2022年6月24日[金]発行
1|呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤 いまこそ「史論家」が必要だ──百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇)
共同研究を行なってもすれ違ってしまう日中韓の歴史認識。歴史教育と研究のちがい、中間層を取りこむための歴史記述──歴史を取りまく現在形の問題を縦横無尽に論じる濃密な鼎談です。
2|豊田有 ひろがりアジア 第10回 ベニガオザルの社会から考える「平和」
タイで霊長類学研究を行う豊田さんは、サルの社会にも専制主義のものと平等主義のものがあるといいます。それぞれの社会のかたちと、そこでのサルの争いと仲直りをとおして、人間社会の平和を考えます。
3|安藤礼二 シャーマニズム、連帯にして抵抗の原理──島村一平『憑依と抵抗』評
現代モンゴルで増え続けるシャーマンを論じた、島村一平『憑依と抵抗』の書評。安藤さんは、折口信夫や井筒俊彦、出口王仁三郎を経由しながら、「韻を踏む身体技法」である憑依=言語に根源的な可能性を見出します。
4|亀山隆彦 シラスと私 第2回 「心術練磨の工夫」の場へ──上七軒文庫チャンネル in シラスの理念
なぜ亀山さんは人文学の私塾を始めたのか? 公的な機関のほかに、多様な教育と研究の場があった江戸時代をヒントに、人文学の危機を乗り越える方法を語ります。チャンネル開設者が語るシラス、第二弾です。
5|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第13回 手放すこと──5月10日から6月23日
アーティストの出自や感情から切り離されて、論理で成立するはずのコンセプチュアル・アート。「ミニマル/コンセプチュアル」展で感じた人間くささから、何度もできごとを語り直すことの大切さ、いくつもの物語が共存する豊かさを論じます。
表紙写真:オナガザル科マカク属ベニガオザルのオスがあくびをしているところ。ベニガオザルの社会において、あくびは、オスが犬歯を他の個体に見せつけるる機能があるのではないかといわれている。今号掲載の豊田有氏の論考では、ベニガオザルのさまざまな和解行動から、人間社会における「平和」の維持について考えている。撮影=豊田有
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1.いまこそ「史論家」が必要だ――百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇) 呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤
鼎談のタイトルにある「史論家」は耳慣れなく、評論家と換言してみても歴史の評論というとしっくりこない。これも私が資本主義と社会主義、保守と革新などの二項対立でどちらかの立場で語らないと信念がなく信用ならないとどこかで思い込んで罠に嵌ってしまっているからかもしれない。
また、教育における歴史と研究における歴史が別物だと言い切ることは極端ではあるが、正史をめぐる争いが続く中で無数の研究成果を開陳して教育になるわけがなく、その際は何処かで「正史的なもの」を編纂し、例えば徳川家康はズル賢いとか織田信長は珍し物好きだが怖いとかキャラ化して表現する必要も出てくる。
歴史修正主義は政治に悪用されると厄介だし、度々負のイメージとして現れる。しかし全体を俯瞰して筋道を付けて物語るという仕事に活用できるとしたら一概に否定し得ない。
何より、亜インテリや境界人を受け入れる寛容さこそ大学や研究だけではなくワンフレーズポリティクスに侵されつつある「一般」に歴史という学べば途方もなく感じる分野に関わりやすくなるのだと思う。
2.ひろがりアジア 第10回 ベニガオザルの社会から考える「平和」 豊田有
“本来、攻撃性そのものには、善と悪の区別はありません。”この言葉は淡々と綴られる文章のなかでも衝撃的な言葉であった。
