【『ゲンロン13』より】情報時代の民主主義と権威主義(抜粋)|梶谷懐+山本龍彦+東浩紀

webゲンロン 2022年10月28日配信
 11月初旬発売の『ゲンロン13』より、巻頭を飾る座談会「情報時代の民主主義と権威主義」の冒頭部分を公開いたします。経済学者の梶谷懐さんと憲法学者の山本龍彦さんが、東浩紀とともにAI時代の民主主義を語ります。国際社会が混迷を極めるなか、日本はどこへ向かうべきなのか──必読の鼎談です。(編集部)
 
『ゲンロン13』のご予約はこちらから! またゲンロン友の会では、東浩紀のサイン入り『ゲンロン13』がお得に手に入る「ゲンロン友の会 第13期+『ゲンロン13』付き特別パック」を販売中です。この機会にぜひご検討ください。(編集部)

東浩紀 民主主義と権威主義の対立が議論されています。昨年邦訳されたブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』でも、現代世界の主要な対立はアメリカに代表される「リベラル能力資本主義」と、中国に代表される「政治的資本主義」だとされていました。それは民主主義+資本主義の組み合わせと権威主義+資本主義の組み合わせの対立と言い換えることができます。情報技術の公共的利用をめぐる議論においても、この10年ほど、人権やプライバシーを重視する民主主義の欧米と、監視社会に向かう権威主義の中国が対照されてきました。

 ところが今回のコロナ禍では、欧米で初期からビッグデータやGPSによる監視に高い期待が寄せられ、国内でもリベラルのあいだで政府による強い統制の必要性が叫ばれるなど、その構図が崩れてきました。今日は、憲法と情報技術の関係をめぐる議論の第一人者であり欧米の動向に詳しい憲法学者の山本龍彦さんと、『幸福な監視国家・中国』で中国の公共性と監視の関係を論じられた経済学者の梶谷懐さんをお招きし、民主主義と権威主義の関係についてあらためて考えてみたいと思います。

たじろぐ国家とプラットフォームの台頭

 まずコロナ禍における監視の進展と、それに対する社会の反応についてうかがいたいと思います。山本さんはこの2年間の変化をどのように見ておられますか。

山本龍彦 パンデミックで監視社会化が進んだとおっしゃいますが、ここは慎重な評価が必要だと思います。たとえば、欧米や日本では国家による公的な監視はじつは強化されていないのではないか。国家による監視強化は、グーグルに代表される、営利的な、デジタルプラットフォームによって牽制された面があります。わたしは、悪名高い接触確認アプリ「COCOA」の設計当初、政府の有識者会議に参加していました。そこで感じたのがグーグルとアップルの影響力の強さです。COCOAは両社のAPIを使用することになったために両社から厳しい利用条件が示され、国家はその範囲内でしか設計することができなかった。国はアプリを使って積極的な疫学調査を行うことも考えていましたが、最初から実現できない状態でした。

 具体的にどんな調査を目指し、どういう条件が障壁となったのでしょうか。

山本 感染者との接触を通知してアプリ使用者の自主的な行動変容を促すだけでなく、濃厚接触者の把握・管理システムと連動させ、濃厚接触者の健康観察につなげることも狙っていました。しかし、グーグル、アップルのAPIの利用条件はプライバシーにかなり配慮したもので、そこまで踏み込むことができなかった。その設計は国家の暴走を防ぐうえではよいですが、アグレッシブな感染対策を行ううえでは足かせになりました。

 それでも多くの国はグーグル、アップルのAPIを使っています。ある調査によれば、コロナ対策のアプリは世界各国で120ほど作られ、そのうち40パーセント弱にあたる45個が両社のAPIを利用したようです。

 逆に言えば6割は独自開発なのですね。

山本 中国はもちろん、シンガポールも独自のアプリを使っています。またフランスは、感染対策のような公衆衛生は国家の「主権」に関わる問題だという認識から、民間企業のAPIを利用することを拒否しました。そこで当初、接触データを中央サーバーに集める集権型のアプリを自前で作り、同意モデルで運用していましたが、ダウンロード率は30パーセントていどにとどまった。端末が接触データを持つ分散型に変え、かつ時限的にワクチンパスと結びつける運用に切り替えたことで、ようやくダウンロード率は70パーセントまで達しました。総じて見れば、やはり国家の主権的権力よりも民間のプラットフォームの力が強く出ている印象です。

 初期に日本政府が感染の拡大状況を調べようとしたときも、国はビッグデータを持っていないので、ヤフーなどに提供をお願いするしかありませんでした。そのときヤフーは、データの使用条件を限定するなど、交渉をしてくるわけです。そしてその交渉ではあきらかにヤフーが優位です。国家がイニシアチブをもってデジタル技術を活用できたとは言いがたい。

