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ドンキには私たちの時代を考えるヒントがたくさん詰まっている、のかもしれない──「ドンキ論がショッピングモール論を超える?」登壇後記|谷頭和希

ゲンロンα 2022年8月18日配信
 2022年2月に集英社新書からはじめての単著『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(以後、『ドンなぜ』)を出版しました。ディスカウントストア「ドン・キホーテ」へのフィールドワークを通して、現代の都市空間・消費空間を批評した本です。
 刊行に合わせて、ゲンロンカフェでイベントを開いていただくことになりました。ゲストは大山顕さんです。まずはこの場を借りて大山さん、ゲンロンカフェのみなさま、そして放送を見ていただいた方に御礼を申し上げたいと思います(そしてまだ放送を見られていない方は、ぜひこの文章を参考に放送を見てほしい!)。
 イベントは、私による『ドンなぜ』の紹介を中心として進みました。気合が入りすぎてしまったのでしょう。私は200枚もパワポ資料を作ってしまいました。作りすぎたかもしれない、と思ってあらかじめゲンロンカフェの方に聞いてみると、「大山さんはいつも300枚ぐらい作ってくるから大丈夫です」。ゲンロンカフェはそういう場所だったと思い出しました。
 しかし、いざパワポの説明を始めると、これがなかなか進まない。思わぬ角度からの大山さんのツッコミが炸裂し、話題がどんどん広がっていくのです。しかもその指摘は『ドンなぜ』の核心を突くものばかりで、すぐに答えが出るものではありません。あの手この手で応答した結果、蓋を開けてみれば用意したパワポは全体の半分も進みませんでした(少し悲しい)。ちなみに「シラス」の番組ページからダウンロードできる配布用資料では(一部カットされていますが)154枚のスライドがお楽しみいただけます。
 しかし、一連の指摘は『ドンなぜ』にとって重要であり、また、私がこれから考えていかねばならない話題も多く含まれていました。ですから、ここからは大山さんからのツッコミを紹介しつつ、私が考えていることも併せて書きたいと思います。(谷頭和希)

好きが肯定されすぎる時代に

『ドンなぜ』を貫く問題として大山さんが指摘されたのは、「どんな『好き』でも肯定されうる時代に『好き』を肯定することの意味はどこにあるのか」ということでした。

 一昔前のドンキといえば、ヤンキーのたまり場としてマイナスのイメージで語られることが多い場所でした。そんなドンキを否定的に見るのではなく、肯定的に見つめることによって、そこにある多様性を指摘したのが『ドンなぜ』です。

 劇作家の宮沢章夫さんは、この本の推薦文として「まず、肯定するという態度がある」と書いてくださいました。この言葉はうれしい限りで、この本ではまず、どのようなものでも「肯定する」ことを主張したのでした。「ドンキ好き」の私が、世間で否定的に語られがちなドンキを肯定する、というのがこの本で試みたことです。

 しかし、SNSが広がりを見せる中で、なにかを肯定し、賛同を得るのは難しいことではありません。SNSでは自分と同じようなものを好み、肯定する人たちとすぐに知り合いになれるからです。ネット上にある多様なクラスタがそれを表しています。問題は、同じ者同士でしかつながりが存在せず、それ以外の人々との分断が深くなるということではないか。「好き」の肯定が無条件に認められる時代において、この本の意義はどこにあるのか。大山さんはまず、このことを私に問いました。

 しかし他の話題に押し流され、イベントでは最終的にこの問いかけに応答することができませんでしたので、この場を借りてこの問題について考えてみたいと思います。

「なんとなくの選択」を書く

 そもそも、私がドンキについて書いたのは、ドンキが強烈に好きだったから、というわけではありませんでした。話の前提を崩すようですが、実際にそうなのです。

 では、なぜドンキをテーマに据えたのか。それは、ドンキやチェーンストアを使ってしまうときの「なんとなくの選択」を書いてみたい、という気持ちがあったからです。私は1997年に生まれ、池袋で育ったのですが、すでにその頃、街はチェーンストアで溢れていました。私にとってチェーンストアとは「なんとなく」あるもので、「なんとなく」行ってしまう場所でした。「好き・嫌い」といった次元を超えて、ただそこにあるものだったのです。ですから、チェーンストアをテーマに書くことは、こうした「なんとなくの選択」について考えることだと思っています。