普段は国家や会社組織などにおいて上下関係のような攻撃性が駆動し暴力とは違った形で利害調整や調停がなされる事で「守られている」という感覚は感じづらい。
特に専制主義のアカゲザルの群れでは身分や階級が固定化した極めて政治的な攻撃性により結果として個体が組織の中で守られるという複雑な回路が駆動し実現されているというのも面白い。
また、平等主義のベニガオザルの群れでは争いが多い分、個体間の謝罪や緩衝材としての子という暴力の停止装置が発達して機能しているという、アカゲザルと違った社会性の分岐がなされている点には驚かされるといったらみくびり過ぎだろうか。
3.シャーマニズム、連帯にして抵抗の原理――島村一平『憑依と抵抗』評 安藤礼二
主体と客体が共鳴し混淆し見分けがつかなくなった同一化した身体から発せられる「憑依する言語」というイメージが湧き、とても魅力的な文章だった。
同時に社会性や歴史性、政治性を包摂した憑依する言語・表現する言語の代表として石牟礼道子さんの『苦海浄土』を想起した。水銀汚染による環境問題や貧富の格差を扱っており、奇しくもモンゴルの現状や島村一平さんの問題意識と通ずるのは何かの因果か。
4.シラスと私 第2回 「心術練磨の工夫」の場へ――上七軒文庫チャンネル in シラスの理念 亀山隆彦
人文学の意味や大学での文系学部の存在理由そのものに疑問が呈されてきている今、上七軒文庫の活動が果たす役割には期待が高まる。
人文学界・リベラルは新型コロナウィルス問題において歴史や討論により示唆を与えられなかったどころか、隔離や社会的規制に狂奔する有様だ。
日本における大学制度は歴史的にも経済や企業体の振興に接続されていることから、そこから離れて素読・講釈・会読の3つのシンプルな過程で熟議を通して学びを深める人文学の基本に立ち返らせてくれる方法は最早、私塾でなければなし得ないのかもしれない。
5.日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第13回 手放すこと――5月10日から6月23日 田中功起
『ケアのロジック』にある印象的な一文である “よい議論は一義的だが、よい物語はさまざまな解釈の余地を残す。” という箇所を掘り下げた田中功起さんの展開には納得させられる。
共感や矛盾やいらだちは何かを研究的に「観察」する時には排除すべき感情として捉えられてしまうし、時には「感情的」と批判されてしまうこともある。そして現実の社会で生活していくためには淡々とノイズを排してサクサクと目の前の問題をクリアしていく必要があるのも確かだ。
そこで共感・矛盾・いらだちという撹乱する感情で物語を紡ぎ、更に空間を撹乱する事で余白を作り、そこに他者が立ちはだかるような、深く思考し内なる他者と対話するタイミングがむしろ豊かな生活につながるのでは、と抽象的ながら想像した。
ひろがりアジア 第10回
ベニガオザルの社会から考える「平和」 を読んで。
私には3人の息子と1人の娘がいるのですが、「子どもという平和維持装置」というフレーズに強い共感を覚えました。仮に私が夫婦喧嘩していても、子どもの前では何となく停戦?状態になって、知らないうちに沈静化していくことが多いような気がするし、また、それは年齢的にある程度小さい子どもであることも重要な気もします。
子どもと向き合っている時、その子がこれから歩むであろう未来の時間をかなり具体的に想像している自分がいます。ベニガオザルが子どもを撫でている時、何を思っているのかは分かりませんが、過去や今瞬間だけでなく、未来について具体的に想像するということが、記憶を継承していくヒトにとっての平和に繋がる大切なものの一つなのかもしれないと感じました。
1. 呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤 いまこそ「史論家」が必要だ――百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇)
