日本[語]2.0――超平面化した日本語でのコミュニケーションについて|クリス・ローウィー 訳=樋口武志

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初出:2012年8月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #4』


投稿論文をお届けする。筆者はゲンロンの翻訳チームの一員で、ワシントン大学で日本の現代文学と思想を専攻する、25歳の若手研究者。日本滞在中には早稲田大学で小誌編集長の指導を受け、日本思想の最新の動向にも詳しい。ここに掲載するのは、日本語の「書き言葉」の特異性から日本文化の変質と可能性を読み解く意欲的な試みである。(編集部)

閉じこもる日本の批評

 批評は日本社会においてどのような役割を果たしているのだろうか?こうした問いは、アメリカにおける日本文学研究では重要視されていない。理由は様々で一概には言えないが、そもそも日本の批評がほとんど翻訳されていない、ということは大きな原因のひとつだろう。アメリカで日本思想界の巨人とされている柄谷行人でさえ、著作のほんの一握りが英語に翻訳されているにすぎない。他方、現代の日本では、批評は国内のハイコンテクストな状況に閉じこもり、次第に海外からも理解しやすいハイカルチャー(純文学)を巡る議論から離れていった。結果、アメリカの日本文学研究では『源氏物語』や20世紀初頭のプロレタリア文学などの研究がさかんに行われる一方で、1980年代前半にブームとなった浅田彰や中沢新一、それに先行する今は亡き吉本隆明といった重鎮たちの著書でさえ、英語では一作も読むことができない状況となっている。  そのため、多くが80年代の批評への反撥として生まれてきた90年代の批評が翻訳されていないのも当然というべきだろう。大澤真幸、大塚英志、加藤典洋、福田和也、宮台真司といった面々の著作も、英語では読むことができない。それ以降の、ゼロ年代批評についても事情は同じである。この状況を日本は恥ずべきだと言うのは簡単だが、それ以上に重要視すべきなのは、日本文学が海外では国内の批評的文脈を抜きにして読まれているという事実である。日本では、小説と批評が同じ文芸誌にならび、小説家が批評家であり、批評家が小説家でもある。そんな日本の小説だけを読み、批評との関係を無視することは軽率であるばかりか、文化批評の試みを誤った方向に導きかねない。海外の研究者の役割も文学研究だけにあるのではない。大学で教えるべきは文学なのではなく、文学や批評を含めた文化の総体なのだ。海外で、日本の過去20年の批評が見過ごされてきたことは大きな問題である。  翻訳の欠如は、海外から見ると、その期間日本には批評が存在しなかったということを意味する。考えてみてほしい。日本文学に興味を持つ海外の学生のほとんどは、大学に入ってから日本語を学ぶと同時に日本文学を学び始める。それはつまり、日本文学についての基礎的な知識と研究を行うために必要な語学力を、在学4年間で養わなければいけないということである。必然的に、この期間で読まれ教えられる文学作品は、ほとんどが英訳されたものということになる。大学院に進むにしても、大学4年間で蓄えられた知識と関心の延長であることが多い。現代日本の批評、思想、そして文学にまつわる言説が、英語圏の学部生たちに向けて体系的に語られない限り、ゼロ年代の批評が海外に届くことはないだろう。ましてや研究の対象にすらならないことは言うまでもない(今の英語圏でのトレンドは、明治後期に起こったカノン形成過程の研究および批判である)。  過去20年の批評が英語で語られない以上、海外の日本研究の妥当性には疑念を抱かざるを得ない。国内の読者に向けてしかものを書かない日本の批評家に、もどかしい思いを持つ海外の学者たちもいる。迅速なコミュニケーションが可能となったこの時代に、海外の研究者がイメージする「日本文学」の翻訳ばかりが行われる現状は、日本の批評にとってはあまり良いものとは言えない。  知の最前線を追いかけ続けることは簡単ではないが、それはいつも実りあるものである。刺激に満ちた世界だと知っているからこそ感じる現状へのもどかしさも、この論考を書いた理由の一つだ。日本語の可能性を再考するこの試みが、日本に、そして世界にとって、文化的変容のただ中にある日本語の持つ意味を考える契機となることを願う。

