ゲンロンβ69|編集長=東浩紀

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2022年1月26日[水]発行
1|星泉 『声』がつなぐ信仰と身体――『虹霓のかたがわ』解説
チベット語・チベット文化研究者の星泉さんに、ゲンロンSF文庫006『虹霓のかたがわ』の解説をいただきました。近未来のチベットを描く異色のSFは、伝統をどう昇華させたのか。同地の文化を紹介するエッセイとしても大変魅力的な文章です。

 『虹霓のかたがわ』はチベットが舞台の小説なので政治的な感覚が先行して消化不良だったのですが、星泉さんの解説により宗教舞踊とお布施集めの歴史的背景やテクノロジーとチベット文化の現代における関係が知れたので小説の内容がやっと腑に落ちました。


 「同じ場を共有し、同じ拍を刻み、同じリズムに身を任せれば他者と一体化でき……それは自分と他者の境目を越えることができる、宗教的熱狂を伴う舞踏」


 最近、ミラーニューロンに関する文章を読んでいて驚いたのですが、人の脳は他人がある行動をしている光景を見る(知覚する)と、自分の脳も同じ行動をしているときと同じように活性化するのだそうです。つまりボールを投げる姿を見ると、自分がボールを投げる時と同じように運動神経が活性化するのだそう。では、なぜボールを投げている人を見ても実際に同じ動きをしないで済むのかというと、その運動神経の活性を前頭葉が抑制しているからなんだそうです。つまり、自動的に他者と同じように動き出そうとする身体を理性が抑制しているわけです。そうやって人は社会生活を営んでいる(細かい脳の用語は間違っているかもしれません)。


 その前知識を持って右の引用部分を読むと、他者の踊りを知覚しながら一緒に踊るという行為は、行為の側から理性を取り崩す営みなんだということが分かります。同じように動くことは、普段抑制されているミラーニューロンによる運動神経の活性化が自然と発揮される状況のはずです。そこでは理性による脳の間の壁がなくなり、自分の脳と他者の脳が同期している。それはまさに一体化であり、複数の脳の神経の活性が仮想的に同じ波を打つような感覚がきっと宗教的熱狂なんでしょう。


編集部より 榛見あきるさんの『虹霓のかたがわ』は、未来のチベットを舞台にしたSF作品。チベットの専門家である星泉さんの解説を通して、フィクションと現実のチベットが重なります。いただいた感想のなかには、脳科学の知見から本作を考察するものも! 『虹霓のかたがわ』は電子書籍として好評発売中です。
2|松山洋平 イスラームななめ読み 第6回 日本・イスラーム・文学――中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』について
戦前・戦中の日本には、イスラーム文学の伝統が存在した――忘却されたその系譜を継ぐ作品として、中田考さんのライトノベル『俺の妹がカリフなわけがない!』を読み解きます。同書が中田さんの思想の「ひとつの達成」である理由とは。

 『オレカリ』を中田考の遊びと捉えることは、東浩紀がよく語っているルソーの『新エロイーズ』や『告白』の関係性と似ていると感じました。「危険な」著作であるということは、中田考の目指す世界観が大衆に届くチャンネルに繋がっているということだと思います。まさに布教なのだと思います。


 過去に日本の文学が、イスラムを「美人」と「恋」と「性欲」を使って描いていたとは驚きで、鬼をラムちゃんとして描くことには比べられないけれど、そういう不真面目さが過去にはあったのに、それが発展しなかったのは惜しかったなと思ってしまいました。そんな積み重ねがないからこそ「オレカリ」というタイトルにはぶっとんだ感を感じざるを得ない。そしてこの厨二病的ストーリーの突飛さが、実は戦前戦中の日本の突飛さに直結しているというのも面白い。東さんが「シンギュラリティはSFなのに現実的に考えている人が多くて驚く」とどこかでおっしゃっていましたが、まさに、そんな厨二病を地で行く時代。俺の妹がカリフになることだけが異常と思われるのもおかしなことなのかもしれません。


編集部より イスラーム学者の中田考さんによるライトノベル『俺の妹がカリフなわけがない!』を、正面から読みといた松山さん。右に紹介したご感想のほかに、この論考をきっかけに明治時代のムハンマド伝を読んだ読者の方もいらっしゃいました。スペースの都合からご紹介できず恐縮ですが、編集部一同拝読させていただきました。なお、中田考さんは2016年に東との対談にご登壇いただいています(URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20160728)。ぜひこちらもチェックしてみてください。
3|本田晃子 革命と住宅 第8回 第4章 フルシチョーフカ――ソ連型団地の登場(後篇)
ソ連時代に構想された住宅の数々をたどる連載。革命の理念に反し「一家族、一住居」を実現させるべく大量生産された新型団地「フルシチョーフカ」。その普及が市民の意識にもたらした「所有」の萌芽を描きます。