本イベントレポートだけでなく、6月のイベントも楽しく視聴しました。歴史に誘おうとする呉座さん、辻田さんと歴史学に絶望している與那覇さんの行きつ戻りつのやりとりが面白かったです。この時期にこのラインナップのレポートを読んでいると、シラスのゴタゴタを思い浮かべてしまいました。呉座さんの国家を背負わず、飲み会での議論だったら、日中・日韓も歴史の合意ができただろうという発言でさえも色々と考えてしまいました。
視聴者のひとりとしては、シラスで飲み会ノリの配信があろうが、別に見る/見ないは、視聴者側の自由だと思うので、強い関心がある訳ではありません。アルコールを飲みながら長い時間をかけて対話するという特色は、分野を超えた発見がしやすくなる環境作りの方法のひとつだと思います。各々が背負っているものを少しずつ下ろしながら、共通項を見つけたり、深く掘り下げたりすることができます。奇しくも歴史の話をしていると同時に、シラスのあり方にもつながる話だとも思って読んでいました。
座談会文化や亜インテリの話は、シラス設立の動機に含まれているものだと思います。講義回、対話回、突発回、それぞれの回をシラサーの方が信念を持って配信しているのだと思います。もちろん毎回そのような配信を期待することに過剰だとは思いますが、長時間やっても足りないと思えるくらいの配信があることを知らないと興味関心を持たれないでしょう。この座組みもそのような魅力的なコンテンツとして、続けてほしいと思います。6月のイベントは、書籍紹介でしたが、歴史にまつわるマンガや映画のようなエンタメの紹介も楽しみにしています。
2. 豊田有 ひろがりアジア 第10回 ベニガオザルの社会から考える「平和」
ベニガオザルを通して平和を考えるというこの論考を非常に興味深く読んだ。人間社会は複雑だが、他の霊長類の行動を観察すると、その複雑さを制限した事例として、参照できると思う。平和といえば、「戦争や紛争にない状態」が思い浮かぶのはその通りだと思う。何かがない状態で定義すると、何があることが平和なのか分からない。本稿はそれを考えるきっかけのひとつになるだろう。
生物である以上、「生き残る」ことが重要である。アカゲザルの専制主義とベニガオザルの平等主義の比較は非常に示唆的であると思った。生き残るためには、安全な状態を維持できることが必要だ。アカゲザルの階級制によって、集団の秩序を維持することは生存を達成するひとつの機能であろう。対して、ベニガオザルの平等主義の反撃可能性は、一見、現代の平等とは違うようだが、人間社会であれば、刑罰で代替されている。
生き残りを考えると、戦闘をエスカレートさせることは避けた方がよい。その点で「和解行動」は必然だと思うし、重要である。SNSにおける炎上が、悲劇的な結末を迎えることがあるのは、そのエスカレーションを抑止することができなかった側面もあるだろう。「ただ事ならぬ結末」にならなければ、気づくことができないという点では、ヒトも何らかの限界があるように思える。
「許容性」の話も、ひとつの希望であるとともに、無視や無関心と裏表だろう。大井昌和×大山顕×和田唯奈のイベントで、視線のグルーミング仮説についての話があった。視覚的なアイコンタクトが触覚的なグルーミングの代替になっているという仮説のようだ。許容という言葉は、心のキャパシティにつながるようにも思えるが、視線を向ける・外すという具体的な行動の影響も多分に含まれていると思う。ヒトが巨大な社会を営んでいる事実をもって、それができるという考えもあるが、この社会をどうして維持できたのか考えることも、これから重要な課題であろう。
子どもの役割についても、「平和」維持装置というのは、一側面でしかないだろう。最近、『モガディッシュ 脱出までの14日間』という映画を観た。ソマリア内戦における韓国、北朝鮮の大使にまつわる物語である。その中で、子どもが調停のきっかけになることもあれば、無邪気な攻撃性を象徴することもある。そのときの状況や立場によって、ヒトの多面性の中の一側面が強調される。共感を覚えることもあれば、恐怖を感じることもある。その複雑さを軽視することはできないと感じた。