日本語の書き言葉の可能性――声を介さないコミュニケーション

 さて、日本語の書字体系には、書き手と読み手の間に共有されるひとつの美学がある。書き言葉は、必ず音読に先行して存在する、というのがそれである。中国から入ってきた漢字(書き言葉)に大和言葉(話し言葉)を当てはめる訓読みの誕生から、書かれたものとその読み手の間にある不安定な関係が日本語の中でシステム化され、強化されていった。こうした特徴は、西洋文学の伝統には存在しない★1。この不安定さは、日本語に書き方の正しいルール(正書法)がないため、つまりひとつの言葉でも多様な書き方ができてしまうため、話し言葉から書き言葉を特定できない、ということに起因する。これは逆から見ると、すでに書かれた言葉を読む読者が、話し言葉を決定しているということであり、ここではむしろ、その点に注目したい(「読書」という言葉からもわかるように、日本人は「書かれたものを読」んでいるのだ)。見逃されがちではあるが、こうした言葉の特徴は日本人の無意識に深く根づき、近年の社会やコミュニケーションの変化とも密接に関連している。
 アルファベット言語と非アルファベット言語間の、(チョムスキーの用語を借りれば)「表層構造」の違いについては、先行世代の学者や批評家により数多くの研究がなされている。しかし昨今のインターネットの普及によって、日本語の構造自体が大きなパラダイムシフトを迎えている。そこに生まれる可能性について考えることがこの論考の目的である。

 近代社会におけるコミュニケーションは、「伝統」の創出、中央集権化、言葉の標準化といった、上から下への垂直的な規範の適用という秩序的なものであった。しかし、今ではP2Pファイル共有ソフトウェア★2のようにネット上で、個々が相互行為を行う水平なコミュニケーションの手段が存在するようになってきている。各自のコンピュータ同士が通信し合うP2Pのコミュニケーションは、秩序を重んじる社会からは敵対的に見られている。伝統的な規範意識を伴ったシステムのなかでは、人々は言葉を使って規範からの距離を示すことで自らの立ち位置を理解してもらう必要があった。しかし、P2Pのようなゼロ年代の自由な相互行為は、声を介さないコミュニケーションが発達するようなプラットフォームを創りだし、声を介した対面のコミュニケーションを、絶対的なものでなく自己表現の1つの手段、選択肢の1つに変えつつある。

 フラットな社会におけるインターネットという環境は、不特定の個人同士の声を介さないコミュニケーションを可能にした。その過程でコミュニティーが生まれ、自然に人々は自分にとって最も心地よい場所を探したり、創りだしたりするようになる。こうしたコミュニケーションの発生は、実は日本の書き言葉のもつ特徴に起源を見ることができる。漢字中心の思想が次第に薄れ、声を介さないコミュニケーションのあり方が認識されつつある現在、日本語のアーキテクチャともいうべきものが、わかりやすい形で浮かび上がってきている。新しいコミュニケーションのなかで、「漢字には何通りもの読み方がある」という事実が、無意識のうちに再発見され、日本語の美学が日々強化されている。こうした傾向はモダニズムを通過しポストモダンへ移行するとともに広まっていった。インターネットとオタク文化が共通して持つ、声を介さないコミュニケーションへの指向性を体現しているのが、今の日本の書き言葉なのである。

 では、コミュニケーションの多様化と脱中心化は、書き言葉にどのような変化を与えたのだろうか。幾通りもある読み方は、これまでルビという形で視覚化されてきた。ルビは、テクストへのメタレベルの介入を可能にする。つまり、書かれている文字そのものの意味だけでなく、書かれた文字と併存して裏に潜む多様な読みを注記する装置なのである。ルビはそもそも、振り仮名として漢字の望ましい読み方を伝える機能を持っている★3。しかし、声を介さないコミュニケーションは、ルビのついた漢字を、文化のなかで固定化した従来の「漢字」ではなく、意味をそがれた「絵文字」として存在させるようになる。

