【書評】労農派ピケティは「バラモン左翼」を乗りこえられるか──トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』評|梶谷懐

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webゲンロン 2023年11月30日配信

リベラル知識人はなぜ「バラモン左翼」と呼ばれるか

 東浩紀は、『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)や『訂正する力』(朝日新書)などの最近の著作のなかで、次のようなカズオ・イシグロの言葉にたびたび言及している。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。★1

 東は、開放性を掲げるリベラル知識人が、実は同じ心情や生活習慣を持つ人々の中で閉じたサークルを作っている、という実態を批判する文脈でこの発言に触れている。確かにそれも重要な視点だろう。そのうえで、ここではイシグロがそれに続けて語った内容により注意を向けたい。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。★2

 「横」ではなく「縦」。すなわち、「上下」の方向性への言及は、言うまでもなく社会階層、もっと言うならば所得格差による社会の分断の深刻さを象徴している。しかし、分断がもたらす閉塞性を打破するためには、リベラル知識人がこのような「違う世界(階層)の人びと」に目を向けるだけで十分なのだろうか。いや、それだけではダメで、より積極的な所得と資産、そして教育などの人的資本の再分配政策にコミットし、階層間の違い自体を縮小させなければならない、と主張するのが、トマ・ピケティの大著『資本とイデオロギー』である。

 この本の原書が出版された当時から、日本でも大きなインパクトをもって受け止められたのが、章のタイトルにもなっている「バラモン左翼」という言葉だろう。これは、今世紀になり先進国の多くで左派政党が低学歴の貧困層ではなく、高学歴のインテリ層から多くの支持を集めるようになったことを批判する文脈で用いられたものだ。その意味で、「バラモン左翼」という言葉は、カズオ・イシグロや東浩紀が批判する、現代のリベラル知識人の閉じた関心のありかたをより痛烈に抉り出すものであり、だからこそ大きなインパクトをもって受け止められたと言ってよいだろう。

 だが、邦訳を読むことができるようになった私たちは、ここでピケティがわざわざ「バラモン」というインド社会の身分制の用語を用いたことに、もう少し敏感になるべきかもしれない。すなわちピケティは、現在の先進国の状況が、バラモン(聖職者)とクシャトリア(貴族)との連合体が多くの富を独占したインドのように、前近代的な政治身分と、経済格差とが密接に結びついた社会に似てきていることに警鐘を鳴らそうとしたのである。このことを確認するために、本書の内容を簡単に振り返ってみよう。 

前近代的な三層社会からハイパー資本主義へ

  本書は、まずヨーロッパにおける前近代的な身分制社会、すなわち聖職者・貴族・平民からなる「三層社会」の記述から始まる。そこでは宗教的権威と政治権力、そして経済力とが分かちがたく結びついていた。支配階級である聖職者と貴族は、安全保障と司法という領主権を行使する当時の最大の資産である土地を独占的に所有する経済的上流階級でもあったからだ。本書によれば、ヨーロッパであれインドや日本のようなアジア社会であれ、前近代的な身分社会においては、ほとんど変わらない構図が存在していた。

 これに対して、近代化と産業革命によって成立した「所有権社会」は、理念上は経済活動にかかわる財産権と政治・司法にかかわる領主権とを明確に区別するものだった。建前上、財産権は全ての成人男性に対して開かれていたからだ。しかし、現実には過去の特権階級がそれまでに得た財産の権利は自然で不可侵のものとして保護されていたし、その「財産権」は奴隷の所有に対しても適用された。また、19世紀に拡大した欧米諸国による植民地支配は、一足早く所有権社会を確立させた先進諸国の人びととそれ以外の地域の人びとの格差を急速に拡大させた。このため、所有権社会が確立した近代社会は、それを支える財産主義イデオロギーが強固になるにつれて、それ以前の三層社会にもまして社会的・経済的な格差を拡大させていった。それが「危機」すなわち転換期を迎えるには、1910代から40年代にかけて、二度の世界大戦によって多くの地域で国土が荒廃するという悲劇を待たなければならなかった。大戦後の東西冷戦構造が、所有権社会のアンチテーゼとしての共産主義社会、さらにはその西側社会における代替案としての社会民主主義社会の成立を促したからだ。

