2022年7月31日[日]発行
1|本田晃子 フェイクVS.フィクション──『ドンバス』が描く寓話
セルゲイ・ロズニツァ監督がウクライナ東部のロシア軍占領地域を描いた映画『ドンバス』。フェイク・ニュースの撮影風景から始まる同作での虚構と現実の関係を、グロテスクや不条理といった要素にも注目しながら論じます。
2|さやわか 愛について──符合の現代文化論 番外編 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評
国立新美術館で開催中の「ゲルハルト・リヒター展」。90歳をむかえたリヒターのキャリアの総決算ともいえる展覧会ですが、さやわかさんは歴史よりもむしろ現代性を感じたといいます。リヒターを読みとくことで、現代のメディア環境をあぶりだします。
3|村山久美子 つながりロシア 第20回 ロシア・バレエ~ソ連時代から現在までの歩み
古典バレエの王国ともいわれるロシアですが、20世紀以降もさまざまな実験が行われてきました。アヴァンギャルドから反動、雪解けと、時代の荒波のなかで創造されてきたロシア・バレエに村山さんが光を当てます。
4|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第6回 2022年のベルリンと鷗外(前篇)
作家個人への関心から距離をおいた文学研究である都市論。その格好の題材になってきたのが森鴎外の作品です。没後100年をむかえた森鴎外とコロナ禍を乗りこえたベルリンの森鴎外記念館を描いたエッセイ。
5|プラープダー・ユン ベースメント・ムーン 第6回
ネットワークから切り離された孤独が最高の贅沢だという2069年のタイ。任務のため、タイのホテルに滞在する虚人ヤーニンと、彼女にインストールされた写識ムル。二人の意識と記憶が交差する、連載小説第6話。
表紙写真:ゲンロンからの新刊2冊の書影。星野博美著『世界は五反田から始まった』とユク・ホイ著『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(伊勢康平訳)。前者は五反田のいち家族の物語を通じて東京の歴史のあらたな一面を照らし出すエッセイ。後者は中国という「地域性」を起点に新しい世界史への糸口を開く学術書。ジャンルや内容こそ違えど、どちらもローカルなものやミクロなものが開く豊かな回路に気づかせてくれる。撮影=編集部
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“愛について──符合の現代文化論 番外編
意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評”
を読んで。
絵なのか写真なのか、今自分が見ているのは一体何なのか。明確に判別できないものと対峙すると、意識が自分の内側に向かいだす感覚があります。私はまだ展覧会に行けていない!!のですが、「ビルケナウ」の展示方法を想像すると、そこでの体験は「写真」「絵画」「コピー」といった多様に状態の移ろう作品に囲まれながら、自分と向き合うような経験なのかなと想像しました。リヒターの作品を見ているのか、自分と向き合っているのか。
作品の意味はそれを見る人の中(見る人自身がどう感じるのか)にしかないのかもしれなくて、もしそうなのであれば、鑑賞者自身が何を感じているのかを自ら顧みるように仕向けることこそが、彼の作品の意図の一つなのかもしれないと感じました。展覧会にすごく行きたくなるテキストでした!
1.【特別掲載】フェイクVS.フィクション――『ドンバス』が描く寓話 本田晃子
「ドンバス」で描かれる、フェイクニュースの制作スタッフが後に殺害され「撮影する主体」から「撮影される客体」へと正に暴力的に転化させられる描写に戦慄する。
真/偽の裏に生/死の対立が背中合わせに接している想像が掻き立てられる。
フェイクの後ろ盾が死というリアルと直結するのであればこれほど笑えない冗談は無い。
2.愛について──符合の現代文化論 番外編 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評 さやわか
ゲルハルト・リヒターが用いたゾンダーコマンドが撮影した写真を画像検索してみると検索結果には凄惨な画像が表示される。しかしどうだろうか。アウシュビッツという強烈なワードが付与されてこそこの写真に意味付けされるのであれば、それを知らなければ単なる「ネットのグロ画像」になってしまうかもしれない。