 ゼロ年代の「書き言葉」に依拠した想像力は、声を介したコミュニケーションを否定しているのではない。ただ単に、そうしたコミュニケーションを、唯一のものでなく、選択肢の1つに変えてしまったのだ。ルビを活用することで、音と聴覚によるコミュニケーションを超えることができる。独自のルビを振ることそれ自体が、コミュニケーションの手段になる。この新しいコミュニケーションは、日本語の新たな地平を切り拓き、日本語の美学を強化し、ニコニコ動画のアーキテクチャや二次創作★4へと駆り立てる源泉となっている。ルビを「ハッキング」することで伝統的な日本語の法則や読み方を乗っ取ることができるのだ。「これまでのルビにも同様の例はある。どこがそんなに新しいんだ?」という人がいるかもしれない。しかし重要なのは、現在の日本におけるコミュニケーションや文化の発達は、超平面的な日本語という言語だからこそ可能であったということだ。
 批評家の東浩紀が言及しているように、超平面とは「文字どおり、徹底的に平面的でありながら、同時に平面を超えてしまうという特徴を意味している。コンピュータのスクリーンに代表される超平面的な世界は、平面でありながら、同時にそこから越えるものも並列して並べてしまう」★5。東がここで言っているのはコンピュータ画面についてだが、書き言葉も「平面でありながら」ルビの使用により言葉の深層(多様な読み)が「並列して並べ」られる、超平面的なものなのである。ルビには視えない言葉の深層を可視化する働きがあるのだ。

「視えざるルビ」と「絵文字化」する日本語


 日本語の超平面性という特性を認識しながらルビを活用した例は、80年代あたりから顕著に見られるようになる。日本のポストモダンを代表する作家、高橋源一郎の文体を見てみよう。彼が1988年に発表した『ジョン・レノン対火星人』には次のような文章がある。

わが息子よオー・マイ・サン!」と受話器の向こうでわたしのママは言った。やっぱりわたしのママになんか相談するんじゃなかった。
〈中略〉
「あなたが為すべきことは既に『聖書』の中に述べられているのです、わが息子よマイ・サン★6


 同じ会話において「わが息子よ」という台詞に2つの異なるルビが付いている。同じ読みでも書き方が異なる字のことを異体字と呼ぶが、この場合、同じ字でもルビにより読み方が異なり、ともに「異体読み」とも言うべきものになっている。高橋の世代――断層世代とも呼ばれる――にとって言葉は社会や国家への反撥を表す手段であった。先述のように、規範意識を伴う秩序的な社会では、自身の立ち位置は、その規範からの距離で相対的にしか測ることができない。高橋はまさに過激な文体の使用によって、彼の立ち位置を明確にしたと言える。彼は、集権化しようとするあらゆる動きから距離をとり、反抗としての言葉によってコミュニケーションを図ったのだ。あの独特な言葉遣いは、距離をとるために必要なもの、高橋なりの「差異によるコミュニケーション」★7だと言える。

 こうした書き方について、アメリカの日本文学研究者マーク・ヤマダは次のように主張している。「『さようなら、ギャングたち』と『ジョン・レノン対火星人』の2作はともに、「ギャングたち」、「テロリスト」、「暴力」といった国家権力や権威的機関に結びついたシニフィアンが集まった記号体系であり、そうした体系からアイデンティティや意図が立ち上がってくる」。ヤマダの議論は明快だが、高橋の言葉についてのこうした分析は、西洋の音声中心主義の優位を後押しするものでしかなく、高橋の言語表現における視認性についてはあまり触れられていない。「そこに書かれている言葉は、プロットやキャラクターを組み立てるためには使われていないようである」と指摘するのみで、結局はシニフィエ(意味内容)を重視した理解で結論づけている。「語り手たちは小説の記号体系の中に住んでいる。彼らはまるで、言葉の効果によってアイデンティティを得ようとしているが、そのあり方は羽田事件や連合赤軍事件を起こしたギャングたちやテロリストたちそっくりだ」★8
 ヤマダは、高橋の文体の特性を、彼が過激派に傾倒したことと結びつけて考えているようだが、高橋の言葉自体に内在化している特性には目を向けていない。ノンフィクション作家の山根一眞やまねかずまは、少女たちの書く丸文字についての研究書『変体少女文字の研究―文字の向うに少女が見える』を1986年に上梓し、そのなかでポストモダンの美学が丸文字となって表れている様子を描いている。「変体少女文字」という新しい現象を調査するこの本の冒頭には次のように書かれている。

 またこの[変体少女]文字が、最近「新人類」と呼ばれる現代の若い世代の意識構造と表裏一体の現象であることも、つかむことができた。
 若い世代の不可解な意識や行動様式がしばしば話題にのぼっているが、本書は、この世代がいったいどういう世代なのかを知りたい方に、また、この世代が担う次代の日本を知りたい方に、読んでいただきたいと思う。この世代の子を持つ親には子供を理解する一助にもなるだろうと考えている。★9


