祖国か、神か──戦争がウクライナの正教徒に強いる選択(1)|高橋沙奈美

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webゲンロン 2023年2月23日配信
第1回
 ウクライナの主要な宗教は東方正教である。ウクライナとロシアは、ともに自らの始原であるとみなすキーウ・ルーシが10世紀に東方正教を受け入れて以来、信仰を共有している。それゆえに、両国の正教会の間になにやら複雑な問題が生じているということは、しばしば日本のメディアでも報道されてきた。その「なにやら複雑な問題」が今、戦時という非常事態の中で一刀両断に、極めて明瞭な形で解決されようとしている。ウクライナにはウクライナ独自の正教会があればいい、ロシアと関係のある教会などすべてこの国から消えてなくなってしまえばいいというのだ。そうすれば話は簡単になる。

 そもそもの始まりから問題は複雑すぎるのだ。東方正教はキリスト教の一宗派として普遍性を志向するが、教会組織の点では近代ナショナリズムと合致する独立教会制を基本とする。すなわち、東方正教の世界は教義を共有しながらも、世俗国家の領域に準じるように分けられたいくつもの地方教会から成り立っている。その例外がかつてのロシア帝国・ソ連邦の領域を統べるロシア正教会なのである。ロシアにとって、ウクライナは正教信仰の始原の地である。ウクライナにとって、ロシアからの教会独立は、ウクライナの精神的な独立と重ねられて論じられてきたが、戦前のウクライナは一枚岩的にロシアからの独立を希求してきたとは言いがたい。

 17世紀後半まで、現在のウクライナの地はカトリック大国であったポーランドの支配下に置かれていた。ポーランドとの戦争に勝利したロシアが、左岸ウクライナ(ドニプロ川の東部地域)を版図に組み込んだことを皮切りに、ウクライナはロシア帝国の一部となっていった。その過程でこの地の正教会もロシア正教会の一部として発展を遂げた。ソ連解体後、ウクライナが独立した国家となると、ロシア正教会は同地の正教会に対して「自治教会」の地位を与えた。「自治教会」とは、日本やベラルーシ、ラトヴィアなどの正教会にも認められているもので、行政的にも財政的にも、母教会であるロシアからは独立した組織を有する。これが「ウクライナ正教会」を自称し、ウクライナ国内の他の正教会組織と区別するために「ウクライナ正教会モスクワ総主教座 Ukrainian Orthodox Church-Moscow Patriarchate」と称されてきた組織である。2023年現在も、ウクライナ最大の宗教団体であり、国家登録を受けた教区教会の数は1万2000を超える(ただし、現在は8000程度であるとも言われており、現状は不明である)★1。本稿ではこの教会を「ウクライナ正教会」と呼ぶ。

 ウクライナへのロシア軍の全面侵攻後、ウクライナ正教会を取り巻く環境は激変した。ウクライナの政府系メディアでは、ウクライナ正教会をロシア政府の出先機関とみなす報道が過熱した。ロシアでは、ロシア正教会の首座主教(最高の権威を認められた聖職者、事実上の指導者)であるキリル(俗名★2グンジャーエフ)総主教が、ウクライナに侵攻するロシア軍を賞賛した。「モスクワ総主教座」であるはずのウクライナ正教会だが、目の前にはロシアによって爆弾を落とされ、信徒の命が奪われている現実がある。ウクライナ正教会の内部からもロシア正教会に対する非難の声が高まり、ロシアからの断絶を宣言するまでになった。
 この教会をロシアのスパイとして糾弾するウクライナの世論は高まる一方である。「ウクライナ正教会」という自称が否定され、実質的にはロシアの教会であることを強調する「ウクライナのロシア正教会」、あるいはその不安定な立ち位置を揶揄するように疑問符付きで「ウクライナ正教会(モスクワ総主教座?)」などと呼ばれることも多い。2023年に入って、ウクライナ正教会の精神的・行政的中心地であるキーウ・ペチェルシク大修道院の聖堂使用が政府によって制限された。現在はウクライナ正教会自体の法的解体が検討されている。

