ひとが「神」になったとき──アイドルOと慰霊をめぐって(後篇)|中森明夫+弓指寛治+東浩紀(司会)

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初出:2018年06月22日刊行『ゲンロンβ26』
 一九八六年に自殺をしたアイドルOこと岡田有希子さんをテーマにした弓指さんの「四月の人魚」展。その会場を訪れた中森明夫さんとの対談の後編をお届けします。
『ゲンロンβ25に掲載された前篇では、なぜいま弓指さんは岡田さんを描いたのか。弓指さんの作品をみて、中森さんはなにを想ったのか。時代によって変化するアイドル像、そして慰霊とはなにかに迫りました。
 後編では、八〇年代とアイドルの現状を接続させながら、岡田さんの事件と弓指さんの展示の意義についてあらためて考えます。(編集部)※本記事は前後篇の後篇です。前篇は下のボタンからお読みいただけます。
前篇はこちら
左から東浩紀、弓指寛治さん、中森明夫さん。撮影=編集部


おニャン子クラブの特異性



東浩紀 八〇年代のアイドルは、世俗と超越のあいだにいる存在でした。テレビに出ることが神聖で超越的だった時代、アイドルは崇高でありえました。

中森明夫 東さんはおニャン子クラブのファンでしたよね。

 握手会に行くくらいにはファンでした。

中森 ゆうゆ(岩井由紀子)が好きで、ふつうにアイドルファンだったわけでしょ。いつやめちゃったんですか?

 高校一年生か二年生のときですかね……おニャン子クラブは八七年、ぼくが高校一年生のときに解散してしまいます。岡田有希子さんが亡くなった翌年ですね。その後、主要メンバーはソロで活動を続けるんですが、やはりグループ時代と比べるとファンのテンションが下がる。おニャン子クラブでつながっていた友人も、ひとりは渡辺美奈代、ひとりは渡辺満里奈、ぼくはゆうゆと、みんなばらばらになり、コミュニティがなくなっていく。そういった流れのなかで、ぼくも自然とアイドルから離れていきました。
 おニャン子クラブは、ある種のポストアイドル、メタアイドルのようなものでした。そもそもグループアイドルという概念自体が、おニャン子クラブとともに生まれている。メンバーには会員番号があって、ゆうゆが一九番、渡辺美奈代が二九番ですが、最後は五〇番代のメンバーも現れてきます。つまり、メンバーになりさえすれば、だれでもアイドルになれてしまう。歌が下手でもいいし、容姿が優れている必要もない。おニャン子クラブというシステムは、いわばアイドルの最終兵器です。これはべつにいま批評家として言っているわけではなく、当時中学生のときに思っていたことです。画面を見て、「これがアイドルってどういうことなんだ!?」とふつうに思っていた(笑)。そしてファンもそれをふまえて応援していた。おニャン子クラブとファンのあいだには、かなり変わった、共犯的な関係性がありました。だからソロ活動になると、ファンはどうすればいいかわからなかった。ふつうのひとがたまたまアイドルになる、というシステムだからこそ応援していた。少なくともぼくはそうでした。

中森 おニャン子クラブが続いたのは二年と五ヶ月ですね。八五年に登場し、解散は八七年の夏でした。八六年の三月三一日には、河合その子と中島美春の「卒業式」がおニャン子クラブの生番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系列、八五-八七年)で放送されて、そこで最後にヒット曲の「じゃあね」をみんなで歌っていた。ぼくは武道館で行われた彼女らの卒業コンサートを見に行っています。

 グループを「卒業」するという演出もおニャン子クラブがはじめてですよね。

中森 そうですね。ちなみに岡田有希子さんが亡くなったのは、このおニャン子クラブの卒業式の約一週間後です。岡田さん自身が高校を卒業した直後で、事務所の意向でひとり暮らしを始めたばかりでした。八月末になると例年子どもの自殺が増えるそうですが、四月もおなじです。「四月はもっとも残酷な月だ」とはT・Sエリオットの詩篇『荒地』の有名な一節でした。今回の弓指さんの展示は「四月の人魚」という名前ですが、彼女の死にはまさに「四月」という条件があったのではないか。

 なるほど。それは気づきませんでした。

弓指寛治 学校や新生活が始まるのがいやで、自殺までしてしまうのですね。このタイトルは「十月の人魚」という岡田さんの曲をもじったものですが、四月がそのような意味を持っているとは考えていませんでした。

