シラスと私(5)──中卒の「小ヤンキー」が平安文化を語るシラサーになるまで|なかいしんご

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webゲンロン 2023年6月5日配信

出会いと始まり


 シラスで番組を持つことができたきっかけは、2021年の冬にぼくが運営するギャラリー・カフェ「Kotobuki PourOver」で新芸術校6期生の宮野祐くんが展示をしてくれた際、東浩紀さんが店を訪れてくれたことだった。

 ぼくも新芸術校の卒業生だが、当時は東さんとは特に面識もなく、会話するのもそのときがはじめてだった。会話の中で、実はぼくが美術キャリアとは無縁の職工であり、平安時代から続く和紙装飾の料紙とその文化を紹介するための活動をしているとお話しした際に、とても興味を持っていただき、ゲンロンで何かイベントができるかもしれないという話になった。それから担当者の方と何度かやり取りをしていくうちに、ゲンロンカフェでトークイベントをするには座組や集客の問題をクリアできそうにないということになり、「それならばシラスでチャンネル開設を!」とお願いしたことがすべての始まりであった。

中卒


 先に述べたように、ぼくは美術キャリアと無縁であるどころか、中学すらろくに行っていない落ちこぼれだった。テストはほぼ白紙、登校は原チャリで通学か、ひどいときには学校に行く振りをして先輩の家に遊びに行く始末。その結果、名前を書けば合格すると言われるレベルの高校ですら受験資格がない状態にまでなってしまっていた。

 ただ、当時を振り返れば、いわゆる一人前の気合の入ったヤンキーではなく、なんとなく気がついたらそうなっていたレベルの小ヤンキーだった。『東京卍リベンジャーズ』に出てくる、タイムリープ前のタケミッチのようなものである。さらに言えば、V系バンドをやっていたという黒歴史まである。

 そんなぼくが、なぜ料紙や古筆という国風文化に興味を持つに至ったのか。

「小ヤンキー」時代の著者


 地元の香川県で小ヤンキー時代を過ごしたぼくは、中学卒業後に働くことを余儀なくされる。最初は、好きだったバイクの整備工場で働きたくて、タウンページに掲載されているバイク屋に上から順番に電話をかけた。中卒の14歳の未経験者を雇ってくれるところは簡単には見つからなかったが、フルタイム週休1日で月給5万円なら雇ってもらえるバイク屋が見つかり喜んで働いた。その数年後には、もう少しまともな給料で働けるバイク屋に転職もできたのだが、若さ故にオーナーと揉めて退職してしまう。すぐに転職できるつもりだったが、不景気の煽りで就職先は全く見つからず、勢いだけで辞めてしまったことを後悔することになった。

 その後は、3日で辞めた土木やサボりすぎて電話口でクビになったガソリンスタンドなど、ここには書ききれないほどのアルバイトを転々とすることになる。最終的には、当時付き合っていた彼女の「いつか自分で飲食店をやってみたい」という夢に便乗して板前の修行を始め就職もできたが、彼女と別れて辞める。つまり、いい加減で何をやっても続かない日々を過ごしていたのだ。

 そんな自分に嫌気がさしていた頃、ふと、「このままいったら人生どうなるんだろう?」という強い不安に襲われる。そのときに「自分自身を表現する何かをしなくては!」と焦ってバグったぼくは、突然、なぜか絵描きになろうと決意したのだった。

ニューヨークの経験


 小学生の頃からどちらかというと落ちこぼれだったが、絵を描いたときだけはなぜか褒められた。そんないにしえの記憶がぼくに絵描きになる決意をさせたのかもしれない。何の知識もないぼくは、「なんとなく絵といえば油絵かな?」くらいの気持ちでとりあえず油絵の道具を買い揃え、制作を始めることにした。

 しばらくして、地元の小さいギャラリーで展示をしたり公募展などに作品を送ったりするうちに、「このままこれを続けてどうなるの?」という疑念が湧いてくる。やはり単純に飽き性なのである。そこで次に考えたのが、美術学校に行って学んでみたいということだった。しかし、そもそも中卒のぼくには、当たり前だが美術学校の受験資格すらない。美術を学びたいというだけなのに、そのためには4〜5年かけて高卒の資格を取得するか、大検を受けるかという選択肢しかない。そのことを知ったのが10代最後の年だった。そんなこんなで日本の教育制度に嫌気がさしていたとき、ニューヨーク帰りの森本さんという作家に出会う。森本さんは長い間ニューヨークで活動していたらしく、マンハッタンには学歴がなくても自由に美術が学べる環境があることを教えてくれた。