 現代社会において積極的に「好き」や「嫌い」を表明するのは、たやすいことです。SNSを開けば、きわめて単純な友敵理論で「好き」なのか「嫌い」なのかを明確にすることが求められているように感じます。大山さんが述べられた通り、そのような明確な「好き」「嫌い」で社会が分断されているのが現代でしょう。

 そんな時代において「なんとなくの選択」については省みられることが少ないのではないか。そこに、私がドンキやチェーンストアを書く意味があると思っています。それは同時に「なんとなく」の余地が狭まりつつある現代を照らす作業になるのではないか。

 もちろん『ドンなぜ』でこうした仕事が十分にできたわけではありません。本を書くなかで、こうした問題意識が徐々に明確になってきた側面もあります。ですから、ここで書いた「なんとなくの選択」を考えるという興味は、今後の私自身の仕事で応えていこうと思います。

 

 
 

フィクションで描かれるチェーンストア

『ドンなぜ』ではドンキの多様な姿としてその外観や内装などを取り上げ、全国それぞれの地域で多様なドンキが見られることを書きました。そこについて大山さんから「商品そのものの多様性については触れられていない」という指摘もありました。ドンキで売られている商品はその多くが大量生産で作られた既製品で、いくら店舗に多様性があってもその商品には多様性がないのではないか。これはドンキ以外のチェーンストアでも指摘できることでしょう。例えば、コンビニで扱われているおにぎりは、どこまでいっても本部の工場で作られている同じおにぎりで、そこには手作りのおにぎりに見られる多様性はありません。そこではやはりチェーンストアが私たちの暮らしに「均質化」という要素をもたらしていると考えられる。

 これについて私は、次のように考えています。同じおにぎりでも、それをどのような状況で誰と食べるかによって、そのおにぎりはまったく異なる姿を私たちの前に表すのではないか。

 イベントではこの問題を、新海誠の『天気の子』を例に取り上げるつもりでした。この作品ではマクドナルド西武新宿駅前店が登場します。主人公である帆高は家出をして新宿に来たのですが、資金が底を尽き、マクドナルドでコーヒーを注文することでなんとか雨風をしのいでいます。それを見かねたアルバイトの店員・陽菜が帆高にビックマックをこっそりと渡します。それを食べた帆高はナレーションでこう言うのです。

「僕の一六年の人生で、あれが一番美味しい夕食だったと思った」

 陽菜の気遣いに触れたからこその言葉でしょう。このセリフは、同じように作られ、同じ味がするマクドナルドの商品であっても、それが状況によって異なる相貌を私たちに見せることを描いています。

 そして、いくつかのフィクションはこのような「同じ」商品だとしても一つ一つ異なる経験や思い出、感情が立ち現れてくるさまを描いているのではないか(たとえそれが意図的でないにしても、描いてしまっているのではないか)。例えば、『ドンなぜ』でも取り上げたテレビドラマ『お耳に合いましたら』(テレビ東京系列)は、毎話異なるチェーンストアを舞台に、そこでの主人公の思い出や経験が語られ、それが物語の展開と絡み合っていきます。取り上げられる商品は、だれもが手に入れることのできる商品ですが、それにまつわる思い出は主人公に特有のものなのです。

 チェーンストアが持っている「同じ」という側面に対して、フィクションの力がどのように働きかけ、そこでの経験を描いているのかということも、これから考えてみたいテーマです。

チェーンストアの情緒

 フィクションの中のチェーンストアという話題に関連して、イベントではさらに興味深い論点が飛び出しました。

 イベントには、大山さんがぜひお会いしたいとおっしゃっていたマンガ家の飯島健太朗さんにも来ていただいていましたので、急遽登壇していただくことになりました。飯島さんはゲンロンのひらめき☆マンガ教室の卒業生で、私が書いた作品をマンガ化してくれた縁もあって会場にお越しいただいたのでした。飯島さんが書くマンガは、チェーンストアを使う人々を淡々と描く作風で、SNSでも大きな反響を呼んでいます[★1]