 しかし、冷戦の終焉とともにそのような所有権社会の「危機」は去り、それは新たな財産主義と強固な能力主義の神話に支えられたハイパー資本主義社会に進化を遂げる。このように、前近代の三層社会から現代のハイパー資本主義社会やポスト共産主義社会にいたるまで、格差を正当化するイデオロギーはそれぞれの社会の中に深く根を張ってきた。このイデオロギーの威力は非常に強固だからこそ、所得や資産などに対する累進課税をベースにした再分配政策を実施するためのゆるぎない制度を、強固な意志によって社会の中に実装しなければならない。これが本書を貫く姿勢である。

 さて、20世紀半ばに社会的な平等を掲げた社会民主主義が、ヨーロッパの左派政党だけでなくアメリカの民主党によっても掲げられたとき、それらの政党はおおむね教育水準が低く、比較的所得が低いか、資産を持たないのも同然な有権者によって支持されてきた。しかし現代では、社会民主主義政党の後継者である左派政党の最大の支持層は、教育水準が高く、所得水準も比較的裕福な層へと移ってきている。高い教育水準によって文化的な特権を享受しつつ、人種やジェンダーなどの社会問題ではリベラルな価値観を掲げる左派政党の「岩盤支持層」こそが、現代のバラモンであり、彼らと能力主義を信奉する「商人右翼」とを二大支配階級とするのが現代版の三層社会である、というのがピケティの見立てである。

 その結果、現代版の三層社会ではどのようなことが起きているのか。バラモン左翼が支持する左派(あるいはリベラル)政党は、商人右翼が支持する保守政党と激しく争い、交互に政権の座を奪い合う。しかし、そこで常に置き去りにされるのは平民=大衆であり、その多くはむしろ民族主義的な極右政党との親和性を示す「社会自国主義」に吸い寄せられる。この構図はヨーロッパだけでなく、南北アメリカや、日本やインドなどのアジア社会にも広く観測されることをピケティは豊富なデータを挙げながら指摘する。冒頭のカズオ・イシグロの発言も、このような構図を前提にしていることは明らかだろう。

現代版「労農派」としてのピケティ

 では、現代において、なぜこのような前近代における格差イデオロギーの復活のような現象が起きているのだろうか。また、その現実に対して私たちはどのように対処すればよいのだろうか。そこで筆者が想起したのは、一見本書とは関連のなさそうな「日本資本主義論争」である。1920年代から30年代にかけて行われた「日本資本主義論争」とは、一般的には、講座派と労農派という、マルクス主義者の中での、社会主義革命の実現へと至る戦略の違いをめぐる路線対立として理解されてきた。

 戦前・戦後を通じて日本共産党の主流を形成した講座派マルクス主義は、日本の現状を「封建的な前近代性」の残存によって近代資本主義の普遍的な発展コースから逸脱したものと考え、資本主義の正常な発展とその先の社会主義革命を目指すために、まず日本社会に残る前近代性(=封建遺制)の払拭を目指そうとする立場である。そして、このような「二段階革命論」に対抗する論陣を張ったのが労農派の論客だった。彼らは、後進国の日本でも近代資本主義のロジックはすでに社会に浸透していると考えた。このため、講座派のように前近代性の払拭にこだわるのではなく、資本主義によって生み出された格差や貧困などの問題を解決する、社会主義革命を目指すべきだと考えたのだ。この対立は、「アジアにおいて社会主義革命を目指すときに、マルクス主義という『普遍的』な理論をどう受容するか」という、後進地域の左翼に特有のアポリアから生じたものである。