「これしかない!」と思ったぼくは、森本さんの知り合いがブルックリンのベッドフォード辺りでやっているというコレクティブスペースを紹介してもらい、そこへ転がり込んだ。窓もない倉庫にソファーが1つ置いてあるだけの2畳くらいのストックスペースだったが、家賃は月300ドルと安かったし、寝るには十分だった。

 今や高級住宅街や観光地としてのイメージが強くなったベッドフォードだが、2002年当時は若手の作家たちが集う地域だった。安い物件を改装したアトリエやコレクティブスペースが林立していた川沿いのエリアは、対岸にあるマンハッタンを一望できる最高の立地でもあった。

著者が撮影した当時のブルックリン


 ぼくは、マンハッタンの中心部にあるアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで、念願の油画・ミクストメディアのクラスを取った。そして、スプリングストリート沿いのドローイングスタジオでクロッキーやデッサンを描きまくるかたわら、夜な夜なオルタナティブなパーティーで音楽とアートと酒を浴びる最高に楽しいNYライフを送っていた。

 しかし、ここでまた疑念が起こる。様々なイベントや多様な国籍の若手アーティストに触れたことで、「なぜ自分はニューヨークに憧れを抱いて西洋絵画を学んでいるのか?」「ぼくのアイデンティティとはいったい何なのか?」と思い悩むようになったのである。自分の思想が希薄であることをとてもダサいと感じるようになってしまっていた。

 そんなところへ、油画クラスの講師から言われたある一言がぼくの人生を変えることになる。「オマエの絵は油画ではない。私にはそれが書道に見える!」というのだ。この神託レベルのとどめの一撃を受け、ぼくは学生ビザ取得を早々に諦め、日本の文化と自分自身に向き合うため帰国することにしたのであった。それが国風文化に興味を持つことになったきっかけである。

上京


 ニューヨークからの帰国後は、プー太郎(当時はニートなんてオシャレな言葉はなかった)としてろくに働きもせず図書館に入り浸り日本の歴史を調べる日々。その中で、かな古筆と料紙の世界に出会った。それがぼくにとってのすべての始まりとなる。

 かな古筆は、平安時代に日本で平仮名が成立した頃にその起源があり、それと並行して芸術的な感性で書くためのメディアとして紙を加工・装飾する料紙の世界が発展していった。そのことを知ったとき、「書と紙が融合した芸術が日本の古典文化にあったんだ! ニューヨークでの答えを掘り起こしたぞ!」という感情に満たされたのだった。

 このように、独自に発展を遂げた国風文化である料紙とひらがなの文化や芸術性に魅了されたぼくは、今度こそ「これしかない!」と思い、その道を志すようになる。だが、その道はとても険しいものだった。書籍や情報はほとんどなく、制作者も探し当てるのが困難な料紙職人の世界。そんな閉鎖的な状況を知り、何とか情報を集めるべく上京することに決めた。今思えば、国風文化や料紙の情報を集めるのなら関西圏(京都など)でも良かった気もするのだが、ニューヨーク行きを決めたときと同じくそのときもなんとなくの直感で「東京という場所には情報が集まっている!」と思い、そちらに行くことにしたのである。つくづくテキトー過ぎる人間だなと我ながら思う。

 2004年の上京直後は、アルバイトをしながら老舗の書道具店を巡り、行く先々で筆を一本購入しては店主に話を聞くという方法で情報収集を試みたりもしてみた。しかし、突然来た怪しげなヤツに問屋が個人情報を教えてくれるわけもなく、あっさり断られることも多かった。やはり料紙の世界の門は狭かったのである。真面目に勉強してキャリアを積んで来ていれば、国文学の道にももっと早く辿り着いたのだろうかと今では思う。しかし、当時はそんな知恵も働かなかった。