 山根の主張は簡潔だ。若い世代の書き言葉を理解すれば、彼らを理解することができる。山根にとって、文字とそれを書いた者のアイデンティティは、表裏一体、分離できないものなのである。これは、現代の書き言葉のシステムとは大分違っている。高橋や80年代の少女たちのように新しく過激な文体は自然と政治的含みを持っていたが、今では書き言葉にそのような政治性は失われている。言葉は、規範からの距離を表すもの、すなわち反抗の手段としてはもう使われなくなっているのだ(当時の少女たちが「政治的指向」を持って少女文字を使っていたわけではない。山根のような人が、「伝統的なものの否定」という意味でそこに政治性を見いだしているのである)。

 日本語を巡る議論としては、精神分析家ジャック・ラカンの有名な言及がある。「この言語を占有する人のだれひとりとして精神分析されることを必要としない」そして「音読み(l'on-yomi)は訓読み(le kun-yomi)を注釈するのに十分」★10というのがそれにあたる。ラカンは、象形文字を無意識とみなし、それを露出させている日本語、日本人には精神分析が必要ないと語った。さらには、普通、訓読みが音読み(漢字)を注釈するとなりそうなところを、逆に音読み(漢字)が訓読みを注釈すると言っている。訓読みで「あしたとります」と言われても、「撮/取/採/盗」など、どの意味なのか確定できない。このとき、音読み(漢字)が注釈となるのである。柄谷行人や斎藤環もかつてこうした見解を提示したことがあったが★11、今では議論自体がほとんど忘れ去られている。最近では、2011年に社会学者の大澤真幸が『社会は絶えず夢を見ている』★12で少し触れているくらいだろう。

 しかし、ラカンの議論は、日本語の認識を根本から間違えていると言わざるを得ない。「音読みは訓読みを注釈する」というのは正しいようにも思えるが、それは音読みと訓読みという2つの関係しかないことを前提としたものだ。ラカンは、ルビの存在を全く考慮していないのである。日本語はルビの使用という多重テクスト性(multitextuality)を持つことによって、声を介したコミュニケーションを超えることができる。アルファベット圏の書字体系は一面的で、音と文字を切り離すことはできない(定義上、アルファベットは音を書き表すための文字である)。ところが、日本語ではこの2つの分離が可能である。それは日本語に2つの全く異なった体系が並存しているからにほかならない。1つは、漢語という視覚に依存した漢文訓読の体系、もう1つは表音文字という聴覚に依存した仮名文字の体系である。この2つが合わさって、現在の日本語書き言葉の元となる和漢混淆文わかんこんこうぶんが生まれた。日本語が独特なのは、仮名文字のもとであり、感情をよく表現できるとされる万葉仮名の聴覚的要素と混ざりながらも、漢文訓読のもとである漢文の視覚的要素が生き残ったという点である★13

 漢字にはいつだって1つの文字に幾通りもの読み方(音)があり、習慣や文脈によって都度区別され決定されている。そして、そのとき私たちは、書かれていないルビを無意識に振り、それを見て読んでいるのである。こうしたルビ、この「視えざるルビ」こそが、ゼロ年代の文化を理解するための1つの鍵となる。
 日本語のエクリチュール(あるいは形態論★14)は、アルファベットの書字体系とは全く構造が異なるものである。アルファベットでは、書かれたものとその読み方が決まっていて、書き手と読み手の関係は一方的であるが、日本語はそうではない。日本語は、書き手と読み手の双方向的な関係を要求する。ルビがついていない漢字を読む場合、読み手は漢字のあらゆる読みのなかから状況に合った、正しいと思われる読みを付けて(視えざるルビを付けて)、自分なりの読みを創りださなければならない。読み手は同時に、創り手でもあるのだ。多様な読みを生み出すこの生成力を、相互作用テクスト性(interactive textuality)★15と名付けたい。超平面的な世界では、こうした生成力が言葉に埋め込まれているのである。超平面的とはここでは、一つの可視的な表層(漢字)の奥に、視えない数多くの要素(読み方)が存在している状態を指す。相互作用性という考え方は、インプット(書かれた文字/書き手)とアウトプット(読み方/読み手)の間にズレがあるからこそ可能になる。日本語では、インプットとアウトプットが1対1の対応をしておらず、1つのインプットから様々なアウトプットが可能である。こうした相互作用性は、ゼロ年代におけるコミュニケーションの手段としても顕著に活用され始めている。

