ゲンロンβ68|編集長=東浩紀

表紙写真:イタリア、ヴェネツィアの新刊書店で撮影された猫。ベルギーに滞在中の真辺将之氏は、本誌に寄稿した「人は猫の幸福を知りうるか?」のなかでヨーロッパ各国の書店をめぐり、各地の「猫本」事情から人間と猫のかかわりを考察する。撮影=真辺将之

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2021年12月24日[金]発行
1|渡邉大輔 【先行掲載】新たな映画の旅にむけて――『新映画論』序文より
映画の輪郭が変化する時代。21世紀の新しい映画の姿を模索する、渡邉大輔さんの著書『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン叢書010)がまもなく刊行されます。序論の一部を抜粋して、先行公開します。

 ゲンロンβでの渡邉さんの連載を拝読していたのでゲンロン叢書での出版は感慨深い。連載から月日は経ち、ネットフリックス等の登録が当たり前になり独自作品がバズるまでに成長した。発展目まぐるしいシネマを渡邉さんがどう「パースペクティブの組み替え」をしていくのか楽しみだ。


 序文で、墓石がスクリーンそのもので、都市観光地の閉鎖が映画のようだという記述がある。投影されるものがスクリーンだとすると、墓石には何が投影されたのか。それは著者の意識ではなかろうか。同時に都市封鎖がある種のフィクションに感じられる。そこには自分の意識は関係ない。二律背反的な機能をスクリーンに投影されたものは持っている。


編集部より 2月7日発売の『新映画論──ポストシネマ』に期待するメッセージを数多くいただきました。数々の話題作を論じるだけでなく、映像文化をとおして現代のわたしたちの世界の見方を読みといていく一冊です。発売をお楽しみにお待ちください。
2|真辺将之 人は猫の幸福を知りうるか? ヨーロッパで人と猫の関係を考える
日本近現代史の研究者であり、人間社会と猫とのかかわりについても執筆されている真辺将之さん。ヨーロッパ各国の書店で見つけた「猫本」から、ひととひとをつなぐ「猫の幸福」へと思索を巡らせます。

 猫の文化や歴史に対する興味がヨーロッパでも様々であることに不思議さはあるが、どの国でも差はあれど書店に猫の写真集が置かれているという猫のビジュアル的許容が存在する事に世界的猫愛を感じた。


 ちょっと暴力的な比較かもしれませんが、猫には親離れ・子離れがなく(歳をとっても、自分という円の中にすっぽり収まる存在でありつづける)、また「地域で育てる・守る」という子どもに対しては困難になりつつある方法が、猫に対してはまだ残っているのだなという感想を抱きました。


編集部より ヨーロッパ各国の猫文化の違いから、猫をめぐる哲学的な問いまで、まさに猫のように軽快に横断する真辺さんのエッセイ。いただいた猫と子育てをめぐる感想は、同じ号の田中功起さんのエッセイとも共鳴するもので、とても興味深く拝読しました。真辺さんにもご登壇いただいた「猫イベント」のアーカイブ動画はシラスで公開中です(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20210922)。
3|竹下愛 ひろがりアジア 第9回 反転のユートピア──スハルト政権期インドネシアの「若者向け娯楽誌」と九・三〇事件の痕跡(前篇)
スハルト政権による苛烈な共産分子の逮捕と虐殺によって、恐怖の歴史が刻まれたインドネシア。事件からまもない時期に刊行された若者向け娯楽雑誌に見られる、時代の両面を描きます。

 1960年代といえば、日本では学生運動が盛んな時期である。東南アジアでは、ベトナム戦争が大きな出来事であろう。他国の状況はよくわかっておらず、インドネシアで政権転換があったことは初めて知った。その中で生まれた雑誌『アクトゥイル』が政治的・社会的な問題に触れないのは、持続させる上で大切なことかもしれない。


 体制の転換と共に雑誌が成長していく物語として面白かったです。またラジオには視覚情報がなく、その不足を雑誌が補っていたという指摘は当たり前ですが、テレビ・ネットが当然となった後で物心がついた自分としては新鮮に感じました。また、雑誌の読者コミュニティができ、コミュニティの成長とともにコンテンツが多様化していく流れ、そこにカウンターカルチャー、世代間の国家に対する価値観のギャップの説明も面白かった。つまり与えられたアイデンティティはアイデンティティ足り得ず(少なくとも若者のうちは)、そこを埋めるために独自の文化が立ち上がってくるんだな、と。