 結局、料紙制作に直接接点がある情報は得られないまま、たまたま神保町にある「玉川堂」という書道具店でかな書道の作家を紹介してもうことができたので、かな書道の団体で展覧会作家としての活動を始めることになった。本来は料紙と一対の関係にある仮名文字(ひらがな)の習得は、とても奥が深く学ぶことも楽しい。ぼくは書作品の制作にのめり込んだ。しかしその一方で、書道団体の中にいても料紙について得られる情報は乏しかった。会員はかな古筆を学びながらも料紙のことには知識や興味がない人たちが大半で、もはや料紙とかなの文化は乖離してしまっているようだった。

 書壇の主流は、戦後の前衛運動から昭和の黄金期を代表する青山杉雨さんうなどの時代に確立されたサロン的な書道団体である。そこには絶対的でほぼ固定されたヒエラルキーが存在し、その恩恵にすがる人たちによって書の文化は蝕まれていっているように感じた。自分の作りたい作品も作れない環境に居心地の悪くなったぼくは、団体を辞めることにした。順調にキャリアを積んでいれば今頃は展覧会作家としてそこそこのキャリアを積み、書道教室の先生をやっていたかもしれない。しかし、団体を辞めてしまえば、一般公募の枠で出品したとしても評価されることはまずない。それも分かっていたが、そんな評価はもうどうでも良かった。

 結局、ぼくは誰かに師事するとかどこかの団体に所属するということ自体が自分には合わないのかもと考えた。現状の書道団体への批判的な考えもあったが、その批判だけをモチベーションに戦っていくのもちっぽけなことに思えた。そんなことより、独自の方法で料紙を制作し続けていく環境を作ることの方が重要だった。

恩師の死


 どのような伝統工芸の職工も、修行の道に入って理論よりも身体で技術を体得し、独自の方法で制作していくものだ。しかし、そもそも伝統工芸として認定されていない料紙の場合は、修行先すら見つけることが困難であった。古い文献にもその制作方法などは見つけることができず、数少ない趣味程度の内容が記載されている書籍を参考に、古筆の文献から想像したり、襖紙の制作過程を応用したりしながら、「現代料紙」と銘打った独自の解釈やデザインのものを狭いアパートの一室で作っていた。そして、実験的な制作物の在庫が増えるばかりで全くと言っていいほど売れることは無かった。

 唯一、そんなぼくの料紙を注文し応援してくれたのが、書の師匠でもあった書家の川渕如水じょすい先生だった。川渕先生との出会いは、ぼくが書道会に足を踏み入れたことがきっかけだった。会の若手は多くが学生で、当時20代半ばでいわゆる社会人だったぼくは、なかなかそこに馴染めずにいた。そんなぼくにはじめて理解を示してくれたのが、川渕先生だった。また、書道以外でも、将棋・刀剣・硯の趣味で共感できる関係だった。酒と料理が好きだった先生は、たびたび自宅へと招いてくれて、刀剣の鑑賞や洗硯せんけん(硯を水に浸けて鑑賞すること)をしながら酒を酌み交わし、書についても多くのことを教わった。

 先生がぼくの書作品を添削してくれるときは、文字の結体(形)には触れず、全体の雰囲気を見てくれたことが深く心に刻まれている。「眠そうな字だ」とか「空間が慌ただしい」など、ぼくの書いているときの心情を的確に当てて、書を書くということがどういう事なのかを示してくれた。ぼくが和歌や古筆を抽象的に捉えることの重要性を論じているのも、そんな先生の影響があるのだと思う。ただ、ぼくが先に述べた理由で書道会を退会することにしてからは、そんな素晴らしい学びの時間も少しずつ減っていく。退会してからも川渕先生の主催する教室には個人的に通っていたが、中途採用で和紙関係の就職先が見つかったぼくは、朝から終電まで働く忙しさになり、料紙や書にさける時間も限られていった。そうしてだんだんと川渕先生とも疎遠になっていく。それでも、先生はしばしばオーダーメイドで料紙を注文してくれたりして、その関係が途切れることはなかった。