 日本は結局、デジタル技術をだれが設計し、どのように活用するかといった問題について透明性の高い国民的な議論が行われることなくCOCOAを作り、使用についてもふわっと推奨するにとどまりました。しかし民間企業のAPIを使うべきかまで含め、もっと原理的な議論を行うべきだったと思います。法治国家として、時限立法によってより積極的にデジタル技術を使用することもありえたはずです。しかし、国家はたじろいでしまった。

 日本や欧米では国家による監視は進まず、むしろ、プラットフォームの強さが露呈したのだと。とはいえちがいもありませんか。欧米には戒厳令や非常事態の規定があり、ロックダウン(都市封鎖)や夜間外出禁止令など、日本ではむずかしい権利制限が大胆に実施されたように思います。それでもプラットフォームの力には及ばなかったということでしょうか。

山本 強いというより、ちぐはぐな力の行使という印象です。むしろ国家がデジタルを活用できていれば、もうすこしスマートな制限をかけられたはずです。昔のペスト対策では、感染者に白杖の所持を義務付けたり、感染者が出た家のドアに木の十字架をつけたりしていました。社会に分断をもたらした点では、今回のロックダウンもさして変わりません。しかしデジタルを活用すれば、そうした分断を顕在化させずに、日常生活をあるていど維持しつつ対策を進められた可能性があった。

 なるほど。一方で中国では、まさに国家がデジタル技術を積極活用し、監視を推し進めていった印象があります。梶谷さんはこの2年間をどうご覧になっていますか。

梶谷懐 監視社会を考えるうえでは前提の整理が必要です。『幸福な監視国家・中国』でも指摘しましたが、人々は監視社会について、国家権力がある個人を特定して追跡し続けるイメージを持っている。けれどもこれはふたつの点で実態と乖離している。ひとつは山本さんもおっしゃられた、監視主体が政府なのか民間なのかという問題。もうひとつは収集する個人情報の質という問題です。中国の現状についても、このふたつを意識して議論する必要があります。

 最初の監視主体の問題から見ていきましょう。たとえば、信用スコアは中国の監視社会を象徴するものとして悪名高いのですが、国家が個人の格付けをしているわけではありません。アリババ傘下のアントグループが開発した「芝麻ジーマ信用」をはじめ、基本的に民間企業が顧客情報をもとに独自に開発したものです。それらは多くの場合、アメリカのFICOスコアに似た個人の信用情報を代替するものとして、消費者ローンなど自社の金融サービスを提供するために用いられているにすぎない。もっとも、コロナウイルスの感染が広がるなかでアリババやテンセントが個人の行動履歴と地域の感染状況とを紐づけた「健康コード」というアプリを開発し、人々の行動制限につなげるということがありました[★1]。これは官民が一体となって個人情報を収集・利用するケースですが、いまのところあくまでコロナ禍という非常事態に対処するための限定的な動きにとどまっています。

 個人情報の質に関しても、アリババやテンセントのような企業は顧客を集団としてカテゴライズするために収集しているだけで、個人を特定する性質のものではない。たしかにコロナ禍においては、感染ルートを把握するため感染者を特定し追跡するうえで個人情報が用いられる、という場面もありました。しかし対策として主流だったのは、すこしでも感染の可能性があるひとを外へ出さないために、広く網をかけるやり方でした。さきほど述べた「健康コード」は、スマホの基地局の情報を利用し、ユーザーが感染者の出たエリアに足を踏み入れたら警告を出すというものです。緑が赤になれば2週間、黄色になると1週間の外出禁止と、集団を感染リスクの高い場所に踏み入れたひととそうでないひととで分類するのですが、そこに特定の個人に対する関心はありません。

 このようなアプリは技術的にはむずかしいものではないので、ほかの国でも真似することは容易だったでしょう。ただ、中国がほかの国とちがうのは、網をかけたあとの対応です。政府はまず感染リスクがある市民を隔離する。それだけでなく、市内で一定数以上の感染者が出たら、同じ都市の住民全員にPCR検査を強制する。それでも感染が減らなければ、強固なロックダウンを実施する。当然市民生活に大きな影響が出ますが、それでも人々はこうした厳しい対策を基本的には受け入れている。そこが日本や欧米との大きなちがいです。

 つまりは、パンデミックに限らず危機的な状況において政府が人々の行動をどこまで強権的に変容させられるか。それは必ずしも国家体制や技術の精度だけの問題ではなく、社会のあり方そのものによっても決まるということです。その議論なしに中国が監視国家だと非難しても意味がないように思います。

