ゲンロンβ76+77|編集長=東浩紀

収録記事を読む

2022年9月12日[月]発行
1|養老孟司+茂木健一郎+東浩紀 【特別掲載】「あるものはある」──養老孟司が語る脳と戦争と日本の未来
満員御礼となった伝説のイベントを活字化! 盧溝橋事件の年に生まれた養老さんと、戦前・戦後の日本社会について語り尽くします。脳やゾウムシから、ウクライナ侵攻、人文知と世間、日本の未来まで。
2|東浩紀 【特別掲載】『観光客の哲学』英語版序文
東浩紀が『観光客の哲学』英語版のために書き下ろした序文を特別掲載。日本国外ではジジェク的なポストモダンの思想家だと思われているという東が、英語圏の読者にむけてこの10年の格闘やゲンロンの経営、そして「観光客の哲学」の可能性について語ります。
3|小松理虔 当事者から共事者へ 第19回 カツオと共事
いわきでは夏といえばカツオの揚げ浸しだという小松さん。しかしこの料理はお店では食べられないのだとか。うまいものを食べることから地域社会を考える、垂涎必至のエッセイです。
4|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第14回 紛失したスーツケース、物質的変化、キッズスペース──7月16日から9月5日
人新世がテーマのアートイベントのため、ベルリンに招待された田中さんが、映像制作の意味について再考します。また、その際に訪れたドクメンタ15のレポートも。なんとメイン会場がキッズスペースになっていたというのですが……。
5|石田英敬 宇宙を狂気から救う哲学──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって
石田さんがユク・ホイの全著作を紹介し、『中国における技術への問い』のあとに書かれた第三作『再帰性と偶然性』を読み解きます。いま読んでいただきたい、格好のユク・ホイ入門です。
6|山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第5回 兵役とジェンダー(1)
男女ともに兵役があるイスラエル。山森さんは今回、娘の兵役とそこで彼女が参加したユダヤ教への改宗コースを取りあげます。そこから見えてくるのは、じつは勧誘にあまり熱心でないというユダヤ教のリアルでした。
7|松山洋平 イスラームななめ読み 第8回 ニッポンのムスリムが自爆するとき
自身ムスリムである松山さんが、日本でも起こるかもしれないテロとムスリム差別の問題を論じます。また、ムスリムのなかでもむずかしい立場にあるマイノリティたちに光を当てます。
表紙写真:写真は瀬戸内国際芸術祭2022に出展されている鴻池朋子の作品「リングワンデルング」の一部。高松沖に浮かぶ大島は島全体が国立ハンセン病療養所の敷地であり、かつては多くの患者が閉じ込められ差別に苦しんでいた。鴻池は島内の寂れた散歩道を復旧し、閉鎖空間からの脱出を演出する。鴻池の文章は来月刊行の『ゲンロン13』にも掲載されている。撮影=東浩紀

5 コメント

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  2. 1.【特別掲載】「あるものはある」 養老孟司が語る脳と戦争と日本の未来 養老孟司+茂木健一郎+東浩紀

    養老さんの、対外的な事に対する「あるものはある」や「なるようになる」といったスタンスと、対内的には自分に向き合い思考する事に重点を置くスタンスが並立しており、徹底したストイックさを感じた。
    戦禍の焼け野原や自然と対峙し続けてきた経験があるからこそ諦念のように見える程の謂わば「覚悟」があるのではないだろうか。
    そうでなければ終わりなき全国のゾウムシの標本作製はできない。

    2.【特別掲載】『観光客の哲学』英語版序文 東浩紀

    経営者・東浩紀の記す観光客という武骨で無責任な存在とその地に暮らす人々の衝突とも言える交わりから生まれる誤配的な余白的な曖昧な空間に可能性を見出す実践的哲学が英語訳された後の海外での反応は関心がある。
    海外の一部では極右と認識されているらしい東浩紀さんだが、是非ともそのような短絡した認識に違和感を与えられることを陰ながら期待している。