 そんなある日のこと、先生が倒れたという連絡を受ける。最初は高血圧が原因という話だったが、検査を続けていくうちに癌細胞が発見される。それからは入退院を繰り返しながらの治療が始まり、先生も書作活動に専念できない状況が長く続いた。さらには、倒れたときの後遺症などで右手の痺れがあり、全盛期のように書けないことを気にしていた先生は、あまり書かなくなっていった。ぼくは先生の入院中に、お見舞いで新作の料紙を何度も何度も持っていった。ぼくは先生に作品を書き続けて欲しかったのだ。どんな状況でも、そのときにしかできない作品、それこそが書と人間の関係だとぼくは思っていた。しかし、そんな偉そうなことをぼくの口から先生に言えるわけもない。料紙を持っていく度に「先生の書と人間性こそがぼくの料紙作家としての活動の励みです」と言いたい気持ちを上手く伝えられないような気がして、「差し迫った感じになっては先生の回復に影響してしまうのではないか」とかモヤモヤと考えながら、いつも何も言えず病院を後にするばかりだった。

 その後、先生は長い闘病生活の末、若くして亡くなられてしまった。ぼくは書の師匠と現代料紙作家としての理解者を同時になくしてしまったのだ。先生の訃報を電話越しに受けたときのことは忘れることはない。共通の知り合いからの番号が携帯電話に表示されたとき、ぼくはその電話の内容が何であるかを悟った。電話越しに聞くその女性の声はとても落ち着いていて、ぼくの予想通りの言葉をとても穏やかに述べた。ぼくも覚悟はできていた。でもそのとき、哀しみという感情が心に届くよりも先に、涙が流れていた。そんなマンガみたいな身体現象を体験したのは、後にも先にもそのとき限りだ。病院で最後に先生に会えたときは、すでに会話ができる状態ではなかった。結局、ぼくは伝えたい気持ちを言葉にすることが最後までできなかったのだった。

 もちろん、その後は全く料紙は売れなくなるわけだが、ぼくはそのとき、命を削ってでも料紙制作を続けていくことを決心した。先生が亡くなって数年後に聞いた話だが、先生は見舞いに来た人に、ぼくが贈った料紙を嬉しそうに見せていたらしい。「書きたくなる紙だな〜」なんて言いながら。きっと、言葉にできなかったぼくの思いは伝わっていたんだと、そう思えた。

川渕如水氏と著者

平安オタクへの道


 そうやってぼくは料紙制作を続ける傍で、さきほど触れた和紙加工の会社で襖紙の伝統工芸などを学ぶ時期を経て、2010年にはフリーランスとして個人事業を始めることになる。同じ頃に、常陸太田市無形文化財である「小室かな料紙工房」の小室久さんにも出会った。料紙のことを調べはじめておよそ10年後のことであった。

 小室さんには料紙の様々な事を教えていただいた。ぼくの取材にも快く応じてくれて、今でも大変お世話になっている。小室家は、料紙装飾の第一人者として知られる田中親美しんびの時代から四代続く由緒ある数少ない料紙工房の家柄である。詳しくはウェブサイトをご覧いただきたい★1

 フリーになってからは、仕事に追われる日々の中で少しづつ参考書籍の内容をまとめながら、料紙制作だけではなく、教育研究会書道部や高等学校の書道部などでも出前授業をおこなうことができるようにもなった。しかしそういう場所では、ぼくの学歴や、料紙制作とは別の建築系の職業を持っていることなどで、専門家としては認められづらい不穏な空気になることもあった。それはぼくにとって次第にコンプレックスになっていった。

 そのコンプレックスを払拭するためには知識をつけるしかない。そう考えて、仕事以外の時間のほとんどを料紙の資料収集や関連書籍の読書に費やし、コツコツとそれをまとめる作業を続けてきた。それがここ10年くらいのぼくの生活スタイルである。途中の1年ちょっとくらい、心が折れかけてキャバクラ通いに集中していた時期もあったが、それも今から振り返れば、公家たちが様々な女性の家に通っていたことに通じる現代的な実践だった。と思うことにしている。

 ある程度、自分なりに資料や考えがまとまったところで、展示やライブパフォーマンスなどを企画して発表する機会をつくってきた。毎回採算は合わなかったが、それでも自己投資を続けながら、国風文化を独自の視点から考察し、現代における表現の模索を続けることはやめられなかった。