飯島健太朗「ブックオフで神隠しに遭う【マンガ版】」

 飯島さんの登壇をきっかけに話題になったのは「チェーンストアに感じる『情緒』とは一体なんなのか」ということです[★2]。飯島さんのマンガには、深夜のコンビニや牛丼屋といったチェーンストアがきわめて情緒的な形で登場し、えも言われぬ感情を喚起させます。事実、飯島さんの作品がネットニュースで取り上げられたときのタイトルは「深夜のコンビニ、言葉にできない “あの感じ”がエモい」というものでした。

 人がチェーンストアに感じる情緒は、先ほど私が書いた「フィクションで描かれるチェーンストア」の話にも通じるでしょう。私の友人は、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』の中盤に登場するホームセンター「コメリ」の明るさに不思議な安心感をおぼえた、と言っていました。このような感情もチェーンストアが醸し出す情緒と結びついているのかもしれません。

 では、その情緒とはいったいなんなのか。そして、飯島さんがマンガで描くこうした情緒を、ライターである私や大山さんはどのように言葉にしうるのか。なかなか深淵なテーマになってきました。

 イベントでは、この情緒を解く鍵として「同じだが違う」性、それを展開させた「似たもの」性という言葉が登場しました。

 私は、ドンキが「多様な姿を持ちつつも同じである」点を指摘し、そこに見られる「同じだが違う」性質に注目しました。それによって、私たちは見知らぬ他者とチェーンを通して繋がっているような感覚を抱けるのではないか。この「繋がっているような感覚」こそ、チェーンの情緒を生むのではないか。

 大山さんはこの話を受けて、むしろ「同じ/違う」といった次元とは異なる〈なにか〉がチェーンストアにあるのではないかと指摘します。それは、「似たもの」性としかいいようのない〈なにか〉だと大山さんは考えます。そもそも「同じ/違う」といった概念自体を更新する新しいパースペクティブを持たなければ、チェーンストアの空間性を考えることは出来ないのではないか。

 私は大山さんが提示する「似たもの」性の構想に聞き入ってしまい、イベントでは十分に自分の考えを表現することができませんでした。ここでは、「似たもの」性が醸し出すチェーンストアの情緒について、私が考えていることを書いてみましょう。

 

 
 

ポストモダンの新たな感情?

 トークが終わってから、興味深い著作に出会いました。ジョージ・リッツァの「マクドナルド化」に関する一連の考察です。消費社会論では古典となっているこの著作をあらためて読み直すと、そこでリッツァはマクドナルドを使う人々の感情の話をしているのです。

「マクドナルド化」とはマクドナルドで採用されている合理的なシステムが社会全体に広がることをいいます。リッツァはそれが人間自体を疎外する非人間的な状況(健康被害の発生や、人間同士のふれあいの減少など)をもたらすと警告しました。チェーンストアを肯定的に私とはまったく異なるチェーンストアについての議論です。

 しかし、リッツァの議論が興味深いのは、マクドナルドを利用する人間の感情について次のように書いていることです。

 マクドナルドと結びつく、もう一つのポストモダンの特徴は、感情もしくは情緒の衰退である。モダンの世界ははるかにもっと感情的だった。[……]奇妙なことに、それと同時に、一種独特の感情や激しさがマクドナルドのようなポストモダンの現実に対する感じと結びついて存在している。[……]一般に合衆国以外の人たちで、とくに初めてマクドナルドに入った人たちが強い至福の感覚を現に感じるということを知っている。[★3]

 ポストモダン時代に登場したマクドナルドには、モダン社会に見られた「感情もしくは情緒」が消滅している代わりに、「至福」の感覚が出現したというのです。語義通り取るなら「至福」もまた感情の一種なので、この表現は非常に曖昧な印象を与えます。しかしリッツァは「至福」についてほとんど詳しい説明をしていません。ただ、マクドナルドには「至福」の感覚がある、とだけいうのです[★4]。リッツァの「至福」とは、大山さんがイベントで言ったような、〈なにか〉としか言いようのない不思議な感覚だったのではないでしょうか。つまり、「至福」という〈なにか〉は、私たちがチェーンストアに感じる「情緒」と近い感覚なのではないかと思います。もちろん、リッツァの感覚と完全に一致するわけではないでしょうが、私たちがこのトークで考えていた情緒は、社会がモダンからポストモダンへと変わる中で生まれた人間の新しい〈なにか〉なのではないか。もっといえば、この情緒の向こう側にはポストモダンと呼ばれる時代を生きる私たちの輪郭を掴むヒントが隠されているのではないかとも思うのです。