    3.当事者から共事者へ 第19回 カツオと共事 小松理虔

    小松さんの紹介する「かつおの揚げ浸し」を画像とレシピと想像力を最大限に発揮して母に調理してもらった。
    ふわっとした身を何度か噛むと、ニンニクと生姜と醤油のパンチのある味に、「かつお版のザンギか?」と道民脳を誘発させたのも束の間、かつおの脂と旨味が口中にじわりと広がり、「ここで冷酒をグイッと行くか!」と下戸の私に思わせるほどの塩味と旨味の詰まった料理であった。
    原発事故や震災と向き合い苦闘する漁業者の方達の顔を想像すると、私も非当事者ながらなんとも言えない感慨が湧いた。そして小松さんが1万字で熱く語る理由も少しだけわかった気がした。

    4.日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第14回 紛失したスーツケース、物質的変化、キッズスペース──7月16日から9月5日 田中功起

    ホワイトキューブに囲まれた美術空間は俗世と隔絶されたように感じ、またそれが魅力ではあるとは言え、現実との接点を拒否しているようで居心地の悪さや高慢さが鼻につくところがあるのは否めない。インスタレーションも同様の異空間としての特権を主張しているようでハラハラする。
    子供は無垢であるが故に特権を破壊する。喚くは喧嘩するは「帰る!」が始まる。そして美術館や博物館は時として子供を厭い排除に向かう。芸術が教育を目的とすることはあるが、育児に寄り添うことは稀であろう。
    ドクメンタ15の育児スペースが時間で区切られ育児と展覧の境目を移動させ混ぜ合わせるが如く運営される試みは是非とも体感してみたい。

    5.宇宙を狂気から救う哲学 ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって 石田英敬

    書評とはいえ、私には難解な文章であったが私なりの解釈として、哲学という「人間について考える」営みを、本来は技術に備わっていたはずのものに再接続して技術の進化を人間の本来的感覚の手中に収める、または、取り戻す事に対する重要性を説いているのだと理解した。
    人間的なものの回復に非人間的なものを用いるフィードバックが濫用されないように技術と自覚的に付き合う方法を個人でも考えていく必要があると感じた。

    6.イスラエルの日常、ときどき非日常 第5回 兵役とジェンダー(1) 山森みか

    義務兵役中のコースとしてスポーツインストラクターと並列にユダヤ教改宗コースが置かれている点に驚くと共に、兵役がいかにイスラエルという国に於いて中心的なアイデンティティになっているかが確認できる。
    そのシステムはユダヤ教徒ではない国民が子々孫々生きやすくするために、兵役という国家への忠誠と献身を基礎としたある意味で国家の「救済措置」としてあるのでは、と感じた。
    宗教裁判所での口頭試問が必ずしも知識重視というわけではなく一筋縄ではいかない点にも、ユダヤ教徒としての正しさより、ユダヤ教を受け継いでいく国民としての正しさを重視しているように思える。

    7.イスラームななめ読み 第8回 ニッポンのムスリムが自爆するとき 松山洋平

    イスラームとテロという「符号の暴力」は他者だけでなく当事者からも補強され頑強な指標に仕立て上げられる。偏見の不条理さを根底から掘り起こす松山さんの手つきにはハッとさせられた。
    テロそのものの可能性から出発し、日本人ムスリムやマイノリティ・ムスリムを顕現させ、好意や擁護、マジョリティの無意識的マイノリティ差別など差別を生む構造を露呈し突きつけられ、私自身の思考に深く杭を打ち込まれるような刺激的な文章であった。