アイドルを観光から考える



弓指さんの作品《人魚》(左)と《動物園にて》(右)。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 

中森 ところで、おニャン子クラブはよく宝塚歌劇団と比べられますね。宝塚はまず学校にはいるから、そのあいだは給料もでないわけですが★1。「卒業」という概念は宝塚に由来すると思います。

 たしかにそうですね。秋元康さんはおニャン子クラブを二〇年後にAKB48というかたちでやり直すわけですが、そのとき参照したのはたしかに宝塚でしょう。劇場を作ったのはそういうことですよね。ただ、それに比べると、おニャン子クラブははるかに直感的につくられていたような気がします。だからこそすごく突破力があった。おニャン子クラブを見ていると、中学生ながらアイドルとはなにか、メディアとはなにか、テレビとはなにかを考えさせられました。

中森 おニャン子クラブはアイドルやメディアがまだ管理されていない時代の、始原のアナーキズムを持っていた。AKBになると、ビジネスとして管理がゆきとどいてしまった。
 ところで宝塚歌劇とアイドルとの関係は、東さんの「観光客の哲学」の概念を使ってべつの側面から語れるはずです。宝塚はビジネスとして構想された、人工的な観光地です。阪急東宝グループの創業者・小林一三が鉄道の終点に有楽施設を作ったのが発祥ですよね。

弓指 そうなんですか! 鉄道のために観光地が作られていたんですね。

 小林一三は重要な人物なんですよ。同じく小林が作った阪急百貨店も、宝塚劇場と同じく、ターミナルにひとを滞留させるためのシステムです。大食堂を最上階にして、客が一階に下りてくるまでにものを買わせるようにした。東京でも、西武は遊園地や球場を鉄道の終点に置いている。西武の堤一族と東急の五島慶太は、小林一三のやり方を東京で展開したひとたちです。アートの文脈で言えば、日本独自の形態と言われる百貨店内美術館も似た発想で作られている。ターミナルや交通網の発展と美術館や劇場の発展はつながっています。
弓指 小林一三が活躍したのはいつごろですか。

 明治末から昭和初期かな。

弓指 つまり、一〇〇年まえの関西の発明がいま東京をつくっているんですね。

中森 その宝塚の出身者にマンガの神様・手塚治虫がいます。マンガとアイドルという二大オタク文化のルーツが、人工都市・宝塚にあったのは面白い。話を戻すと、AKBグループは、東京のアキバ(秋葉原)から始まって名古屋の栄、大阪の難波、それに博多、新潟と、宝塚的な考え方をより広い地域で展開しているとも言える。だからいまのアイドルは、観光の概念で語れる側面があると思います。たとえばロックや演歌などに比べ、アイドルは祝祭的傾向が強い。旧来の音楽的な技術が脆弱で、芸能としての鑑賞には堪えないとも言われた。代わりにお祭りの要素が追加され発展する。アイドルは鑑賞するものじゃない。「観光する」ものなんですね。
 さらに歴史的なことを言えば、岡田有希子さんが所属していたサンミュージックの相澤秀禎社長は、一七歳のときに米兵から譲り受けたギターで音楽を始め、ジャズバンドを組んで米軍キャンプ巡りをしていたひとなわけです。ほかにも、ナベプロの渡辺晋やホリプロの堀威夫といった、戦後芸能界の中核のプロダクションを経営し、アイドル産業をつくったひとたちは、みんなジャズバンドをやっていた。つまり文化というのは、戦争の結果、支配・被支配の関係にもとづくものだったりする。フィリップ・K・ディックに『高い城の男』(六二年)という小説がありますが、あの話のようにもし日本が戦争に勝っていたら、日本人がアメリカに基地を持ち、日本兵が敗戦国アメリカのキャンプで娯楽を楽しんだはずです。フランク・シナトラが「志那虎」として演歌を歌っていたかもしれない(笑)。けれども、現実には日本は戦争に負けた。戦後の芸能界もアイドルもそこから始まっている。日本のアイドル第一号は沖縄出身の南沙織と言われています★2。彼女がデビューしたのは七一年で、沖縄は返還前でした。

 なるほど。それは重要な視点ですね。アイドルの元祖は、占領下の沖縄から来た。

中森 もう少し言えば、秋元康さんは八八年、おニャン子クラブ解散の翌年に、美空ひばりのために「川の流れのように」を作詞した(リリースは八九年)。おニャン子クラブから美空ひばりまで、つまり戦後日本の芸能界の頂点から最低辺まで、両方をやってのけ、結果的に「昭和」を総括してみせたわけです。けれどここでおもしろいのは、じつは同時期に、彼がアメリカでショービジネスをやろうとしていたこと。「川の流れのように」は彼がニューヨーク滞在中に作った曲で、「川」はイーストリバーのことだと言っています。ところがアメリカでの事業はうまくいかず、ほどなく日本に帰ってくる。そしてその後の九〇年代、秋元さんはNHKの『おーい、ニッポン』(九九-二〇〇四年)という番組で、四七都道府県をまわることになった。

弓指 秋元さん自身が日本全国をまわったんですか?

