軽やかなる批評にむけて──『スピッツ論』刊行記念イベントレポート|吉田雅史

ゲンロンα 2022年7月21日配信
 去る2022年1月21日、ゲンロンカフェにて「Love と絶望の果てに届く音楽批評──『スピッツ論「分裂するポップ・ミュージック」刊行記念』」と題したイベントが開催された。
 登壇したのは、初単著『スピッツ論』を世に問うた伏見瞬、同時期に共著『ニッポンの音楽批評150年100冊』を上梓した大谷能生、そして Dos Monos『Larderello』のリリースも記憶に新しい荘子 it 。現在進行形で音楽批評を、あるいは音楽そのものを生み出している三者による、熱烈な議論となった。それを視聴し大層興奮した筆者は、勝手ながらデラソウルの第四のメンバー、プリンス・ポールさながらに、この3MCの場に居合わせていたかのような勢いで、議論のグルーヴを捉えるべくレポーティングしてみたい。(吉田雅史)

 これまで様々な形で音楽に向き合ってきた3人による議論は、ときにジャンルを越境し、ときに大胆に脱線し、スピッツはもとより、音楽批評、あるいはもっとひろく音楽に興味がある者にとって必見のイベントとなった。

 冒頭で伏見が明かしたのは、『スピッツ論』は多様な「サンプリングソース」を駆使して書かれたという事実だ。それらを開陳していく伏見に、Dos Monos のファースト『Dos City』(2019)もまた引用元をライナーで明示していたと荘子 it が続ける。さらに重ねれば、大谷の『Jazz Abstractions』(2012)にも同様の仕掛けがある。いわば、伏見が本イベントで目論んだのは、ジャズやヒップホップのようなサンプリングアートの豊饒さを味わうごとく、音楽批評そのものを吟味することであった。

 数あるソースの中で、もっともスポットライトを浴びた固有名は蓮實重彦だった。なかでも、伏見のフェイバリットである『監督 小津安二郎』(1983)の章立てが着目された。「否定すること」「食べること」「着換えること」といったテマティックな構成をとる同書に倣い、『スピッツ論』の章立てもまた、「密やかさについて」「サウンドについて」「居場所について」というように続く。そうして語りの地を提示した上で、副題に「“個人”と“社会”」、「“とげ”と“まる”」、「“中心”と“周縁”」といった20世紀的な分裂の対立項を立てた点が興味深い。

 大谷はこの『監督 小津安二郎』の構成にカウンター性があると指摘した。小津の作品は物語として受容されるがゆえに、批評もその物語性に依拠するものが多かった。蓮實の論はそれらへの抵抗として提出されたのだ。しかし伏見は、『スピッツ論』にはカウンターの対象となる先行研究がなく、それゆえの困難があったと告白する。それにすかさず荘子 it がアンサーした。『スピッツ論』を面白くしているのは、批判ではなく「大体合ってるがもっと分析してみましょう!」と提案してみせる、先行者との微妙な距離感なのだ、と。

 

 3人の議論は、伏見の資料を道しるべとして進んでいった。惜しみなく開陳された伏見の「サンプリング」の具体例を前に、大谷と荘子 it がときに肯首し、ときにツッコみを入れていく。
ここでは『スピッツ論』の章立てに倣い、本イベントのハイライトを、「AとB」という二項対立のかたちで列挙してみよう。

・スキゾとパラノ

『スピッツ論』の副題は“「分裂」するポップ・ミュージック”である。各章の副題のつくりにも継承されているキーワード「分裂」は、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)に始まり、日本では浅田彰の『逃走論』(1984)が有名だ。思想の分野ではおなじみの言葉だが、それをスピッツという意外な対象にあてはめ、捉え直してみたかったと伏見は述べる。

 荘子 it は、その試みにあたり、伏見が既存の議論の反復を避けるべく行った工夫にメスを入れた。たとえば「分裂」とならぶキーワードである「不可能性」を扱う際、伏見は抽象的な概念をぐるぐるとめぐる議論を行うのではなく、日常の、具体性のある事象に言及する。そのことで、前世紀のハイデガーやラカンのような単一の中心ではない、複数の選択肢を示唆しているのではないか。では、「分裂」についてはどうか。

 伏見のアンサーはいかに。曰く、スキゾ(分裂症)とパラノ(神経症)を対比し、スキゾを良しとする時代はもう終わった。むしろいま生きる上で重要なのは、スキゾとパラノを行き来することである。だから「分裂」とは単にスキゾのことではなく、スキゾとパラノを往復する姿勢のことなのだ。なるほど!

・形容詞と動詞

 伏見の往復はスキゾとパラノに留まらない。近年の批評一般に言われることだが、音楽批評の領域でも、印象批評から分析批評への変遷が加速している(荘子 it が指摘したとおり、そこには音を視覚的に示すことができる DAW 等のテクノロジーの影響がある)。その端緒となったのが、ほかでもない大谷と菊地成孔によるアナリーゼの仕事である。

 そこで大谷が示そうとしたのは「分析できるものはしようぜ、それでも音楽のマジックは解けない」ということだったと言う。オールドスクールな印象批評は、自分だけの経験で閉じてしまう。だが、批評家は印象と分析を往復し、あらゆる言葉を尽くす必要がある。

 これは荘子 it の言葉を借りれば、評論が良し悪しを語るために形容詞を使うのに対して、批評は対象の構造を名詞と動詞で明らかにするものだ、と言い換えることができる。イベント中、大谷は「音楽は運動だが、なかなか運動として語られない」ということを繰り返し語った。それに呼応するように伏見は、保坂和志の「小説とは動詞の集積なのだ」というパンチラインを引用する(『小説の自由』、2005)。端的に言えば、形容詞はダサいのだ。

