【『ゲンロン13』より】令和の国体 ──歴史・天皇・安全保障(抜粋)|辻田真佐憲+三浦瑠麗

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webゲンロン 2022年10月24日配信
 11月初旬に発売予定の『ゲンロン13』より、辻田真佐憲さんと三浦瑠麗さんによる対談を公開いたします。敗戦を経た日本では「国体」という言葉が忌避されてきたと三浦さんは指摘します。そのことから生じた無数の対立に、われわれはどう向き合うべきなのか。気鋭の論客2人が、令和における歴史観と天皇のあり方を議論します。
 
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辻田真佐憲 本日は「令和の国体とはなにか」というテーマで、国際政治学者の三浦瑠麗さんと議論したいと思います。話題としたいのは、「国のかたち」に深く関わる歴史観、天皇、自衛隊です。昭和においては戦争があったせいで、天皇と軍隊・自衛隊の評判は落ちていました。それが平成になると、両者に対する評価はグンと上がった。では令和においてどうなるのか。

 いま言論人は二極化しています。一方には政権の太鼓持ちのような「保守」がたくさんいる。もう一方には、ツイッターで優等生的な揚げ足取りばかりしながらも、世の中には影響力を持てない「リベラル」がいる。しかし、本来の知識人は、政治家や官僚ともあるていどしっかりコミュニケーションができ、かつそこから一定の距離を取って話ができるひとであるべきです。三浦さんは、いまその役割を果たしていらっしゃる数少ない言論人のひとりであり、「国のかたち」といったむずかしい問題についてフラットに意見がうかがえる貴重な方だと思います。

三浦瑠麗 ありがとうございます。わたしは大学で研究を始めたころから、軍のシビリアン・コントロール(文民統制)を専門にしています。もともと関心を持っていたのは「いかに日本の現状が普遍的なシビリアン・コントロールから乖離しているか」ということでした。辻田さんの近刊の『防衛省の研究』(2021年)では、その理由が歴史的な経緯にもとづいて語られるのが新鮮でした。

辻田 一昔前には、歴史を語るときに「昭和史」という大きなジャンルがありました。故・半藤一利さんや保阪正康さんが、昭和の歴史を物語化して一般の市民につなぐ役割をされていた。昭和期には戦争が国民の悲劇として共有されており、歴史を知りたいという欲求が多くのひとにありました。しかし平成以降はそういう仕事があまりなされていない。昭和に敗戦によって果たされた歴史の共有が、いまや存在するのかも定かでない。これからは経済格差などで国民も分断されていき、日本人像そのものが解体していくのかもしれません。そのようななか、これからの「国のかたち」はどうなるべきかを議論できればと思います。

辻田真佐憲『防衛省の研究』(朝日新聞出版)

ふたつのナショナリズムと「国体」


辻田 まずは議論の導入として、「国体」とはなにかを確認しておきましょう。ふつう国体という言葉は、日本の国柄、とくに天皇を中心とした国のあり方を指します。これについて書かれた文章が戦前にふたつありました。『教育勅語』(1890年)と、『国体の本義』(1937年)です。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス(『教育勅語』、強調は辻田)


大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。(『国体の本義』、強調は辻田)


『国体の本義』は、日中戦争勃発と同じ年に文部省が出した本です。共産主義の流行に対抗すべく日本の国家観も体系化しておかなければいけないということで、国体を定義した。逆に言うと、じつはそのころまで国体の明確な定義はなかった。三浦さんにとって国体のイメージとはどういったものでしょうか。

三浦 われわれが国体という言葉に触れるときは、まず現代では使わないものとしてイメージしますよね。くわえて、戦時中の記憶がある世代の一部は別ですが、そうでない世代はまず否定から入る。なぜこの言葉を忌避するかというと、天皇の存在を政治的なものにしたり、統治のトップに置こうとしたりする勢力への警戒ゆえです。だからこそ逆に、最近は右派の一部でこの言葉をあえて使うことが流行っている。