中森 そう。そしてアイドルをプロデュースするかわりに、各都道府県の歌をプロデュースしたんです。つまり彼は、アメリカに行って討ち死にしたあと、あらためて国内を「観光」した。震災後彼はAKBを被災地に送り込んだりしていますが、あれはあながち偽善などではなく、そのような経験がベースにあるんだと思います。

 うーん。AKBがちがって見えてきますね……。

弓指 日本各地にいるファンとの関係も、このときすでにできていたのかもしれません。

中森さんに作品の説明をする弓指さん。撮影=編集部


アイドル冬の時代とオタク



中森 観光という要素が、現在のアイドルの条件をつくっている。けれど、岡田有希子さんが生きていた世界、あるいは彼女の内面世界というのは、観光では行くことができないところです。そういう世界が八〇年代まではアイドルにあった。

弓指 この展示をやってみて、そこは強く感じました。ぼくの作品でも、彼女が憧れていたスイスの山を、彼女の想像のなかの場所として描いています。

中森 八〇年代にはさらに、時間にもアウラがあった。秋元さんは『夕やけニャンニャン』の構成作家をやるまえには、『オールナイトフジ』(フジテレビ系列、八三-九一年)のような深夜番組をやっていた。『夕やけニャンニャン』は平日の一七時からの番組です。両方ゴールデンタイムの「外」の時間です。視聴者は夕方や深夜、つまりふつうのひとびとがまだ外で活動していたり、寝静まったりしたときに、隠れ家や解放区で悪さをするようにテレビを見ていた。大島弓子のマンガに「たそがれは逢魔の時間」(七九年)というのがあるけれど、夕方という時間には少女が輝いて見えるような特別ななにかがあった。
 いまは時間がフラットになってしまって、テレビ番組も夕方にやろうが深夜にやろうが変わらなくなってしまった。九〇年代、『夕やけニャンニャン』と同じく夕方のフジテレビ『DAIBAッテキ!!』(九八-九九年)という番組から、「チェキッ娘」というアイドルが出てきます。でもまったく通用しなかった。現在の深夜アニメも、録画しておくだけで、その時間に見ているわけではないでしょう。「アイドル冬の時代」★3と並行してそういう時間感覚の変化が起こっていた。

 弓指さんは、小学生にあがるころはもうアイドル冬の時代だった世代ですね。当時アイドルをどのように見ていたんですか。

弓指 正直、ぼくはアイドルにまったく興味がなかったです。ぼくらが小・中学生くらいのころは、アイドルのファンということ自体が恥ずかしかった。

 いやまあ、ぼくの世代も恥ずかしかったですよ(笑)。ぼくは弓指さんより一五歳くらい上ですが、やはりごくごく常識的に、アイドルやアニメのファンよりもサッカー部やバスケ部のほうがヒエラルキーは上だった(笑)。

中森 とはいえ、弓指さんの時代はその比ではないですよ。そもそもみなが知っているアイドルがいなかったでしょう。

弓指 ぼくが中学生のころにブレイクしたモーニング娘。がぎりぎりですかね。九九年にリリースされた「LOVEマシーン」が大ヒットしたのをきっかけに、ファンになった同級生が何人かいました。それでも、熱烈なファンはクラスの一部でした。

 アイドルもオタク文化の一部だと思いますが、八九年の宮崎勤事件以降、オタク文化は居場所を失った。九〇年代は日本のサブカルチャーがもっともマイナーだった時代です。九〇年代なかばに『新世紀エヴァンゲリオン』で復活したと捉える見方もありましたが、いまから振り返るとあれもかなり限定的で、オタク文化がほんとうにメジャーになるには二〇〇〇年代も後半まで待たなくてはならない。それに比べると、二〇一〇年代は隔世の感がすごいですね。いまはオタク文化がビジネスとして機能していて、スーツを着た人々がアイドルだアニメだと言っている。