 たとえば音楽批評でよく目にする「ドリーミー」という表現は、それぞれで異なるはずの「夢の色」を一語に回収してしまうお手軽表現になってしまっている。百曲あれば、百色存在するはずの「夢の色」をあらわすのに、たったひとつの言葉しか用いないという怠慢!(ここで筆者も過去に「ドリーミー」を使った記憶が鮮明に蘇ってくる……。)

 だから大谷は、「批評を書くためには、評論的なダサい形容詞を一度バラして作り変えなければいけない」と力説した。形容詞の中に名詞と動詞が含まれていることを発見しなければならない。繰り返そう、批評家は「あらゆる言葉を尽くす」必要があるのだ。

 伏見は、『スピッツ論』から「ポップ・ミュージックとは、つくり手と聴き手の間を流動的に漂う芸術形式である」というラインを紹介し、すべては関係性であり、スピッツにおいては特に音と言葉の「関係」を聴いているのだと強調した。

・秀雄と秀和

 しかし、あるタイプの批評を一口に「印象批評」と括ることもまた、形容詞の罠にはまってはいないか。そのことを3人は批評界のレジェンド、秀和(吉田)、秀雄(小林)の対比に見出していく(親愛の情が溢れるあまり、3人はいつのまにか批評家を下の名前で呼ぶようになった!)。

 まず、秀和に対する瞬(伏見)たちの目線は厳しいものだった。瞬は、秀和の著書『主題と変奏』(1977)のシェーマン評から、「たとえようもなく燦然たる美しさを放つ」「すこしのあいまいも、ゆるぎもない、絶対の美しさ」というラインを悪例として引用した。この文章は、一見壮麗な形容詞で飾られているように見えながら、じつはほとんどなにも言っていない。it(荘子)が疑義を呈したように、「たとえようもなく」とは、言葉によって言葉の無力さを語る、逃げの表現ではないか。それは文章を書く者にとっては禁じ手に等しい。

 一方秀雄は、代表作『モォツアルト』(1946)をはじめ、一般に悪しき印象批評の代表と見られることが多い。だが瞬は、「美しい花がある。花の美しさという様なものはない」という秀雄の言葉を、「形容詞を一度バラして」とらえようとしたものとして評価する。この言葉は咲いている花ではなく、能『風姿花伝』を鑑賞した驚きを綴ったものだ。芸に触れて感動し、その理由のわからなさを率直に綴る小林の「マジ」な姿勢は、むしろ批評家として面白いと能生(大谷)はいう。その機微をとらえず「印象批評」と括るとき、「印象」に囚われてしまっているのは我々のほうなのだ! ちなみに秀雄の作品のなかで瞬の一押しは『近代絵画』(1958)だというが、これに私も同意である。

・明るさと暗さ

 さて、3人の親愛の情を最も受けた批評家は、前述の通り重彦(蓮實)であり、その批評スタイルは本イベントの裏テーマ的存在となっている。かれもまた(その「野球好き」に象徴されるとおり)動詞=運動の批評家であるが、なかでも話題になったのはその文章の「明るさ」だ。蓮實は19世紀のヨーロッパという基盤があり、そこから思考を展開する。だから眼前の社会にとらわれて、論調が重くなることがない。それに対して、短いスパンだけで考えると、社会との距離が近くなりすぎ、批評は暗くなってしまうのだ。

 荘子 it は、表現の側にはどうしても重みがつきまといがちであるから、批評の側がある種の「軽さ」を持ちこむことが重要だと指摘した。大谷はそれを、ポジティヴな馬鹿馬鹿しさ、すなわち「荒唐無稽さ」を引き受けることだと換言する。

 その「荒唐無稽」な批評の例として召喚されたのは、細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』(2021)だった。細馬は、『マッドマックス 怒りのデスロード』を「音韻」に、とくに「W」と「M」の二音に着眼して論じてみせる。『マッドマックス』は「War boys」が「Water」を求める「W」の物語であり、そこでは「Mother’s Milk」に代表される母なる「M」の音もまた重要な役割を果たしている。MとWの反転の関係性。この冗談のような対比を本気で論じる細馬の姿勢に、3人は批評の明るさを見いだしていく。

 この後、3人の議論はさらに怒涛の展開を見せた。「スピッツのエロスは不定形」という観点から出発し、手塚治虫の多形倒錯的な表現とシューゲイザーの結びつきを経て、「線」と「面」という更なる二項対立へ……。そのスリリングな展開に、ネタバレなどという野暮なことはすまい。未視聴の方はぜひ自身の目で確かめてほしい。

 

 イベントの終盤は観客との対話、質問コーナーである。「俺の文体、オルタナだから」という伏見の(タナソー風の)パンチラインと共にそのロック魂が露わとなり、LUNA SEA から L’Arc-en-Ciel 、Mr. Children や宇多田ヒカルまでが幅広く語られ、話題の尽きない議論は、気づけば8時間弱続いて(長すぎやろ……)大団円を迎えた!

 総括すれば、『スピッツ論』刊行記念イベントは、音楽批評の未来のポジティヴな可能性に大いに高揚する場となった。今後の三者三様の軽妙かつ「明るい」音楽の語り方に、引き続き注目していきたい。

 

 
 

 シラスでは、2023年1月21日までアーカイブ動画を公開中です(好評につき視聴期限を延長しました。どうぞお楽しみください)。

大谷能生×荘子it×伏見瞬「Love と絶望の果てに届く音楽批評」(URL=https://genron-cafe.jp/event/20220121/
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1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。

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