2022年5月30日[月]発行
1|能勢陽子 歴史のループから抜け出せるか──「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展後記
「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展を振り返ります。作品のなかに「妖怪」として浮かび上がっていたのは、第二次世界大戦や近代日本をめぐる複雑な歴史、柳田國男や京都学派の思想、そしてスパイたちの物語でした。
2|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉 贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(後篇)
人類学者・小川さやかさんを迎えた白熱のゲンロンカフェイベントが記事に! 後篇では、「人生の保険」という路上商人たちの言葉から、親子や環境、政治まで、「贈与」や「連帯」のありかたを論じます。
3|松山洋平 イスラームななめ読み 第7回 田舎者のサイバー・ジハード
留学先のシリアで知り合った青年に頼まれたのは、ジハーディストのPR動画を見せてほしいということでした。サイバースペース上で展開されるイスラムの解釈や「過激思想」に触れる人びとのすがたを捉えます。
4|さやわか 愛について──符合の現代文化論 第13回 スパイダーマンにとって責任とは何か
21世紀の『スパイダーマン』映画の集大成、『ノー・ウェイ・ホーム』。作中で主人公ピーターに求められる「責任」に、さやわかさんは、新たな時代に人びとが抱くべき「愛」の形を見いだします。
5|小松理虔 当事者から共事者へ 第18回 共事と取材
取材者と当事者の距離が近づいていくなかで、「共事」的な取材はいかに可能なのか。体験することから取材を組み立てる、地元メディア「igoku」の実例をつうじて考えます。
表紙写真:夏の夕暮れ時のJR川前駅。磐越東線が走る駅だが、いわき市の中山間地域に位置し、もっとも高齢化の進む地区だ。いわき市のメディア「いごく」は、この限界集落をたびたび取材してきた。 撮影・キャプション=小松理虔
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1|能勢陽子 歴史のループから抜け出せるか──「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展後記
土蜘蛛やぬらりひょん等の有名な妖怪の中に日本の軍国主義を裏に表に代表する軍人や文人を模した妖怪がいたり、マイケル・ジャクソンを模した妖怪がいたりと歴史の中に強引に感じられるほど唐突にあらゆる時代の代表者がねじ込まれているのが面白い。
そして妖怪という要素が単に戦中や戦後の風刺や批判の材料になるのではなく、歴史に不気味さやコミカルさを添加する事でテーマの胚胎する悪や激烈さの印象から観客を一旦引き剥がす効果が感じられた。
こういった視覚効果でものの見方の視点を少しずらす方法が芸術表現において可能なことが発見できて大変興味深い。
2|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉 贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(後篇)
路上商人の「人生の保険」という概念が冒頭から衝撃的で惹き付けられた。金銭的な貸し借りを超えたもっと抽象的で感覚的な、お互いに「個人を分割してシェア」して持ち合いした身体が醸成されて何らかのタイミングで帰ってくるという発想も新鮮だ。
他人の体に自身の分身を寄生させて成長した自分に助けてもらうような、SF的な発想があるような気もした。
また、組織論に於いては小川さんは「記憶」は組織に取り込むものとして考えているが東さんは「記憶」を組織の中で育んで継承していくものであると考える相違点が見え双方のインフォーマル経済に対する視点が窺える学びの多い対談だった。
3|松山洋平 イスラームななめ読み 第7回 田舎者のサイバー・ジハード
ダマスカスと聞くと即座にヘルメットを被った報道記者が思い浮かぶが、内戦以前は治安の良い留学先だったことに驚かされた。
また、ジハードという自らの命が掛かった行為をカッコいい音楽の動画でノリのように過激派に参加しようとする青年の意気込みは理解し難く、その軽薄さがサイバースペースにおける俗人説教師の誕生を後押ししているように感じられた。
4|さやわか 愛について──符合の現代文化論 第13回 スパイダーマンにとって責任とは何か
責任は掴みどころがない抽象概念で具体的に表されたとしても契約書や規約といった後々変更可能な形態だ。
そしてやはりスパイダーマンシリーズのなかでも主人公が場当たり的に自身の責任を変更して、ある意味都合良く符号を書き換えているように見える。
責任とは一般的に想像される厳重な約束ではなく、他者の視点を主観的に内面化しただけのものなのかも知れない。
故に、他者に対して責任を取るという行為も本質的に不可能なのかも知れない。
5|小松理虔 当事者から共事者へ 第18回 共事と取材
小松さんが如何にigokuの作成に於いて編集メンバーを信頼して活動されているかを感じる文章だった。
大上段の参与観察に陥らずにアクシデントを覚悟で飛び込んで場を共有し、記事に起こすバランス感覚は奇跡的なチーム編成がものを言うだろう。そして「認知症解放宣言」のような炎上スレスレの表現は読者となる地域住民の方々からの信頼を得ているからこそ可能なのだと思う。
編集サイドや地域や行政などが混淆した「全体」をigokuというメディアといえるのではないだろうか。
1|能勢陽子 歴史のループから抜け出せるか──「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展後記