イベント「墨とノイズ」


 模索の一環として新芸術校のコレクティブリーダー課程を受講した後の2021年からは、アトリエ兼用の店舗を構え、交流の場となるギャラリー・カフェの運営も始めた。国風文化を発信するための独自のスペースを作ろうと考えたのだ。それこそが冒頭で述べたようにシラスでチャンネルを持つきっかけに繋がったのだが、ぼくは、研究者でもなく、料紙だけを制作する専門職でもなく、美術家でもないというコンプレックスは拭うことができないまま、平安オタクの道を進んできた。

ギャラリー・カフェ「Kotobuki PourOver」

職工コンプレックス


 ぼくの職工としてのコンプレックスは、平安時代の職工にも通じるものがあると考えている。政治の世界で活躍できなかった公家たちは、歌人への道に自由な表現を求めた。しかし、文献にも残らなかった料紙の職工たちは何を思い、何を求めていたのだろう。あれほどの手間をかけた紙の装飾に彼らが何の熱意も持たなかったとは考え難い。ぼくはそんな時代の職工や歌人に、届かぬ片想いをしてこれまでやってきた。

 紙の装飾とひらがなの成立と和歌の文化の繁栄は、そのどれ1つが欠けても成り立つことがなかった一体のものである。

 中国から漢字を輸入した日本では当時、漢字は「男手(おとこで)」、平仮名は「女手(おんなで)」とも呼ばれた。男性が公的なところでは漢詩漢文を学び、万葉仮名などを使ったのに対して、女性はひらがなを使うといったように、真名と仮名は区別されていた。当時は、女性が博識であることが男性に良く思われなかった。『枕草子』などにもそのようなエピソードは書かれている。

 そういったことからも察せられるように、ひらがなは私的な関係において成熟していった。和紙装飾は、ひらがなや和歌とともに12世紀に最盛期を迎えた。そんな紙・かな・和歌の国風文化の発展には、多少の誤解を恐れずに言うならば、プライベートな関係性とエロスが深く関わっている。この文字と紙の芸術のロマン主義的文化はあまり語られていない。8世紀頃に成立した『万葉集』の時代には、写実的で素朴な表現がなされているのに対して、9世紀後半に成立した『古今和歌集』の時代には、観念的で優美な抒情の世界が表現されている。正岡子規の歌論「歌よみに与ふる書」では、『万葉』の歌は写実的なイケてる表現であり、『古今集』は下手な歌よみの選んだ主観的で感情ばかりのカスだということが書かれている。つまり裏を返せば、まさに『古今和歌集』の時代こそが、恋愛賛美や神秘的な自然への憧れがつまった表現を目指した文化の頂点なのだ。

 勅撰集である『古今和歌集』は、全1111首のうち360首が恋歌であり、恋歌一から恋歌五まで、恋の始まりから別れの愛おしさに至るストーリー構成がとられている。同時代の『伊勢物語』も恋愛がメインテーマで、主人公である在原業平は生涯で3000人以上の女性と関係を持ったと記されている。業平は、当時の政治の権力争いには参加できず漢文も得意でなかったとされるが、彼の和歌によって多くの女性が恋に堕ちるような天賦の才があったのだ。また業平は、自分の侍女の代筆をして相手の男性を堕とすなどの元祖ネカマ的な側面も持っていた。そんな和歌のラブレターのやり取りも多く残されている★2

 かなと料紙の国風文化の話は長くなるのでここでは割愛するが、もし興味を持っていただけるのであれば是非チャンネルをご覧いただけたら嬉しい。

 



 話を現代に戻そう。

 閉鎖的な職人の世界と保守的な国文学研究は、一般的にはあまり知られる機会が少ない。

 特に料紙に関しては、そもそも工芸にもならない「文字を書くための支持体」という消耗品としての位置づけがどうしてもある。文字のキャラクター性の強さや、民藝や伝統工芸のうちの紙工や抄紙のような産地と産業が根付いたものとは違って、紙の装飾の伝統は、さきほど名前を挙げた第一人者の田中親美が残した功績ですら広く周知されていない。

 いつの時代も、歴史に名を残すことができるのは能書家(アーティスト)のような固有性を持った存在だ。では、労働者としての職工は、その地位の違いに抗うことはできないのだろうか。ぼくはそのことをずっと考えてきた。