「ビルケナウ」で描かれる陰鬱なノイズの様な不鮮明な作品が、対峙する写真やアウシュビッツを冠して符号の暴力を受け入れた時に初めて鑑賞者に図像として複製が生産される語り方は、悲劇から77年を経て物語る一つの方法なのだろう。
3.つながりロシア 第20回 ロシア・バレエ──ソ連時代から現在までの歩み 村山久美子
政権が変わりダイナミックに揺れる政策に翻弄される芸術表現はバレエにも及び、脱伝統を旗印に前衛的な内容や表現の開発を余儀なくされる。そこから踊りの基礎であるトレーニング・メソッド「タフィヤトレナージュ」も同時に編み出されたという出来事には納得と驚きを感じた。
そこには労働者と結びつく「機械」がコンセプトとなっており、怪我の功名と言って良いのかはわからないが、ソ連におけるバレエの伝統の生存を賭けた試行錯誤が窺い知れて感動的な印象を受けた。
4.記憶とバーチャルのベルリン 第6回 2022年のベルリンと鴎外(前篇) 河野至恩
原文は難読であると聞き、手に取るのに躊躇していた森鴎外の著作や翻訳だが、都市論として読み解く方法があるのを知り興味が湧いた。
当時の洋行といえば岩倉使節団や堤康次郎まで国家の大事業を背負った人達が気勢に溢れロマンに満ち積極的に海外の文明を吸収しようとしていたことはよく知られる。森鴎外が残した功績により後世が足跡を辿って語り継がれる仕事をやってのけた事に感服せざるを得ない。
5.ベースメント・ムーン 第6回 プラープダー・ユン
「プライバシーは金よりも高価だ。」という一文と、富裕層でも広告から逃れられるのは僅かな時間しかないという一文にはハッとさせられた。動画サイトやSNSで富裕層になった人達もプラットフォームや広告からは逃れられず、常に排除を恐れ、ソーシャルなネットワークに接続される事を暗に強制される。
1. 本田晃子 フェイクVS.フィクション――『ドンバス』が描く寓話
「ドンバス」の公開は上田さんのツイートきっかけで知り、すぐに観に行ったと思う。フェイク・ニュースの撮影風景から始まり、フェイク・ニュースの出演者の殺害で終わるフィクションを強く印象づける構成だ。本作品はウクライナ侵攻を直接描いているわけではないが、実話をもとにしたエピソードの数々を観ていると、ウクライナの現在と重ねずにいられない。「ドンバス」はフィクションであるが、フェイク・ニュースも氾濫しており、非常にタイムリーな論考である。
「ドンバス」では、オープニングやエンディングでいわゆる舞台裏を見せている。スクリーンの向こう側にフィクションを構築する存在があることを示している。対して、フェイク・ニュースというのは、すべてが嘘ではなく、本物のニュースに少しの嘘を混ぜる。ニュースという体裁なので、映画のメイキングのように裏側を紹介することがない。映画を一緒に観て、感想を語り合うことはあるが、ニュースを一緒に見ることは少なくなったと思う。スマホによって、ニュースから各個人が必要な情報を得る。映画や舞台に期待することと、ニュースに期待することは違う。映画とニュースを見るときの環境や求めるものの違いが、フィクションとフェイクの与える影響の違いかもしれない。
本稿で初めて知った「見世物裁判」も非常に興味深いと思った。傍聴人と外国ジャーナリストが招かれた「公開裁判」だったようだ。その記録映像をもとにロゾニッツアが映画を撮っている。観劇が好きで、週末によく小劇場に行くのだが、コロナ禍初期の頃は、配信の場合があった。映像用に企画されたものではなく、固定カメラでまさに記録映像のような配信もあった。そのような配信を最後まで観ることは難しかった。映画のようなリッチな映像で、展開があれば、2〜3時間観ることができる。大きく展開できない舞台芸術は、法廷の様子に近いかもしれない。目の前でショーとして「公開」されることと、カメラを通して「記録」を見ることの差を実感した貴重な体験だと思う。
フェイク・ニュースが本物に混ざり込むように、日常にもSNSやWebニュースを膨大な情報を通して、フェイクや陰謀論が混ざり込んでいくだろう。ショーとして魅了されてしまうのではなく、スクリーン1枚を隔てた舞台裏を想像する距離感を保てるだろうか。
2. さやわか 愛について──符合の現代文化論 番外編 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評
平日の朝一にゲルハルト・リヒター展に訪れた。そこまで鑑賞者も多くなく、回遊性の高い展示会構成を楽しめた。本稿を読んで、この展示会とSNS空間との類似性に納得する一方、違いについても考えてしまう。やはり美術館で開催されている展示会である以上、ゾーニングがなされており、限定的な人たちが観に来ているのは間違いない。そして、並ぶ作品もあるコンセプトに貫かれている。SNSであれば、ここまで秩序立った空間を構成できないだろう。