ゲンロンカフェの「アジアにおいて芸術と哲学とはなにか」はすごく良かったです。そのイベント内容を補うようになっている本記事は大変参考になりました。井上円了が妖怪博士と言われていたのは知っていましたが、日本の近代化のために妖怪を排除の対象としてみていたことは知りませんでした。柳田國男が「大東亜民俗学」なるものを考えていたことも驚きです。
戦前日本の登場人物たちを、単純に断罪したり肯定したりせずに、単純な人物像に回収されることなく、理解をしていくということは、難しい事ですが、必要な事かと思われます。記事の中に触れているロシアだけでなく、ウクライナについても同様の事がいえるのではないでしょうか。
2|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉 贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(後篇)
人間は全くの単独者ではなく、産まれた時点で先行世代から多くを受け継ぎ、死ぬことで後続世代に様々な物を残しており、「わたし」といっても複数の人間の連続性のなかの「わたし」なのだという話は、言われてみると当然だなと思う一方で、普段それほど意識されていない気がします。特に、人は死ぬときは一人だという考え方の方が支配的かなと思います。そういった考えをひっくり返す、贈与に関する今回の記事は面白かったです。小川さんはすごくいいキャラだと思うので、放送の方もみてみることをお勧めします。「生存と不確実性の経済——スケールしないお金の話」
能勢陽子 歴史のループから抜け出せるか 「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展後記
今年の1月に冬休みを利用して、展覧会に行くことができました。豊田市美術館には、あいちトリエンナーレ2019の夏以来の来訪でした。ゲンロンカフェの対談から少し時間も経っていたので、シラスのアーカイブを移動時間に見直していきました。テーマが戦争に関わるので、なんとなく博物学的な展示を思い浮かべてしまいますが、妖怪とアニメーションによって構成された虚構性が高い展示で、珍しい形態だと感じました。
能勢さんがとあるオンライン勉強会で「加害と被害という枠組みを超えて考えたい」と話したとき、批判的なコメントをもらったエピソードを披露していました。加害/被害を超えるというのは、歴史として語るということだと思いました。戦争とアニメーション、人物と妖怪で構成された展示会は、事実と虚構の狭間に鑑賞者を誘い込むかのようでした。そのギャップの中で、どのように感じるかは、人ぞれぞれでしょう。
スパイの章で、白黒の実写映像とカラーのアニメーションが重なっていた展示は興味深ったです。この展示を見ながら、大山顕さんが渡邉 英徳さんの仕事について言及していたことを思い出していました。渡邉さんは戦時の白黒写真を、AIでカラー化しています。カラーにすることで、戦時の出来事をより自分ごととして考えられるようになると、新書を出版しています。大山さんは白黒をカラーにすることで、そう感じるのは本当か、何かのイベントで疑義を述べていました。この展示では、白黒の事実に、カラーの虚構が重なっています。カラーの鮮烈さは、物語を立ち上げやすくする印象があります。それは、ある程度は事実をベースしているでしょうが、虚構も入り込む余地があるなと思いました。これは面白い体験でした。
呉座さん・辻田さん・與那覇さんの鼎談で歴史と歳月に言及がありました。歴史の対義語は歳月=循環であるという話でした。確かに歴史は繰り返すというクリシェはよく耳にしますが、当事者にとって繰り返しているという印象は薄いかもしれません。展示会を鑑賞しても、それ自体は始まりがあり、終わりがある流れの中にあります。とはいえ、同じ課題が蒸し返されるループ感も一方ではあります。ループの中に存在しているが、少しでも前に進めようとする。今回の展示会のように、歴史的な事象を様々な観点で更新することが、今後も大切だと感じています。
小川さやか+東浩紀+福冨渉 贈与と失敗がつくる社会(後篇)
貸し借りがあるというのは、互いに影響を与え合う関係性の構築だと思う。SNSのフォロワー数で可視化されたインフルエンサーや気候変動におけるカーボンニュートラルのように、有無の良し悪しはともかく影響力というのは重要だと考えられている。フォーマルな経済では、効率が重視され、ハラスメントにつながる人間関係が忌避される。カネを循環させることが持続性につながる部分はあるが、ヒトは必要ないように思える。対して、インフォーマル経済では、ヒトの関係が大事ではあるが、身体知が個人に依存してしまい、蓄積のなさに不安を覚える。どちらか一方の経済圏では、持続できないのではないか。
インフォーマル経済でも組織論が必要であることは、その通りだと思う。寄生獣の例えもかなりわかりやすかった。小川さんが提示する組織論は、災害ユートピアに近い印象を受けた。寄生獣の変形も、平常時と攻撃時への往還である。災害や敵意に対する生存の意志が、個人の能力の最大化につながる気がする。組織の生存を考えた場合、組織内での情報の共有やノウハウの構築という知の外在化が必要になる。とはいえ、組織だからすべてがフォーマルになるわけではない、あの人は〇〇に詳しいとか、〇〇にハマっているというようなインフォーマルな情報も飛び交う。フォーマル/インフォーマルの区分は曖昧であり、両立可能である。
松山洋平 イスラームななめ読み 第7回 田舎者のサイバー・ジハード