 実は2019年以降のウクライナには、コンスタンティノープル世界総主教(後述)によって承認された「ウクライナの正教会 Orthodox Church of Ukraine」というもう1つの正教会が並存している。2014年にドンバス戦争が始まった時から、ウクライナ正教会と親露派分離組織とのつながりが疑われ始めた。2019年、当時のポロシェンコ大統領は、選挙戦を前にして、「軍隊、言語、信仰」をウクライナの新しい公定ナショナリズムとしてスローガンに掲げた★3。そして「信仰」に関して、ロシアから全く独立した正教会を創設して国民の支持を取り付けようとした。こうして、反ロシア/ウクライナ・ナショナリズムを標榜する政治的熱意と、ロシア弱体化を狙う国際関係の思惑から創設されたのが、「ウクライナの正教会」である。日本語で両者を訳し分けることは煩雑なので、本論ではこの教会を「新正教会」と記す。「新正教会」に属する信者・教区教会がどれくらいであるのかを正しく評価するのは困難である。というのもこの教会の支持者が重視するのはキリスト教としての教義や宗教実践以上に、愛国主義であり、中央政府や地方自治体がこぞってこの教会を支援する現状では、たとえ紙面上の存在であっても教区教会などの宗教組織を新正教会に属するものとして公的に登録することは容易だからである。2021年1月に公表された教区教会の登録数は約7000である★4

 論者によっては、ウクライナ正教会を「ロシア系ウクライナ正教会」と称する場合がある。しかし、この呼称を用いるのであれば、新正教会を「コンスタンティノープル系ウクライナ正教会」とするのが公正であろう。なお、新正教会がコンスタンティノープルから認められた独自の権限は、ウクライナ正教会のものよりも狭い。国外へ避難したウクライナ人正教徒のために、自らの教区を国外に有することがウクライナ正教会には認められているのに対し、新正教会にはそれが禁じられているのは一例である。

 今、ウクライナはロシア的なものを自国から排除しようとしている。排除を徹底するために、他者に対する想像力、人間性、あるいは慎重で多面的な学術的議論や遵法意識すらかなぐり捨てているようにも見える。戦時においては一瞬のためらいが仇になるのかもしれない。しかし、ウクライナ正教会とその数10万人に上る信者・聖職者が、祖国か神かどちらかを選べと突きつけられて、究極の岐路に立たされている。

ウクライナの複数の正教会


 現在のウクライナには2つの対立する正教会が存在しているわけだが、歴史をさかのぼってその経緯を見てみよう。ウクライナは多民族・多宗教国家である。この地では、ユダヤ教やイスラームの信仰も長い歴史を持っているが、主要な宗教であるキリスト教も多様な展開を見せた。宗教団体としてウクライナ最大の規模を誇るのが東方正教を奉じるウクライナ正教会である。現在のウクライナの首都キーウを中心として発展した「ルーシ」と呼ばれる国家が、10世紀末にビザンツ帝国から東方正教を受け入れ(ルーシ受洗)、それが現在に至るまでウクライナ、ベラルーシ、ロシアから成る東スラヴ民族の伝統的な信仰となっている。

 以前は、ウクライナとロシアは正教の歴史を共有していると書くことに、それほど大きな問題は生じなかった。しかし、今般の戦争開始後、ウクライナの正教はロシアとは別の歴史を辿ってきたというウクライナ側の声がとりわけ高まっている。ロシア正教会の始まりはモスクワ府主教座が成立した1448年にまでしか遡れない、988年のルーシ受洗はキーウ府主教座の歴史であり、モスクワを中心としたロシア正教会とは関係がないというのである。一方のロシアは、ルーシ受洗は東スラヴ民族共通の歴史的記憶であると主張し、2016年にはモスクワの中心部に、ルーシ受洗を実現したキーウ大公ヴォロジーミルの巨大な記念碑を建設した。