 でもそんなひとたちこそ現上皇の譲位に反対していましたね。あのとき、国体という言葉の流行は天皇個人への崇拝にはつながっていないと思いました。本人に譲位の意思があり、歴史的にも同様のケースはあったにもかかわらず、彼らは譲位を認めたがらなかった。彼らもまた、天皇という存在を空箱として利用しようとする人々にすぎないことがあらためてあきらかになりました。結局のところ、国体というのは便利な空っぽの概念です。われわれがなにをもって自分たちを日本人だと位置づけているのかといえば、じつは天皇とは関係ない。この日本列島に生まれたからだ、ということにすぎないのではないでしょうか。
辻田 なるほど、当然ですが天皇のいない共和制の国にもナショナリズムはあります。日本だって、天皇という特殊な血族に依存する厄介な仕組みは取り払ったほうが、むしろ健全なナショナリズムが育つという議論もあります。三浦さんの愛国心のなかで、天皇はどれくらいの大きさを占めているのでしょうか。

三浦 ふたつの回路があると思います。わたしのナショナリズムは、まずはあくまで西洋近代的なものです。それは制度へのリスペクトであり、特定の座を占めている個人へのリスペクトではない。仮に総理大臣が部屋に入ってきたら、それがどんなボンクラであったとしても席を立って迎える。非常に人工的な考え方です。

 他方で、情念的な意味では、日本家屋の佇まいから平安時代の貴族文化から、それこそ天皇家にいたるまでの、ありとあらゆる「日本的なもの」への愛着も感じています。そのなかで、天皇の比重はふつうのひとよりはすこし大きいかもしれない。ただ、それもあくまで伝統文化の重みを引き受けてくださるひとという存在へのリスペクトであって、個人として崇拝するものではありません。

辻田 ふたつの回路というお話はよくわかります。日本の近代史でいえば、脱亜入欧とアジア主義のふたつの国家観・価値観の話ですね。そのあいだでどうバランスをとるかは、ずっと議論になっている。両方に足をかけながら迷いつづけるのがいいんだ、という考え方もありうると思います。

三浦 西洋が合理主義だけだとは思っていません。自分が暮らす土地に対する愛は西洋にだってある。『風と共に去りぬ』(1936年)に、スカーレット・オハラがそれまで無能だと考えていた父の偉大さを自覚する瞬間があります。それは土の偉大さを理解する瞬間でもあり、そこでオハラは「この土地をなにをしてでも守る」という境地に達する。

 日本の問題は、そういう土地への愛着が国家への愛に飛躍するときに、そのふたつの区別がきちんとついていないことです。国家としての日本には近代合理主義が足りなかった。それでいろいろなものをごちゃ混ぜにしてしまい、結果として天皇という文化に寄りかかりすぎてしまった。ウェットなことだけを言うのでなく、同時に制度的な合理主義を血肉にするべきです。

辻田 たしかに、いきなり個人から国家に情念が向くと超国家主義になって危ない。いまのネット右翼は隣人ともろくに会話せず、郷土の祭りに参加するわけでもない。いわゆる「地元が好き」みたいな感情は希薄です。それなのにネットにずっと張りついて天皇が云々と書いている。

三浦 コロナ禍でわたしが最初に考えたことは、学校が閉じてしまった地元の子どもたちの支援をどうするかということでした。でもいわゆるネット保守にそういう視点はない。そもそも、足元の生活で忙しければそんなにツイッターをしている暇だってない。わたしは思想の面はリベラルですが、自分の生活のリアリティは保守です。ただそこで満足してはいけないと思い、リベラルなアイデアを提案しているわけです。