「サルのフリ見てヒトのフリ直す」こともひとつの知恵だろう。それと同時に、様々なヒトのフリを見るために、本や映画やマンガ、その他、多くの文化表現を観ること・観ようとすることも大切ではないかと考えている。現実に直接関係ないことであっても、それぞれ感じること・考えることはある。そこから現実の問題につながる回路も見つかるかもしれない。その豊かさも大切な知恵につながるのではないだろうか。
3. 安藤礼二 シャーマニズム、連帯にして抵抗の原理――島村一平『憑依と抵抗』評
本書評と同時に、島村一平×東畑開人×上田洋子のイベントも楽しく視聴しました。6時間という長丁場の中、シャーマンについて語るという稀有なイベントで、東畑さんのテンションが高かったのが、印象的でした。島村さんが語った「伝統的に伝統を創造する伝統をもっている」というシャーマンの魅力を十二分に知ることができるよいイベントでした。
私がシャーマンと聞いて思い浮かべるのは、いわゆる降霊です。目の前で不思議な現象が起きているという視覚的な側面と、発せされた言葉から必要な意味を付与する精神的な側面は、物語としてもよく見かけることです。「韻」という表現は、聴覚に着目したものです。人は他人から様々な影響を受けると思いますが、口癖というのはそのひとつかなと思いました。ヒップホップや歌、お経などにも通じるものがあると思います。憑依まではいかなくても、小さな影響を受け取っている証として、口癖や口調がコミュニティのノリを維持することがあります。
発話で伝えることの特性として、即応性もあると思います。応答してもらうことによって、相手の存在が確かになるのではなく、自分自身の存在を確認できるのだと思います。コミュニティへ所属するだけでは、匿名的な存在になってしまう可能性もあります。応答があることによって、個人として認識してもらうことができます。本評では、国家神道の抵抗が、新興宗教へとつながっています。現代のSNSで「いいね」を求める様は、テクノロジーによって、いかに個を認知してもらうかを競っているように見えます。「憑依」というのは不可思議で遠いものだと思っていましたが、「ヒップホップ」のような身近なものにも宿りうるのだとすると、いち表現の形態として、もっと掘り下げることができるのかもしれません。
海猫沢めろん×佐藤大×さやわかのゲーム実況がシャーマンの在り方につながっていると思いました。自身がゲームをプレイすることで物語に没入するのではなく、ゲームの実況者ごとに別の物語が展開され、それを視聴するという話でした。オーディエンスは、それぞれの物語を受容しています。インターフェイスとしてのゲーム実況者がシャーマンと類似しているように思えました。ゲームクリエーターによる一神教ではなく、ゲーム実況による多宗教。文化の成立は、宗教的な構造を帯びてしまうのかもしれません。
4. 亀山隆彦 シラスと私 第2回 「心術練磨の工夫」の場へ――上七軒文庫チャンネル in シラスの理念
シラスのチャンネルもいつの間にか40チャンネルとなり、すべてのチャンネルを観ることも難しくなってしまった。深夜のリアルタイム視聴もあまりしないので、ザッピング機能を使用することも少ない。ゲンロンβでシラスの各チャンネルの紹介は大変ありがたい企画である。
今回の亀山さんの文章を読んでいるうちに、自分の読書遍歴を思い出していた。学生の頃は、ほとんど読書をしていなかった。たまにラノベを読む程度だった。就職後しばらくしてから、勉強のためにビジネス書を読むようになった。有名な著作や「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のブームの影響もあったように思う。ただ、ある程度の量のビジネス書を読んでいくと、テンプレート的な内容が目につくようになり、別のジャンルの書籍を探すようになった。その中で出会ったのがゲンロンである。
自分の実感から考えると、若いうちは実学に傾倒することも必要だと思う。そのときはビジネス書との出会いに「これだ」と思うことも、もっともだろう。後に「これじゃない」と思ったときに、何に出会えるかも人それぞれだろう。私はたまたまゲンロンと出会った。そのおかけで、多くの文化的なものに触れることができたし、これからも触れようと思っている。
