【書評】面白過ぎる既存「ブンガク」の破壊者──佐川恭一『シン・サークルクラッシャー麻紀』評|古谷経衡

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webゲンロン 2022年8月30日配信
 極めて優秀な小説というのは大体において書き出しで決まる。「飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった」。『限りなく透明に近いブルー』の書き出しである。これで芥川賞は決まった。筆力の弱い書き手は第一撃が脆弱だ。書き出しの印象は小説の最終段落まで影響を与える。これ以上ない、という書き出しは読者に猛烈な印象を与えて鮮明な映像を提供し続ける。これと同じ現象が佐川恭一『シン・サークルクラッシャー麻紀』(破滅派、2022年)で起こった。「サークルクラッシャー麻紀の朝は早い」。この書き出しを以て本作は不朽の名作であることが決定づけられたと考えてよい。  数年に一度、これは面白過ぎて危険だ、という作品に出合うことがある。近年のそれは西村賢太の『小銭をかぞえる』(2008年)だった。それ以来、久しぶりに面白過ぎて危険な作品に出合った。サークルクラッシャー。なるほど大学のDT気質が溢れるサークルに紅一点の美女が闖入することにより男どもの人間関係が破壊される。オタク・カルチャー用語或いはネットスラングとしてこの言葉が定着して久しいが、私は本当にサークルクラッシャーという存在がこの世に実在するのかどうか知らない。しかしそんなリアリティのディテールはどうでもよい。  京都大学で最も芋臭い文芸サークル「ともしび」に麻紀ちゃん(エロい)が入部してくる本作冒頭の段は、実は先行して短編電子小説になっておりこれが『サークルクラッシャー麻紀』として刊行されている。とは言え短編版を読まなくともいきなり長編版の『シン』からでも一向に差し支えない。何度読んでもこの冒頭の段で爆笑する。「ともしび」には部長を含めて4人の童貞がいるが、この中で最も文学的素養の薄いケンタが麻紀ちゃんと情交して脱童貞すると、ケンタの創作に対する姿勢そのものが下記のごとく変更される。
かれの書く小説はもともと備えていたはずの繊細な優しさ、温かさを失い、だんだん単なる村上龍のパクリ、もしくはアーヴィン・ウェルシュのパクリのようなものになっていった。(p.12)
 こういう面白過ぎる比喩は危険だ。笑い過ぎて健康に良くない。更にこの調子のまま怒涛の冒頭シークエンスが展開されるので、飛ばし過ぎだというところが玉に瑕である。
 かつて竹熊健太郎×相原コージの名著『サルでも描けるまんが教室』に於いて、竹熊は「面白過ぎる作品は、いたずらに人心を不安におとしいれ、子供が不良になります」とした。その通りである。『相棒』シリーズは何故続いているのか。答えは「面白過ぎないから」である。『刑事コロンボ』シリーズが冷戦時代から始まって断続的に21世紀まで続いたのはなぜか。「面白過ぎないから」である。『スタートレック』や『猿の惑星』は何故シリーズ化したのか。「面白過ぎないから」である。  一方、『カウボーイビバップ』や『王立宇宙軍』『AKIRA』の続編が作られないのはなぜか。サンライズやガイナックスや東宝の内部事情ではない。勿論それもあるけれども基本的には「面白過ぎる」からである。面白過ぎる作品は圧倒的な印象を与え、時代や社会に対して決定的な爪跡を残す。面白過ぎる作品は必ず普遍性を持つ。政治や社会が変遷しても不滅の輝きを放つ。普遍性があるがゆえにこういった作品は時代の変遷(流行)に対し即応が難しく、刹那的な商業需要に応えられないから作品史の中では孤立したものになりやすい。だがそれでよい。『シン・サークルクラッシャー麻紀』は、間違いなくこの系譜の作品だ。

 