民主主義と権威主義は対立しない

 まさにそこが今日議論したいところです。ぼくの印象では2021年の夏ぐらいまでは、欧米で爆発的に感染者が増え混乱が続き、他方で対照的に中国が抑え込みに成功したことで、中国のような権威主義的社会のほうが危機への対処には強いのではないかという声が聞かれました。代表的なのは経済学者の成田悠輔さんの議論です。梶谷さんは成田さんの論文への反論も書かれています[★2]

 けれども2022年に入ると、むしろゼロコロナ政策から抜け出せない中国の苦境が話題になってくる。この座談会を行なっているいまも、上海のロックダウンで人々が食料を入手できず飢え始めているという報道が出ています[★3]。加えて、コロナとは別にロシアがウクライナに侵攻したことで、今度は全世界的にやはり権威主義は危険なんだ、民主主義がいいんだと大合唱が始まることになった。いわば権威主義の評価が二転三転しているわけです。今後、民主主義と権威主義の対立はどうなっていくとお考えですか。

梶谷 現在の状況を民主主義対権威主義という二項対立で捉えること自体に問題があります。権威主義的な国家といっても、ロシアは感染を抑えられていませんし、逆に台湾などは民主主義的な政治体制のもとで、ある時期まではゼロコロナに近い状況を実現してきた。そこにはむしろ、価値観や文化といった別の要素が関係していると考えるべきでしょう。

 国際的な社会科学者のグループがほぼ5年ごとに行なっている「世界価値観調査」というものがあります。この調査をもとに、さまざまな国の価値観を、世俗的か伝統的か、生存を優先するか自己表現を優先するかというふたつの軸で分類した、イングルハート=ヴェルツェル図というものがあります[図1]。

図1 世界価値観調査が発表しているイングルハート=ヴェルツェル図。縦軸は世俗的価値と伝統的価値の、横軸は自己表現的価値と生存的価値のどちらを重視するかを示す。それぞれの数値が高いほど世俗的価値と自己表現を優先していることを意味する。出典の図をもとに編集部制作。国名は一部省略した。権利者許諾済
出典=“The Inglehart-Welzel World Cultural Map,” World Values Survey 7 (2022). http://www.worldvaluessurvey.org/
 

 この図では、縦軸の点数が高いほうが世俗的で、横軸の点数が高いほうが自己表現を優先することになります。これを見ると、プロテスタント圏や英語圏は世俗的な価値観が強く、個人の表現を重視することがわかります。一方東アジアの儒教圏は、世俗的な価値は重視しますが、生存と自己表現については中間に位置する。そして生存と自己表現の軸だけを見ると、台湾と中国は政治体制のちがいにもかかわらず、ほぼ同じスコアを示しています。こうした価値観のほうが、コロナ対策への社会の反応を説明する指標になると思われます。

 つまり、大きな問題が生じたとき人々がどう反応し、政治になにを期待するかには、文化的背景や歴史的経緯の影響が無視できない。政治体制が変わっても、文化や人々の価値観はなかなか変わらないからです。実際、経済学者のダロン・アセモグルと政治学者のジェームズ・ロビンソンは、儒教文化圏における政治体制は非常に流動的で、民主主義にも権威主義にも振れうることを指摘しています[★4]

 国際政治や安全保障の世界では、中国と欧米の体制のちがいばかりが強調され、それですべてが説明できるように議論されています。しかし、たとえ中国の体制が変わっても、変わらない文化的な背景があり、そこにこそ欧米との軋轢の原因があるのかもしれない。むしろその点に注目すべきだと思います。

 今回の戦争についても言えることですね。民主主義と権威主義の対立だけでなく、もっとスラブ世界の特性について報道されるべきです。

山本 民主主義については、そもそも言葉自体が多義的に使われすぎており、そのせいで議論が混乱しているように思います。ここではヨーロッパモデルの立憲民主主義に限定してお話ししますと、欧米では、民主的な意志を重視すると言いながらも、それを裸のまま扱うことにはリスクがあると考えられている。だから、民主主義に対する歯止めがうまくシステム化されているのです。

 たとえばアメリカには、第4代大統領ジェームズ・マディソンの「人間が天使であるならば、政府などというものは必要ない」という有名な言葉があります[★5]。この言葉が示すとおり、アメリカは、国民は誤りうるという前提で、複雑な権力分立の仕組みを作ってきました。非民主的な機関である最高裁がとても強い力を持つのはその例です。