 インターネットという環境が、日本語の特徴を形作ったのではない。超平面的で、1つのインプットから多様なアウトプットを生み出す日本のインターネットのアーキテクチャ、そしてそこにある声を介さないコミュニケーションへの欲望は、すでに日本語のアーキテクチャ自体に内包されていたのである。インターネットは、日本語に内包されていた美学を強化したにすぎない。ゼロ年代における日本語の相互作用性の特徴は、ルビの自由な使用(視えざるルビの可視化)と絵文字化にある。

 ラカンの「音読みが訓読みを注釈する」という主張では「わが息子よ」という言葉は「わがむすこよ」というふうにしか読めず、高橋が「わが息子よ」に、「オー・マイ・サン」と「マイ・サン」というルビを振ったときに何が起こっているのか説明できない。高橋はここで漢字を絵文字化しているのである。絵文字化とは、漢字を絵として捉えること、そして絵を漢字のように捉えること、である。それはつまり日本語内の漢字(Chinese characters)の支配を脱色する試みであり、漢字から自由になることで、ルビの自由な使用が可能となる。「漢字」という言葉に対する一般的な認識も「ちゅうごくから伝来したもじ」から「ちゅうごくから伝来したらしいもじ」に変わったと言っていいだろう。

 次の文章を見てほしい。「旬を!《^^たの》しむ。こころ温まる。」。とあるレストランで見かけた言葉だが、《^^》に「たの」とルビが振られ、見事に「絵文字化」の現象が見られる。先行世代の漢字(そして当て字)の使用と違うのは、記号に文化規範、秩序が一切反映されていない点である。ルビの自由な使用は、規範からの距離を測る言葉の政治性を取り除き、ルビの使用者を生み出す主体(自らのデータベースを使って書く主体)にする。ルビを使ったコミュニケーションは、声を介することなく自らを表現する。ルビは、文字の飾りとして自己を表現する手段である。それは視覚的であり、かつ音を必要としないものだ。こうした言語から成るコミュニティーは、チャットや掲示板がその一例として挙げられるが、その美学は近年広く行き渡りつつある。

可視化された文字:ニコニコ動画とギャル男


 日本語の美学様式は、ニコニコ動画のアーキテクチャにも顕著に認められる。ニコニコ動画は、同時多発的で多様な読みが、動画の一瞬一瞬に注記されるという意味で、多重テクスト性の極みである。同期的な読みはときに動画すら埋め尽くす。そこでは1つのインプット(動画)からどれほどのアウトプット(読み)が出てくるかは予期できないが、匿名によるコメントという集団作業はコミュニティーに一体感を与える。画面と文字が重ねられるこの関係は、漢字とルビの関係を想起させる。そこには動画を超平面的に捉え、相互作用性を伴い、何通りもの読みを付与するコメントで画面を満たす、というゼロ年代的な想像力が顔を出している。即時的で大量のコミュニケーションが、相互作用に触発されているのだ。
 こういった現象はたしかに、インターネットの普及によって強化され広がっていったが、声を介さないコミュニケーションへの傾倒は、別の文化圏にも表れている。それは、1980年半ばに山根が描いた少女文字の系譜に属する文化圏である。そこでは、「自分をキャラ化する」という傾向を強めることにより、コミュニケーションを図るようになっている。これもまた超平面化という美学を踏襲した声を介さないコミュニケーションといえる。そして、近年の例を挙げれば自らの身体をキャラ化して、相互作用性を備えるギャル男は、少女たち以上にその美学を象徴していると言えるかもしれない。批評家の千葉雅也はギャル男のキャラ性を取り上げてこう論じている。

しかし、(男性)オタクが、多くの場合、自分の身体のリアリティを“カッコに入れ”て、生々しい性のコミュニケーションを遠ざけ、虚構の、二次元のキャラクターとの「非‐関係」を享楽しているのに対して、ギャル系の「チャラく」なることは、理念としては、自分の身体をキャラクター化すること、生々しい性のコミュニケーションをまるで虚構のゲームのようにプレイすること、であると考えられる。★16


