60年代初頭の沖縄の記録(後篇) アメリカから見た沖縄|撮影=中沢道明 文・構成=荒木佑介

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初出:2015年12月11日刊行『ゲンロン観光通信 #7』
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 アメリカの首都ワシントンD.C.に、ベトナム戦争記念碑というものがある。メモリアル・ウォールと呼ばれる全長75メートルにもおよぶ壁には、ベトナム戦争で戦死した兵士の名がびっしりと刻まれており、今も訪れる人が絶えない場所となっている。沖縄の摩文仁にある平和の礎は、このベトナム戦争記念碑をモデルにしてつくられたものらしい。ベトナム戦争記念碑は兵士の功績を称えるためのものであり、刻まれる名は戦没兵士を対象としている。それに対し、平和の礎は慰霊碑であり、刻まれる名は民間人を含め、沖縄戦で亡くなった全ての人を対象としている。全ての人を慰霊できるように、かつて敵だったアメリカ兵の名も刻まれており、敵も味方もない慰霊の形がはっきりあらわれた場所となっている。その慰霊碑としての平和の礎が、ベトナム戦争記念碑をモデルにしたということは、慰霊の対象が戦没者という人だけではなく、沖縄が関わった過去の出来事をも対象としているように思える。

 ベトナム戦争において、沖縄は後方支援基地の重要な拠点となり、北爆が開始された頃には、数多くの爆撃機が沖縄とベトナムの間を往復した。連日飛来する爆撃機の存在は、自分たちもベトナム戦争の加担者であるという思いを沖縄住民に抱かせ、おりしも復帰運動が活発化するなか、基地の全面撤去を求める流れが生まれるきっかけにもなった。沖縄の高校で使う『高等学校 琉球・沖縄史』(東洋企画、1997年版)という教科書では、ベトナム戦争が多くの写真とともに取り上げられ、当時の沖縄が東京より近い場所でベトナム戦争をとらえていたことがわかる。

 日本は今年、終戦70周年を迎えたが、ベトナムは今年、終戦40周年になる。時間の流れを重ねる無理を承知で言うと、現在のベトナムは1985年の日本に相当する。昨年、ベトナムを観光した時、現地のガイドから聞いて驚いたのだが、ベトナムで戦争があったことを知らない若いベトナム人が今は多いらしい。驚いたと言ったが、知らなくても不思議ではないとも思い、ベトナムでは戦争をどのように伝えているのかが気になった。ガイドに質問したところ、生まれる前の話だからわからないことの方が多いと言われたが、この答えが現地の状況を象徴しているように思えた。

 ベトナム観光では、ホーチミン市内にある戦争証跡博物館や、ベトコンが地下に張り巡らしたクチトンネルを訪れた。そこには、祖父が取材した地を一度は訪れてみたいという思いもあった。

 新聞記者だった祖父、中沢道明は、常駐特派員として1961年から63年までは沖縄を取材し、それから2年後の1965年から66年までは南ベトナムを取材している。祖父は2007年に亡くなり、遺品の中からは、取材で撮影した写真や映像等が多数見つかった。南ベトナムの記録は沖縄についで多く、様々な資料とともに見つかり、中には、裸のままのフィルムが封筒内で乱雑にひしめいているものもあった。東京へ送ったぶんのフィルムは切り取られ、残されたものは汚れがひどく、当時の伝達手段や、現地の状況がフィルムの状態からも伝わってくる。
 
【写真1】新聞売りはこどもの仕事だ。サイゴン市中心(1965年頃)
 

【写真2】ベトコンはここで公開処刑された。新聞売りから道を隔てた向こう側になる。サイゴン中央市場近く。開高健の『ベトナム戦記』でも象徴的な場所として出てくる(1965年頃)
 
【写真3】1965年6月26日、夕食時をねらって水上レストランが爆破される。死者42人、負傷者80人を出す惨事となった。当時のサイゴンは1日平均10件のテロがあった。しかし、サイゴンの見た目は平和そのもので、この時のテロでも周辺はいつもと変わらず、帰宅する人たちが何事もなかったかのように行き来している
 

【写真4】グエン・ラック・ホア。2万5千人の村人を守るため、銃を取り戦った神父(1965年頃)
 