ゲンロンやシラスが今後どうなっていくかわからないが、観客がフラッと訪れることができる開放性と、学びの自由さを楽しめる閉鎖性のバランスを模索し続けるプラットフォームであることを願っている。亀山さんへの感想を書こうと思っていたのだが、自分語りになってしまった。大学に関わる時期は限定的である。社会に出てからの方が圧倒的に人生は長い。亀山さんのチャンネルをはじめ、人文的な内容を面白く学べる場があることは、大切なことのひとつであると思う。
5. 田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第13回 手放すこと――5月10日から6月23日
観客が展示空間を自由に移動できることで、複数の物語が生まれる。なるほど、と思うと同時に、SNSをある種の空間だとすると、自由さが物語の豊饒さにつながるのだろうかという疑問もわく。共感や苛立ちを可視化することで、複雑さを維持することができず、単純な図式に落とし込まれてしまうのかもしれない。「手放す」ことの能動性は、生きる上で大切なことのように思える。私のイメージとしては、「諦め」と表裏のように思え、できないことを「引き受ける」という能動性につなげて考えてしまう。能動/受動とはっきり区別できるものではないだろう。
アネマリー・モルの能動的な患者に対する著述は、考えさせる内容である。能動的な患者は、活動的でありながら、みずからの苦しみに観念するという指摘は、非常に鋭いと思う。続くコントロールについての記載も大切なことだ。活動的な人に対するイメージは様々かもしれないが、私が思うにバイタリティーに溢れる様は、裏の苦しみを他者に想像させにくく、人によっては反感を持つかもしれない。コロナ禍や戦争を経て、秩序=コントロールを強く志向してしまう中で、その反感は大きくなり、ギスギスした空気を醸成してしまうかもしれない。
1|呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤 いまこそ「史論家」が必要だ──百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇)
皆が納得する実証など存在しない。そして、歴史から作る物語は多様にある。それにつきるのかも知れません。
そして、そうした多様な物語を認める観点に立たないと対話が成り立たない。しかし、その対話に持ち込むにしても、国としての物語がある程度形成されていないと難しい。
対話の席に着けない問題は多くの国家間で生じていると思いますが、確かに日本においてはナショナルヒストリーの基盤の崩壊も顕著であり、より困難な状況なのかもしれません。
もちろんナショナルヒストリーもただの物語のひとつの在りように過ぎないという留保は必要でしょう。
ただ、そうした留保の共有の上に、それなりにまずまず多くの人が許容できるナショナルヒストリーも成立可能だとは思います。
いかにこのまずまず多くの人が共有できるナショナルヒストリーをつくるのか?
この大前提の問いを考える上で、専門家の非専門家へのスタンスの問題が深く根ざしているというのはとても共感いたしました。本来なら、ナショナルヒストリーに関する対話の主軸として活躍すべき専門家が、非専門家をその専門性のなさから対話の対象としていない現状は深刻な分断と物語の分裂劣化を招いているに違いありません。
こうした態度の傍証として提示された、本来はその窓口だった新書まで、専門家の専門性の顕示に成り果てつつあるという現実は現在進行形で負の方向へ進んでいるように思えて仕方在りません。
結局専門家たちが自分たちしか持ち得ない唯一の真理を信仰し(こんなものはなく、狭い視野に依拠したものだと思いますが)、それ以外を排斥するのがむしろ自分たちの科せられた責務なんだというおかしな権威主義がはびこることで、亜インテリは亜インテリでわかりやすく自分たちに歩み寄るこれまた信仰めいたものに吸い寄せられてしまい、他の排斥に勤しんでしまっているのかも知れません。
かといって、皆さんがおっしゃるとおり、こうした思考を固めている方々にこうした負の連鎖の現実を突きつけようが届かないというのも真実だと思います。