 ソ連都市部の深刻な住宅不足の環境に於いては廊下にも(!)ベッドを置いて住まう人がいたり、フルシチョーフカではキッチンでソ連非公式文化が展開されたりしていて「上に政策あれば下に対策あり」を地で行く当時のソ連国民の逞しさが感じられた。


 所有の感覚についても面白く読んだ。ソ連では、制度としての所有はないが、感覚としての所有はある。オンラインシンポジウムで、ソ連・韓国・日本の団地が比較されていたが、ソ連・韓国における寒さに対する団地のDIYも日本では珍しいものだ。


現在では、サブスクが様々なサービスで導入されている。また、フリマサイトで不要なものをすぐに売ることができる。個人で多くのものを所有するより、プラットフォームが管理するコンテンツをスマホで瞬時に扱える方がスマートだという記事を目にするようになった。DIY精神によるアップデートより、飽きたらすぐに交換できる方が良いということなのだろうか。身の回りに長い時間を共有するものが無くなったら、自分史すら残せなくなってしまうのかもしれない。


編集部より ソ連の人びとの悲願だった、家族だけで暮らせる住宅フルシチョーフカが、「所有」という感覚を広めたとする本田さんの論考。前号の刊行と同時期に本田さんが登壇されたオンライン・シンポジウム「日韓ソ映画における団地イメージの変遷」(URL= https://www.okayama-u.ac.jp/tp/event/event_id2823.html)をご覧になった方からも感想をいただきました。ソ連の人びとのDIY精神と、家を住みこなすたくましさからら、わたしたちはなにを見習うべきなのか。次号掲載の第9回もお楽しみにお待ち下さい。
4|竹下愛 ひろがりアジア 第9回 反転のユートピア――スハルト政権期インドネシアの「若者向け娯楽誌」と九・三〇事件の痕跡(後篇)
スハルト政権下のインドネシアの娯楽雑誌『アクトゥイル』。「若者」という層自体を生み出した同誌は、なぜ凋落し、後の時代にどう影響を与えたのか。往時から雑誌が滅びつつある現在まで、「若者文化」と政治の緊張関係を振り返ります。

 本田さんの論考の後に読むと、共産主義も大変だが反共産主義も大変だな、という気分になりますね。


 それはさておき、雑誌のサクセスストーリーとして大変面白かったです。ガレージで手作りのような素朴な場面から始まって、一躍大人気になり、後継を生み出しながら成長し、バブリーになり、メンバーもいい歳になって空中分解。からの人気低迷、売却。一時代を築いた人たちの関係性が加齢と共に変化してゆき、後継に影響やノウハウを与えながらもそれ自体は消失していってしまう。悲しくもダイナミックな歴史の必然のような感覚を感じることができました。


東アジアである中国・北朝鮮・韓国と比較すると、現在のインドネシアの方が、日本に近い感じがしました。思いつきではありますが、地勢条件の類似性によるのではないでしょうか。東アジアという地域でありながら、大陸である中国や緊張関係がある朝鮮は、島国である日本とかなり異なります。インドネシアに日本との近さを感じるのは、「地図にないコミュニティー」が隔離された小さな島のようなイメージに重ねることができるからかもしれません。


編集部より インドネシアの若者に圧倒的な支持を受けた雑誌『アクトゥイル』を紹介し、前篇から大きな反響をいただいた竹下さんの論考。後篇では『アクトゥイル』の衰退が描かれました。この記事でインドネシアに親近感を抱いたという感想のほか、『ゲンロンβ69』全体がアジアについて考えさせられる号だったという声を複数の方からいただきました。ますますグローバルになっていく『ゲンロンβ』を、これからもご愛読ください。

表紙写真:中国青海省黄南チベット族自治州ツェコ県の、牧畜民の暮らす草原での舞。数日間にわたり行われる法要のクライマックスとして、携わった在家行者たちが総出で舞い、供物を破棄する。この日には続いて村人たちによる競馬も行われた。 撮影=星泉

1コメント

  1. 東浩紀です。68号からゲンロンβの紹介ページにコメントを残せるようになりました! みなさんの感想をお待ちしています。シラスのようにどしどしレビューをお寄せください〜

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