ウクライナ侵攻でのSNS戦略が注目を集めているが、確かに国外のPR動画が話題になったのはISからだった。そこからイスラムの解釈がITによって多様化していることは知らなかった。イスラム教と言えば、礼拝等、戒律がしっかりしている印象であるが、解釈については様々なようだ。宗教自体としては権威だが、動画の内容については、玉石混交のようだ。それこそ、SNSの〇〇大学と称される動画のようである。
さやわか 愛について――符合の現代文化論 第13回 スパイダーマンにとって責任とは何か
「大きな力には、大きな責任が伴う」という言葉が、スパイダーマンのシリーズによって捉え方が異なるそうだ。マグワイヤ版では調子に乗った若者に対する戒めとしての言葉だ。その言葉はある種、予言のような、呪いのような、相手を思うが故に縛りつようとする言葉だ。その言葉を受けた側は、その縛りに抗おうとして、結果として大きな失敗につながっていく。
ホランド版のメイが死に際に発するこの言葉は、後悔に苛まれそうな主人公を解き放とうとする。ヒーローでも成功と失敗を繰り返す。ただ、失敗した後で、次は失敗しないようにセカンドチャンスにトライする。固執や執着は変わらないことにつながる。一度、成功すれば、それをし続けなければならない。非常に神経症的な状態である。通常、成功と失敗を繰り返す。その循環の中で、同じ過ちを繰り返さないように考える。ヒーローの個人的な物語から、社会にまつわる歴史や忘却の問題につながる文章だと思う。
小松理虔 当事者から共事者へ 第18回 共事と取材
ゲンロンβ71の感想で、ジャーナリスト=共事者だろうかという疑問を書いた。今回は、それを深掘りする内容であった。さらに、ゲンロン総会で石戸さんが小松さんに投げかけた懸念が、考えを整理するきっかけになったと思う。
石戸さんが懸念していたのは、共事という概念が新しい運動論(総会では、シン・運動論と言われていた)に回収されてしまうのではないかということだったと思う。そうならないように、もう少し精緻な概念として構築した方が良いのではないかと。連載当初から読み続けてきた私の印象も、共事は運動論のような拡大につながる論ではないように思える。むしろ、拡大することができないことに対する小さなフックのような概念だと捉えている。例えば、気候変動のような課題に共事するというのは、みんなが当事者であるという論調と変わらないと思う。事=課題が優位になってしまうと、べき論が横行し、排他的な活動と変わらなくなってしまう。
また、石戸さんが指摘していたことで、第三者として一線を守ることの大切さも、重要であろう。小松さんは本文で、「体験する」ことの大切さを記述している。「体験する」ことで、課題に対する解像度が上がり、深く理解することにつながることはある。ただし、第三者として客観的な距離を維持することも必要なことではないか。私も共事者は第三者性が強い概念だと現時点では考えている。体験することで理解は深まると思うが、そこから何を感じて考えるかは、距離があると思う。それがふまじめさへつながると考える。
体験は動作や環境を同じようにすることはできるが、当事者の思考や感情を体験=トレースできるわけではない。課題に対して「モヤモヤ」を吐露する自由をどのように確保するのか。そういった部分で、当事者や専門家とは別の「バラバラ」な第三者性を考えている。共事は大きく拡張することの難しさに対して、小さな回路を増やしていくという試みだと私は感じている。拡張を目的として、関心があるべきだという理屈ではなく、個別の小さな関心を集める積み重ねは、時間がかかる。その時間的な猶予がないとされる現在の雰囲気が少し不安になってしまう。
1|能勢陽子 歴史のループから抜け出せるか──「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展後記
自分は展覧会にはうかがえておりませんが、会場を歩きながら綴られたかのような能勢さんの言葉で疑似体験出来た心地がします。
ビルマの竪琴は私も学生の時分に読みました。当時の私も、能勢さんが初めに読まれたような印象を抱き、水島の存在に善の塊への昇華を感じた記憶があります。
ただ、再読された能勢さんのビルマの地にまつわるものへの同化を忌避し、オリエンタリズムの記号として侍らせるような側面も指摘されてみると、確かにあの読書体験にあったように感じられました。
作者の無意識が拾い上げていたものが、水島と辻の作品を経て変化した能勢さんの視点により掘り起こされたのかもしれません。
伝統やルーツが固執により排他的なものになる向きは人間と切り離せない課題のように思えます。
それを虚構で軽やかに無化する。
能勢さんがそう表現するホーツー・ニェン作品に興味を覚えました。機会があれば体験したいです。
2|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉 贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(後篇)
寄生獣的組織の話は視聴した対話の中でも強く印象に残っています。
分化して揺れ幅のない細胞たちは、発現した機能のみに収斂していき、変化する外界への適応は著しく低下します。
一方で東さんの指摘通り、いつでも分化をほどける幹細胞たちは、いわば分化体験をリセットして万能細胞に戻るわけで、
その集合体には記憶が宿る要素はない。
記憶が断絶する。そこには同一性はなく、継続性は当然生まれない。
親と子の関係も確かにその通りで、我々は子という分化可能性を持って生まれる気がするが、
教育を受けて成長し、欲求を抱くようになり、いつの間にか某かに分化する。
分化した私たちは細胞と違って私たち自身として脱分化することはできないが、
新たに生まれてくるこどもたちとのコミュニケーションを通じて、組織としての脱分化は経験する。
幹細胞はそれ自体がリセットされるけれど、人間は一度分化したら自分はリセット出来ない。
ここに記憶を持った寄生獣組織のヒントがあるのではないでしょうか?