辻田 三浦さんは、ある種のノブレス・オブリージュとしてリベラルな意見を発信されているわけですね。

三浦 わたしはオールドリベラルですから。

まちがいの歴史戦


辻田 それでは、令和の日本像を占う具体的な議論に入りたいと思います。今日はいくつかのトピックを考えてきました。

 最初は歴史観の問題から始めたいと思います。最近は「歴史戦」という言葉がよく使われます。たとえば、佐渡金山の世界遺産登録への推薦に韓国政府が反発を示している問題をめぐり、NHKの岩田明子記者が番組で「歴史戦」というパネルを作り解説するということがありました★1。2022年1月27日のことですが、これがリベラル界隈で問題視されました。

 この言葉は、もともと2013年に『正論』で「歴史戦争」という表現で使われたのが最初だと言われています。翌年には産経新聞本紙で「歴史戦」という特集が始まり、のちに書籍化もされました★2。そのオビに「朝日新聞、中国・韓国と日本はどう戦うか」とあるように、いかにも産経的なメディア・キャンペーンを表す言葉だった。それがあれよあれよという間に政権中枢や世間一般でも使われるようになった。

三浦 佐渡金山の問題にかぎらず、慰安婦や徴用工の議論についても、歴史問題はすべて普遍的な立場から扱うべきだと考えます。たとえば日本人でも、芸妓に売られたつもりでいたらいきなり慰安婦にされたケースがある。むろん、そこで娼妓として売られること自体の是非を問う議論はありえます。また、自由意志で娼妓になったとしても、その労働環境は別に考えるべきです。けれども、いずれにしてもそれらは現代にも通ずる話で、人権問題や女性問題のような普遍的な枠組みで語りうるはずです。

 そもそも私は、なぜ一部の人々が、過去の人々の過ちについて、まるで自分が言われたかのように感じて反撃しているのかがわからないんですね。歴史を政治の戦場にしてしまうと、ゼロか百かという極論しかなくなってしまう。韓国の言い分にしても、正しい部分とまちがっている部分のコンビネーションとしてあるはずです。相手の言い分の誤っている部分だけを取り上げる態度でのぞめば、それはすべての主張を退けることもできるでしょう。でもそれは建設的ではありません。

辻田 韓国にもまちがいはあるというご指摘は重要です。リベラルでその立場をとっているひとは少ない。彼らの理解では、韓国が正しいことを言っているのに日本が虚偽の歴史戦を仕掛けているということになっている。逆に保守は、それがたんに逆転した認識を持っている。

三浦 わたしがやっている「日本人価値観調査」から見えるのは、韓国が2017年に慰安婦合意を覆したことによって「韓国に歴史問題で妥協すべきではない」というひとの割合が党派を超えて優勢になったことです★3。そのせいで、韓国に妥協すべきではないという政治的な議論と、彼らは正しいこともまちがったことも言っているという歴史的に客観的な議論が両立できなくなってしまった。

辻田 問題は、そのような態度ではいつまでたっても国家同士のコミュニケーションが成立しないということです。歴史戦という捉え方の根底にある発想は、「声がでかいやつが勝つ」というものです。できるだけお金を投入して宣伝合戦をし、相手を圧倒すべきというわけです。しかし、それではいつまでたっても争いは続く。どこの国のあいだでも歴史観の齟齬はあります。中国と韓国のあいだにだって、高句麗をどちらの王朝とみなすかという論争がある。外交の争いは、唯一の正しさを取り合うのではなく、お互いにまちがいがあるなかでどう調整していくかという方向に進まなければなりません。

敗戦と歴史の断絶


辻田 日本人の歴史観を考えるうえで避けて通れないのが、大東亜戦争あるいはアジア太平洋戦争の位置付けです。そもそもこの戦争をどう呼称すべきかというところから議論が紛糾している。三浦さんはどう呼びますか。

三浦 わたしは教科書的に太平洋戦争と呼んでいます。国際政治を勉強すると英米系の文献に触れます。そこではPacific Warになっていますね。大東亜という呼称自体が、日本を主体にしようという企図にもとづくものですから。