まだガチガチに信仰が固まっていない人に、唯一の物語を御旗に他者を攻撃する不毛さを考えてもらうしかないのかも知れません。
またこのスタンスを示すためにも、ガチガチなひとの排斥行為に対峙するにあたっては、やんわりと冷静に、粛々と対応していくしかないのかも知れません。
人間だから攻撃性の高いレスポンスには傷つけられるし、怒りすら反射的に湧いてしまうものだとは思います。従って、この過程はまさに苦行と言わざるを得ないですが…
こうした苦行を減らすためにも、
『長く喋るのも大事ですね。短い言葉に無理やり意味を込めてしまったり、逆にそこを切り取られたりすると、真意が伝わらない』という呉座さんの締めの言葉を肝に銘じるのがいいのかもしれません。
2|豊田有 ひろがりアジア 第10回 ベニガオザルの社会から考える「平和」
サルが種によってこんなにも社会性が異なるとは…知らなかったです。
自分はいかなる形でも優劣の線が引かれ、その効能に寄りかかって争いを回避するアカゲザル的世界は望みません。
そうした世界は今の世にもあるし、実際それで生きているひともいるわけでそのひとたちの存在を否定するような気は更々ないですが、やはり知をもって考えるにそれは許容しがたいように思います。
なので、ベニガオザル的世界に自然と関心が行くわけですが、平等性故に決して平和とは言い難い社会という側面は優劣の線引きへの忌避感故に見落としがちな点だったかもしれません。
確かに異なる個体間の完全な平等なんて存在しないし、人間のそれぞれが持つものが全然平等じゃないのは自明であり、嫉妬や怒りなどの負の感情は避けられないものだと思います。そして、平等を目指す故にその負に傾いた感情は優劣の境で分断されず、ぶつからざるを得ないのでしょう。
そう考えると、ベニガオザルのような争いを終息させる技術はとても重要な気がします。
あえて自分の弱いところを晒し、争いを止めたいという意志を示す。
子どもという共通した未来の存在を思い出し、正の感情で関係を結び直す。
なるほど、我々も避けられぬ攻撃性を受けたり、放ってしまったりした場合はそうした和解の方法を探るべきなのでしょう。
そして、サルと違って言語を持つ私たち故に記憶に基づいた負の連鎖を作るというのは裏返したら正の連鎖も作れるはずで、負の連鎖を人間らしい正の連鎖で断ち切る技術を身につけるべきなのかも知れません(残念ながら今のところ上手くいっていませんが)。
また許容性の高さという特徴もサルとの比較で浮かび上がってくる人間らしい攻撃性への秘策の鍵かもしれません。
こうした人間だからこその秘策はやはりサルとか他の生物との比較によって自覚され得るものなわけで、この点、比較の視点を持ち得る豊田さんの思考はとても重要なのではないでしょうか。
3|安藤礼二 シャーマニズム、連帯にして抵抗の原理──島村一平『憑依と抵抗』評
憑依が意識的に操作できない言語を自動的に語らしめるテクノロジーであり、その起動装置として韻を踏む。
先日の島村さん、東畑さん、上田さんの回でもまさにラッパーに言葉が降りてくる現象として語られていた印象深い点です。
人間の意識的な言葉は、私たちを通って出される言葉であるのに対し、韻を踏むことで強制的に無意識から掘り起こされる言葉は私たちのフィルターを通らない剥き出しの言葉だと思う。
その言葉たちはあくまで私という場所の溶け込んできた言葉のDatabaseから排出されたものであり、ある種外を混ぜ込んだ言葉たちなんだろう。
この私という場所に外を混ぜ込むというのは個の枠を越えて行けばまさにブリコラージュとなるわけで、憑依の回路を有したモンゴルがブリコラージュの場となるのは至極当然なのかもしれません。
正直最終項の井筒と折口を中心とした展開は私の知識不足故に消化仕切れない部分もまだ多いのですが、とても刺激的です。
井筒の言語と呪術の記述は島村さんの韻への依拠と同様のスタンスであり、底にこそ言語の根源があるというのは意味深いことだと思う。多言語を操った井筒という存在の場は実に広大なDatabaseが広がっていたことは間違いないわけで、そんな存在から引き出される憑依の言語はどんなものだったんだろうか?