 東方正教はローマ帝国の東半分にあたるビザンツ帝国の版図で、西ローマ帝国のキリスト教とは異なる教義、典礼、教会慣例を発展させた。東方正教は、管轄領域ごとに「独立教会(autocephalous church)」、「自治教会(autonomous church)」と呼ばれる地方教会に分けられている。それぞれの地方教会は「首座主教」(総主教や府主教などの称号を有することが一般的)と呼ばれる高位聖職者を頂点とする聖職者のヒエラルキーを有し、独立した教会運営を行う。独立正教会の首座主教たちは、権能において互いに等しい最高位の高位聖職者である。その中でも、コンスタンティノープル総主教は「同輩中の首位」という特別な権威を認められ、「世界総主教」と称される。同時に、諸地方教会は教義を共有し、互いにフルコミュニオン(相互領聖)の関係にある。フルコミュニオンとは、お互いの教会の「使徒継承性」、すなわち使徒に由来する正統な教会であることを認め、その機密(洗礼や領聖、聖職者の叙聖など、神の恩寵にあずかる行為)の有効性を認めることを意味する。2023年現在、全世界にはフルコミュニオン関係にある15の独立正教会が存在している[図1]。

 
図1 東方正教における地方教会の関係略図

 
 ところが、ウクライナでは、東方正教を信奉する正教会が複数に分裂しており、「フルコミュニオン関係を広く認められた独立教会」は1つも存在しないのである。先述したように、ウクライナの正教徒は1686年にモスクワ総主教座の管轄に置かれ、その後はロシア正教会の一部とみなされてきた。ウクライナ正教会がロシア正教会の傘下に置かれていることに、ウクライナ・ナショナリストたちはかなり早い時期から不満を抱いていた。ロシア帝国が崩壊すると、1921年には一般信徒や司祭が中心となって、「ウクライナ独立正教会(Ukrainian Autocephalous Orthodox Church, UAOC)」が創設された。ロシア正教会は当然このような「分裂」を批判し、独立正教会は使徒継承性を持たない「分離派」とみなされた。

 このようなウクライナ・ナショナリズムの運動を考慮して、ソ連時代にはモスクワ総主教座管轄下のキーウ府主教に「外国における総主教代理(exarch)」の地位が認められた。ウクライナの諸主教区は「エグザルフ庁(exarchate)」の管理下に置かれ、ロシアの正教会とは異なる教会慣例などが認められることになった。

 宗教に対して抑圧的政策を取ったソヴィエト政権下では、正教会も大きな被害を被ったが、ウクライナにおいては宗教弾圧と民族主義に対する抑圧が交互に行われた。ソ連政権が宗教弾圧を重視した1920-30年代には、モスクワ総主教座を弾圧することがボリシェヴィキの主眼にあったため、これに反発する民族主義派の正教会が政治的な支持を得た。ところが戦後は、モスクワ総主教座を完全に支配下に置いた政府が、ウクライナ民族主義の抑圧に乗り出し、民族派教会はモスクワ総主教座に属するエグザルフ庁に統合され、事実上消滅した。ソ連解体直前の1990年10月、エグザルフ庁は広範な特権を含む自治権を付与され、「自治教会」(「独立教会」ではない)として「ウクライナ正教会」を名乗る権利をロシア正教会から認められたのである★5