辻田 太平洋戦争の頭にアジアとつけるべきだという立場があります。これはむしろアカデミズムもしくは左翼系の考えです。あの戦争は実際は日米だけの戦争ではなく日中戦争からの継続としてあり、さらには東南アジア戦線でも多くのひとが犠牲になっている。したがってアジアの視点を足して「アジア太平洋戦争」にすべきだ、ということです。最近だと英語圏でもAsia-Pacific Warと言われたりもします。そのような考え方はされませんか。

三浦 東南アジアにおいては、日本は基本的に欧米の植民地に進駐しました。もちろん現地人にとっては侵略ですし、蛮行を繰り広げたのも事実です。しかし、日本からするとあれはあくまでも欧米列強との戦争であり、その意味で日本にとっての終着点は日米戦争での敗戦にほかなりません。われわれにとっては永遠に「アメリカに負けた戦争」です。

辻田 日米戦争の主戦場は太平洋であり、それゆえに太平洋戦争と呼ぶことに正当性があるということですね。さらに踏み込んで、あの戦争の位置付けも聞かせてください。たとえば林房雄に『大東亜戦争肯定論』(1964年)という本があります。林はあの戦争を欧米列強の侵略に対する長い反撃の一部と位置付けます。明治維新以来、反撃の過程でやりすぎたことはあったかもしれないが、あくまで自分たちは被害者なのだという論理で戦争を肯定する。こういった歴史観についてはどう思いますか。

三浦 まったく賛成しません。第一次大戦後の日本にはかなりの経済力がありました。そんな国が被害者になるはずがない。もちろん、明治政府ができた前後の日本は、いつ何時列強に侵略されてもおかしくないという小国でした。ただ、昭和期には列強に伍する軍事力を手にしていた。もちろん順位で言えば1位や2位ではないですし、国際秩序で完全な主権平等なんてありえません。軍縮も国力が大きい国に有利に行われます。日本はそこで被害者意識を抱いたわけですが、それは「なぜわれわれがナンバーワンと同じ待遇ではないのだ」というだけの話です。

辻田 なるほど。日本はどこでまちがったのでしょう。よく言われるのは、日英同盟の解消を決めた1921年(失効は23年)あたりではないかということですが。
三浦 もちろん日英同盟はやめないほうがよかったでしょう。しかし、そこにはアメリカの思惑もあった。

 やはり日本にとっては、アメリカにどう対処するかが肝だったと思います。太平洋戦争勃発時も、アメリカは大西洋戦線に関心を集中させており、太平洋戦線は二の次だった。なのに、わざわざ真珠湾攻撃で関心をこちらに引き寄せた。これでは日本が好きで始めた戦争にしか見えません。ならば、真珠湾の手前のどこで止まるべきだったのか。フランス領インドシナに進駐した1940年ですでに終わりだったという話もありますが、わたしは、アメリカ側にはギリギリのラインは存在しなかったのではないかと思っています。ただ日本は、あのときハル・ノートを最後通牒だと受け止めてしまったため、真珠湾攻撃に向かい決定的に状況を変えてしまった。帝国を守ることだけが目的だったならば、アメリカを相手にのらりくらりとやっていればよかったはずです。

 しかし他方、太平洋戦争で負けたことで、植民地の独立戦争に苦しむ思いをしなくて済んだという見方もできます。大日本帝国は植民地を抱え、中国にも多くの拠点を築いて膨張していた。これは脆弱性でもありますよね。たとえば戦後、台湾で赤化した革命軍がゲリラ戦を仕掛けてくるようなことがあったら、国としてはかなり痛んだはずです。結局、日本にはふたつの道しかありませんでした。権威主義的な帝国としてじりじりと赤化ゲリラと戦い、苦しみながら生きながらえるのか。あるいはスパッと負けて、アメリカと仲良くするリベラルな戦後を歩むかです。