 本作は単に、サークルクラッシャー麻紀による童貞男らに対する絨毯爆撃のコメディではない。勿論それを前提に設計されているが問題はそんな単純なものでは無い。人生とは何か、表現とは何か、文学とは何かという普遍的テーマで貫かれている壮大な話だが、その素晴らしさを滔々と書いても凡の書評になるから書かない。本作は確固とした普遍性がエンタメ部分の土台の上に構築されており、作者・佐川恭一氏の筆力の高さが余すところなく詰め込まれている。申し分なく満点だ。いま読まないでいつ読むのか。  私は文学部を出ている割に文学青年ではないが、それでも最近の新人による小説は物足りないと感じる。何故物足りないかと申せば基本的に主題が小さく、その中ですら群像劇が描ききれていないと感じるところが多いからだ。所謂ポリコレに配慮しすぎているのか、登場人物が全て優等生的な小市民で全く物足りない。一言で申せば作品世界の全てが凡なのである。と言いつつ、そういったポリコレを逸脱した新感覚であると謳っているモノを読むと、その逸脱なるものはまたぞろ「想定の範囲内」に過ぎない。予想される脱線を「衝撃」と呼ぶべきではない。  致命的な欠点までには至らないが、及第点のレベルで「候補作」という冠を多く付けた「小さくまとまった、お上品」な小説が、ちまちまと新人賞を取っている。それを以て本が売れない、文学が売れない、と書店員は嘆いている。  当たり前だ。刺激を求めるなら、ポリコレを度外視した漫画の分野に読者は「とっくに」移行している。現代日本漫画の方が、よほど構成的に上手く、緻密であり、計算されている。要するに小説より漫画の方が「面白い」のである。当然それら漫画を原作としたアニメも然り。簡単な理屈である。  現代日本における新人小説は優等生路線がゆえに、シリーズ化することも不可能なほど「面白さ」が欠損してしまった。それらは「面白過ぎない」という基準にすら到達できていない。一方で小説として破綻しているわけではないので、単行本になったりする。最近でも、読んでみて唖然とするものが少なくなかった。何が言いたいのか分からないし、分かったとしてもそういったテーマはすべて既存の作家が別の時代に書きつくしている。
 面白さとは既存価値観の外から出てくる。面白さとは端的に既存ルールの破壊である。しかしそうした貫通力がいまの小説には乏しい。現代日本の新人文学の多くは、中堅シティホテルのレストランで午後のティータイムを楽しんでいるシニア層のような、まずまず上品でおとなしく物静かな人たちにむけて、ほんのささやかな刺激を与えるものでしかない。  午後のティータイムを楽しむのは悪いことではないが、多くの人が僅かな刺激に1400円とかを払う時代ではなくなった。悪く言えばこういった界隈は、凄く保護されていて競争に晒されていないように思える。「ブンガク」という護送船団に守られた閉鎖的空間のように思える。砂粒ほどの刺激は安定をもたらすが、社会を変化させる力を持たない。「社会や貴方はこのままでいいのだ」という現状維持のメッセージを伝える装置に成り下がっている。「変わらなくてもいい。ありのままでいい」というメッセージを文字で展開させることの意味が私には分からない。  ラノベの方が純文学よりもはるかに売れており、いやはや数百万部以上売れている作品があるのも頷ける。だって面白いんだもの。そしてそういった作品の多くは既存価値観の破壊と、理不尽との闘いを主軸としている。秀逸なラノベの中で人々は常に何かと闘っている。それは魔物やモンスターだけではない。現代日本を舞台として、他者との衝突と激しい葛藤が見事に描かれているラノベは、それがアニメ化されるなどして大成功し、巨大な市場を形成するに至った。一方「ブンガク」は徹頭徹尾非戦を貫いて午後のティータイムに安寧している。前者の方が主題として魅力と映るのは不可思議な感覚ではない。現代日本における新人文学の中で、何作漫画化やアニメ化に耐えられる作品があるか。恐らくゼロに近いだろう。彼らはエンタメとして死んでいるのだ。

 

『シン・サークルクラッシャー麻紀』はこういった停滞を打破する可能性を秘めている、私が観測する限り唯一の作品だ。本作は間違いなく化ける。私たち読者は、ポリコレとか忖度とか業界のルールとか、そんなくだらないものに縛られた「ブンガク」など読みたくはない。ただ面白過ぎる作品を読みたいのだ。嗚呼、ついにその希望がやってきたなと思う。佐川恭一氏という天才によって、文学界への絨毯爆撃が開始された。  過日、私が文化放送の『ロンドンブーツ1号2号田村淳のニュースクラブ』という番組に出演して、本作を紹介したところ大きな反響があり版元は重版を決定した。この規模の出版社、そして一冊2000円を超える単価の文学作品が重版を決定するのは壮挙というところだそうだ。田村淳氏も本作を「今年一番」と後日絶賛された。むろん私による貢献度は大海の一滴であるが、結果として本作がいま、大きな炎となり列島全土に広がろうとしているのをリアルタイムで目撃している事実は、歴史の目撃と同義であり感慨無量である。

『シン・サークルクラッシャー麻紀』
佐川恭一著(発行:破滅派)

古谷経衡

1982年北海道生まれ。作家・文筆家。一般社団法人令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人日本ペンクラブ正会員。株式会社オフィストゥーワン所属。立命館大学文学部史学科卒。主著に『敗軍の名将』(幻冬舎)、『毒親と絶縁する』(集英社)、『愛国商売』『女政治家の通信簿』『草食系のための対米自立論』(小学館)、『左翼も右翼もウソばかり』『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)など多数。テレビ・ラジオなどでコメンテーターなど多数。公式サイトhttp://www.furuyatsunehira.com/
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