昭和五〇年代と昭和六〇年代



中森 昭和の終わりと八〇年代の終わりとバブル爛熟期とが偶然重なっている。こうして、その後のバブル崩壊にいたるので、九〇年前後で世の中の雰囲気が変わった感じがある。けれど、ポストモダン的なものは九〇年代以降も延命した、と東さんはいろんなところで書いていますよね。それはいまの話と関係がありますか。

 ぼくは八〇年代というより、むしろ七五年から八五年までというカテゴリーでくくったほうがいいと考えているんです。つまり「昭和五〇年代」ですね。同様に、昭和はたまたま六三年で終わっているけれど、実質は九五年(昭和七〇年)までが一続きで、それこそが「昭和六〇年代」だった。この昭和六〇年代はとにかくテレビをはじめメディアが強力だった時代です。実際、日本の出版市場は九六年が頂点です。CDの売り上げは少し遅れて九八年がピークですが、いずれにせよ、日本におけるメディア権力は九〇年代後半まで延命していく。

中森 当時は内需がすごくて、東京都の地価でカリフォルニア州が買えると言われていましたね。

弓指 カリフォルニアが!? ぼくの世代にはとても信じられない状況ですね。

 そうなんですよ。話は変わりますが、だからぼくは、あの時代に一〇代後半から二〇代を過ごしていた人間として、同世代の団塊ジュニアが持つナショナリズムの感覚がよくわかる。前後の世代にはない感覚だと思いますが、ぼくたちが若いころは、とにかく日本は現実に豊かで強かったんです。日本という国が不況を自覚しはじめるのは、九五年以降、つまり「昭和六〇年代」が終わってからです。そのときに、あまりの成功体験のゆえに体質改善できなかったという問題が、いまにいたるまで響いている。

中森 たしかに日本では、西暦のディケイドの前半と後半は時代がまるっきりちがいますね。いちばんわかりやすい例は四五年で、この年を境に戦前と戦後に分かれる。その一〇年後には、五五年体制が始まる。九五年はオウムと阪神大震災がありました。同様に八〇年代も、八六年以降と以前で雰囲気が変わってしまったと思います。そのきっかけが岡田さんの自殺であり、直後の四月二六日に起きたチェルノブイリ原発事故だった。チャレンジャー号の爆発も同年の一月でした。

 八〇年代前半は七〇年代の延長で、学生運動の時代が終わった政治的空白の時代。逆にそれこそが異様な豊穣を生んだ時代でもあって、『ゲンロン』で批評史の年表を作ったときにも七五年から八五年はとても豊かだった。けれど八五年からあとは、社会全体が急速にメディア化し消費社会化し、逆に思想は力を失っていく。浅田彰さんの『構造と力』が出たのは八三年ですが、ほんとうの意味でのポストモダンブームは八五年くらいから、まさに昭和六〇年代とともに始まるんですよね。
 そういう意味で岡田さんは、まさに高度消費社会の狂騒期、いまにいたるまで日本社会の重荷になっている狂乱の一〇年が始まる時期に自殺したと言えます。その後の歴史から振り返るとき、彼女の自殺は、狂乱の時代のネガティブな面を背負った、一種のシンボルになったのかもしれませんね。

中森 岡田さんは当時トップアイドルで、生前最後のシングル曲となった八六年一月発売の「くちびる Network」はオリコンでも一位でした。その後の影響力も含めて、あきらかに時代の特異点にいたと思います。

弓指さんの作品《レンゲソウ》。撮影=水津拓海(rhythmsift)


岡田有希子というアイドルがアートになりうる



弓指 ぼくはこの展示のあいだずっと、来場者の方に、八〇年代のアイドルはいまのアイドルよりも高いところにいる存在だったらしいです、と説明してきました。けれども今日、中森さんと東さんのお話を聞いて、現実とテレビのなかの高いところのあいだにもうひとつレイヤーがあって、そこにこそアイドルが存在する場所があるんだと思いました。本名である佐藤佳代という女の子と岡田有希子というアイドルは別物だけど、さらにその隙間に幽霊的な部分が生まれるんだなと。

中森 遺稿集の『愛をください』を読むと、彼女がものすごく内省的なひとなのがわかります。パフォーマンスをしている岡田さんはほんとうにお人形さんみたいで、あたかも内面がないかのように、可愛く、ひらひらと踊っている。ところが、彼女は中学二年生のとき、当時憧れていたアイドルの河合奈保子を描いているんですよ。その絵を見ると、背景がとても暗いんです。緑と青の組み合わせなんですが、ふつうは好きなひとの肖像なら背景をこの色にはしないだろうという印象を持つ。