 さらに、アーティストと職工の違いの問題に加え、平安貴族の美意識自体もまた、これまで美術や芸術という概念では語られることがなかった。明治以降にそれまであった様々な概念が再編成され、その一環として「芸術(Art)」という西洋の影響を受けた概念が持ち込まれた結果、その基準に従うものこそが美術だということになってきたからである。

 しかし、紙装飾の技術は、歴史を振り返れば和歌(ひらがな)と一体となる抽象的な芸術の感覚があったからこそ成立したものである。だからこそぼくは、料紙の職人としても国風文化の本質を広く伝えるため、料紙の現代的な表現方法を追求して社会と接続する行為を細々とではあるが続けてきた。

「墨流し」の実演


料紙の制作


 しかしぼくは、哲学や思想を語れるわけではないし、料紙を社会と接続したいという願望はあっても、それができるような知識や表現力が足りないという悩みも常に持っていた。これまで蓄積してきた情報をただ説明するのみで、文章を書くにしても語るにしても、本当に新しいものを生み出せているのだろうかという悩みだとも言える。それでもぼくは、常に誰かに影響される弱さを持つ何者でもない存在だというコンプレックスはできるだけ隠し、なんとかしてその孤独の壁を乗り越えたいと思っていた。

シラスと私


 そんな知名度のないぼくの料紙とひらがなの国風文化の話を聞いてくれた東さんは、忖度なく「その話には価値があるからゲンロンで何かサポートできる!」と言ってくれた。そのときぼくは、これまでしつこくやってきたぼくの人間力を評価してもらえたと錯覚するほど嬉しかった。

 ぼくにとって、ぼくがシラスでチャンネルを持てたことは、料紙の職工にはじめてまともに光が当たったおよそ一千年ぶりの快挙であったと言っても過言ではない。もちろん言うまでもなく、それはぼく個人のみの快挙ではない。ぼくが番組を持てたこと自体は、本当に有難いとしか言いようのない誤配ではないかと思っている。シラスというプラットフォームとそれを支えるコミュニティーがこそ、ぼくと料紙をここに導いてくれたのである。

 キャリアやコミュニティーの問題に悩まされてきたぼくにとって、シラスというプラットフォームは、「熱意や気合が正しい方向に向かえば、それを自由に表現できる」ということを証明してくれる場所である。

 ぼくは今年3月におこなわれたゲンロン友の会第13期総会「人間復活」にも出展したのだが、その前には、シラス配信者(シラサー)の先輩である山下 Topo 洋平さんによる総会出展の各ブースを紹介する番組に呼んでいただき、いろんな人たちと出会うことができた。特に、有名なシラス視聴者(シラシー)である illbouze さんとは、生き方に共感できるところが多く、とても話が盛り上がった。ほかの皆さんもぼくの料紙の話にとても興味関心を持ってくれて、配信後も熱く語り合うことができた。ぼくはテンションが上がりすぎて、初対面にもかかわらず、案の定、椅子から転げ落ちるくらい如泥にょでった状態になったりもした。如泥ニョデイとはシラス配信やコメント欄とのやり取りの中で生まれた言葉で、だらしない様や酔っ払う様をさす(例:如泥る・如泥配信など)。このような言葉はほかにもいくつか生まれている。チャンネル用語集のようなものだ。たとえば、白妙しろたえ──和歌の枕詞だが、このチャンネルでは肯定的な感情表現に用いる(例:めっちゃ白妙〈めっちゃヤバい的に〉・白妙な◯◯など)──や、麻呂まろ──特に意味はない、もともと接尾語であることからも基本的に何かの語尾につける(例:なかいしんご麻呂・さみしい麻呂・カツ麻呂・まんぞく麻呂・なんでも)──、推し公家くげ──推しの公家、自分の好きなタイプの公家を見つけることだが女房などでも良い──、よもやま話──雑談──などといった言葉がそれ当たる。また、総会当日は、ブースが隣だったこれまた有名シラシーのかべぬけさんや厳男子先生ともお話しする機会が持てた。総会後もかべぬけさんと厳男子先生が配信する YouTube に飛び入りでおじゃましたり、 illbouze さんはたびたび KOTOBUKI を訪れてくれて、一緒に配信もすることができた★3

