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【『ゲンロン13』関連記事】悪と公共性をアジアから考える(2)|梶谷懐+東浩紀

webゲンロン 2022年10月17日配信
 2021年11月16日、『ゲンロン12』刊行記念イベントのひとつとして経済学者・梶谷懐さんと東浩紀による対談イベントが行われました。『幸福な監視国家・中国』(共著、2019年)などの著作で知られる梶谷さんが、東の論文への応答記事をご自身のブログで書かれたことをきっかけに実現したこの対談。昨年「ゲンロン友の会」にも入会してくださったという梶谷さんのご経歴から、戦争責任の問題や村上春樹らの文学作品、さらには中国の政治風土や公共性まで、「アジア」という視点からさまざまな普遍的な問題について深い議論が交わされました。第1回とあわせてお楽しみください。(編集部)
第2回

他者としての歴史

梶谷 さきほども述べたとおり、中国で愛国教育とともに、第二次大戦の被害の物語化が始まったのは90年代です。それに対応して日本国内でも論争が起きます。細川内閣が先の大戦の侵略性を認めたのが93年、続けて95年には「謝罪」を表明した村山談話があり、同じ年には吉見義明さんの『従軍慰安婦』が出版されます。他方で保守側からも小林よしのりの『戦争論』など、それらの動きへの批判が出てくるようになり、いまにつながる対立の構図が生まれることになります。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(1994-95年)も、村山談話と同時期に出ていますね。

 終戦50年で、過去の歴史を総括しようという機運があった時代ですね。日本の加害性を率直に認めれば、日中韓の友好は回復できるという期待があった。

梶谷 その点で重要なのが、1993年に始まった、いわゆる東史朗裁判です。東史朗氏は南京戦に従軍していたひとで、戦後、南京での中国人虐殺について事細かに記した手記を出版しています[★1]。そのなかに中国人を郵便袋に入れて燃やした、という記述があるのですが、それに対して当時の上官が事実ではないとして名誉毀損の裁判を起こしました。その裁判で東氏は敗訴します。

 すると、こんどはこの裁判が中国で話題になる。東氏を「虐殺に向き合った良心的な日本人」として英雄視する一方、東氏が裁判で敗訴したのは戦争犯罪を認めたくない日本政府が圧力をかけたからにちがいない、という批判が湧き上がりました。その批判的な雰囲気は、やがて研究者も巻き込んでいきます。中国政府は南京大虐殺の犠牲者は30万人だと主張していますが、日本の歴史学者の多くは、虐殺の存在やその非人道性は認めつつも、犠牲者の数については実証主義の観点から疑義を呈する立場をとってきました。しかし、そういった実証主義的な立場そのものが、日中両国の急進的な論者から「被害者に寄り沿っていない」として批判されるようになったのです。

 たとえば、中国思想の著名な研究者である溝口雄三さんの「現在形の歴史とどう向き合うか」(2000年)という論文があります[★2]。溝口さんは、竹内好の研究などで知られる中国人研究者の孫歌さんの問題提起を受けて日本の実証史学を批判し、歴史学は戦争で被害を受けた中国人の感情や記憶にもっと向き合うべきではないか、と問題提起します。これに対し、実証史学の立場から反論したのが古厩忠夫さんです[★3]。古厩さんは日中戦争期の中国史を専門とする研究者で、日本軍の戦争犯罪についても真摯に向き合ってこられた方です。そのこともあって、彼は感情や記憶の重要性を認めつつも、歴史修正主義に付け入る隙を与えないためには、むしろ歴史学は実直に実証を積み重ねていくしかない、と主張しました。

 わたしはこの論争が、東さんが『ゲンロン12』の論文で指摘されたリベラルの排他性の問題ともつながるように思います。つまり、溝口さんの議論は、アジアの被害者へと開かれているように見えて、加害者と被害者を二項対立的に捉えることで、むしろ一部の左翼的な価値観を共有する人々のあいだで閉じてしまった、という面があるのではないか。