 ヨーロッパを見ても、ナチスの経験があるドイツは民主主義に非常に警戒的です。憲法裁判所を設け具体的な争訟性がなくても違憲審査を可能にすることで、民主主義にブレーキを組み込んでいる。EUの体制にも民主主義的ではない一面があります。たとえばEUの立法過程では欧州委員会が法案提出権を独占している。しかも欧州委員会のメンバーは民主的な手続きで選ばれていません。これは重要なポイントです。

 例外的にイギリスは単線的な議院内閣制で、裁判所の違憲審査権はもともと弱かった。そこでは、最終的には多数派意志が国家意志と融合します。だからこそEUに対しては「非民主的だ」、「自分たちを代表していない」などという批判が噴出し、そこから離脱したりするわけです。しかし、イギリスには強い議会主義の伝統があり、野党が慣習上、尊重されている。「女王陛下の野党」ですからね。議会多数派が統治を独占できる単線的な議院内閣制はかなり危ういモデルですが、それを議会主義の精神、いわばスピリットで押さえ込んでいる。やはりベタな多数派民主主義ではないわけですね。いずれにせよ欧米では、民主主義は人権や自由を守るための「比較的マシ」な仕組みであり、あくまで手段だと考えられています。その根本の価値観に踏み込まず、民主主義の是非を議論しても意味がない。

 欧州委員会が民主主義的ではないというのは蒙を啓かれました。民主主義が健全に機能するためには、立憲主義のような外部からの制約が必要だということですね。

山本 そうです。そしてその点では、いま台頭しているプラットフォームのビジネスモデルは、立憲民主主義の回路を歪める可能性がある。大衆の興味を引くことだけが重視されるアテンション・エコノミーは、価値観を共有するひととだけ共感しあうエコーチェンバーを生み、社会のトライブ(部族)化を進めてしまう。結果として民主主義がポピュリズムと同義のものとなり、立憲主義のような外部からの制約が機能しなくなってしまうのです。

 これはモンテスキュー以降の統治の狡知ということになりますが、立憲民主主義の未来について考えるためには、デモス系の回路だけを全面に出すのではなく、違憲審査制など、いくつもの回路を機能的に組み合わせた複雑系を統治に組み込むことが必要だということです。

 民主主義に制約が必要であるということについて、同意見です。ぼくはこの座談会と同じ号にルソーについての論文を寄せています。近代民主主義の基礎にあるルソーの「一般意志」の思想は、学説史的に全体主義に近いと言われることがあり、いまならばアルゴリズム的統治とも親和性が高い、危ういものでもあります。民主主義イコール善で片付けられる話ではありません。

 梶谷さんも、重要なのは体制の差異というより文化や価値観の差異なのではないかとおっしゃっていました。おふたりの話を聞くと、民主主義対権威主義という対立を議論するのが無意味に思えてきますが、他方、いま多くのひとが欧米的な統治と中国的な統治にちがいを感じているのもたしかです。その差異の本質はどう考えるべきでしょう。

梶谷 それに関しては、この3月にNHK BSで放送された『マイケル・サンデルの白熱教室「民主主義って時代遅れなの?」』という番組がヒントになるかもしれません[★6]。サンデル教授がオンラインで、アメリカ、中国、日本の大学生にむけて民主主義についての問いを投げかける内容で、非常に興味深いものでした。アメリカはハーバード大学、中国は上海の復旦大学、日本は東京大学と慶應義塾大学の学生で、みな国の将来を担うエリートです。

 収録がウクライナ侵攻の直後だったこともあり、まず「国家の主権を奪うこと」に関する是非が問われたのですが、学生たちはそれに対しほぼ全員一致で「よくない」と答えます。また「民主主義を尊重すべきか」という問いに対しても、やはり全員が肯定的に答えていました。しかし、そこで結果を重視するか、手続きを重視するかという問いになると、反応が大きく分かれます。「直接選挙で選ばれていない、さらに批判の自由も認めないような政府が、国民全体の利益になるような政策を行なったとして、それは民主主義と言えるか」という問いに対して、ほとんどのアメリカおよび日本の学生は反対を表明しました。しかし、中国の学生は例外なく「多くのひとの命を救い、国民の利益を実現することこそが民主主義なのであって、そのための手続きは重要な問題ではない」という立場で、まったく意見が嚙み合いませんでした。

 つまりは、中国は手続きの正しさよりも、人命を救ったり、国民の多くが満足したり、といった結果を重視する。自己表現よりも生存を重んじ、個人の幸福よりも最大多数の最大幸福を選ぶ。中国の統治は欧米よりも功利主義的だと言えるかもしれません。