弓指 じっさい、岡田さんの絵はトーンがすごく暗くて、いわゆる絵が好きな女の子が描く明るい絵ではない。岡田さんの絵が掲載されている『愛をください』は死後に出版されているので、解説も「どこかに寂しさが……」といった重いトーンで書かれています。でも、仮に死の事実がなかったとしても、絵それ自体がやっぱり暗いし、怖い。彼女をあとから知ったぼくが見ても、表現のその暗さと、新人賞のメダルをもらって泣きながら嬉しそうに歌っている岡田有希子のイメージが、ぜんぜん合わないんです。もっとも、ぼくにはむしろそれが魅力的で、創作の原点になった。

中森 その齟齬の感触は、この展示に再現されていると思います。展示作品は、岡田有希子の偶然の不幸、起こらなければよかったけれども起こってしまったこと、彼女が持っていたアイドルというものへの憧れなどを描いている。見たひとには、岡田さんが持っているいい部分だけでなく、どちらかといえば禍々しい部分、怖い部分も含めて、岡田有希子というアイドルの存在が全体として感じられると思います。

 ぼくがもっとも感銘を受けたのは、このいま座談を収録している背景にある大きな絵です。彼女が夢見ていたスイスの風景に、彼女自身の後ろ姿を組み合わせた大作[図1]。両手をまっすぐに広げ山に走って行く後ろ姿は、弓指さんは自覚していないかもしれないけど、自殺の光景を想起させます。アルプスの山々はじつは、サンミュージックのビルの上で、彼女に見えていた光景なのではないか。

[図1]弓指さんの作品《スイスの山々》。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 
中森 投身自殺だったこと、つまり岡田さんが「飛んだ」ということはあまりにも象徴的です。さきほども触れましたが★4、吉本隆明もそれにこだわって、岡田有希子は未来に向けて飛びこんだという話をしていました。

 この展示、すばらしいがゆえに「不気味」でもあると、来るたびに思います。弓指さんの絵は、岡田有希子=佐藤佳代という存在を、まさに幽霊として召喚するかのような作品になっている。だから、ぼくがいい意味で意外で、そして安堵したのは、展示に対する大きな反発がなかったことです。生前の岡田さんを知っていたひとたちがここに来て、この試みを受けいれてくれた。三三年が経過したからかもしれないけれど……中森さんは、そこにどんな意味があると思いますか。

中森 ぼくは「おたく」の名づけ親でもあります★5。村上隆さんがオタク文化をアートにしたときは、猛反発をくらいましたよね。アニメやマンガの受容者であるオタクたちの、自分たちのジャンルを侵害されたという意識があった。それにくらべていまのアイドルファンたちは、岡田さんとのつながりが完全に切れているのかもしれません。いまはアイドルブームだけど、かつて現代美術家がアニメに入ってきたことに比べると、ファンはジャンル意識を持っていないのかなと考えました。
 ひるがえっていえば、それこそがアイドルの世界でなかなか批評が成立しない理由かもしれません。AKBを前提に活動をはじめた批評家は、AKB以前のことを歴史としては知っていても、AKBの外では考えられない。これは宗教学と神学のちがいを考えればわかります。神学者はキリストを信じないといけないけれど、宗教学者はキリスト教それ自体を疑う。ところがいまアイドル批評をしているひとたちは、みな神学者のようになってしまっている。だからいまの批評は、いまのアイドルを岡田さんに接続できない。岡田さんの時代に出てきた小泉今日子や中森明菜はいまでも頑張っているのに、現在のアイドルブームと過去の時代を接続することができない。ぼくはたまたま長くやってきたので、岡田さんに会っていたという特権的なことも含めて、それができる数少ないひとりだと思っています。
 けれどもぼくひとりでは力足らずなところもある。だから今回の展示は、アイドルの現状と八〇年代を接続するという点でもすごく意味があると思う。弓指さんにはそのつもりはないかもしれないけれど、岡田有希子というアイドルが若い世代によってアートになりうるということが批評と結びつけられてほしいという思いで、今日対談させていただきました。

アイドルの崇高さを継承するために



弓指 ありがとうございます。展示を見にきたお客さんから、なんども「岡田有希子さんのファンなんですか?」と聞かれました。毎回考えるのですが、いまのところ「ファンじゃないです」という答えしかない。もちろん岡田さんのことは好きだし、曲も聴く。でも熱狂していない。そのことを制作の土台にしている。すごくドライに、ファンのひとたちが熱く語ることと自分のやっていることが少しずれているな、と思ってたりもする。ぼくは岡田さんのことを考えながら作品をつくる。それは、神学者的な目線ではなく宗教学者的な目線ということで、それがアーティストということなのだなと、今日、おふたりのお話をうかがって確認できました。