 ギャル男は、オタクのように生々しいコミュニケーションを避けることはない。だがそのかわり、あるいはそれゆえに、自分をキャラ化する。自分の身体をキャラ化することは、漢字を絵文字化することに等しい。漢字から規範が引きはがされ、超平面化したように、身体もまた、超平面性を帯びるようになっている。ギャル男にとって、身体は絵文字である。そして、そこに自由な読みを適用し、近い位置にいる友人との密度の濃い超平面的なコミュニケーションを行っている。ギャル男にとって、身体は秩序の社会性に属するものではなく、超平面性を帯びた多重な容れ物であり、それはまさしく日本語的なものなのである。

 本稿では詳しく触れないが、視えざるルビおよび絵文字化と「二次創作」には興味深い関係が見られる。二次創作は、オリジナルのテクストを相互作用性を備えたものとして捉えること、つまり《^^》を「たの」しむと読むとはわからない状態で読まれることによって可能になる。1つと思われていた読みには、実は目に見えない無数の読みの可能性がある。それゆえに、二次創作は「差異による自我」という政治的なサイクルから解放される。それぞれの読者が適用する読みに差異があるとはいえ、相互作用性の前では常に幾通りもの読みが存在し、反抗するべき規範がないからである。1つの漢字に複数の読みを与えた瞬間から、視えざるルビ、絵文字化、そして相互作用という特徴は、日本語に備わっていた。それが超平面的な世界のなかでついに連携して作用し始めたのである。

結論


 このエッセイの目的は、日本語の超平面性を描き出すことにある。日本語の超平面性は、変体少女文字に代表されるような1980年代からの書き言葉と、インターネットの普及により顕著に表れるようになる。ルビを使用した視えざる読みの可視化、そして漢字の絵文字化は、データベース的な相互作用テクスト性という環境のもとで生まれ、その結果、コミュニケーションの様式が聴覚依存から視覚依存へと変遷していく。1つの表記に多様な意味を読み込んでいく相互作用テクスト的な構造は、日本語に、ニコニコ動画に、そしてギャル男に共通して見られる現代日本文化の核心である。

 東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)で、超平面的なゼロ年代的美学を発見したが、2011年に発表した『一般意志2.0』(講談社)ではこうした美学のさらなる追求が試みられている。超平面的な世界での美学の発達にともない、声を介さないコミュニケーションを読み取ることこそが必要とされている。読み取ることさえできれば理解することができる。東が主張するように、民主主義下の熟議は、近代/ポストモダンの枠組みでは重要であったが、声を介したコミュニケーションが意味を失いつつある世界には適さない。東は「一般意志が、人間が作り出す秩序の外部・・にある」★17というルソーの見解を引き継ぎ、声を介した「コミュニケーションの外部にある政治」★18に可能性を見いだしている。東がここで、ニコニコ動画の例を引いているのは偶然ではない。ニコニコ動画の導入による一般意志の可視化の構想はつまり、声を介さないコミュニケーションの可視化への構想なのである。秩序の、そして声を介したコミュニケーションの外部にある、超平面化した日本語での声を介さないコミュニケーションこそが、東が可視化を願っているものだろう。一般意志とは、日本語の超平面性、相互作用テクスト性の結晶なのである。

 声を介さないコミュニケーションの分析は、無意識の欲望を読み取るための試みだろう。東の主張を理解することは、ゼロ年代の美学を理解することでもある。東はここで、そこにあるにもかかわらず今まで検討されてこなかった、新しいコミュニケーションについて検討しているのである。東はそうした試みを、「未来社会についての夢」だと語るが、それはまさに、未来社会の日本語についての夢でもあるのだ。