 それはルソーにまで遡るとむしろ正しく「民主主義的」なのかもしれません。彼には悪名高い「立法者」という概念があります。立法者は一般意志を摑み、社会を公共的利益に導く人間のことなのですが、手続きは関係ありません。

 欧米も中国も、じつはどちらも民主主義と言えるということでしょうか。手続きや議論を重視する欧米型の統治と、結果で判断する功利主義的な中国型の統治があるにすぎないのだと。

山本 たしかにそういう側面はあると思います。権威主義国家も、革命を抑えるために究極的には民意に支えられている必要がある。その意味では、生存保障という「結果」によって正統性が担保される、帰結主義的な民主主義とも言える。ただ、そのような単純な整理はやはり危険でしょう。言論環境の健全性を重要な指標として考える必要があります。統治者の出した結果に対してシュミットが言うような人民の「喝采」が寄せられたように見えても[★7]、その喝采自体が、統治者が上から作り出したフェイクだということがありえる。その場合は正統性そのものが偽装され、革命可能性が抑止力にならない。そうなると、言論環境の健全性はきわめて重要です。フェイクニュースや情報操作をどう考えるか。表現の自由をどのように保障するかに関わる問題ですね。

言論の自由とフェイクへの免疫

 民主主義対権威主義という対立ではなく、言論の透明性や表現の自由を軸にしなければならないのだと。

 とはいえ、表現の自由の制限もいまや権威主義国家だけのものではありません。たとえばYouTubeは反ワクチンを訴える動画を積極的に削除している。フェイクニュース対策という理由ですが、プラットフォームによって言論規制が行われているとも理解することができます。本来かなりセンシティブな話だと思うのですが、いまは是非がほとんど議論されていません。この現象はどう考えるべきでしょう。(『ゲンロン13』へ続く)

 

★1 健康コードは中国が感染対策のために導入しているアプリケーション。使用者の自己申告や、スマートフォンの位置情報を利用した行動追跡などにより、使用者の感染リスクを3段階で評価する。公共交通機関や商業施設などの利用の際に提示が求められ、実質的に使用が義務化されている。
★2 経済学者の成田悠輔は、2019年の民主主義指数と新型コロナウイルスによる100万人あたりの死者数を軸としたグラフを示し、「民主国ほどコロナで人が亡くなり、19~20年にかけての経済の失墜も大きい」と記した(日本経済新聞、2021年8月18日)。この主張には複数の学者が反論を寄せ、梶谷もまた成田の見解を「あまりにナイーブ」としつつも、「それを全く根拠のないものとして一蹴してしまうこともまた危険」であり、各国の文化のちがいを考慮したうえでコロナ対策の差異を議論する必要があると指摘している。梶谷懐「政治制度と『文化』──新型コロナウィルスへの対応をめぐって」、『群像』2021年11月号。
★3 2022年4月、新型コロナウイルスのオミクロン株の感染拡大を受け、上海市の全域でロックダウンが実施された。その初期から、人流削減にともなう宅配サービスの機能不全、政府による供給の不足により、市民が食料不足に陥っているという報道が相次ぐ。ロックダウンは約2ヶ月続き、中国のゼロコロナ政策への疑問視が強まった。
★4 Daron Acemoglu and James A. Robinson, “Culture, Institutions and Social Equilibria: A Framework,” NBER Working Paper, No.28832, 2021.
★5 アメリカ合衆国憲法草案の批准を世に訴えるために、マディソン、アレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイが共同執筆した論文集『ザ・フェデラリスト』の一節。当該の箇所は第51篇に見られる。同論集の全文はアメリカ議会図書館のウェブサイトで公開されている。URL= https://guides.loc.gov/federalist-papers/full-text
★6 同番組はNHKオンデマンドにて視聴できる。URL=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2022119367SA000/
★7 カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』において、ルソーによる一般意志の概念を念頭に置きつつ、「人民の意志は[……]喝采(acclamatio)によって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が」、投票によるより「むしろいっそうよく民主主義的に表現され得る」と記している。カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』、稲葉素之訳、みすず書房、1972年、25頁。
+ その他の記事

1970年生まれ。2001年、神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得。神戸学院大学経済学部講師、助教授、神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て、現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)、『中国経済講義』(中公新書、2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著、NHK出版新書、2019年)などがある。

+ その他の記事

1976年生。慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)教授。著書に『遺伝情報の法理論』(尚学社)、『おそろしいビッグデータ』(朝日新書)、編著に『AIと憲法』(日経BP)など。

+ その他の記事

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。

コメント欄に表示する名前を入力してください。
コメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

ピックアップ

NEWS

連載

その他