ただ、SNSには別の秩序が生まれているように思える。そのひとつとして、SNSでネコ動画が氾濫するようになったことが挙げられる。SNS自体は無秩序で、混沌としているため、もっと多様な動画や画像があってもいいと思うが、結果、ネコ動画に収束してしまう。美術館で「ビルケナウ」のような芸術作品を目の当たりにすると、自然に作品の意味を考えてしまう。それ自体が展示空間へ足を運ぶことで得られる作用のひとつであると思う。SNSのネコ動画を見たときに考え込んでしまうことはなく、かわいいか、興味がないのいずれかだろう。無数の指先が作り出すSNS空間は、考える時間を省くことによって、数は膨大だが、画一的な表現に染まっていくのかもしれない。
3. 村山久美子 つながりロシア 第20回 ロシア・バレエーーソ連時代から現在までの歩み
バレエをライブで見たことはないが、身体芸術の完成形のひとつだと思う。バレエという言葉からクラシカルな印象を受けるが、本稿で述べられたように様々な取り組みがあって、現在の形があることは、当たり前のことかもしれない。2010年代の観光の時代は、人の往来と共に、文化の往来もあったはずだ。それぞれの土地で育まれた文化の多様性を思うと同時に、美しさや驚きを共有することができるかもしれないと思え、それが人類の基盤にありうるかもと思えた。バレエの歴史とロシアの成り立ちは不可分かもしれないが、国境と共に文化まで分断されてしまうのは、あまりにも惜しい。ただ、そこから新しい試みがあることを期待したい。
4. 河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第6回 2022年のベルリンと鷗外(前篇)
2022年は森鴎外の没後100年だそうだ。20世紀の前半といえば、戦争や疫病も含め、混沌とした時代だったように思う。そこから100年が経過しようとしている。「鴎外イヤー」のような記念年は、これからも続々とあるだろうが、どの時代の人まで、偉人として語り継がれるのだろうか。森鴎外という人物名を知っていても、本稿で周知とされていることは、ほとんど知らなかった。近年の人物を思い浮かべても、100年後、語り続けられる人はいなさそうだ。売らんかなの企画でも何でも、定期的な振り返りをしなければ、本当に忘却してしまう。
文学に明るくないので、読み方の動向など全く把握していない。「作家論」が後退し、「都市論」が大きな流れになっていることに、何となくフィクションの聖地巡礼につながるものを感じた。もちろん、「都市論」自体は、学術的な営みであるから、精緻な分析がされていると思う。とはいえ、究極的に「ベルリン」という都市で起こった出来事だということが、聖地巡礼に近い感動に与えるのかもしれない。
ベルリン森鴎外記念館の建物にある「鴎外」の文字は、非常に印象的だった。ベルリンの街を歩きながら、この文字を目にしたら、本当に感動するだろう。ゲンロンβで知らなければ、海外に日本文学者の記念施設があること自体、想像できないことだろう。アニメや漫画のようなコンテンツが消費されていく一方で、施設を日本研究の拠点として、持続できるように尽力している海外の人たちがいることは、知れてよかったし、とても励みになる。次回に掲載されるであろう河野さんのベルリン講演も楽しみにしている。
5. プラープダー・ユン ベースメント・ムーン 第6回
前回の掲載からだいぶ間が空いている気がするので、話のつながりは追えていない。通読は、単行本が出版されるときまで楽しみに待つとしたい。テクノロジーとしてはだいぶ進んだ世界ではあるが、国の統治や意識内会話は、現在でもアクチュアルなトピックである。「自由」と「静寂」が古びた概念になるとは思わないが、国と個人が直接結びつこうとしている現在では、高価な概念になってしまうかもしれない。民主主義国家において、国民が自分を統治するという建前があるものの、統治者は外部にあり、その適正な管理のもと、「推定自由」で生きていきたいという人々が大半なのかもしれない。
1|本田晃子 フェイクVS.フィクション──『ドンバス』が描く寓話
見世物裁判において虚構の罪を演出されて閉じられる生。
『ドンバス』で証拠隠滅のために閉じられ、その後も新たな虚構で彩られる生。
雑なフェイクが無慈悲な力で乱暴に現実の中に放りこまれていく。
仮に上から強く押さえ込まれていようが、それらはある世界では真実としてまかり通るようになる。
その雑なフェイクにまつわるグロテスクさを描いたフィクションが、滑稽に移らず、然もありなんと現実に肉薄してしまう。
