五反田から見える世界──星野博美×上田洋子「すべての道は五反田に通ず」イベントレポート

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ゲンロンα 2022年8月26日配信
 2022年7月、ゲンロン叢書11冊目となる『世界は五反田から始まった』が刊行された。著者である星野博美と、編集を担当した上田洋子による刊行記念イベントが「すべての道は五反田に通ず」である。
 当日は弓指寛治による挿画の原画も展示。同書の下敷きとなった星野の祖父の手記や、町工場で作られていた金属部品など、同書にゆかりのある「製造物」に囲まれてのイベントとなった。その一部を紹介したい。
 なお、2023年8月まで、大五反田各所に電柱広告が設置されている。その広告をモチーフに作られたアクリルキーホルダーも、数量限定でゲンロンカフェで販売中だ。本・イベントとともに、これらの広告展開にも注目してほしい。(ゲンロン編集部)

『世界は五反田から始まった』「製作」秘話


 本書は、星野の祖父(以下、量太郎)がみずからの人生を書き残した手記をもとに、第二次世界大戦時、五反田の人びとがどう生き抜いたかを辿っていくノンフィクションだ。量太郎は、修業時代を経て町工場「星野製作所」を設立。液体や気体を調節する弁の役割を果たす接続部品を作り続けた。

 その「製造業」の精神を受け継ぐかのように、『世界は五反田から始まった』も「製造」された。上田がイベント冒頭で紹介したのは、セロテープで継ぎはぎになった手作り感あふれる原稿だ。現在は手書きの原稿が少なくなり、執筆作業すべてをパソコン上で完結することもできる。しかし、「ゲンロンβ」での連載を1冊の本にまとめるにあたって、星野は紙で出力したこれまでの原稿を切り貼りし、本文の配置を大胆に組み直した。紙と文字でないと、頭が働かないのだという。まさに「モノ」をつくる手つきだ。

 星野は、同じ五反田の下で、編集部が「夜なべ」して作業していたことに「町工場」のイメージを重ねた。町工場は、狭い地域に同じような規模の工場がひしめき合っていることが多い。星野がゲンロンでの打ち合わせを終えた帰路でTwitterを開くと、まだ編集作業が続いている。近所で、まさに同じ空の下で同じものを作っている。著者である星野自身も、「製造業の一端を担っている」という感覚になったという。

 



 イベントでは、挿画についての裏話も披露された。『世界は五反田から始まった』の挿画担当は弓指寛治。ゲンロン新芸術校出身の画家だ。どの箇所に何を描くかは、ほぼすべて同氏のセレクトだった。そのうちで星野や上田がとりわけ共感したのが、城南大空襲でついに星野家も焼かれてしまい、その後片付けをする場面である。苦労して一代で築き上げた町工場が、一夜にしてすべて焼かれてしまった。そう聞くと現代の私たちはつい、どれほどの絶望だろう、どれほど悲嘆に暮れただろうと考えがちである。しかし量太郎の手記をみると、疎開先でラジオの報を受け心配しつつも「ぐっすりとよく寝られ」、翌日は工場跡に戻って焼けた機械類を「一応片付けた」という(同書、322頁)。

 なんという恬淡さだろう。もちろん心中にはさまざまなものが巡ったかもしれない。しかし落ち込んでいる暇もなく、すぐに復興に向けて動きだす。これこそが、星野が見出した戦時のなかの日常であり、戦争の中で生き延びた人びとの姿である。弓指の挿画もあわせて、ぜひ本文を読んでほしい。

 



 表紙に星野製作所が製造していた金具の画を載せるというアイディアは、装丁の名久井直子によるものだ。星野の父は、本の表紙を見て涙を流し、星野の知らない家族の歴史を語り出したという。長い時間を一緒に過ごし、折に触れ昔の話を聞き出そうと苦労してきた星野は驚いた。弓指の絵の持つ力が、星野の父の想像力を喚起したのだ。

 電子書籍が普及して久しいが、本もまた、本文や挿画、表紙、カバーなど、さまざまな「部品」が集まってできた「製造物」であることを感じさせる。

 
 