 つながると思います。犠牲者が3万人だったのか30万人だったのかという数字に実証的にこだわること自体が、被害者の辛さに向き合っていないとして二次加害だとみなされてしまう。政治的な中立性を目指すこと自体が、政治的な立場と受け取られてしまうというジレンマが生まれているわけですね。

 

東浩紀
 

梶谷 わたしは中国の捉え方という点で溝口さんの著作から多くを学んでいます。けれどもこの論争では古厩さんに深く共感しました。古厩さんはなによりも、日本人に踏み絵を迫るような溝口さんの「語り口」に反発したのだと思います。

 そもそも「現在形の歴史」という発想そのものが危険なように思います。さきほども述べたように、現代からみるととんでもない悪を犯したひとも、時代の常識のなかではそれなりに合理的な振る舞いをしていたはずです。過去を反省するということは、まさにそんな「他者」について考えることです。けれども歴史のすべてが現在形に還元されてしまうとなると、かつて行われたことを断罪するか許すかの二項対立になってしまう。歴史という他者が消えてしまう。

梶谷 東さんに同意します。しかし、そこで実際にどのように歴史を語ればいいのかというのはとてもむずかしい。東さんが村上春樹を参照して論じられていたように、文学の言葉がここで重要になるのだと思います。

 『ゲンロン10』では村上春樹の「井戸に潜る」というメタファーに注目しました。そこでぼくが考えたかったのは、過去を他者として捉えつづけるにはどうしたらいいか、つまり過去を過去のまま記憶するのはどうしたらいいかという問題だったのだと思います。中動態を中動態のまま記憶すると言いかえてもいい。

梶谷 文学についてわたしからも一例を挙げると、中国出身でアメリカ在住のケン・リュウというSF作家がいます。中国人としてのアイデンティティを保持しつつ、それを相対化するような作品を書きつづけている作家です。なかでも『宇宙の春』という日本で編まれた作品集に入っている「歴史を終わらせた男」(2011年)という小説は、731部隊の記憶をテーマにした問題作です[★4]。この作品では意識だけがタイムトリップする技術が開発されたことになっているのですが、特定の過去に戻ることができるのはたったひとり、かつ一回だけという設定になっている。だれもが過去の戦争犯罪を直接目撃してそれをたしかめられるわけですが、目撃できるのはひとりだけ、しかもチャンスは一回しかないのだから、だれが見に行って証言するのかという政治性からは逃れられない。

 ぼくもその作品は読みました。英語圏では日本よりも資料や研究は少ないはずだと思いますが、731部隊の状況について詳細に事実関係が抑えられていて驚きました。そのうえで梶谷さんが指摘されたような問題提起を行っている。

 そもそも主人公は日系アメリカ人の女性物理学者なんですが、彼女はじつは731部隊の医師の孫であることを隠していて、そんな彼女の技術を使って夫の中国系アメリカ人の歴史学者がタイムスリップするという物語になっている。おまけに作品全体が彼らの試みを捉えたドキュメンタリーフィルムになっているという設定なんですよね。いくら歴史的な真実を探究しようとしても、人間は主観から逃れられないという問題が、何重もの仕掛けで正面から捉えられている。

梶谷 これを中国人が書いているということも重要です。あえてこういう言い方をしますが、被害者の側からこのような作品が出てきたことは、これから歴史認識の問題を生産的に語るうえでひとつの希望になりうるでしょう。