 さて、ここまでの説明で、なぜ筆者がピケティの著作から「日本資本主義論争」を連想したのか、お分かりいただけただろうか。そもそも、戦前の日本でみられたような後進資本主義地域における「近代化」と「平等化」、およびその優先度をめぐる立場の対立は、決して過去のものになったわけではない。たとえば、「バラモン左翼」という言葉の由来になったインドの現状について考えてみよう。まず、インドが前近代的なカースト制の残滓を抱えている以上、西側先進国と普遍的な価値観を共有するのは困難であり、先進国との協調の下で経済成長と社会の平等を両立させるためには、まず前近代的なカースト制の払拭を目指すべきだ、という考え方がありうるだろう。これはいわば上記の講座派的な立場を引き継いだものである。

 しかし、本書においてピケティは明らかにそれとは異なるアプローチを採っている。むしろ、格差を正当化するイデオロギーが社会的な不平等をもたらす、という現象こそが洋の東西及び前近代から現代までを貫く普遍性を持っているのであり、そこからの脱却を目指すのであれば、「前近代性」の払拭にこだわるよりも、すぐに格差イデオロギーの克服と所得の平等化を目指すべきだ──本書から受け取ることができるのは、そのような明確な姿勢だ。

 この姿勢は、彼のカースト制に関する見解にも貫かれている。なぜならピケティは、インドが近代化を遂げた後においてもカースト制を払拭できなかった原因を、イギリスによる植民地統治、なかんずく国勢調査を通じた官僚的な階層把握が、伝統的なカーストの境界をはるかに硬直的なものにしたことに求めているからだ。すなわち、イギリス統治下のインドでは、多様なバックグラウンドを持つ「インド人」を「分割して統治する」ために、伝統的なカースト意識が、権利と義務の付与のための識別記号として用いられた。そのことによってもともと曖昧なものに過ぎなかったカースト意識が、より強固な集団的アイデンティティとなっていった、というわけだ。筆者はインド社会の専門家ではないので、この見解の妥当性を判断する能力はない。しかしここには、戦前の日本における「労農派」に接近する問題意識が容易に見て取れるだろう。そこには、カースト制というインドが抱える「前近代性」を、地域や文化に結びついた本質的なものとしてではなく、支配勢力が持ち込んだ格差イデオロギーによって暴力的に押し付けられたものとして理解する姿勢が貫かれているからだ。その姿勢は、本書の結論部分における以下のような力強い宣言に過不足なく表現されている。

 本書で検討した格差レジーム史は、こうした政治―イデオロギー的変化を決定論的に見てはいけないことを示している。複数の道筋が常に可能であり、その道筋は短期的な出来事の論理と長期的な思想発展とに関連したパワーバランスに依存している。こうした思想発展が多くのレパートリーを生み、そこから危機の瞬間に広汎なアイディアが引き出される。(927頁)

格差問題の普遍性を地域の「固有性」からとらえ直す

 ただしピケティ自身がいくらか自戒を込めて書いているように、こうした議論はヨーロッパに代表される先進国の文脈を前提とした時にこそ、もっとも説得力をもつことは否めない。言い換えれば、ある地域がかかえる固有の問題──それはしばしば「前近代性」の名残として認識される──よりも、資本主義と格差イデオロギーの普遍的な結びつきを重視するピケティの議論を後進資本主義国、あるいは非西洋地域に当てはめようとすると、私たちは戦前の労農派と同じ、いや、それ以上の困難さに直面することになる。

 たとえば、インドにおいて現実に様々な差別に苦しめられている人びとに対して、それは資本主義と格差イデオロギーの結びつきによって起きている普遍的な現象なのであり、あなたが抱えている問題を解決するためには先進国の労働者と連帯して格差イデオロギーと闘うべきだ、と呼びかけたとしても、おそらく彼らの心には響かないだろう。実際の差別に苦しむ人にとって、問題は、あくまでもインドという地域の内部で起きている、地域固有の矛盾や「前近代性」がもたらすものであり、その払拭こそが切実な願いであるはずだからだ。

