そこには言葉と息づかいがあった──『スピッツ論』刊行記念「 Love と絶望の果てに届く音楽批評」登壇後記|伏見瞬

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ゲンロンα 2022年6月30日配信
「場を組み替える言葉の力」が胎動した、そんなイベントであった。
 私はかつて「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」の第3期に参加していた、ゲンロンスクールの卒業生だ。卒業以来、おもに音楽についての原稿を書いており、2021年12月には単著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』(以下、『スピッツ論』)の出版までこぎ着けた。
 以下では、2022年1月に行われたゲンロンカフェで刊行記念イベントの魅力と裏側を、登壇者自身の視点から紹介したい。(伏見瞬)

1.


 正直言うと、このイベントが失敗したら私のキャリアは「終わり」だと思っていた。

『スピッツ論』は、その知名度にもかかわらず語られてこなかったバンド「スピッツ」の楽曲を分析しつつ、音楽とは何か、ポップ・ミュージックと社会はどのように関わっているかを探る本だ。愛聴してきたバンドについて本を出せたことは大きな歓びだったし、その本の関連イベントをゲンロンカフェで行えるのも、光栄だった。

 しかし同時に、これは油断できないと思った。このイベントがつまらないものになったら、批評家としての信頼を大きく損なう。もちろん、全ての仕事が好機であると同時に危機だと言える。だが、かつて批評を学んだゲンロンカフェでのイベントは、「古巣」を飛び出してからの4年間すべてが試される機会であった。しくじるわけにはいかない。つまるところ、私はバリバリ気負った状態でいたのだ。
 
 その気負いは、よくある「刊行記念イベント」にはしたくないという思いからきたものでもある。その多くはおさらいの域を出ず、その書籍から次の場所へと移行する運動に乏しい。観客として、その停滞した場と時間は窮屈に感じていた。だから自著のイベントは、「刊行記念イベントではない刊行記念イベント」にしたいと考えた。

 そこで共演者として、大谷能生さんと荘子itくんの2人に登壇をお願いした。大谷さんはサックスプレーヤー、電子音楽家、あるいはラッパーとして長年活動を続けているミュージシャンで、同時に批評家・文筆家としても盛んに活動している。荘子くんは、Dos Monosのラッパー/トラックメイカーとして世に出てきた。Dos Monosの音楽は、ヒップホップ以外にインディロックやジャズ、あるいは現代思想や映画やお笑いの文脈を混ぜ合わせ、ハイコンテクストであると同時に人懐っこい。荘子くん本人も、明晰で鋭い知性を示しつつ、きめ細かい優しさも感じさせるナイスガイだ。

 批評家としての視点とミュージシャンとしての視線を併せ持つ2人なら、様々な論点への広がりが期待できる。実際イベントは、2人と「シラス」でコメントする視聴者とのかけあいもあって盛り上がり、終了時刻は深夜3時にせまっていた。2人に引き受けてもらえた時点でその大枠はできていたのだと、イベントが成功した今では思う。

2.


 しかしながら、その準備はとても困難で、およそ1ヶ月半、ずっとぐずついていた。初めはパワーポイントなしでいこうかとも考えた。話される言葉だけで場が展開していくのがかっこいい気がするし、パワポの体裁に時間を割くくらいなら内容をしっかり固めた方がいい。しかし、大谷さんとはほぼ初対面、荘子くんとも久々に会う。やはり場の土台となる資料がないと2人は話しづらいはずだ。そう思いなおし資料の準備を始めたところから、産みの苦しみが始まった。

 音楽批評の話と、文芸批評、あるいは映画や美術などの他の分野の批評をつなげるイメージは頭の中にあった。大谷さんが栗原裕一郎さんとの共著『ニッポンの音楽批評 150年100冊』(2021年)で明治から現在までの音楽批評をまとめていたから、それをもう少し広い時代や領域と繋げつつ、『スピッツ論』と絡ませれば、面白い話ができるだろう。しかし、私は多くのジャンルの批評に対してつまみぐい程度の知識しか有してない。どのように議論の軸を絞り込めばいいのだろうか? 雲を掴むような気持ちで、参考になりそうな本を読んでいた。資料作成は全然進まなかった。イベントは1週間後に迫った。

その膠着状態を破ってくれたのは、1通のメールだった。大谷さんから、事前に1度打ち合わせをしないかという連絡があったのだ。自分から連絡できなかったことを少し恥じつつ、とてもありがたかった。

 夜の横浜駅で大谷さんと待ち合わせ、飲み屋の2階奥の席に座った。たしか、こちらが悩んでいることを伝える前に、大谷さんから「伏見君が『スピッツ論』で参考にした批評を紹介するといいんじゃないかな?」という提案をいただいたはずだ。初単著を出したばかりの自分にとって、経験の深い大谷さんの言葉が、安定を与えてくれる錨となったように感じた。荘子くんも乗りやすいテーマ設定だと思った。

 その提案によって、イベントの軸ができあがった。実際、『スピッツ論』を書くときには、過去の批評の言葉をかなり意識したのだった。自分が誰の言葉を引き継ぎ、だれの言葉を断ち切るのか。自分の批評の系譜と立ち位置が明確になるよう努めたし、各ジャンルの批評の差異も意識した。『スピッツ論』を入り口に過去の批評をひもとけば、ゲストの2人も音楽と言葉の担い手として、自身を語ることができる。イベントの方向性には確信が持てた。あとはひたすら作るだけだった。

3.


