映画によって世界を語ること──渡邉大輔×東浩紀「シネマはスマホとタッチパネルの時代に生き残るのか」イベントレポート

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ゲンロンα 2022年4月19日配信
 2022年2月、ゲンロン叢書の記念すべき第10弾となる渡邉大輔『新映画論 ポストシネマ』が刊行された。本記事では、その刊行を記念して2月15日に行われた渡邉による講演と、東浩紀との対談の模様をレポートする。なお関連イベントとして、4月21日(木)に渡邉大輔と大山顕による対談も予定されている。あわせて来場・視聴されたい。(ゲンロン編集部)

人文書としての映画批評


 第1部の渡邉による2時間の講演では、『新映画論』のトピックの一部を拡張するかたちで、マーベル映画(MCU)、『スター・ウォーズ』、『ドライブ・マイ・カー』、2.5次元舞台、日本型メディアミックスなどが取り上げられた。その模様はYouTubeで無料公開され(URL=https://youtu.be/e6cPfdvLIPU)、すでに多くの再生回数を獲得している。よって、ここでは細かい論旨は追わない。ただ、ひとつ強調したいのは、『新映画論』は「人文書としての映画批評」の復権を目指しているということだ。

「人文書としての映画批評」とはなにか。それは、たんに映画を楽しむためのマニアックな読み物ではなく、映画を語ることで人間や社会についての洞察を行なう文章のことである。かつて映画批評が輝いていた時代のテクスト、たとえば蓮實重彦のそれは多くのひとにそのようなものとして読まれていた。

 しかし、21世紀の映画をとりまく環境は様変わりした。映画批評がこの変化を柔軟にとらえ、「人文書」でありつづけるためには、既存の枠組みに縛られない新しい軸が必要だ。渡邉はその変化を、おおきくふたつの軸で説明する。ひとつは、動画プラットフォームやタブレット端末の普及によるメディアの変化。もうひとつはAIや気候変動、新型コロナウイルスがもたらす人間中心の価値観の終焉である。『新映画論』はこれらのテーマを正面から論じることで、数多くの映画を具体的に扱いながら、これからの世界を語ることを試みている。ぜひ講演と『新映画論』をあわせて楽しんでいただきたい。

 
 

2.5次元舞台モデルとはなにか



 第2部の渡邉と東の対談でも、映像の変化をより広い文脈に接続する議論が繰り広げられた。なかでも中心となったのが、渡邉が講演のなかで提示した、視覚芸術のふたつのモデル──20世紀の「遠近法/スクリーンモデル」と21世紀の「AR/2.5次元舞台モデル」──をめぐる話題だ[★1]

 渡邉によれば、従来の「遠近法/スクリーンモデル」において、観客は画面を一定の距離から眺めるだけでそれに関与することはない。絵画や古典的な映画の鑑賞をイメージするとわかりやすいだろう。それに対し、新たな「AR/2.5次元舞台モデル」においては、観客が作品に積極的に関与する。
 
 渡邉の分類にある「2.5次元舞台」とは、近年流行を見せているマンガ・アニメ作品を原作とする舞台作品のことで、代表例としてマンガ『テニスの王子様』を原作とするミュージカル(『テニミュ』)がある。そこでは、観客が原作キャラクターのイメージを役者に重ねることが前提とされるため、通常のリアリティからすれば荒唐無稽に見える演出でもファンたちに受け入れられ、おおきな支持を得ている。その熱気は、舞台の役者と原作のキャラクターという異なるレイヤーを重ねることで生み出されているのである。

 その重なりは、舞台装置の面でもベタに表現される。たとえば『テニミュ』では、テニスのラリーを舞台上で再現するため、ボールに見立てられたスポットライトが役者の演技に重ねられて動く。あるいは近年では、プロジェクション・マッピングを演者の身体と組み合わせて演出する舞台やライブも出てきている。渡邉による「AR/2.5次元舞台モデル」という命名の理由はここにある。スマートフォンなどをとおして現実と映像を重ねるARは、現実の役者に虚構のイメージを重ねる2.5次元舞台に似ているのだ。

 そして映画においても、『アクト・オブ・キリング』や『15時17分、パリ行き』といった作品にこのタイプのリアリティを見いだせると渡邉は言う。どちらの作品も、実際に起こった事件の当事者が、自分がかつておこなった行為を演じなおすことをキモとしている。観客は、画面のうえで行われている演技に、かつて本当に起こった現実を重ねて見ることになる。