 訳者もあとがきでこの作品を日本語でどのタイミングで出版するか迷ったことを記しています。翻訳されたことに大きな意義があると思います。

村上春樹におけるアジアの記憶

 ケン・リュウのような問題提起に対して、加害側である日本人はどのように応答できるでしょうか。そこでちょっと梶谷さんの村上春樹論をお聞きしたいのですが、『「壁と卵」の現代中国論』(2011年)で、『ねじまき鳥クロニクル』におけるモンゴル兵が日本兵の皮を剥いで惨殺する場面を取り上げていますね[★5]。村上は中国人の描写はたいへんフェアであるにもかかわらず、モンゴル兵についてはじつにステレオタイプで描いている、そこにアジア的な暴力性を考える鍵があるのではないかと指摘されています。

梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院)
 

梶谷 村上作品には中国人が頻繁に登場します。デビュー作の『風の歌を聴け』(1979年)に出てくる「ジェイズ・バー」の「ジェイ」も中国人ですが、彼らはけっしてステレオタイプな中国人として描かれていません。背景には、彼が生まれ育った神戸での経験や、『猫を棄てる』(2020年)で書かれたような父親の従軍経験の問題があるのだと思います。しかし、そんな彼が中国人の立場に寄り添いつつアジアの暴力性を描こうとすると、とたんにモンゴル兵のようなオリエンタリズム的なステレオタイプが出てきてしまう。

 わたしの考えでは、この問題は日本の左翼的な知識人がチベットや新疆などの中国の少数民族への抑圧に無関心だったこととも関連しています。象徴的なのは中国文学者の竹内好です。ご存じのように、彼は西洋に蹂躙されてきたアジア、という立場から近代の暴力性をどう乗り越えるのかについて考えてきたひとで、「近代の超克」に関してもいろいろと評論を書いている[★6]。先の大戦に関しても、日本のアジア侵略を徹底的に批判する一方、英米に対する戦争には一定の評価を与えています。

 彼は中国の知識人、魯迅から大きな影響を受けました。魯迅は近代化の暴力に対し、地に足をつけたかたちで抵抗しようとした。他方で、日本は優等生的に西洋的な近代にキャッチアップしたけれど、そこには抵抗のための根っこがない、というのが竹内の診断です。けれども、竹内はそこで中国が近代化の過程で行ってきた暴力についてはほとんど触れていません。中国の情報があまり入ってこないという時代的な制約はあったにせよ、少数民族などのマイノリティ問題について関心が薄かったことは否定できません。そして、このような竹内の姿勢は、中国に思い入れや贖罪感を持つ戦後日本の知識人にある程度共通するものだったと思います。

 中国寄りの知識人が中国国内の少数民族弾圧には無関心であるように、村上もまた中国の外部にある「アジア」に対してはオリエンタリズム的な視線を向けるしかできなかったのだと。ただ、梶谷さんは村上作品に対してけっして否定的ではありませんね。梶谷さんは前出のブログ記事で、『ねじまき鳥クロニクル』をアジア性に肉薄している作品として評価されてもいる。

梶谷 『ねじまき鳥クロニクル』をどう評価するかは複雑な問題です。すくなくともさきに確認しておかなくてはならないのは、そもそも「アジア性」という概念自体が政治的にかなり問題含みだということです。この概念は、しばしば近代性の反対語として使用され、野蛮さや愚かさを含意するからです。

 それは村上も例外ではありません。たとえば村上には「ノモンハンの鉄の墓場」(1994年)というエッセイがあります。『ねじまき鳥クロニクル』第二部の執筆後に実際にノモンハンへの取材に行ったという旅行記ですが、そこで村上は「アジア性」という言葉を以下のように使っています。「彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く・・・・・・・・殺されていったのだ。そしてこの『効率の悪さ』を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性・・・・と呼ぶことができるかも知れない」[★7]。ここで村上は、日本軍の前近代性とでも言いかえられるものをわざわざ「アジア性」と書いている。日本の蛮行を批判するはずの文章が、いつのまにか中国を含むアジア全般を野蛮さや愚かさと結びつける議論にすりかわっています。

 