  3. 1. 養老孟司+茂木健一郎+東浩紀 【特別掲載】「あるものはある」──養老孟司が語る脳と戦争と日本の未来
     
     #4となるモギケンカフェのトークイベントは、いつものゲンロンカフェのイベントと雰囲気が違う。ゲンロンカフェのイベントは、ときに膨大な情報が溢れ出し、ときに軽快なやり取りがあり、ときにダラダラしたりと、対話が長時間続く。モギケンカフェのゲストは、これまで長い時間話を聞いたことがない大物ばかりである。緊張感の中、穏やかなゲストの語り口が、視聴者の意識を傾聴に向かわせる。養老さんの話もこれまで以上に、聞き逃せない雰囲気があった。
     「あるものはある」ということが複雑なものを複雑なまま受け入れる態度だとすれば、今回のトークイベントの話題を、ある/ないの組み合わせで、4つに表現できるだろう。天災の話は、「あるものがない」と表せるだろう。天災によって、日常が突然失われることについて、想像力を働かせること。阪神・淡路大震災以降、様々な天災に見舞われているが、想像力を活用した議論はあまり行われなかったように思う。
     この夏に、岩手にある東日本大震災津波伝承館に訪れた。この町は3.11に日常が失われ、復興した場所のひとつだ。復興記念公園、展示館、そして町の中心部を歩くと、限られた震災遺構はあったが、きれいに整備されていた。整然と区画整理された街並みは、日常を取り戻したというより、日常が上書きされたように思えた。自分の日常が失われることを想像すること、日常として何を守る覚悟を持つのか、まだ考えがまとまらない。展示内容も当時の混乱や対応、非常時に生き残る術がまとめられていたが、これからどんな日常を生きていくのか、街中に新設された公共施設を眺めながら、ぼんやりと考え込んでしまった。
     「ないものがある」という表現が当てはまる話題もあった。「われら」や戦後民主主義のファンタジーに対する養老さん違和感がそれに当たると思う。同調圧力を生み出すことが大事で、その中心となるシンボルは何でもよいのではないか。戦後民主義のひとつの側面として、海外の権威にすがってし、国家として主体的に物事を決められない。日本の国としての頼りなさを象徴しているようだ。
     日本人の政治や天災に関するフワフワとした感覚は、無常感に支えられているという東さんの指摘に納得してしまった。「ないものはない」として、戦災や天災を受け入れてしまう国民性があるのではないか。「あるものがあり続ける」という日常に対する覚悟が語られていたが、「ないものはない」という態度がどこまでも蔓延していきそうな感覚が続いている。戦争がこれまで起こらなかったことではなく、日常を大事にすることが平和主義であるという養老さんの語りが、今まさに大切なことだと思う。

    2. 東浩紀 【特別掲載】『観光客の哲学』英語版序文
     2013年に初めてゲンロンカフェに訪れるまで、東さんを知らなかった。その私にとって、「観光客の哲学」英語版序文を読むと、東さんのガイドブック的な役割を果たしているように感じた。先日のさやわかさんとのゼロ年代イベントや「哲学の誤配」を読んで感じたことに似ているが、海外や新しい読者への語り口が、私のようなゼロ年代の東さんの活動を追いかけていない読者にとって親切に感じた。
     コロナ禍やウクライナ侵攻を経て、観光のもつ意味合いは大きく変わってしまった。外部の人が簡単に訪れることができなくなってしまった。この序文で東さんが書いているように、いずれ観光客の時代に開かれたグローバルの時代が戻ってくるかもしれない。しかし、この2年ほど、制限された環境下でありながら、オンラインで様々なものが代替された。インターネット環境自体はグローバルへであり続けたと思う。その中で、観光客的な振る舞いが好まれるわけでなく、感情的な対立、誤情報や陰謀論が蔓延している。今後、コロナ禍やウクライナ侵攻が終わり、グローバルの時代が戻ってくるとして、2010年代の多幸症的で楽観的な気分をもつことは難しいだろう。観光客という立場も、これまでの気軽で無責任なものから、明確な目的をもって各地を訪ねるジャーナリストに近いものになるのではないか。