編集部より 今回のひろがりアジアはインドネシアが舞台。著者の竹下さんは、政変によって解禁された海外ポップカルチャーを取り上げ大人気を博した、若者向け娯楽誌を読みといていきます。情報を求めるかつての若者の熱狂や、世代をつくっていく雑誌のパワーが新鮮に映ったというご感想を多くいただきました。今号の後篇にもぜひご感想をお寄せください。
4|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第10回 育児と芸術実践──11月29日から12月23日
アーティストたちにキュレーション(選択)の役割もゆだねられる現在に、選択という行為は「ケア」と対になると考える田中さん。育児に翻弄される受け身の現実のなかに見出しうる実践のあり方を模索します。

 私事ですが昨年末に第4子が生まれました。今に始まったことではないですが、仕事に割り振れる時間はさらに少なくなりました。予測不能な毎日となり、仕事と子育ての境界を保とうとすればするほど、うまくいかないことが増えていっている印象です。なので、特に仕事のクオリティの話がとても刺さりました。これまではクオリティのあり方について向き合うことから逃げていたようにも思い、反省。子供の成長を共に経験しながら、自らも成長していきたいと強く思いました。


「この生活だからこそ獲得される別のクオリティがあるはず。」という言葉が印象に残りました。たしかによく考えてみると、クオリティという言葉はただ「質」とだけ訳される。なのに何故かクオリティというと、時間をかけるとか、妥協しないことによって担保されるものだという思い込みを抱いてしまっていた。別のクオリティと軽やかに(文章の表面上はそう見える)書く田中さんの文章を読んで、そのイメージが崩れました。


編集部より 育児による時間不足から制作が変わらざるを得ないことを、肯定的にとらえ返す今回の田中さんの連載。「クオリティ」の捉え方についての感想だけではなく、子育て中の読者の方々からの生の声がいくつも寄せられました。連載初回で生まれた田中さんのお子さんも、今回では立ち歩きをするように! その「変化」の様子を編集部も毎回楽しみに拝読しています。
5|小松理虔 当事者から共事者へ 第15回 共感と共事(2)
なぜ人々は、会津藩の負の歴史に強く共感するのか。会津と戊辰が直結してしまう回路から、共事という回り道の可能性を考える小松さんは、地獄と極楽が入り混じる地、恐山へと足を進めます。

 以前に理虔さんが別の回でも扱っていた『環状島=トラウマの地政学』(宮地尚子、みすず書房)を数日前に読みました。声出せぬ当事者が中央の内海に沈み、声の上げられる者は尾根の上に立つその島に、外海から「よそ者」として近づいていく。


 今回の論考にある「共事者は、つねに『加害者』であること、間違うことを背負い続けなければならない」という指摘は、まさに「環状島」で描かれた、外海から尾根に近付こうとする者の困難と合致していると感じました。


 そもそも過剰共感は「楽しい」ものなのだと思いました。物語をみて泣いたり憤ったりするのに人はお金を払うのは、過剰共感が快だからなんだと思います。その物語が「フィクション」だった場合は、自分の生活とは切り離した快として処置できるのが、その物語が「歴史」の場合、生活との地続きと感じられるため、この切り離しが失敗してしまうのではないかと思いました。


編集部より 下北半島への観光で覚えた斗南藩/会津藩への「共感」を相対化し、「共事」の考えをさらにアップデートした小松さん。観光と歴史の結びつきへと踏み込んでいく小松さんの姿に、まさに「共事」するようなメッセージを読者のみなさまからいただきました。死者に思いをはせた恐山巡礼から、小松さんの足はどこへ向かうのか。下北観光シリーズ、次回完結予定です。
6|本田晃子 革命と住宅 第7回 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(前篇)
ソ連時代につくられた革命的住宅の数々をたどる連載。スターリンの死後、フルシチョフによって転換された住宅政策。「一家族、一住居」を実現する新型団地「フルシチョーフカ」と、それを可能にした工法とは。