梶谷懐
 

 なるほど。

梶谷 そのような危うさをさらにわかりやすく表しているのは、吉本隆明のアジアをめぐる発言です。吉本は『試行』の巻頭連載だった「状況への発言」というエッセイで、1972年にこのように書いています。「他国に侵入した軍隊は、その〈残虐行為〉の方法をどこから学ぶのだろうか。[……]他国に侵入した軍隊は、その〈残虐行為〉の方法を、その国の支配者が、自国の貧民に加えた〈残虐行為〉から学ぶものであるとしかいえない。中国の軍閥が貧農にたいして加えてきた〈残虐行為〉や、中国の古代からの支配者が、その人民に加えてきた〈残虐行為〉の伝統なしには、日本兵士の中国人にたいする〈残虐行為〉の方法・・はありうるはずがない」[★8]。ここで吉本は、日本の蛮行を中国の伝統にならったものだとして責任転嫁してしまっている。いまこのような発言を影響力のある知識人が行うことは政治的に正しくないというか、完全にアウトですよね。

 この発言は驚きますね。村上にせよ吉本にせよ、アジアと暴力の関係について語ろうとすると、とても単純な「未開のアジアから暴力がやってくる」というステレオタイプに陥ってしまう。

梶谷 はい。ただ、村上はこういう問題含みのアジアと暴力の関係を踏まえたうえで、小説を通じてその本質をなんとか多面的に語ろうとしているのではないでしょうか。『ねじまき鳥クロニクル』には戦争暴力が描かれた場面がふたつあります。ひとつがさきほどから話題になっているモンゴル兵の場面。もうひとつが長春の動物園の場面で、こちらには日本兵が中国兵を撲殺するくだりが出てきます。つまり村上は、同じ小説のなかでまずモンゴル兵による日本兵の殺害を描いたあとに、こんどは日本兵による中国人の殺害を描いているわけです。モンゴル兵に象徴されるアジア的な暴力性と日本人の加害が、直接のつながりはなく、間もかなり空いているものの、明らかに連続するものとして描かれている。これは、学者などがストレートには発言することができないアジア性をめぐる危うい論理を、文学的手法によって繊細に扱おうとしたものだ、と解釈できると思います。

 モンゴル人の暴力性が日本軍に伝染し、後半の動物園の場面が生まれたという解釈ですよね。しかしそれは吉本と同じ免責になりませんか。

梶谷 たしかに、そういう見方もできるかもしれません。ただ、この作品は中国でもよく読まれていますが、日本の戦争犯罪を免責している、という反発を受けたりはしていないようです。

 これは思いつきですが、村上春樹は『羊をめぐる冒険』で羊の皮をかぶった「羊男」を登場させますよね。この作品の舞台である北海道と『ねじまき鳥クロニクル』の満洲は日本近代史のなかで相似的な地位を占めていて、実際に『羊をめぐる冒険』でも満洲の話が出てきます。『ねじまき鳥クロニクル』でモンゴル兵は日本人の皮を剥いだわけですが、『羊をめぐる冒険』には羊の皮をかぶった男が出てきていたわけで、ここにモチーフのつながりがあるかもしれません。

梶谷 おもしろいですね。わたしが思いつくのは大江健三郎の作品、とくに『万延元年のフットボール』(1967年)との対比です。この小説の舞台は、主人公の兄弟の故郷である四国の谷間の村ですね。その村には資本主義の象徴たるスーパー・マーケットがあり、その経営者は「スーパー・マーケットの天皇」と呼ばれて憎まれている。この人物は在日朝鮮人という設定です。そんな設定のなかで、弟の鷹四は、兄弟の曽祖父が起こした100年前の一揆の記憶を呼び起こしながら、村のひとたちを先導してスーパーの打ちこわしを始めるわけです。