 こうした事態は、従来の「遠近法/スクリーンモデル」の作品では起こらない。そこではリアリティのレイヤーがひとつしかないからだ。ひとはひとつの作品として完結した映画に、感動したり興奮したりする。それに対し「AR/2.5次元舞台モデル」の作品は、映画であれ演劇であれ、観客が複数の記号を画面のなかに読み込む。その積極的な行動によって、いわば観客自身が作品に参加するのである。

観客参加時代のメディアと政治



 渡邉が新しい時代のモデルとして提示した観客参加のあり方に、東は自らが開発に携わった映像プラットフォーム「シラス」を重ねて応答した。シラスの画面上では、配信者の映像の横にコメントが流れることで、「AR/2.5次元舞台モデル」と同様、視聴体験に複数のレイヤーが生じることになる。さらにコメント欄は、配信者の言動にも影響を与える。おもしろい問題提起があれば配信者はそれを取り入れるし、逆に否定的なコメントが流れれば配信者は議論をちがった方向に展開する。そこでは観客参加がよりベタなレベルでも実現されているのだ。

 東に言わせれば、いまは「完成された作品」だけが賞賛される時代ではない。観客の関与とそれへの応答が、作品に双方向性をもたらし、そのクオリティを左右する。しかし、ある種の映画批評では、その変化から目をそらすことがまかり通っている。もちろん、これからも従来の基準で「いい」映画作品は作られつづけるだろう。しかし、メディアのあり方がおおきく変わったいま、「いい」作品を愛でる以外にもやるべきことはたくさんあるはずだ。映像をめぐる新しい状況を分析する言葉はもっと必要だし、オルタナティブな実践もそこから生まれる。

 
 

 
 この変化は政治の次元にも関わる。渡邉が示した20世紀の「遠近法/スクリーンモデル」は、なにかが別のなにかを再現すること、つまり「表象」のメカニズムを体現するものでもある。ある風景を映した映画を見て、実際の風景を見た気分になるのをイメージするとわかりやすいだろう。このイメージは、同時代の政治のあり方とも結びついている。20世紀が表象(representation)の時代だったことは、20世紀が人々に選ばれた政治家が民意を肩代わりする代議制民主主義(representative democracy)の時代だったことと切り離せない。

 それに対して21世紀は、代議制民主主義が機能不全におちいり、ポピュリズムがはびこる時代だ。東はその政治体制と「AR/2.5次元舞台モデル」の背後に共通する姿勢を、「現前たち(presentations)」と表現する。いま政治や文化を動かしているのは、ただひとつの(単数形の)表象ではなく、分裂した(複数形の)現前たちなのだ。「AR/2.5次元舞台モデル」は、人々がバラバラなまま全体に作用してものごとを動かす時代を体現しているのである。

 ある時代の記号やメディアのあり方は、その時代の政治のあり方と密接に関係している。したがって、時代を分析して状況に働きかけるために、シラスのような新しい映像メディアを考える必要があるのは当然のことだと言えるだろう。

 渡邉は、こうした議論が映画批評にももっと取り入れられるべきだと首肯したうえで、バラバラな「現前たち」には人間以外のさまざまな「モノ」が重ねられるのではないかと論を引き継いだ。そこには本稿の冒頭で示した、人間中心の価値観の終焉という軸がかかわってくる。キャラクターやオモチャ、AI、気候、ウイルスが「現前」するなかで、映画は──そして人間は──どのように変わるのか。それは『新映画論』の第2部の主題でもある。やはり、『新映画論』は新しい世界を考えるための必読書なのである。

 



 4時間超におよんだ対談では、このほかにも数多くのことが話題にあがった。東が「村上春樹の脱構築」として称賛する『ドライブ・マイ・カー』について。宮崎駿・押井守・庵野秀明・新海誠といったアニメ作家たちについて。そして渡邉が考えるオルタナティブな日本映画史について。ぜひ『新映画論』を片手に、ふたりの熱い議論をチェックしていただきたい。(住本賢一)

 
 

 

第1部は、YouTubeにて無料公開中
第2部は、シラスにて2022年8月15日までアーカイブを公開中
渡邉大輔「すべてのシネマはポストシネマである──『新映画論』刊行記念講演」
(イベントURL=https://genron-cafe.jp/event/20220215/
渡邉大輔×東浩紀「シネマはスマホとタッチパネルの時代に生き残るのか」
(イベントURL=https://genron-cafe.jp/event/20220215a/

★1 これは東によるインターフェイス論=タッチパネル論を変奏したものだと言える。その議論の詳細は『新映画論』第8章を参照されたい。
 
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

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