辻田 日本が仮に帝国を維持したとしても、そのあとに来るのは悲劇だったと。でもその場合、日本は少なくとも国としての自立性は維持できた。いまのようにアメリカの言いなりではなく、自律的な防衛政策をもち、国際社会でもより重要な役割を果たしていたかもしれない。

三浦 どうでしょうか。かつてのオスマン・トルコは偉大な帝国でしたが、いまのトルコは世界的に見てもそこまで重要な役割を果たしていません。第一次世界大戦で負けたことが大きな要因ですが、日本のように十分に負けなかったという見方もできる。コロナ禍直前にトルコに行ってきたのですが、仮に日本が敗戦していなかったらこんな国になったんじゃないかなと思いました。あの国でのメディアの弾圧はすぐには終わらないだろうし、民主化もそこまで速いペースでは進まないでしょう。

 今日は国体がテーマですが、日本のように国体の明確な断絶がある国は特徴的だと言えますよね。日本人がコロナ禍のもと「命がいちばん大切」という価値観にあそこまで素直に適応したのは、1945年から現在までそれしかなかったからです。朝鮮半島やドイツのようにふたつの国に分割されたわけでもなければ、植民地の独立運動に苦しめられたわけでもない。はじめから国家と民族自決権を手にしている。おまけにアメリカに民主化してもらい、農地改革もしてもらい、財閥解体までしてもらった。命より大切にすべきことが見つからない国なのです。

辻田 三浦さんはそれでいいとお考えなのでしょうか。

三浦 悪くはないと思います。社会において一定の秩序が保たれているというのは大事なことですから。

「平成流」の是非


辻田 つぎに天皇制の話題に移りましょう。最近、悠仁親王──将来確実に天皇になる方だと思いますが──についてふたつのニュースが出ました。(『ゲンロン13』へ続く)

 


★1 当該番組では、「政府の歴史認識に基づいて歴史的な事実を集めて検証を進め、国際社会の理解を得るための戦略を練る」という目的で官邸内に「歴史戦チーム」が作られたと、イラストとともに解説された。「世界遺産は『歴史戦』の戦場なのか 日韓が対立する佐渡金山」、「毎日新聞デジタル」、2022年。URL= https://mainichi.jp/articles/20220204/k00/00m/040/074000c
★2 産経新聞社『歴史戦──朝日新聞が世界にまいた「慰安婦」の嘘を討つ』、産経新聞出版、2014年。
★3 「日本人価値観調査2022」、「山猫総合研究所」、2022年。URL= https://yamaneko.co.jp/news/2022-reports-research2022-6-13/
 
シリーズ史上もっともアクチュアルなラインナップ。2022年2月のウクライナ侵攻に応じて、「ポストソ連思想史関連年表2」を収録。

『ゲンロン13』
梶谷懐/山本龍彦/大山顕/鴻池朋子/柿沼陽平/星泉/辻田真佐憲/三浦瑠麗/乗松亨平/平松潤奈/松下隆志/アレクサンドラ・アルヒポワ/鴻野わか菜/本田晃子/やなぎみわ/菅浩江/イ・アレックス・テックァン/大脇幸志郎/溝井裕一/大森望/田場狩/河野咲子/山森みか/松山洋平/東浩紀/上田洋子/伊勢康平
東浩紀 編

¥3,080(税込)|A5|500頁|2022/10/31刊行

辻田真佐憲

1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。単著に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『防衛省の研究』(朝日新書)、『超空気支配社会』『古関裕而の昭和史』『文部省の研究』(文春新書)、『天皇のお言葉』『大本営発表』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、共著に『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(ゲンロン)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)、『文藝春秋が見た戦争と日本人』(文藝春秋)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。

三浦瑠麗

国際政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、株式会社山猫総合研究所代表。ブログ「山猫日記」主宰。単著に『シビリアンの戦争——デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)、『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)、『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書) 、『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書) 、『21世紀の戦争と平和: 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』、『孤独の意味も、女であることの味わいも』(ともに新潮社)。
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