 しかしその後、自治教会としての地位を一度は受け入れたキーウ府主教フィラレート(デニセンコ)が翻意する。ウクライナがソ連から離脱して国家として独立する見通しが立つと、初代大統領クチマの支持を得て、フィラレート府主教はロシア正教会に対してウクライナの教会独立を要求した。ロシア正教会はこの要求を当然のごとく退けた。そして、翻意したキーウ府主教フィラレートに非難の矢が向けられ、聖職はく奪の処分(「破門」に次ぐ厳しい処分で、聖職者としての身分をはく奪され、一介の信者としてのみ教会に残ることを許される)が下された。
 フィラレートはこの処分を受け入れず、ロシア正教会から離反した(結局1997年にフィラレートは破門された)。そして、独立正教会(UAOC)との統合を試みた後に、独立教会としての地位を主張し、1995年には「キーウ総主教」(「キーウ府主教」とは別の称号)を名乗って「ウクライナ正教会・キーウ総主教座(以下、「キーウ総主教座」と略)」を名実ともに指導する立場に立ったのである[図2]。独立正教会(UAOC)とキーウ総主教座はともに、ウクライナ・ナショナリストの支持を得た一方で、使徒継承性を外部から認められないという共通の問題を抱えていた。すなわち、「独立を名乗る非承認国家」が国際組織に相手にされないのと同じく、彼らもまた「独立を名乗る非承認教会」として、東方正教会ネットワークをはじめ、世界のキリスト教会から切り離されていたのである。

 
図2 ソ連崩壊前後のウクライナにおける各正教会の関係

 

 以上を要約すると、ソ連解体後の独立ウクライナには、3つの互いに反目する正教会が存在していたということである。第1が、ロシア正教会モスクワ総主教座とのつながりを持った「ウクライナ正教会」であり、これは最大多数派、かつ使徒継承性を認められた教会である。第2が、そこから離反して独立を名乗った「キーウ総主教座」であり、これは非承認教会であるが、民族派教会として政権の支持を得、フィラレート総主教の手腕によって一定の信者数を獲得した教会である。そして第3が、1920年代に結成された後、ソ連時代に迫害を受け亡命教会となっていた「独立正教会(UAOC)」である。この教会もまた非承認教会の民族派教会である。民族派教会としての歴史はキーウ総主教座よりも長いが、亡命教会としての弱点をカバーできず、独立後のウクライナにおいて信者を増やすことができないという問題を抱えていた。

新生教会の独立


 2014年に東部ドンバスで実質的なロシアとの戦争が始まると、ウクライナ・ナショナリズムはかつてない程に高まった。民族派の教会のみならず、ウクライナ正教会も軍や国内避難民への支援を積極的に行い、ウクライナの国家主権を尊重する姿勢を見せた。一方、政治的な求心力を失ったまま、2019年の大統領選を前にしたポロシェンコ大統領(任期2015–19年)は、ナショナリズムに訴える戦略に出た。ウクライナの分断した教会を統合し、新しい教会法上の地位を与えることで、自らの支持基盤の立て直しを図ったのである。

 ポロシェンコ大統領が頼みの綱としたのは、モスクワ総主教座とライバル関係にあった世界総主教座、すなわちコンスタンティノープル総主教座であった。コンスタンティノープル総主教座は、17世紀にまで歴史を遡り、ウクライナの教会管轄権はモスクワではなく自らにあると宣言して、ウクライナに独立教会の権利を承認したのである。こうして、分裂状態にあるウクライナの諸正教会の合同を条件として、世界総主教座から「トモス」と呼ばれる独立の詔勅が出されることが決まった。しかしモスクワ総主教座はこれに猛反発し、ウクライナ正教会の高位聖職者たちは「分離派(ラスコーリニキ)」と対等に合同を行うことなどできないと主張してこの合同にほとんど加らなかったため、実質的には、キーウ総主教座と独立正教会(UAOC)が合同する形で、2019年1月、「新正教会」が創設されたのである[図3]。

 
図3 ウクライナの「新正教会」創設にいたる流れ

 

 正教会の組織は、世俗の地方行政の管轄と類似点が多い。私たちがウクライナの街中で見かける一般的な聖堂は、「教区教会」の建物だ。これはいわば町内の人々が集まる公民館や区民センターのような存在である。教区教会を束ねるのが「管区」で、これは市役所のレベルに相当する。管区を束ねるのが「主教区」で、都道府県庁に相当する。教区教会の取りまとめ役である司祭、管区を取りまとめる管区長、そして主教区のトップである主教・大主教・府主教もそれぞれの自治体の長に相当する存在だと考えるとわかりやすいだろう[図4]。主教区を取りまとめることができるのは、高位聖職者、すなわち修道僧として剃髪を受けてから高位聖職者として叙任された者に限られる。それ以外の聖職者は、妻帯が可能な一般聖職者だ。