中森 作家が岡田有希子という存在を全体として受けとめる。こういうことはアート以外のジャンルでは不可能だと思います。だれかが『岡田有希子物語』という映画を作ったとしても、こうはならない。アイドルは直訳すると「偶像」で、そのいちばんわかりやすい例は教会のキリスト像です。日本には一神教的な神はないですが、テレビを見てアイドルに憧れた子どもたちは、なにか崇高なもの、お祭りのトーテムのようなものをそこに感じていた。それに自分を接続したくて、言葉で説明したり、動きを再現するようになる。おそらく始原の人類は、宗教を生み出すまえから、崇高なものを絵にしたり歌ったりしていたのではないか。この展示からは、そういう崇高との接続の感覚をすごく感じたし、八〇年代までのアイドルがそういう部分を持っていたことを再確認できた。この展示を見たひとは、ぼくみたいな評論家じゃなくても、魂に触れるものがあると思います。

弓指 ぼくは美大も出ていないし、いわゆるテクニックなんてないんです。似顔絵と思わないで描いているので、美しくきれいに描いているわけでもない。ほんとうは岡田さんの顔に似ていないにもかかわらず、それがちゃんと岡田さんとして捉えられるような見方をしてもらえたなら、絵描きとしてはとても嬉しいです。中森さんの言葉を聞いて、自分がこの一年岡田さんのことを考え続け、「四月の人魚」展に結実させたことが報われたと思いました。

 中森さんの言葉は、画家冥利に尽きる褒め言葉ですね。アイドルは社会になにをもたらすのか、岡田有希子さんの事件をきっかけにして、今日はさまざまな広がりのある話ができました。このような話ができるということ自体、岡田さんの傑出した存在感を意味しているのだと思います。長い時間、ありがとうございました。
 最後になりましたが、岡田さんの冥福を、あらためて心より祈りたいと思います。


2018年4月26日 東京、五反田アトリエ
構成・注=編集部

★1 宝塚歌劇団に入団するためには、団員養成所である宝塚音楽学校で二年間の教育を受ける必要がある。当劇団は阪急電鉄の一部門に属しているため、音楽学校卒業後に正式に団員となった者は阪急と雇用契約を結ぶ。なお、退団後の再入団は認められていない。
★2 南のデビューシングル「17才」は大ヒットを記録し、第一三回日本レコード大賞新人賞、第四回新宿音楽祭金賞など複数の賞を受賞。その結果、南はデビュー半年で第二二回NHK紅白歌合戦の出場歌手に選ばれ、紅組のトップバッターを務めた。同時期にデビューした小柳ルミ子、天地真里らとあわせて「新三人娘」と呼ばれ、当時のアイドルの代表格を担った。現在の一般的な女性アイドル像はこの頃生まれたとされている。
★3 対談の前編(『ゲンロンβ25』所収)の6を参照。
★4 対談の前編(『ゲンロンβ25』所収)の4を参照。
★5 八三年に中森が『漫画ブリッコ』(白夜書房、八二-八六年)で連載したコラム「『おたく』の研究」がきっかけとなり、「おたく」という語は全国的に広がった。同連載で中森は当時のマンガやアニメのマニアを「おたく」と称して批判的に扱っている。現在のカタカナ表記が一般化したのは、岡田斗司夫『オタク学入門』(太田出版、九六年)以降だと言われている。

中森明夫

1960年生まれ。作家/アイドル評論家。1980年代から多彩なジャンルで活動。〈おたく〉の名づけ親でもある。著者に『東京トンガリキッズ』(JICC出版局)、『オシャレ泥棒』(マガジンハウス)、『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社)、『午前32時の能年玲奈』(河出書房新社)、『アイドルになりたい!』(ちくまプリマー新書)、『青い秋』(光文社)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

弓指寛治

1986年生まれ。芸術家。三重県伊勢市出身。2016年に母の自死をモチーフに描いた《挽歌》でゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第1期金賞。2018年、第21回岡本太郎現代芸術賞岡本敏子賞。おもな個展に「Sur-Vive!」(onSundays、2016年)、「四月の人魚」(五反田アトリエ、2018年)、「ダイナマイト・トラベラー」(シープスタジオ、2019年)など。あいちトリエンナーレ2019に「輝けるこども」で参加。 撮影:小澤和哉
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