★1 アルファベット圏でも、音と文字が切り離せないという特徴に自覚的であった作家たちがいる。詩人E. E. カミングスの英詩は、その好例である。
★2 P2Pソフトウェアについての詳細な議論は、濱野智史『アーキテクチャの生態系』(NTT出版、2008年、p161-193)を参照。
★3 『明鏡国語辞典 第二版(大修館書店、2010年)は、振り仮名を「漢字のわきにつけて、その読み方を示す仮名。ルビ」と定義している。
★4 もちろん、濱野が提唱する「n次創作」にも同じことが言える。
★5 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、p154。
★6 高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』、講談社文芸文庫、2004年、p89。
★7 高橋は反抗としての言葉という考えをことあるごとに提示している。『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』(新潮文庫、1989年)のイントロダクションや、『ダイアローグⅤ 1990-1994』(第三文明社、1998年)所収の柄谷との対談「現代文学をたたかう」では彼のそうした言語観を見てとることができる。
★8 Marc Yamada, “John Lennon vs. The Gangsters: Discursive Identity and Resistance in the Metafiction of Takahashi Gen’ichiro,” in Japanese Language and Literature 45. 1, edited by Hiroshi Nara et. al., 1-30. Boulder: American Association of Teachers of Japanese, 2011.
★9 山根一眞『変体少女文字の研究』、講談社文庫、1989年、p5。
★10 ジャック・ラカン『エクリⅠ』宮本忠雄他訳、弘文堂、1972年、p4。
★11 柄谷行人『日本精神分析』、講談社学術文庫、2007年、p75-78、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』、ちくま文庫、2006年、p281-282参照。
★12 ラカンの見解を踏まえて大澤は、「というのも、ラカンは、ただのはったりでこんな謎めいたことを言っているわけではないからです。(中略)彼にとって、日本語は、まったく触れたことがない、未知の外国語というわけではなかった。(中略)ラカンの驚くべきアイロニーは、彼の日本語の特徴に対する直観に依存しているのだ、と見なすことができます。」(p39)と言い、さらに続けて、「しかし、日本語においては、先ほど述べたような(漢字とひらがなとカタカナという)文字の使い分けがあるために、外来語の外来性の刻印マークは、長期間の使用によっても決して摩滅することなく、ほとんど永続的にと言いたくなるほど長期間にわたって保存されているのです。喩えて言えば、それは、何十年、何百年、何世代住み続けても、完全な帰化 naturalization を許さないシステムです。この文字システムでは、外国人(外来語)は、いつまでも外国人(外来語)であって、日本人(やまと言葉)にはなれないようにできているのです。」と述べている(『社会は絶えず夢を見ている』、朝日出版社、2011年、p49)。
★13 2つの言語体系があることは、昔から認識されていた。仮名で書かれた有名な『古今和歌集』の序文で紀貫之は和歌(仮名で書かれた歌)について、こう書いている。「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける。よのなかにある人ことわざしげきものなれば心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり」。そして批評家の橋本治はこれを次のように翻訳した。「和歌というものは、人の心の中にある感情を核として生まれた言葉によってできているものだ。世の中に生きている人間にはいろんなことが起きて忙しいけれども、その忙しさが人間に働きかけて、いろんな感情を生む。その感情があるからこそ、人間は、なにかを見たり聞いたりするにつけて、自分の感情を形にした歌を詠むのだ」。さらに橋本は続けて、「これは、「和歌の発生」を語る文章ですけれども、同時に、「人間の感情の発生」を語る文章でもあるんですね。そして、日本人にとって、その感情をもっともよく表現する道具は、外国語である漢字の漢文や漢詩ではなくて、日本製の「ひらがな」だったということです」と語っている。橋本治『これで古典がよくわかる』、ちくま文庫、2001年、p61-62。
★14 訓読みと音読みの混在は日本だけに見られる現象ではない。金文京が『漢文と東アジア』(岩波新書、2010年)で示しているように、これまで韓国語、ウイグル語、契丹文字、そして中国語にさえも認められている。
★15 ジェラール・ジュネットが Paratexts: Thresholds of Interpretation(1987年)などで提唱している言語の五概念、間テクスト性(intertextuality)、パラテクスト性(paratextuality)、メタテクスト性(metatextuality)、ハイパーテクスト性(hypertextuality)、アルシテクスト性(architextuality)に連なる概念と言ってもいいだろう。
★16 千葉雅也「クラウド化するギャル男」蘆田裕史+水野大二郎編『fashionista』第1号、2011年、p66。
★17 東浩紀『一般意志2.0』、講談社、2011年、p67。
★18 同上、p68。

クリス・ローウィー

1986年生まれ。ワシントン大学大学院在学中。専攻は日本の現代文学と思想。『ユリイカ』『現代思想』『ゲンロンエトセトラ』などに論文を発表し、翻訳も多数。

樋口武志

1985年福岡生まれ。訳書に『無敗の王者 評伝ロッキー・マルシアノ』(早川書房)、『insight(インサイト)』『異文化理解力』(英治出版)、共訳書に『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』(ポプラ社)、字幕翻訳に『ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影』など。
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