 
図4 地方教会の組織と聖職者のヒエラルキ

 
 新正教会への合同を決めたウクライナ正教会の高位聖職者は、オレクサンドル(ドラビンコ)府主教とヴィーニッツア府主教シメオン(ショスタツキー)の2名だけであった。両名とも、2014年に首座主教に着任したウクライナ正教会キーウ府主教オヌフリー(ベレゾフスキー)とは折り合いが悪く、新正教会へ移ることによって彼ら自身が失うものよりも、得るもののほうが多かった。しかし、彼らに従って新正教会に加わることを決めた信者・聖職者はごく少数であった。そこでポロシェンコ政権は、ウクライナ正教会の信者・聖職者が個人の選択ではなく教区教会レベルで新正教会の管轄へ移るように(これを「移管」という)、政治的・物理的圧力をかけ始めたのである★6

 ウクライナ政府が国内の宗教問題にまで介入した背景には、当時、ウクライナ正教会と新正教会が拮抗する二大勢力というにはほど遠く、前者が圧倒的な影響力を持っていたからであった。両教会に属する聖職者と教区教会の数を比較すると、ウクライナ正教会には新正教会を結成する以前の独立正教会とキーウ総主教座を合わせた数の3倍近い聖職者が所属し、教区教会数も2倍近い開きがある。しかも、キーウ総主教座として登録されている教区教会の中には、紙上のみの存在が少なくないと言われていた。

 新正教会の創設は、ウクライナ・ナショナリストたちを熱狂させたし、所属教会を問う世論調査でも、新正教会に対する支持がウクライナ正教会を上回った。ところが、こうした社会動向が示しているのは、実は教会に日常的に関わらない人々の意見である。ウクライナにおいても世俗化は進んでおり、正教徒を自認してはいても、毎週礼拝に参加するなど教会の存在が日常生活の一部に組み込まれている信者は少数派である。新正教会が真にウクライナにおける多数派の正教会となるためには、敬虔な信者たちをどこまで支持基盤に取り込めるかが喫緊の問題であった。

 新正教会の成立と前後して、ウクライナ政府は宗教法の改正を行なった。まず、2018年12月には、ウクライナと交戦中の国家に本部を置く宗教団体は、名称にそれを明記しなくてはならないと定めた。これによって、ウクライナ正教会を「ロシア正教会」へと改称させることを狙ったのである。続いて、2019年1月には、すべての宗教組織に対して1年以内の再登録を求める修正法案を可決した。ウクライナでは、「ウクライナ正教会」が1つの宗教団体として登録されているのではない。末端の教区教会や兄弟団などがそれぞれ「宗教組織」として登録を受ける。2019年早春、ポロシェンコ大統領は新正教会の首座主教に選出されたエピファニー府主教(ドゥメンコ)を伴い、全国をめぐる「トモス・ツアー」を開始した。ポロシェンコ大統領は、新正教会の正統性と愛国主義を強調して、ウクライナ正教会に属する教区教会が新正教会へと移管するよう促したのである。これに前後して、治安機関、消防署、軍、公立病院など、公的な機関に併設されている聖堂はすべて新正教会に移管された。また、ナショナリズムの強い西部を中心に、地方行政が介入して、強制的な形で移管を実行する事例も散見された。これは、教区民に対して移管の希望を問う選挙や話し合いに、公務員やそれに準ずる人々を動員し、数の力で移管を決定するものから、時に警察などの治安部隊までが投入された直接的な暴力による聖堂占拠まで様々な形で行われた。