    3. 小松理虔 当事者から共事者へ 第19回 カツオと共事

     カツオの揚げ浸しから共事を考えるとは、いかにも小松さんらしいアプローチだ。カツオのような旬があるものについて考えることは、歳月という循環的な時間軸について考えることだと思う。原発事故が起きてから10年以上が経とうとしているが、年月という直線的な時間軸だけではなく、旬のものを食べるという循環的な時間軸による体験も失われたのだ。
     循環的な経験は、日常のいたるところにある。夏にカツオの揚げ浸しを食べる。仕事や学校に行く。そんな繰り返しが急にできなくなる。循環が表すものは、日常生活のような繰り返しだけではない。魚が成長し、漁師が獲り、問屋が卸し、魚屋が売り、消費者が買い、料理し、食す。地域や社会のつながりも循環のひとつだ。循環は一部のつながりが切断されてしまうと、全ての動きが止まってしまう。
     東日本大震災が起きたことによって、日本全体のモードが変わっただけでなく、地域社会の循環が途切れたことも、かなり影響したのではないかと思う。私の場合、地元とのつながりも薄く、東日本大震災の影響も小さかったので、自分に関係する循環が絶たれた認識はあまりなかった。自分にとっての「カツオの揚げ浸し」がすぐには思い浮かばなかった。少し考えてみると、小松さんの文章を読んで感想を書くことが、循環的な体験にあたるのかもしれない。
     後半に記されている震災遺構や原発事故は直線的時間上の点として存在していると思う。ただ、震災遺構と原発事故で、それぞれの意味合いは大きく異なるのではないか。震災遺構は東日本大震災が起きたことを記憶する。いわば時間を止める役割を果たす。まるでSFのコールドスリープのごとき存在だ。震災遺構が現前することで、被災者には悲しみや辛さの象徴となってしまう反面、未来へ警告として、次世代に託すこともできる。対して原発事故は、解決すべき課題である。解決するために少しずつでも進めなければならない。小松さんが最後の節に記すように、食い続け、考え続けるように継続する意志が大切だ。
     直線的な時間と循環的な時間は不可分ではない。物事が進まないことに諦めてしまうかもしれないが、少しずつ積み重ねること。それは繰り返しと前進の組み合わせである。今後の連載も楽しみにしつつ、考え続けていきたい。

    4. 田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第14回 紛失したスーツケース、物質的変化、キッズスペース──7月16日から9月5日

     冒頭の空港や飛行機の閑散とした雰囲気は、日本全体のムードを象徴しているように思えた。海外に向かうことがポストコロナへの活況だとすれば、日本に向かうことは、停滞に向かうことかもしれない。日本国内ではマスクは必須に近いとはいえ、コロナ禍を経て、日常が戻りつつある。しかし、私自身の実感は、何か沈鬱な雰囲気が蔓延しているように思う。もちろん台風による被災報道の影響もあるかもしれないが、日本の経済や文化の状況が今後好転するイメージができないことも大きいと思う。
     この夏の暑さや台風の被害を体験すると、グローバルに気候問題を考えることは大切なことだと思う。人新世という視点が有用なこともあるだろうし、それが人間中心主義的だという指摘もその通りだと思う。田中さんが述べるように、人間とは相互に影響を与えて何かを生み出すもので、環境に対してもそうだろう。他方、カーボンニュートラルという言葉に象徴されるように、周囲に影響を与えないことをスローガンとする潮流もある。
     今年は、多くの地方芸術祭が開催されていて、その中で、あいち国際芸術祭やリボーンアートフェスティバルの2つの芸術祭を見て回った。作品を見るために見知らぬ町を歩くと、その土地の文化を掘り起こし、作品にすることで、残していこうという意志を感じた。しかし、作品やその町が今後、生き残るほどの強さがあったかというと私にはわからない。
     アーティストの作品というのは不思議なものだと思う。田中さんのロストバゲージのように作品は、ある界隈を回遊している。その中で様々な人の目に触れ、影響を与える可能性を持つ。美術館に作品を収蔵する場合、しっかりと保管するために、ある程度のリソースが必要であろう。地域芸術祭の作品は、歴史を掘り起こす一方、風化してしまう可能性にも晒されている。田中さんの友人のロストバゲージのエピソードは、作品に対するポジティブな視点だと思う。反面、テンポラリーな作品が生み出されている状況もある。作品として形にするだけでなく、残す意志が必要ではないか。田中さんの記すこの連載も残す意志の断片なのだと思う。