「大五反田」の誕生



 さて、同書で星野が「発明」した概念こそが、もはやゲンロンではお馴染みとなった(?)「大五反田」である。星野には『コンニャク屋漂流記』(2014年)や『戸越銀座でつかまえて』(2013年)に代表されるように、自分のルーツを辿り、地元を描いた著作が多い。しかし、みずからの出身をどう言い表すかについては、つねに迷いがあったという。生まれた病院は武蔵小山だが、そこからはずっと戸越銀座だ。けれども五反田にも深い縁がある。ゲンロンカフェが五反田にあると知ったとき、カフェのほうが「私の「シマ」に入ってきた!」というセンサーがはたらいた、そのテリトリー的な故郷範囲を何と呼ぼう。

 星野はそこで、イギリスの首都全体を表す「大ロンドン」にならい、五反田駅を中心とした区域を「大五反田」と名づけた。この「大五反田」は、くしくも量太郎の人生にも重なっている。千葉・岩和田から13歳で上京した祖父・量太郎は、「大五反田」北部の芝白金三光町をはじめいくつかの工場で働いたのち、五反田で独立。のちに、いまも星野家が居住する戸越銀座に移った。やはり「大五反田」の北部にあたる白金高輪は、五反田や戸越銀座とは異なるエリアのように思えるが、五反田を中心に描いた半径1.5kmの円にはこの地域も含まれる。そこは、祖父が最初に暮らした町なのだ。富裕層が暮らすすぐ横に、労働者の暮らしがあった。

 星野と五反田の結びつきを強める契機となったのは、祖父・量太郎の死であるという。星野は、忙しかった両親に代わって遊び相手をつとめてくれた量太郎の死にまつわる切ないエピソードを語った。末期の胃がんで退院してきた量太郎は、家でも日に日に体が痩せほそり、お腹のあたりが黒くなるほどに弱っていった。しかし当時8歳の少女博美は、周囲の大人から病気は治っていると言われ、死に目にもあわせてもらえなかった。その量太郎が荼毘に付されたのも「大五反田」圏内にある桐ヶ谷斎場だ。あまりに近所なので、家族は量太郎の骨を持って歩いて家まで帰ったという。

 星野いわく、幼少期の行動範囲は非常に狭く、また臆病だったため、戸越銀座商店街の端まで行けないほどだった。(馴染みのない人に説明すると、戸越銀座商店街はたしかに長いが、全長1キロほどで、子どもが歩けない距離ではない。)また、地元密着の町工場のため、転校や引っ越しもありえず「一生ここから出られない」という自覚さえあったという。しかし、星野のこの地元意識は、祖父が残した手記を通じて彼の人生と重なり、長い年月を経て『世界は五反田から始まった』において結実した。そう考えると、「大五反田」の概念がなおさら必然に思えてくる。

 
 

 

「コスパ」の良さ


 星野は五反田を、「コスパ」の良さから成り立った街だと紹介する。もともとはのどかな農村地帯だったが、関東大震災で山手が被災し、人びとが一気に南下した。田畑が開発しやすく土地が安価だったことや、目黒川や貨物駅が近くにあるという交通の利便性から、その次の世代もここに住み着いて定住した。いまも都心のわりには家賃が抑えられるという「コスパ」のよさを求めて、IT系の企業やベンチャー起業家たちが集まっている。

 星野はまた、祖父の手記も「コスパ」が良いと評した。A4にしてたったの25枚ほどしかないこの手記が、同じく家族のルーツを扱った『コンニャク屋漂流記』でも、今回の五反田本でも多く引用されている。とはいえこの手記の「コスパ」とは、単なる「費用対効果」以上のものだろう。祖父の人生の厚みを、星野がさまざまな面から掬い取り、新たな光を与えているのだから。

 上田は、このような「コスパ」や「合理性」への関心が、星野を形づくる重要な美的感覚ではないかと指摘した。というのもこの「コスパ」第一主義は、星野のもう1つの大きな関心事である「社会主義」とつながっているからだ。