個人的にはこの個を越える憑依の言語があって文学、宗教、哲学が始まるというのは狭い視野に陥らないためにも常に頭の片隅に置くべきことに思えます。
4|亀山隆彦 シラスと私 第2回 「心術練磨の工夫」の場へ──上七軒文庫チャンネル in シラスの理念
深淵で、難しく、困難な問い、課題こそ時間や労力がかかるのは自明だと思います。
短期的な実用性に特化した教育というのはこうした本来注力して立ち向かわなければ何の成果も生まれない課題を放棄するわけで、非常にまずい流れだと思います。
そして、そうした流れに合わせて取り組む対象を変えるのではなく、公の外に出てそれを探求する場を作る。非常に大切な試みだと思います。
また、会読というゼミ形式の学習の様な相互コミュニケーションを基盤とした学習が江戸時代にすでに行われていたのは知りませんでした。異なる解釈、読解を知り、己の独断や偏見を窘める。自分もこうした学習で実際に実感したことであり、個では到達できない場所に誘う強力な学習方法だと考えます。
個人的には現状の大学の内が専門性を振り回して非常に排他的になっている様に感じられており、江戸時代の藩校と私塾が互いに認め合い、交流できていたのが不思議でなりません。何か今とは違う回路があったのでしょうか?とても興味が湧きました。
5|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第13回 手放すこと──5月10日から6月23日
コンセプチュアル・アートの裏側にある、作家性が、人間性がにじみ出ている部分を意図的に晒す。とても面白い試みですね。
いかに洗練されて提示されたコンセプトもその裏には人間がいて、当然ながら人間はコンセプトで固定されず揺れ動いている。
結局世界に純然と存在しているように思えるコンセプトはある種の切り取りによって演出されている。
同様にして、ある問題に関する唯一の解答なんてものは、やはり、ある種の視点の切り取りで演出されているものである。実際のところは、そのトリミングされた外に、白とも黒とも言えないグラデーションが広がっているのだろう。
この仕組みを考えるに、私たちが1人で考え込んで能動的に思考を離さなければ、問題は狭くトリミングされ、時にこのグラデーションは失われてしまうと思う。
この視野狭窄を避けるために、私たちは私たちがのぞけない部分を手放して、ただ放ったままにするのではなく、誰かに代わりに見てもらうしかないんだろう。
更に、代わりに見てもらっておしまいではなく、責任をもって、手渡した誰かに、何が見えたのか聞かないといけない。
そうして知らなかった表情を教えてもらったら、それを踏まえてまた問題を覗き込まないといけない。
きっと、少しトリミングが外れて、新しいものが見えるはずだ。
田中さんがおっしゃるとおり、こうした受動と能動が一義的に留まらず揺れ動く姿勢が組み込まれたなら、私たちは1つの問題を白か黒かで決めつけて諦めることなく、持続的関心を持って見続けることが出来るかも知れない。
滑り台を滑りつづけることをやめて自転車に乗り込む女の子の姿。
時間の制約によって受動的に諦めたのではなく、また他の楽しい時間を探しに能動的に彼女は滑り台をあとにしたんだろう。電動自転車の後ろに乗って、彼女は諦めずにむしろ前に進み出している。
田中さんの託した物語とは重ならないかも知れないが、読み終えた後、私はそんな物語を想像していた。
全体を通して
1つではない物語、そしてそれが宿る他者との対峙。
それをすべての論考を通じて考えさせられました。
現実は、異なる物語をもつ他者を尊重することがいかに難しいか、対等に対話するが故に生まれる攻撃性の扱いがどんなに難しいか、いろんな形で示してしまっていると思います。
ただ、いずれの論考にもこうした課題に対する糸口のようなものの気配を感じます。この糸口をたぐり寄せ、自分なりに考えてみたいと思います。
ありがとうございました。
1|呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤 いまこそ「史論家」が必要だ──百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇)
私自身、新しい歴史教科書をつくる会が立ち上がった時に、ちょうど学生だった時で、小林よりのりのゴーマニズム宣言にも大きく影響を受けており、その主義主張に傾倒していました。古事記の神話から歴史を始めようと言う主張もいいのではないかと思った記憶があります。その後、つくる会も分裂して、私自身も興味を失ってしまったのですが、それから嫌韓流などが出てきて、更に右傾化した史論家がでてきたなあと感じていたことを記憶しています。その流れの中で出てきたのが、百田尚樹の『日本国記』にあたるのでしょうか。気軽に読めて、ナショナリズムも高揚させてくれるような歴史書があれば、ついつい手に取ってしまいたくなるものでしょう。そういったところで、前編でも語られていましたが、百田尚樹本に対して、ファクトチェックするだけではだめで、いかに百田尚樹に読者を持っていかれないように、歴史家がよりよいナショナルヒストリーを読者に提供できるのかが大事なのかなと思いました。