    5. 石田英敬 宇宙を狂気から救う哲学──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって

     『再帰性と偶然性』を書店で見かけたとき、ユク・ホイさんがゲンロン以外の版元から出版したのを初めて知った。ハードな内容という印象があったので、購入はしていなかった。最近は、『中国における技術への問い』がゲンロンから出版されたことに伴い、いくつかイベントが開催され、今回の書評で取り上げられた書籍の訳者の原島さんも登壇して、折に触れ言及があったが、なかなか理解することが難しかった。
     この書評で興味を惹かれた内容は、技術が有機的なものになるという箇所である。スマートフォンやスマートデイバイスが普及したことで、個人がネットワークに組み込まれ、有機的なつながりが形成されているように見える。常時接続と常時モニタリングによって、様々なデータを取得し、各個人を自身で管理することができるようになった。
     健康のために、よく寝て、食事に気をつけ、運動を欠かさない様は、機械のメンテナンスを思わせる。テクノロジーがAIを搭載して、人間に近い対応ができるようになっていくのに対して、健康寿命の長期化は、人間を汎用AI搭載のロボットとして、機械的に扱っているように思える。様々なテクノロジーによって人間の能力を外化させたことによって、人間の生活がより機械化していくのは皮肉であろう。
     リモートワークの普及によって、田舎にオフィスを構える企業が増えているというニュースを見た。テクノロジーがゆとりを生み出したように見えるが、住む場所を都会から離すことによって、あるパターンの生活から抜け出し、自己の機械化を防ぐ意味合いもあるかもしれない。
     日本において、東京一極集中が緩和していく一方、ネットワークを維持するために、インフラへの膨大な投資や維持管理が必要だろう。たまに流れるネットワーク障害のニュースの中で、途方に暮れている人々の様子を見ると、これまでいかに有機的なつながりに絡めとられていたかが浮かび上がる。Web3.0のような分散型インターネットが注目されているが、ネットワークの維持を前提とすると、大きな生態系の中で制約された自由を謳歌することに変わりがないように思える。

    6. 山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第5回 兵役とジェンダー(1)

     近代的な軍と宗教は結びつかないと思っていた。そんな見方の中で、山森さんが本エッセイで記すイスラエルの軍のあり方は、一見特殊なように見えた。が、ウクライナ侵攻での両国の振る舞いを目の当たりのすると、国に仕えることも、ある種の信念に従っているという意味では、宗教的な要素があるのではないか。従軍がイスラエルにおける国民の共同体意識を醸成するものだとして、日本では何が共同意識を醸成しているのだろう。思い当たるのは、就職活動におけるリクルートスーツ横並びかもしれない。国の共同意識が就職活動とは、ひどく頼りないように思える。このエッセイで読む、イスラエルの軍よりも日本の就職活動の方が、規律正しく、抑圧的に思える。埋葬の問題や改宗のエピソードは、宗教に関連しているが、プラグマティックだ。
     山森さんがユダヤ教のシステムと記すように、改宗の顛末を読むと、宗教と聞いてイメージする戒律と信仰といったものではなく、議論を通して課題を解決していく具体性を持っている。日本は国としての歴史は長いが、イスラエルの印象と比較すると、現代日本はまとまりがなく、バラバラになってしまったように思う。ユダヤ教のような伝統宗教は、今日でも多くの信者が存在しているが、宗教的な信仰だけでなく、イスラエルという国家形成を通して、存続しようとしている。具体的な課題を議論して、解決することによって、まとまりを形成していくこともコミュニティを維持する一つの方法であると思う。

    7. 松山洋平 イスラームななめ読み 第8回 ニッポンのムスリムが自爆するとき

     今回の論考は、非常に大切な内容であると思う。宗教とテロリズムという観点でいえば、日本ではムスリムより新興宗教の方が結びつきが強いイメージがある。私自身は宗教と縁遠い生活をしているので、信仰自体に得体の知れないものを感じてしまう。ムスリムについては、ビジネスの文脈でハラルフードや礼拝所について、一時期よくニュースで見かけた。これらの戒律を守り続けることに、異質なものを感じてしまう。他方、この論考で触れているように、必ずしも信仰に熱心なムスリムが〈テロ〉を起こすものではないことも納得できる。ムスリムを多様性を無視して、一括りで論じることも乱暴だろう。
     〈テロ〉に対して、悲観論に依拠して、ムスリムの受容と共生を考えることは、現実的だと思う一方、バランスが難しい。コロナ禍における専門家の提言のように、ムスリムに対しても、不安が過剰に煽られる可能性を考えてしまう。一旦、感情的な応酬が発生してしまうと、ある程度の前提を踏まえて議論しにくくなるだろう。ここ最近のとある政治課題の炎上や騒動を見ていると、マイノリティに関する冷静な議論ができるか、心許ない。〈テロ〉は不特定の人々に影響を与えるので、当事者にも非当事者にもなりうる。その距離感の中で、どうやって考えていけるだろう。