 祖父が沖縄に赴任した4日後の琉球新報では、「沖縄から特殊部隊 米、南ベトナムへ派遣」(1961年5月15日)と、ケネディ大統領の決定を一面で報じており、共産圏を目の前にした最前線としての沖縄(在沖米軍)が動いた頃になる。キューバ危機が1962年といえば、時代背景がよりわかるかもしれない。冷戦が終結してから20年以上たった今となっては、この時代の出来事は過去の遺物のように見える。ただ、当時の沖縄が米占領下であったことや、また、ベトナム戦争の後方支援基地として活発化し始めたことからも、アメリカが沖縄に対してどのような認識を持っているのか、今よりもはっきりと知ることができる。

「軍博物館」というメモとともに出てきたフィルムがある。米軍基地内の戦争博物館を撮影したものであることがわかったが、この博物館がどの基地にあるかまでは今回調べることができなかった。現在、浦添のキャンプキンザーに戦争博物館があるようだが、そこは1966年に沖縄に赴任した一兵士の個人コレクションを展示したもので、「軍博物館」とは年代も展示物の内容も異なる。

「軍博物館」内部には、沖縄戦を解説するためにつくられた大きな沖縄の立体模型がある。豆電球でアメリカ軍と日本軍の配置が表示され、効果音とともに戦況の推移を解説するナレーションが流れる。今でも博物館でよく見る形態の展示物だ。


基地の中に、戦争博物館と俗称されているアメリカ陸軍の博物館がある。沖縄戦当時の写真や、旧日本軍の武器などが飾られている。この博物館の呼びものは、広間の中央にある大きな沖縄の立体模型である。沖縄戦生き残りの下士官であるここの館長が、この模型を操作してくれる。
[中略]
「アメリカ軍の敵は日本軍ばかりではなかった。豪雨とぬかるみもまたアメリカ軍の行動を阻んだ…」。
などというアメリカ版「土と兵隊」みたいな説明も入り、どしゃ降りの豪雨の音まで聞かせてくれる。最後には何と「海征かば」のメロディが日本軍全滅の説明の背景音に入り、それを追って「星条旗よ永遠なれ」がひびいてくる。
(中沢道明「沖縄とアメリカの距離」『季刊 南と北』第26号)


 これも記録である。そしてこの記録は、アメリカ人にとっての沖縄が「アメリカ人の血であがなった島」であることを伝えている。「血であがなった島」という思いは、アメリカ本国からもっとも遠い極東地域であるからこそだろう。かつての日本人は満州に同じものを見ていた。日本の生命線としての満州がその後どうなったかは言うまでもないが、沖縄をかつての満州として見ることで、アメリカから見た沖縄が日本人の目にも見えてくるのではないだろうか。いずれにせよ、沖縄が沖縄住民にとって至近距離の本国そのものであることに変わりはない。
 
【写真5】ARMED FORCES MUSEUMという看板が鳥居の下に掛けられている(1960年代初頭)
 

【写真6】立体模型を見ながら解説を聞く(1960年代初頭)
 
【写真7】戦前、沖縄県内を走っていた電車の写真も展示してある(1960年代初頭)
 

【写真8】この方が館長だろうか(1960年代初頭)
 
 かつてアメリカ人と沖縄人の間で行われた討論がある。アメリカ人が「アメリカが来るまで沖縄には文化がなかった」と言い、それに対して沖縄人が「アメリカ人は物質的だ」と反論する。自動車を文化とするかしないかで、両者の認識は大きくすれちがうことになる。


事実はどちらもまちがいである。自動車はアメリカ人のいうとおり、文化(カルチュア)なのである。なぜなら自動車の価値はそれに使用された鉄の物質的な量に比例するのではなく、物質である鉄を、人間の知慧で、いわば耕し(カルティヴェイト)便利な工作物に仕立てあげた、その有用性に比例しているからだ。
しかし、舗装されない道を自動車なしに歩いていたとしても、羽地朝秀は沖縄史上偉大な政治家であり、霊御殿(玉陵)や守礼門を設計した建築家は偉大な芸術家であったのだ。
(中沢道明「沖縄とアメリカの距離」『季刊 南と北』第26号)


