【 #ゲンロン友の声|030 】どうすれば読みやすい文章になりますか

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webゲンロン 2023年10月16日配信
編集プロダクションに勤めている35歳です。いつも東さんの本を愛読しており「観光客の哲学」は人にプレゼントする分まで買ってしまいました。東さんの文章は私の理想です。 

先日、東さんがご自身の文章(訂正可能性の哲学)に赤字を入れる様子をツイッターで拝見し感動したので投稿させていただきます。 

東さんは、削除しなくても意味が通じるところを「トルツメ」したり、言い回しをほんの少しだけ変えたりと、かなり細かく校正なさっていますね。東さんの本やゲンロンさんの本の圧倒的な読みやすさは、その心くばりゆえなんだろうなとも思いました。 

そこで質問です。東さんは校正の際、どのような態度で、どういったルールのもとで赤字を入れていますか。また、どうすれば自身が書いた文章を客観的に読み、校正することができるのでしょう。教えていただけるとうれしいです。 

今後の出版計画を見ると今後も校正作業がかなり続きそうですね…どうかどうか、お身体にご自愛ください。(石川県・30代・男性・会員)

 ご質問、ありがとうございます。ご愛読、ありがとうございます! そして弊社の本のクオリティを褒めていただき、嬉しく思います。 

 ぼくはもともとたいへん赤字を入れるひとで、その点では編集者泣かせです。自分の原稿の場合、雑誌掲載時にも何回も赤字を入れ、それが単行本に収録されるときにはいちどデータで完全に書き換え(今回の本もそうです)、しかもまたゲラで何回も赤字を入れるという感じで、訂正につぐ訂正で完成しています。ゲンロンにはその習慣が引き継がれているので、ほかの著者さんの原稿にもかなり提案のエンピツを入れます。著者さんによっては面倒だと思われる方もいると思うのですが、むしろそう思われるのが編集の仕事だという考えです。 

 さて、ぼくの校正時の「ルール」についてお尋ねですが、赤字が増えるのはまさにそのルールが確立していないからでして、明確にお答えすることはできません。そもそも日本語は(編プロの方ということでご存知だと思いますが)、(1)漢字・ひらがなの使い分けや送りがなの選択さえ個人に任されているじつにいい加減な言語で、用語用字の統一には毎回苦労します。ここはひらがながいいかな、いや、そうするとほかと統一が取れなくなるぞ……とか、毎回逡巡しています。そんなの検索置換で一発だろと思うひとは、ちゃんと本を作ったことのないひとですよね。日本語の漢字表記はじつに面倒です。 

 加えて日本語は、(2)ちょっと油断すると全部文末が「だ」「する(した)」ばかりになってしまうという問題があります。動詞が最後にくる言語なので当然なのですが、これは活字にするとたいへん単調に見えます。そこで「である」「なのだ」「するのだ(したのだ)」などを適宜加えることになるのですが、これがまた「語感と意味のバランスをとってなんとなく入れる」としかいいようがない作業で、とても規則として一般化できるものではありません。さらに、あまり指摘されないことですが、(3)日本語には類義語がたいへん少ない、少なくとも類義語辞書がほぼ整備されていないという問題もある。したがって、その点でも文章は単調になりがちです。とくに評論を書いていると、文末が「考えられる」「思われる」「言われる」ばかりになりがちで、これをどう回避するかには毎回頭を悩ませています。 

 というわけで、とにかく面倒なのだという答えにしかなっていませんが、もしかして質問者の方が聞きたかったのは、こんなテクニカルなことではなく、もっと大きく、「どうしたらわかりやすい文章を書けるか」ということだったのかもしれません。その点について話すとまた長くなるのですが、ただ、ぼくが紙で赤字を入れるときに気をつけているのはじつは内容というよりも上記のような細かいことで、その背景にあるのは、人間は意識的に言葉の意味をとりながら文章を読むだけでなく、無意識に視覚的に「イメージとして」誌面を眺めてもいて、そこのところをどうコントロールするかが「読みやすさ」をつくるうえでは決定的に大事である、という認識です。どこで文章が切れるか、どこで段落が変わるか、ページ全体を見た時にどれほど白い部分があり黒い部分があるか。そういうことをじつに微細に調整することで、最終的な印象は決まる。だからぼくは、データ入稿時にいくら調整したつもりでも、紙になった時点でまったく新しい視点からまた再調整してしまうのです。 

 今後、紙の書籍はどんどんなくなっていくと思います。そもそもいくら単行本の紙面を調整したところで、電子書籍で読むぶんには関係がないし、文庫になったり(ゲンロンの書籍はなりませんが)将来全集に収められたりすればそれもまたかたちが変わってしまう。だからすべてが無駄といえば無駄なのですが、ぼくは、純粋に「美意識」として上記のような作業を行ってしまう。そういう意味ではぼくは古い世代の書き手なのですが、ぼくの「読みやすさ」はそんな古い美意識によってもたさられているのではないかとも思っています。(東浩紀) 

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

1 コメント

  • H2H2023/10/29 15:04

    私がゲンロンβの感想を書いていた時、何回か各号交互に 「です/ます」と「だ/である」で書き分けたことがあるが、圧倒的に後者のほうが文章が書きやすかった。 本文にもある通り、文末が単調になってしまう傾向は確かにそうで、工夫すると文章を全て書き直すこともあった。 突き詰めていくと美意識に到達すると言うのも頷ける。

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