 統治者が変わるごとに名前を冠した集合住宅が続々と建設されるダイナミックさには無責任ながら感動すら覚える。特に大型ブロック工法は画像を見る限り正に「積んだだけ」で効率的かどうかすらわからないレベル。当時の暖房技術を想像すると冬のソ連の寒さは過酷であっただろう。


 ある時代には最大の恩恵だった住居が、今では不便な住宅の代名詞になっているというのは、ある意味幸福なことなのかなと思いました。


編集部より 見知らぬ人たちが共同生活を強いられたコムナルカから一家族のためのフルシチョーフカへ、まさに革命的な転換を描いた本田さんの論考には、当時のソ連の暮らしに想像をめぐらせる感想も。コムナルカでの共同生活については、先日ゲンロンカフェでもイベントを開催しましたので、あわせてご覧ください(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20220106)。
7|山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第3回 共通体験としての兵役(2)
 イスラエルの人々の生活を現地から伝える山森さんの連載。今回は、自身の家族の経験をもとに、教育課程のなかで、イスラエルの子女たちがどのように兵役と向き合っていくのかが紹介れます。

 完全武装の女性と裸体像の女性、戦後の態度を表象する両極だと思います。武装=抵抗として、イスラエルは自分たちの国を守ろうと徴兵制があるのに対して、裸体=無抵抗として、平和を祈るものとして日本がある。その裸体は加害性も被害性も表象しない、忘却の表象に見え、矛盾した態度にも思えます。


 私は部活をやっていなかったので、同じ野球部、バスケ部、囲碁部でもなんでもいいのですが、思春期あたりに何か共通の土台を持っている人っていいなぁ、とときどき思います。徴兵となると、かなり多くの人にその共通基盤が与えられることになって(しかも、心身に負荷のかかる体験として)、それはそれで人とコミュニケーションを取るきっかけにはなるのかなと思ったというか、つまり同じ傷を背負うというようなものだと感じて、社会的に良い面もあるのだろうと思いました。


編集部より 兵役のある国で子どもを育てるというのはどういうことなのかをつづった、山森さんのエッセイ。日本での兵役のイメージとの差を考える感想を多数いただきました。異なる立場の人々が暮らすイスラエルにおける、軍というもののリアルさには、さまざまなことを考えさせられます。次回は山森さんの息子さんの出頭命令後が書かれるとのこと。そちらもお楽しみに。
8|吉川浩満 犬とともに生きるということ 「なぜ犬は人を幸せにするのか」登壇後記
ゲンロンカフェで行われた、「犬人関係」について考えるイベント「犬とともに生きるということ」。犬のしつけと動物行政の変化、犬にまつわるブックガイドなどが紹介された充実の議論を、登壇者でもあった吉川浩満さんがふり返ります。

 ドッグトレーニングによって人と犬が急接近したという指摘が大変面白かった。ドッグトレーニングと言われると、「ステイホーム中の家出」を思い出して、むしろ非人道的な印象が最初に湧き上がってくるので、それによって犬と人の絆ができているという話に意外性があって面白かったのです。そして、その上で「体罰は厳禁、服従ではなく共同生活のため」という記述を読んで、やはり猫の話を読んだ時のように、子どもに対する接し方との相似を想起しました。


 私の父も愛犬ハスキー(犬種はアラスカン・マラミュート)を亡くして約15年経った今も写真を居間に飾り、スマホの待ち受けにもしているので、吉川さんの愛犬マルティナに対する心情の哀切に心打たれた。


編集部より ゲンロンカフェで開催された「なぜ犬は人を幸せにするのか」(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20211022)の登壇者である吉川さんによるイベントレポート。亡き愛犬への愛情とともにつづられた文章に、(とくに犬派の)読者のみなさまからたくさんのご感想をいただきました。 わたしも犬を飼っていたのですが、飼育に関する当時の考え方とは意外なところが変わっていて、とても驚かされるイベントでした。みなさまもぜひご視聴ください。

1コメント

  1. 東浩紀です。68号からゲンロンβの紹介ページにコメントを残せるようになりました! みなさんの感想をお待ちしています。シラスのようにどしどしレビューをお寄せください〜

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