  4. ゲンロンβ76-77
    1|養老孟司+茂木健一郎+東浩紀 【特別掲載】「あるものはある」──養老孟司が語る脳と戦争と日本の未来
    他者との関わりの問題として考えました。
    言語によるコミュニケーションだけでは、他者を理解するという事は難しいはずなのに、あたかもわかったようになってしまって問題化しているのが、twitterでの炎上などと繋がると思います。
    東さんは記事の中で、表面化した意識だけではなく、無意識の部分でも我々はコミュニケーションをとっているのだということについて、なるほどなと思いました。そして、結局は他者の全てを理解するという事は困難なので、目の前の他者を複雑なまま、あるものはあると考える、ということから始めることが、他者コミュニケーションにおいては必要なのではないかと思いました。

    3|小松理虔 当事者から共事者へ 第19回 カツオと共事
    先生・・カツオの揚げびたしが、食べたいっす・・そう思いたくなるすばらしい文章に感嘆いたしました。食についてこれだけ魅力的にかける人はいないのではないでしょうか。そして、食から連鎖して、震災や食のブランディグにまで、想像を広げられるんだということを教えてもらい、大変参考になりました。目の前の食べ物から、様々なことへの理解を深めることで、その地域を理解し、視野を広げるということは、大事なことですね。

    5|石田英敬 宇宙を狂気から救う哲学──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって
    サイバネティクス、有機体の哲学、ハイデガー、ホワイトヘッド、カンギレム、シモンドン、スティグレール・・読み解くには気合が必要で、気合を入れて読んでも理解できたと言えるか全く自信がない。しかし、どうしてこんなに難しいのに、面白いと思えるのか不思議だ。
    技術システムがサイバネティクス化することで、われわれの生き方がどう変わるのかということを考えるきっかけになると思う。

  5. 1|養老孟司+茂木健一郎+東浩紀 【特別掲載】「あるものはある」──養老孟司が語る脳と戦争と日本の未来

    日本人は人間の中でもとりわけ集団における自分の在りように囚われているのかもしれない。集団から自分がどう見られるか。集団から外されないように、集団から賞賛されるように。そうした集団への帰属意識が高まれば当然個の価値は薄れていくわけで、集団に自分を捧げるような個としては理解しがたいことも、本来は行いたくない他者を害する行為もできてしまうのではないだろうか。
    戦争という圧倒的集団心理の高まりの中、そっぽを向いたお母様のもと養老さんもそっぽをむきつづけられた根源はなんなんだろう?
    あるものはあるから〈社会を変えようとしても、どこかで無理が出てきちゃいますから〉へとつながる中にはともすると立ち上がってきた異様な集団心理すらも受け入れてしまいそうだが、養老さんはそうではない。
    自分の中の“あるものはある”を引き受けた上で、外側の“あるものはある”を否定せずに解釈するスタンスがあるからこその折り合いなのかも知れない。
    〈理系には「自然」という確固たる外的な現実があって、論理もそれに従わないといけない。けれども文系ではそもそもの前提と現実が曖昧なので論理が暴走する〉という東さんのことばは、自然と対峙すると“あるものはある”と思わざるを得ず、人間が非自然と捉え直している社会だとかを相手にするとあたかもコントロール可能なもののように思え、“あるようにある”と捉えられないことを示しているのではないだろうか。
    人を翻弄してきた歴史から自然と“あるようにある”は親和性が高い。一方でそれに抗うために人間が築いてきたシステムというものは制御可能性が通奏低音として流れている。しかし、本来はそうした人間の営みすら自然に内包されるものであり、“あるようにある”ものなのかもしれない。
    そう考えると茂木さんや東さんがたずねたようにただ“あるようにある”の渦に身を任せるしかないのだろうか?という思いが湧いてくる。
    それに対しては〈いまはみんな真面目に生きてない。生きることについて考えていないですよね。〉という言葉が返事なのだろうか。
    今ある“あるようにある”の中身を真剣に考える必要があるのだろう。真剣に考えると、真剣に考えていないのとは違う“あるようにある”が見えるだろうし、そうした個の“あるようにある”の変容は外と交通して大きな“あるようにある”も変容させるかもしれない。
    最後のどうすれば自分の居場所がみつかりますかという問いへの〈そういうふうに悩んでいるのなら、居場所は必ず見つかるはず〉という答えは悩む≒真剣に考えるがそれと折り合いをつける“あるようにある”の発見につながることを示してくださっているのかもしれない。