 結局、当日はイベント開始2時間前までずっと資料を作っていた。そのため話自体の準備がしきれず、いま動画を見返すと、自分はかなり言葉足らずで、誤解を与えかねない発言もしている。寺山修司や田中宗一郎や中島梓の言葉にどう惹かれたのか。どの部分がどのように優れているのか。もっとうまく話せたと思う。

 それでもイベントがうまく行ったのは、やはり、2人の力に助けられたからだ。私の言葉足らずのプレゼンを、荘子くんが丁寧にかつ刺激的に補い、淀みないリズムに変換してくれた。その能力には感嘆するばかりである。さらにそれを大谷さんが展開し、2人の発言を私が受け継ぐ。その反復が、1つの律動を作り出していた。特に3人全員が好きな蓮實重彦の話になったときは、どんどん会話のボールが回っていて、お互いにゲラゲラ笑っていた。会話のリズムが成立した時点で、「あ、今回は成功だ」と思った。気負いもほとんど忘れていた。

 なかでも印象に残ったのは、大谷さんが話していた、タワーレコード渋谷店のジャズの売り場が変わった、という話だ。長らくジャズのコーナーは、渋谷タワーレコードの5階、クラシックや現代音楽と同じ場所に「歌がなくて難しい音楽」という括りで置かれていたという。しかし、大谷能生・菊地成孔コンビが2000年代にジャズとヒップホップの近さを指摘してからは、売り場がラップとR&Bの近くに変わった。

 つまり、言葉には場を組み替える力がある。ジャズがストリート・ミュージックの一種であり、ラップ・ミュージックと近いという認識を、今では多くの人が共有している。ロバート・グラスパーやフライング・ロータスといった音楽家が登場した後では、常識だとすら言える。そうした「ストリート・ミュージックとしてのジャズ」の認識を日本で浸透させ、タワレコの売り場を変えたのは、菊地成孔と大谷能生の言葉だった。

 あるいは社会的な、目に見える事例でなくともいい。私自身がふたりの『憂鬱と官能を教えた学校』(2004年)や『東京大学のアルバート・アイラー』(2005-2006年)を読んで、音楽との接し方が豊かで軽やかになった。言葉への興味を持った。それによって、生きることが楽しくなった。結果、1冊の書物を世に出すまでになった。

 Dos Monosの活動にも、同様の力強さがある。彼らはヒップホップのルールから逸脱する音楽を作っているのに、ヒップホップのコミュニティに受け入れられている。複数のコミュニティで愛される絶妙なバランス感覚がいつも不思議だったが、荘子君の会話を素早く受け止めて別の話につなげる瞬発力を見て、納得するものがあった。それが可能なのは、彼らがヒップホップの歴史と人々の生活に敬意を払いながら、知的冒険を楽しんでいるからだ。その音楽は一聴フリーキーかつハイコンテクストに響くが、実際は泥臭い生活感に根付いている。彼らの知性は、好奇心から得た知識を日々の生にどのように結びつけるかという問いに傾く。Dos Monosの表現は、人々の生活感覚を受け止めた上で、別のものへ変換する力によって成り立っているのだ。

4.


『スピッツ論』にも、今回のイベントにも、同じような力があると信じている。実際、シラスのコメントとのやりとりは、場を作り変える力に満ちていた。アナロジーの濫用は慎まねばならないが(イベントでも、文章を音楽の比喩で語ることを大谷さんがサラッと切り捨てている)、それは、クラブパーティーにおけるDJとオーディエンスとのやりとりに似ていた。じつは今回のイベントは、企画中にまん延防止等重点措置が発表され、無観客で実施された。お客さんの表情や息づかいが知り得ないことに、当初はかなり落胆したが、コメントとのやりとりをするうちに、ひとつなぎの場ができあがっていくのが感じられた。高揚感と心地よさが生まれ、イベント後半は、その場その場で語ることを、コメントの雰囲気を見て決めていた。それはパーティーのフロアとなんらかわらなかった。

 気づけば、資料の発表が終わった段階で11時ちかくになっていた。延長を望むコメントが10個集まったら延長すると言ったら、一瞬で10を超えた。あれは嬉しかった。その後も延長に延長を重ね、トークは8時間近くに及んだ。

 その全体をここで紹介することは、とてもできない。だが、音楽や言葉は、どのように私たちの日々と関係しているか、どのような構造で成り立っているのか、どのように接すると楽しいのかを示したつもりだ。みなさんがみなさんなりに変わるための、触媒を差し出したと思う。そのミッションが成功したかは、読者と視聴者の判断を待つほかない。

 みなさんには是非とも本を読んで、放送を観ていただきたいです。(伏見瞬)

 
 

 

 シラスでは、2023年1月21日までアーカイブ動画を公開中です。
大谷能生×荘子it×伏見瞬「Loveと絶望の果てに届く音楽批評」(URL=https://genron-cafe.jp/event/20220121/

伏見瞬

東京生まれ。批評家/ライター。音楽をはじめ、表現文化全般に関する執筆を行いながら、旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を2018年より務める。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期 東浩紀審査員特別賞。2021年12月に初の単著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』を刊行。
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