illbouze氏と著者の配信風景
 様々なジャンルのシラサーやシラシーとの交流の中で、今まで自分だけでやって来た平安オタクの道にも新しい課題やテーマが発見できたし、ぼくの配信でもコメント欄が賑わうことも少しづつ増えてきた。山下 Topo 洋平さんのシラスチャンネル開設2周年記念企画「シラサー同期の二人がシラスについて語る」★4では、飲茶さんと Topo さんが対談の中で、ぼくの話題に触れてくれた。また、チャンネル開設直後は、仕事の過密スケジュールを言い訳に月に1〜2回の配信しかできていなかったが、Topo さんのアドバイスのおかげで今は月に5〜6回の配信を目指している。新垣隆さんの番組では、ぼくの制作した日本で4台目の音響彫刻に興味を示していただけて、何かが始まりそうな予感がある★5。さらには、山下 Topo 洋平さんの2周年記念企画「シラス配信者6名とシラス共同代表・桂大介氏が集い、シラスについて大いに語りあう!」★6では、桂代表とのお話の中で、日本の贈答文化や贈与に関しても平安文化の和歌の贈答が関連付けられるかもしれないという、新たな気付きを得ることもできた。そういったシラスを通じた様々な対話によって平安文化と現代性を接続したいという、ぼくの目標は着実に進んでいる。寂しがりやでコンプレックスの多いぼくにとって、それらは素直にとても嬉しくて、活動のモチベーションにも大いに繋がっている。

 もちろん、コンプレックスが完全に解消されたわけではない。しかし、ぼくは在野の職人兼オタクとして、歴史の実証や証明とは違う、国風文化の余韻を現代社会と接続するための新しい物語をつくることができるのではないか。

 チャンネルを開設してまだ半年足らずの未熟者として、本来ならもっとチャンネル登録者や視聴者を増やすための努力や工夫をしていかなければならない。しかし、はばからずにさらなる目標を言うならば、更新が許される限りはシラスで対話を重ね成長していきたい。そして、いつかは東さんが「ルソー『新エロイーズ』あらすじ早わかり&深読み講義」★7でルソーの恋愛小説を解説したときのように、魅力的に国風文化や推し公家を語れるようになって、ゲンロンカフェにも登壇できるようになりたい。

 ぼくのような底辺の人間がそんな目標を持てたのも、シラスというプラットフォームでシラサーやシラシーと出会い、人びとと対話を重ねることで様々な物語が創られていく可能性があることを実感できたからだ。そして、その思いは、さきほど述べたようにゲンロン友の会総会を通じて新しい交流が始まったことでもさらに強くなっている。

 シラスはぼくにとって、配信プラットフォームを超えた存在だ。

 


★1 URL= https://kanaryoshi.com
★2 「今の気分で恋のうた」URL= https://shirasu.io/t/inkstone/c/ryoshi/p/20221116
★3 「突発illbouzeさんが遊びにきてくれました!」 https://shirasu.io/t/inkstone/c/ryoshi/p/20230402
★4 URL= https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/20230429
★5 「坂本龍一『音楽図鑑』1984年」URL= https://shirasu.io/t/TNiigaki1970/c/TNiigaki1970/p/20230410niigaki34
★6 URL= https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/20230509
★7 「東浩紀講義#1 ルソー『新エロイーズ』あらすじ早わかり&深読み講義」URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20220926164513

なかいしんご

1979年香川県生まれ大田区池上在住。平安時代から続く料紙を作る職工。日本国内で4機目になる音響彫刻を制作し、音響墨流しの装置として独自設計を施す。墨流しの歴史を研究し現代文化との接続を試みる作品制作と、平安オタクの立場から独自の視点で国風文化を伝える活動や中高の教育の分野で料紙講習会を行う。 取材協力で参加した論文に、金子馨「料紙加工の現代的な方法について」、『跡見学園女子大学文学部紀要』第52号がある。 大田区伝統工芸発展の会・正会員理事。表装技能士補。池上でギャラリーカフェ・KOTOBUKI Pouroverを運営。
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