    2|東浩紀 【特別掲載】『観光客の哲学』英語版序文

    〈パンデミックも戦争もいつかは終わる。友と敵の対立は絶対ではなく、世界はふたたびグローバルな社会に向かって歩み出すはずだ〉
    東さんのこの言葉はとても力強く希望に溢れている。
    そうした未来こそ“観光客”という存在がクローズアップされるに違いない。
    感染症による近しいもの故の分断、戦争という国境の壁を高くする出来事。
    そうしたものが私たちから何を奪うのか。今、身を持って経験している私たちはその大切さを痛感している。
    この気持ちを忘れずに持続的なものにつなげるため、今から準備を進める必要があるのかも知れない。東さんの観光客の哲学はそんな準備のための必読書ではないだろうか。

    3|小松理虔 当事者から共事者へ 第19回 カツオと共事

    人間は食事を通して味覚はもとより、嗅覚、視覚、口触りやのどごしといった触覚が刺激されていく。それに留まらず、調理過程の音は私たちの聴覚すらも刺激していくことがある。
    これだけ多様な感覚の組み合わせで成立していると踏まえると、1つ1つの食べ物体験の特異性の高さはうなずけるのではないか。
    特異性の高い体験。それは脳内にしまわれる際に、自然と個別性の高い“付箋”としての役目を帯びるだろう。時に特徴的な香りが記憶を呼び覚ますように、インパクトのある食事体験は強烈に周囲のEpisodeを喚起する力があると思う。多様な感覚の混ざった“付箋”故に、心地よいハーモニーを奏でた際には嗅覚のそれとは比べものにならないほど精緻に、多くの記憶達を呼び覚ますに違いない。
    “鰹の揚げ浸し”とは、筆者にとってそうした強烈な付箋であったから、これほどまでに多くのことが語られたのではないだろうか?
    鰹の揚げ浸しの描写から溢れるおいしさはさることながら、そこからひっぱり出されるEpisodeも読んでよかったと心底感じるものだった。
    特に被災した船のその後に関する話は深く考え込まされた。
    生々しい当事者でなければ形容しがたい感情故に、船という痕跡を忌避するのは当然のことだろうと想像する。従って、それを尊重するために痕跡を完全に消去するという選択肢も確かに致し方ないのかもしれない。一方で物がなければ記憶が薄れる速度は恐ろしく速い。口伝はあっという間に途切れてしまうだろう。そう考えると負の感情を帯びた痕跡だからこそ第三者に起きてしまったことを喚起する力があるのも真ではあるだろう。
    このアンビバレントな状況を考えると、確かに小松さんのPendingという選択肢は最善の策なのかもしれない。
    消去する、残す、Pendingする。そうした選択肢があると言葉にして残せば、この先同様の岐路に立たされたときには議論することが可能になるのではないだろうか。
    いわきの家庭に溢れる鰹の揚げ浸しも、これまで小松さんが食べてきた鰹の揚げ浸し達も、どれも全く同じものではない。しかし、いわきという場所、季節という背景をもって、何かしら似たものを小松さんに喚起していく。
    生々しい感覚は程なく色を失っていくが、確固たるものがあることで繰り返し再生され、いつの間にか記憶の中でも存在感を放つようになるのだろう。
    それを踏まえると小松さんの提示したPendingの意味がより重く感じる様な気がした。

    4|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第14回 紛失したスーツケース、物質的変化、キッズスペース──7月16日から9月5日