 星野は香港に滞在した経験を生かし、中国・香港に関する著作も多数上梓している。中国への関心を持つようになった要因のひとつが、人民服への憧れだったという。人民服は、丈夫で汚れにくく、長持ちするものでなければならない。つまり社会主義国における労働者のための服だった。これは星野製作所で着られていたナッパ服にも当てはまるものだ。とはいえナッパ服を着ると、星野製作所の「制服」そのままになってしまう。星野はナッパ服とまったく同じではないが似たものとして、人民服に、ひいては社会主義国に惹かれたのではないか、と上田は分析した。

 こうして五反田が社会主義という世界につながった。五反田から、ベルリンや中国といった社会主義の地へ飛び出した星野が集めた貴重なコレクションの紹介も、本イベントのハイライトのひとつだ。

五反田と戦争


『世界は五反田から始まった』において、五反田が大きな世界とつながる重大な局面といえば、第二次世界大戦だ。星野は、祖父から何度も伝えられた「戻りて、ただちに杭を打て」という言葉をたよりに、戦時下の祖父や五反田の人びとの日常、空襲時の状況を詳細に追っていく。そこから見えてきたのは、戦争のなかで生き残るために市民が自然と身につけていった「ノウハウ」だった。

「戻りて、ただちに杭を打て」という「家訓」には、そのノウハウがぎゅっと詰まっている。星野と上田が読み解いたように、そもそも杭を打つためには、まず空襲から逃げて、生き延びなければならない。どうにか生き延びたら、すぐ家があった土地に戻り、区画の目印として杭を打つ。それだけではなく、杭を動かされないようにその場で見張っていなければならない。ここまでしてはじめて、戦争のなかで家を守ることができるのだ。

 日本において戦争は、凄惨な被害や悲しい記憶とともに語られることが多い。そのような語り口や、「戦争はよくない」という反戦思想はもちろん大切だ。しかし、市民がどのように生き延びたかについてはあまり語られない。さらにいえば、現在の私たちは「戦前」と「戦後」、つまり8月15日の終戦を区切りとして世界が分かれているように考えがちだ。しかし当時の人たちにとっては戦争「中」も、8月15日をまたいだ日々も日常は続いていた。町工場は、発注元が軍事産業か平和産業かにかかわらず、同じ部品を作り続けていた。量太郎は自分の家が焼けた直後から復興に向けて動き出すが、その間もまだ戦争自体は続いていたのだ。

 上田が指摘したように『世界は五反田から始まった』は、戦争中の人びとの感覚や日常、その中で編み出されていった市民のノウハウを肯定的に語っている。そして、ロシアのウクライナ侵攻や台湾情勢の緊迫など、世界の情勢は残念ながら厳しさを増している。その意味でも、いま読まれるべきノンフィクションなのである。

 
 

 
「世界は」五反田から始まった。「すべての道は」五反田に通ず。そんなわけはないだろう、主語が大きすぎる、というツッコミがすぐに入りそうなタイトルだ。しかし、本書と本イベントを通じて明らかになったのは、個人的なルーツや地元から見える「世界」の姿が確かにある、ということではないだろうか。

 星野は、自分と世界を結びつける接点をつねに探していると述べた。大きな世界との接続は、自分のささやかな生活や退屈な人生に刺激を与える材料となるのだと。関東大震災と第一次世界大戦をきっかけに五反田周辺が栄え、栄えた地に星野の祖父が居を構え、第二世界大戦の中でも町工場を続け、家族を守り生き抜いた。個々人の日常は、世界史上の大きな出来事とたしかに結びついているのだ。

 地元への愛着とグローバルな意識は、必ずしも相反するものではない。狭い地域の話もこれだけ豊かに語ることができ、ほかの世界とつながることができる。五反田から見える世界の姿がたしかにあった。

 ぜひ『世界は五反田から始まった』を片手に、放送をご覧いただきたい。(栁田詩織)

 
 

 
シラスでは、2023年1月12日までアーカイブ動画を公開中です。
 ※好評につき、視聴期限を2024年1月18日まで延長しました。(2023.7.18更新)


星野博美×上田洋子「すべての道は五反田に通ず──町工場から見た戦争と戦後」【『世界は五反田から始まった』刊行記念】(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20220715/
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