 また、普遍的な平等主義に立った社会運動の難しさは、2019年におきた香港の民主化運動にもみることができる。2019年夏、逃亡犯の中国本土引き渡しを認める条例への反対運動をきっかけとして香港全体に広がった民主化運動は、広く内外の人々の関心を集めたが、20年6月、中国全国人民代表者大会における香港国家安全維持法(国案法)の可決・施行により、50年間続くとされた「一国二制度」「高度な自治」そのものが実質的に終焉する、という形で幕を閉じた。

 一連の運動に参加した區龍宇などの左派知識人は、香港の民主化運動は香港、そして大陸の労働運動と連帯すべきだと主張していた★3。區らによれば、香港に長らく君臨してきた不動産・金融業界を中心とする財界と中国共産党の連合体こそ、香港の民主化に対する最大の障害となってきたからだ。彼ら香港の新しい支配階級は、香港の労働者や自営業者が政治的に力をつけ、中国本土の労働問題と連帯することを何よりも恐れているのだ、と。この區の主張が、ピケティの唱えるような普遍主義に基づく格差イデオロギー批判と共鳴するものであることは明らかだろう。

 しかしながら実際の運動においては、参加した多くの市民や学生たちが「香港人」アイデンティティにこだわるあまり、香港の富裕層ではなく、「前近代的な」中国大陸からの移民たちを自らの「敵」とみなす誤りを犯してしまった。そのことが、デモに対する警察の暴力的な鎮圧への対抗という背景があるにせよ、一部抗議者による行き過ぎた暴力行為に対して運動内部からの歯止めが困難になる、という状況を作り出してしまったのだ。前出の區自身、同じ著作の中で一連の運動をそう総括している。このことは、ピケティの主張する普遍的かつ平等主義的な連帯が、実際の社会運動の動員力において、「敵/味方」を明確に分けるアイデンティティ主義の前にいかに無力であるかを示す、象徴的な事例ともいえるのではないだろうか。

 もちろん、格差問題へのより強いコミットメントを主張する政治的スタンスと、膨大なデータを丹念に整理する実証的な研究スタイルとが有機的に結びついたピケティの著作が、日に日に分断が深まりつつある現代社会においてアクチュアルかつ普遍的な意義を持つものであることは言うまでもない。ただ、本書を単にアカデミズムの神棚の上に崇め奉る対象に終わらせないためには、その内容を一度私たちが住んでいる地域固有の文脈に置き換えて、徹底的に読み直す必要があるだろう。
 

 


★1 「カズオ・イシグロ語る『感情優先社会』の危うさ:事実より『何を感じるか』が大事だとどうなるか」、「東洋経済オンライン」、2021年3月4日。URL=https://toyokeizai.net/articles/-/414929
★2 同上。 
★3 區龍宇『香港の反乱2019』、寺本勉訳、柘植書房新社、2021年。

 


資本とイデオロギー
トマ・ピケティ 著 山形浩生・森本正史 訳(発行:みすず書房)

梶谷懐

1970年生まれ。2001年、神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得。神戸学院大学経済学部講師、助教授、神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て、現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)、『中国経済講義』(中公新書、2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著、NHK出版新書、2019年)などがある。

1 コメント

  • okaka2023/12/05 13:13

    面白かったです。 インドのカースト制度や香港の民主化運動といった、一見地域が抱える固有の問題が、その背後において資本の文明化作用という普遍性によって硬直化してしまっていること。しかし同時に現実に苦しむ人々の心は地域の固有性に絡められてしまっていて、それらの問題を固有性と普遍性の総体として捉え、乗り越える活路が見出せていないという指摘はとても示唆的でした。 また私は経済に疎いので、このような問題が経済学の視点からどのように論じられているのか気になりました。 ピケティの『資本とイデオロギー』、読んでみます。

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