この世界の悲しみはそこに映っているのかもしれない。
根も葉もない嘘が現実に誰かの物語を閉じていく。
2|さやわか 愛について──符合の現代文化論 番外編 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評
リヒターの作品から
”ある作品が常に一定の状態にあること、またそれを万人が同じ意味で解釈することを疑っている”
という態度が抽出された。
そして、こうした態度が素人の撮影した動画コンテンツと重ねられる。
作品自体は複製されたものであったり、素人の撮った作り込まれていないものであるわけだが、
それらと対峙する鑑賞者はそれを自分の鏡に投射して享受する。
複製再生技術のブレが人間に感知出来ないほど小さく抑えられた現代では、もはや作品自体の固有性は揺らいでいる。
ベンヤミンのアウラ的なものは原理上根こそぎ刈り取ることだって可能になっているのかもしれない。
そうした見分けのつかない作品たちが重なり合って溢れる世界では、確かに鑑賞者側にこそ意味づけの舵があるのだろう。
鑑賞者側に意味づけを委ねる。
その図式の中で模索される表現は現代性に沿って新たな地平を拓く試みなのかも知れない。
AIが人間に食べられない量の情報を食べて、それを肉にして何かを吐き出すようになった世界において、
これは何も絵画や映像芸術に留まらず、文学などその他の創造においても求められるスタンスではないかと思う。
3|村山久美子 つながりロシア 第20回 ロシア・バレエ~ソ連時代から現在までの歩み
これだけ政局に左右される中、ソ連・ロシアでバレエが成熟を進めることができたのはなぜなんだろうか。
日本の江戸時代の様に、ある程度安寧とした世でこそ文化は華開くと思っていたがそうでもないらしい。
バレエというものの特性なんだろうか。
身体表現を研ぎ澄ますストイックさはその特性として容易に思いつき、
降りかかる困難の険しさが表現を追い詰める様はなんとなく想像できる。
ただ、それだけではないようにも思えた。
ポーズの美しさや高度な技の充実。
それを担保しながらロシアバレエが物語る踊りを目指したように、
バレエの根源には物語るべきものが必要なのかも知れない。
一筋縄ではいかない現実世界もそうした核となる物語の重厚さを支える力になっているのだろうか。
今またロシアが直面している現実はどうバレエの世界を変えていくのだろう。
4|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第6回 2022年のベルリンと鷗外(前篇)
文学作品はその背景と切り離されると大なり小なり形を変えるだろう。
鴎外の『舞姫』は自分の世代では学校の教科書に採用されており、自分もそこではじめて出会った。
中学だったろうか、高校だったろうか。
当然時代性やベルリンの地という特異性を背景に読もうなんてことは思い浮かぶことすらなく、
現代的にはエリスのあまりにもな展開に入れ込んで、大切なものを煮え切らないまま捨て去る豊太郎に幻滅した覚えがある。
現代にこの物語が書き下ろされたら、身も蓋もない身勝手な男の物語という側面しか残らないように思う。
しかし、この現代に留まったまま物語を再生するという姿勢は、読者として怠慢以外のなにものでもないのかもしれない。
当時のベルリンであり、日本とドイツとの関係性なりと照らしてどうこの小説が姿をかえるか。
とても気になる。
またこの読み取りは森鴎外という人物に対しても成されるべきなんだろう。
おそらくそれらが紐解かれて行くであろう後篇。
読むのが待ち遠しい。
5|プラープダー・ユン ベースメント・ムーン 第6回
”政府からのライセンスを取得した建築資材のすべてに、光を受容する人工筋細胞が埋め込まれている”
なんて監視国家だろう。動く光受容器はジッとした監視カメラの眼よりも不気味で恐ろしい。
そしてそうした監視を源泉に統治の張り巡らされた国家の元、生まれた推定自由。
もう自由なんてものを誰も信じなくなった世界では、いかにもそれらしい自由の幻想に溺れることが安定なんだろうか。
遠い世界のようで、何処か好転を諦めている現代の延長線に見えるような気もする。
効率性の遵守が求められ、エントロピーが敵と見做される。
監視とは結局すべてを手中に収めようとする欲求だろう。
確かにその欲求のもとでは、計算しやすく物事は効率的であるべきであり、エントロピーは敵でしかない。
ヤーニンの中にヌルがいて、ヌルはわたしとぼくの両視点からの物語を再生する。
描かれたのはひとりの人間の場に複数の視点が折り重なる様だ。
恐ろしい想像力。