 ここにもまたアジアと暴力の問題が現れています。鷹四の打ちこわしは資本主義への抵抗運動として描かれますが、それは明らかな朝鮮人差別、現代でいうところのヘイトスピーチを伴うものでもあった。柄谷行人さんなどは『終焉をめぐって』(1990年)で、この作品を日本とアジアのあいだの、近代と暴力性をめぐる複雑な関係を描いたものとして高く評価しています。それに対して、村上の作品ではアジアとの関わりは「羊」のような記号を通じて語られるだけで、過去の負の遺産に向き合う姿勢が希薄である。さらに資本主義への批判的な要素もない、としてあまり評価しないのが柄谷さんの姿勢です。他方で、東さんは「悪の愚かさについて」のなかで、村上の「井戸に潜る」というかたちでの記憶の向き合い方を評価されていますね。

 ふわっとした言い方になってしまいますが、ぼくとしては、村上作品で大事なのは、たまたま隣り合うことでなにかと関係を持ってしまうといった「偶然の記憶」の感覚だと考えています。『ねじまき鳥クロニクル』でも、偶然近所の女の子と会うことから連鎖して、最終的にはアジア的な暴力の記憶にまで到達することになる。村上が活躍し始めた80年代から90年代は、まさに戦争の記憶が希薄になっていく時代です。村上はそのような時代のなかで、生活のなかでふと過去のトラウマや記憶が降りてくるという感覚をうまく掴んでいる作家なのではないか。

 柄谷さんが評価する大江や中上健次は、血と大地という基盤があってアジアの問題について考える。他方で村上の場合は、すべてが資本主義化され数字になってしまった世界のなかで、亡霊的に漂うアジアの記憶に触れようとしているとでもいえるかもしれない。それは柄谷さんにとってはあまりに記号的で表層的に見えたのでしょうし、実際村上作品にはステレオタイプな女性登場人物の描写など記号的文学であるがゆえの問題もありますが、ぼくはその記憶の感覚には可能性があるように思うのです。

「人民の敵」を探しつづける中国

 ここまで悪やアジア性の問題について語ってきましたが、ここからはもうひとつのテーマである公共性について議論したいと思います。

梶谷 アジアにおける公共性ということでいえば、わたしはこのところ、東さんも論じられている西洋的な一般意志と中国の関係について考えています。(次回へ続く

 

★1 東史郎『わが南京プラトーン──一召集兵の体験した南京大虐殺』、青木書店、1987年。
★2 溝口雄三「現在形の歴史とどう向き合うか」、『中国の衝撃』、東京大学出版会、2004年(論文の初出は2000年)。
★3 古厩忠夫「『感情記憶』と『事実記録』を対立させてはならない──溝口雄三論文への反論として」、『世界』2001年9月号、岩波書店。
★4 ケン・リュウ「歴史を終わらせた男──ドキュメンタリー」、『宇宙の春』、古沢嘉通訳、早川書房、2021年。
★5 梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論──リスク化する超大国とどう向き合うか』、人文書院、2011年、244‐248頁。
★6 「近代の超克」は、『文学界』1942年9月号から10月号に掲載された特集および座談会のタイトル。同座談会には小林秀雄、西谷啓治、林房雄、鈴木成高ら13人の文化人が参加し、西欧的近代を乗りこえる日本精神のありようが議論された。竹内好は1959年の論文「近代の超克」で、この座談会を「日本近代史のアポリア」を凝縮したものとして論じた。同論文は、この主題にまつわる竹内のさまざまな文章をまとめた以下の書籍にも収録されている。竹内好『近代の超克』、筑摩叢書、1983年。
★7 村上春樹『辺境・近境』、新潮文庫、2000年、168頁。強調は原文。
★8 吉本隆明「情況への発言──きれぎれの批判[1972年2月]」、『吉本隆明全集12 1971-1974』、晶文社、2016年、265頁。強調は原文。
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1970年生まれ。2001年、神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得。神戸学院大学経済学部講師、助教授、神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て、現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)、『中国経済講義』(中公新書、2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著、NHK出版新書、2019年)などがある。

+ その他の記事

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。

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