そして、記憶をリセットしないで引き受けることは、同号に掲載のさやわかさんの話にも通じる気がします。
4|さやわか 愛について──符合の現代文化論 第13回 スパイダーマンにとって責任とは何か
というわけで順番は前後しますが、さやわかさんのお話です。
私たちは上手くいかなかった過去は時間と共に風化させ、
願わくばなかったことに出来ないかと夢想しもんどり打つことが多いと思います。
なかったことにしたい。
そう思ったことのないひとなどいないのではないでしょうか?
マルチバースはともするとそうした自己同一性の根源を自己否定しかねない鬱屈とした感情を、
健康的な形で解消する機会をくれているのではないでしょうか?
暴力に身を任せたトビーマグワイアが暴走を止める。ヒロインを失ったアンドリューガーフィールドがヒロインを救う。
さわやかさんがいうとおり、彼らは自分の失敗をリセットするのではなく、それをしっかりと受け止めて、それを経験した自分だからこその行動として昇華できたのだと思います。
これはマルチバースが強烈に引きつけた特異な世界観だからこそきれいに形になったものではありますが、
もっと無様な形になってもこういう形で自分の過去を引き受けていかなきゃならないんだと強く示された気もします。
符号を書き換える。
それは確かに符号を一旦引き受けて我が物にしないと出来ない一歩なのでしょう。
過去は変えられないけれど、変わらない過去がしっかりと自分の中に溶けているから、好転させる一手が打てるんだ。
そう前向きな希望をもらえた気がします。
3|松山洋平 イスラームななめ読み 第7回 田舎者のサイバー・ジハード
ISに集まる若者たち。
自爆テロで命をあっさり散らして、多くの犠牲を生む若者たち。
彼らは今も生まれているのかもしれませんが、その前日譚のような不気味な論考でした。
誰と戦うのか?何に対して戦うのか?それすらもわからないまま、ジハードにコミットしていく若者たち。
しかも、きっかけは実体もはっきりしない、扇状装置の様な映像に背中を押されて始まってしまう。
最後まで、彼がジハードに進みたいと思った動機が見えてこないのが、非常に不気味でした。
そして、個人的には最後の引用も上手く理解できず、そこもことさら不気味の奥行きを増したように思います。
5|小松理虔 当事者から共事者へ 第18回 共事と取材
距離感。先日の総会で石戸さんが提起された話とリンクしますね。
縦の関係で埋もれる声から、共時的取材という形が求められ、本稿ではその具体的な形も語られています。
信頼なき関係では、取材者は信頼なさから対象に委ねられず、操作的にそこから情報を吸い上げようとする。
そこには対象の意図はなく、あくまで取材者のほしいものばかりが吸い上げられる。
当然偶然性も生まれない。
取材前からおぼろげに輪郭を持っていたものが肉付けされるだけ。
こうした形から脱け出すための半取材。
ただ、対象と時間を過ごして、勝手にただよった言葉を拾う。
偶然性に委ねたそれは時間もかかるし、予想だにしない言葉を抱えることになる。
この半取材は小川さんと比嘉さんの対話で語られた人類学者のフィールドワークとうり二つだと思います。
当事者ではない誰かが、誰かの声に耳を傾けるには、こうした方法が不可欠なのかも知れません。
ままならなさをポジティブに捉える。
何かを見失ったと気づいたときに立ち返りたい言葉です。
ありがとうございました。