 自動車に限らず、高層ビルや高速道路もアメリカ人にとっては文化そのものだ。今でこそ、どちらの主張もわかるのだが、討論から50年たった今、実情に大きな変化があったわけではない。むしろ、アメリカの影響をゆるやかに受け続けてきた本土の方が、この50年で起きた変化は沖縄より大きいだろう。ただ、沖縄と本土の間で生じている温度差は、両者に起きた変化の大小ではなく、変化に対する本土の無自覚さによるところが大きい。

 沖縄の基地問題を思うと、色々な想像をめぐらしてしまう。もしもアメリカが来る前に農業以外の産業が発展していたら。もしも中国が共産化していなかったら。もしも沖縄が無人島だったら。かつて琉球が中継貿易で栄えていたことや、中国がそのビジネス・パートナーであったことや、人類が定住してなかった頃の話を想像する方が私は好きなのだが。基地問題を考える上で、かつて日本の状況を左右した満州を想像することは有効かもしれない。必要なのは「アメリカから見た沖縄」ではなく、「日本から見た満州」を、そこに重ねて見ることではないだろうか。
 
【写真9】道路を挟んで右側が米軍住宅地区。宜野湾(1960年代初頭)
 

【写真10】浦添ようどれ。右側が英祖王(13世紀)、左側が尚寧王(17世紀)の陵墓。尚寧王は、いわき出身の僧侶、袋中上人の教えに篤く帰依し、沖縄に浄土宗と念仏を広めるきっかけをつくった人物であり、薩摩による琉球侵攻があった時の国王でもある(1960年代初頭)
 
 今年の7~10月、森美術館で開催された、ベトナム人アーティストによる「ディン・Q・レ展」で、石川文洋さんのレクチャーがあった。石川さんは沖縄出身の戦場カメラマンであり、ジャーナリストとして唯一、南ベトナムを取材したのち、北ベトナムの取材もした人物である(祖父とは南ベトナム取材で知り合っている)。このレクチャーで印象深かったのが、石川さんが本を片手に、ベトナムの歴史を古代から話し始め、多くの時間がベトナム史の講義に当てられたことである。

 沖縄もベトナムも、戦争がその土地の歴史を知るきっかけにもなっているのだが、それは同時に戦争以外の歴史が取り上げられる機会が相対的に少ないということでもある。歴史の袋小路のような状態は、沖縄の場合、戦争で多くの記録が失われてしまい、テーマ研究が困難であることとつながっている。それだけ前の戦争が通史に大きな影響をあたえているということだが、歴史の間口が狭くなっているという思いが、石川さんにはあったのかもしれない。

 写真にしてもそうである。写真は過去の出来事を知るきっかけになるが、そこから見える情報はごく一部で、わかることは限られている。それに、多種多様な記録物の中で、写真はその中のひとつにすぎない。ここで紹介した写真が、記事を書くための資料として撮影されたということが、そのことをあらわしている。

 あくまで一個人の記者が撮影した写真だが、幸いにもメタデータとなる記事も存在しているため、あらためてここによみがえらせることができた。ただ、それだけだとやはり過去の遺物になってしまうので、メタデータを新たに抽出し、現代につなげていく必要があるだろう。記録の意義はおそらくそこから生まれる。記録物で大切なのは、あくまで記録された時代の方だが、現代とのつながりを探し続けるのも大切だと考えている。
 

参考文献
新城俊明『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、1997年
中沢道明『他人の気付かないことを考える本』日新報道出版部、1975年
『季刊 南と北』第26号、南方同胞援護会、1963年8月
琉球新報、1961年5月

中沢道明

なかざわ・みちあき/1922年東京生まれ。時事新報・社会部記者を経て読売新聞・社会部記者、同次長、編集局参与。常駐特派員として沖縄(二年間)南ベトナム(一年間)駐在、移動特派員としてアフリカ各国、西アジア各国、東南アジア各国、アメリカ合衆国で取材。慶応義塾大学法学部政治学科卒。2007年没。

荒木佑介

1979年リビア生まれ。アーティスト/サーベイヤー。東京工芸大学芸術学部写真学科卒。これまで参加したおもな展覧会に「瀬戸内国際芸術祭2019」(KOURYOUチームリサーチリーダー、2019年、女木島)、「削除された図式 / THE SIX MAGNETS」(2020年、ART TRACE GALLERY)など。また『ゲンロン観光通信』、『レビューとレポート』などに論考を寄稿している。
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