶対的なものをいかに突き崩し、そこに議論の余地をつくり出すか。理論的な基礎付けから制度設計の提言まで、説得力と実効性の双方を重視した緻密な議論が積み上げられていくさまを、是非ともご覧いただきたい。(谷美里)

 

 シラスでは、2022年5月16日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。

梶谷懐×東浩紀「アジア的愚かさと公共性について」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20211116/
★1 具体的には以下のトークイベントおよび論考が言及されている。(1)中島隆博×東浩紀「カントと孟子が語り合う――『道徳を基礎づける』講談社学術文庫版刊行記念トークイベント」2018年1月18日。(2)東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」、『ゲンロン10』、2019年。(3)東浩紀「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」、『ゲンロン11』、2020年。(4)東浩紀「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」、『ゲンロン12』、2021年。
+ その他の記事

1984年生。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。ゲンロン佐々木敦批評再生塾第二期・三期修了生。学習塾経営の傍ら文筆活動を行う。旅の批評誌『LOCUST』編集部。

1コメント

  1. このイベントは昨年行われたものだが、取り上げられているテーマのいくつかは、ロシア-ウクライナ戦争開戦後の世論や報道を驚くほど言い当てているように思える。

    村上春樹が描く蒙古兵(悪のステレオタイプ化)やハルビンのミュージアムが示す日本軍(過剰な物語化や意味づけ)は、我々西側の人間が捉えがちなロシア政権/兵/人像に重なる。
    また、古厩忠夫が指摘するような、被害者の感情に寄り添いすぎることにより善悪の二項対立が先鋭化し議論が閉鎖的になるような状況・空気が、メディアでもSNSでも蔓延している。

    二項対立が先鋭化している状況では、0でも1でも0.5でもない「中途半端なコミットメント」を実践する少数派の意見を意識的にインプットするくらいでちょうどよく、
    また、非力ながら自分も「中途半端なコミットメント」の実践者でありたい、と思わされた。

    戦時下のこのタイミングで、本イベントの要約が活字化された意義は大きいと感じる。

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