おわりに

 以上、大山さんからの指摘をもとに、それを受けて私が考えたことを書きました。どの指摘も、ドンキを考える先に私たちが生きる時代が見えてくることを予感させます。ドンキやチェーンストアには私たちの時代を考えるヒントがたくさん詰まっているのかもしれません。

 イベントは19時から25時までの6時間に及び、話題は多岐にわたりました。私にとっては『ドンなぜ』の穴を埋めてくれる刺激に満ちた時間で、あわよくば、もっと大山さんに聞いてみたい話もあったのですが(鬼畜系・盗撮と路上観察の話など)、それらは別の機会にお伺いできればと思います。

 ちなみにここで触れることのできなかった大山さんの指摘を概要だけ書きましょう。

・ドンキの多様性を下支えしているのは、外装デザインや物流技術の発達なのではないか?
・「都市を面白がる目」ではなく「都市を面白がる語り方」こそが重要なのではないか?

 どういうこと? と思われた方は、ぜひ動画をチェックしてみてください(最後まで宣伝でごめんなさい)。

 

 
 

シラスでは、2023年2月22日までアーカイブ動画を公開中です。

谷頭和希×大山顕「ドンキ論がショッピングモール論を超える?──『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』が拓く新しい都市論の可能性」(URL=https://genron-cafe.jp/event/20220222/

 

★1 (編集部による注)ひらめき☆マンガ教室の最終課題として執筆された飯島の「松屋でごちそうさまでしたって言うのむずすぎ問題」(URL= https://school.genron.co.jp/works/manga/2019/students/iijimakentarou/16353/)は twitter で4000回以上リツイートされ、テレビ番組でも取り上げられた。飯島がマンガ化した谷頭のエッセイ「ブックオフで神隠しに遭う」は、原作とマンガがそれぞれ以下のURLで読める。
・原作 URL= https://magazine-k.jp/2020/01/29/bookoff-as-public-sphere-05/
・マンガ URL= https://magazine-k.jp/2021/01/14/book-off-comics-01/
★2 「情緒」という言葉は心理学等で使われる専門用語で、一般的には「感情的」と同様のネガティブな含みも持ちうる言葉です。とはいえ、イベントでは「情緒」をキーワードとしてトークが進んだので、ここではあえてそのまま使用しています。また、イベントではこの言葉と同じ意味で「エモ」という言葉も使われました。この言葉を使ってもよいのですが、現代ではあまりにも多くの人が「エモ」という言葉を使っており、そこに独特の意味が持たされているため、本稿では使用していません。
★3 G・リッツァ「マクドナルド化の日本にとっての意味」、G・リッツァ、丸山哲央編著『マクドナルド化と日本』、122頁。強調は引用者による。
★4 同書は日本向けにリッツァが書いた原稿を翻訳しているため、「至福」の原語は不明です。しかし、翻訳者が特に注記なしで「至福」と訳していることから考えると、この訳語は「euphoria」などが該当すると思われます。また感情に関連して、リッツァは他の著作で、マクドナルドには「楽しさ(fun)」があるとも述べています(『マクドナルド化する社会』)。広告などを具体的に紹介しつつ、マクドナルドは品質や値段ではなく「楽しさ」という幻想を顧客に提供しているというのです。「楽しさ」と「至福」についての関係は十分に説明されておらず、今後考えるべき課題と言えるでしょう。
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1997年生まれ。早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。国語教育学を勉強しつつ、チェーン店やテーマパーク、街の噂について書いてます。デイリーポータルZにて連載中。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾3期に参加し、『ドン.キホーテ論』にて宇川直宏賞を受賞。

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