進まぬ移管


 しかし、こうした政治的圧力にもかかわらず、教区教会レベルでのウクライナ正教会から新正教会への移管はほとんど進まなかった。公表されている最新のデータである2021年1月の登録数を見ると、ウクライナ正教会の教区教会登録数も聖職者数もほとんど減少していないことが分かる。さらに、宗教組織に対する聖職者の割合を見ると、ウクライナ正教会では1宗教組織あたり約0.8人の聖職者がいるのに対し、新正教会では0.6人である。これはつまり、後者に専従の聖職者がいない宗教組織が多いことを意味する[図5]。

 
図5 ウクライナの各正教会の登録数推移

 

 移管が進まなかった理由としてはまず、ウクライナ正教会の政治的方向性が必ずしも「親ロシア」ではなかったということが挙げられる。マイダン革命以後、政府系のメディアでは、ウクライナ正教会の親露派的聖職者の言動を大きく取り上げ、この教会が「ロシアの手先」であるかのようなイメージを強調した。しかし、ウクライナ正教会は巨大な組織であり、ロシアへの態度は一様ではない。ロシアとの一体性を強調するような聖職者がいることは否定しようがないが、ロシアからの独立を希求するグループや、その中間で、ロシアとの関係を保ちながらウクライナの独自性を追求しようというグループもあった。また、ドンバス戦争開始後、ウクライナ正教会では軍、傷病者、国内避難民らへの支援をはじめとする愛国的な運動がかなり広まっていた(ただし、2019年6月制定の「従軍司祭について」の法により、ウクライナ正教会の従軍司祭は排除された)。そのため、ウクライナ正教会の活動に日常的に関わっている信者たちは政府系メディアのプロパガンダを信じることはしなかったのである。

 第2に、ウクライナ正教会の信者・聖職者を結ぶ、家族的なネットワークの存在が挙げられる。聖職者たちは聖職者となるための儀式である「神品機密」を受ける際に、異端を認めないこと、教会への忠誠を尽くすことを誓う。聖職者たちのネットワークは親族関係をも含み込んだ密接なものであり、当然彼らはそのネットワークを離れることを厭う。結果として、新正教会に加わるのは、このネットワークに限界を感じた者が多くなる。教区信徒と神父の関係もまた密接であるため、神父がウクライナ正教会に留まることを決めれば、多くの場合信者たちもそれに従う。ウクライナの地方都市や村落部は経済的に恵まれた地域ばかりではない。貧しい教区教会では、神父や教区民たちが自分たちの手で聖堂を建設し、美しく維持してきたところも少なくない。そして、教会に日常的に通う信者には伝統重視の傾向が強い。彼らは父祖たちが守ってきた信仰と教会を守ることが美徳であると考える。

 そして最後に、ウクライナ正教会の信者・聖職者にとって、教会は政治以上に、信仰の場として重要な意味を持つ。新正教会の基盤となった独立正教会もキーウ総主教座も、ともに「非承認教会」として長らくその正統性を認められていなかった。さらに、世界総主教が新正教会の独立を承認した際にも、東方正教の地方教会はその承認に積極的ではなかったのである。先述したように、ウクライナをめぐる問題は、東方正教の世界をコンスタンティノープルとモスクワに二分した。世界総主教座以外に新正教会を承認したのは、コンスタンティノープル派の3つの地方教会(アレクサンドリア総主教座、ギリシア正教会、キプロス正教会)に留まった。それゆえ、ウクライナ国民でも、新正教会をいまだ「異端」とみなす信者・聖職者は少なくない。また、たとえ新正教会の使徒継承性を認めるとしても、新正教会がウクライナ正教会と教義を同じくする以上、両者の違いはロシアとの関係という政治的な問題に帰される。その政治的問題にしても、先に上げたように、ウクライナ正教会が愛国的な活動をし、ウクライナ主権を重視している以上、信者・聖職者らがウクライナ正教会に留まることに何ら問題はない、と考えられるのである。

 ポロシェンコ大統領が選挙に敗れ、ゼレンスキー大統領が就任するとウクライナ正教会に対する政治的圧力は弱まった。ウクライナ正教会を「ロシア正教会」に改称するという法律の適用については、この教会の拠点が本当にロシアにあるのか再検討する必要が認められた。また、教区教会の暴力的な移管も下火になった。しかし、2022年2月24日以降のロシア軍によるウクライナへの全面攻撃が、ウクライナ正教会を取り巻く状況を再び非常に厳しいものへと変えてしまったのである。(第2回へつづく)

 


★1 教会の社会的な影響力を調査することは、現在のウクライナではかなり難しい。世論調査では、「あなたはどの正教会に属しますか」というような項目が設けられる場合があるが、本論ではこれをもって教会の信者割合とはみなさない。というのも、世論調査で「新正教会に属する信者である」と答えた人が、実際に教会に通う「信者」であるとは限らないからである。実際の教区教会の信者の様子を調査するフィールドワークで明らかになっているのは、2023年以前のウクライナにおいては、正教徒の圧倒的大多数がウクライナ正教会の信者であったということである。新正教会の「支持者」はナショナリストや都会のリベラルな知識人層が多く、彼らは日曜ごとに教会に通って領聖(聖体拝領のこと)することを重視する「信者」では必ずしもない。本稿では、容易には動かしがたい教区教会数を指標としているが、2023年2月現在、「ウクライナ正教会」として教区教会の登録を維持することが政治的に困難になっている。
★2 高位聖職者の戸籍上の姓を指す。高位聖職者は、修道請願を立てた時に授かる修道名を名乗るが、同じ修道名を持つ修道士は少なくない。これを区別するため、高位聖職者としての位階や俗名を併記することが一般的である。本稿では、括弧で俗名を記す。ちなみに、高位聖職者を俗名で呼ぶことは、彼の修道士・高位聖職者の身分を否定することを意味する。例えば、近年のウクライナの政府系メディアはモスクワ総主教キリルを「グンジャーエフ」と俗名で扱う。
★3 この大統領選に至るまでポロシェンコ大統領は、正教会の問題には手をつけようとしなかった。それどころか、彼はむしろモスクワ総主教座に承認されたウクライナ正教会と関係が深く、同教会において最下級の聖職者である輔祭の身分を認められていた
★4 Звіт про мережу релігійних організацій// Державна служба України з етнополітики та свободі совісті. https://dess.gov.ua/wp-content/uploads/2021/05/Form1-2021-public3.xls
★5 ソ連時代を含むウクライナの諸正教会の歴史について、次を参照。Nicholas Denysenko, The Orthodox Church in Ukraine: A Century of Separation, (Northern Illinois University Press, 2018).
★6 暴力を伴う教会占拠は、残念ながらウクライナでは珍しいものではない。ソ連解体前後からの歴史を見ても、正教会の移管をめぐる教会での暴力事件は後を絶たない。近年の新しい動きとしては、そうした暴力事件の動画がYouTubeなどのSNSで拡散され、憎悪や恐怖を煽り、暴力の連鎖を生み出していることだろう。例えば2015年9月にテルノピリ州のカテリノフカ村でのウクライナ正教会占拠について、次を参照。Верные 2: Катериновка. Исцеление после захвата// Союз Православных Журналистов. 11. 09. 2021. https://youtu.be/nTUG_7cVgik
 
第1回

高橋沙奈美

九州大学人間環境学研究院。主な専門は、第二次世界大戦後のロシア・ウクライナの正教。宗教的景観の保護、宗教文化財と博物館、聖人崇敬、正教会の国際関係、最近ではウクライナの教会独立問題など、正教会に関わる文化的事象に広く関心を持つ。著書に『ソヴィエト・ロシアの聖なる景観 社会主義体制下の宗教文化財、ツーリズム、ナショナリズム』(北海道出版会)、共著に『ロシア正教古儀式派の歴史と文化』(明石書店)、『ユーラシア地域大国の文化表象』(ミネルヴァ書房)など。
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