    空港の情景、飛び交う異国の固有名。
    新型コロナによって閉じ込められてきた時間がそれらをとても遠いものにしていると気づかされた。
    筆者がベルリンで懐かしさを噛みしめる過程までを併走することで、自分も久々に島の外の空気を吸った心地がした。

    人新世があくまで人目線の解釈であり、〈惑星の変化は、ひとつのマテリアルの状態から別のマテリアルの状態への変化〉という一歩引いた捉え方は新鮮だった。こうした起伏のない変化であることを一度想像することで、人間という視点からこそその変化が意味を持ち、問題として立ち上がってくるということが実感できる。人間の視点を通しているという当たり前だけど忘れがちな事実に気づかされたように思う。
    この人新世という思考が人間という視点と結び着いていた発見は、視点という想像力を経験から駆動させる人間的可能性の発見なのかも知れない。
    紛失した荷物は自分の目の届く視点から捉えたら喪失以外のなにものでもない。
    ただ、それを持って帰った某かの視点を想像することで、消えた荷物は何処かで息を吹き返して続いていく。
    また、アートを生業としていた筆者が育児を経験することで得た視点はドクメンタ15のキッズスペースにアート以外の育児目線での発見をもたらしていく。
    育児とアートの重なり合いは、育児とアート2つの視点を持った制作者によってもたらされ、同じく2つの視点を持った鑑賞者によって2つのレイヤーの重なりを同時に経験する希有な体験を成立させる。
    決して人目線で描かれているわけではないこの世の物語たちは時に人にとってどうしようもなく残酷な結果をもたらす。
    経験や想像力で広がる複数の視点は、その残酷な物語をなんとか消化できる物に落とし込んでくれるのかもしれない。
    多くの視点を想像できるようになる。その大切さを再認識させられた。

    5|石田英敬 宇宙を狂気から救う哲学──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって

    偶然性と再帰性の紐解きに際して、
    技術が〈有機的なもの the organic〉になっていくというサイバネティクスの問題がカントの有機的なものの概念から丁寧に解かれていく。
    有機的なものを、再帰性を持ち、偶然性を乗り越えてエネルギーへと変え、部分と全体が連関するものと定義するならば、現代の技術はどうそれを体現しているのだろうか?
    ユク・ホイによって提起された第三次予持は、把持されたビッグデータから近似性や効率性といった特定の尺度で未来を押しつけてくる。
    そして自動的に回り始めるアルゴリズムは再帰性を備え、偶然性の余剰を限りなくゼロに近づけていくように思う。そして個がビッグデータとして吸い上げられている現状も部分と全体の連関を示しているのかもしれない。

    確かに、技術が有機的なものに近づいているように思う。

    有機化に伴って自動化したアルゴリズムが放たれ、大地はその再帰性の渦で覆い尽くされたわけで、
    〈「人新世」とは「人工地球が一つのサイバネティクス的なシステムとして達成された」時代〉というユク・ホイのことばがとても沁みてきた。
    確かに、効率化や近似性といった1つの定規で世界を定量化し続けていては第三次予持も備えて自動化した技術は増殖と拡大を繰り返すばかりだろう。
    青い星が消化され、赤い星すらも自動的に人新世化する悪夢は確かにその延長線上にある。
    なるほど、このディストピア的未来から脱け出すために、多様な技術、つまりは異なる複数の尺度を成立させる新たな技術が求められるのはとても納得だ。
    そうした新たな技術の形とは?それを探すために、再びユク・ホイの著作に戻るべきなのだろう。

    6|山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第5回 兵役とジェンダー(1)

    ユダヤ教に関する知識を持つ日本人はどれほどいるんだろうか。
    自分は正直ほとんどユダヤ教のことは知らなかった。
    そんな身からすると、今回の山森さんの娘さんを通して垣間見たユダヤ教は実に新鮮だった。
    特に、教義よりも自分の信念を曲げないことを尊しとする精神は驚きである。
    そしてそのカウンターとして〈学んだことを学んだとおりに素直に答えた人の中には、改宗試験に通らなかった人もかなりいた〉というのは更なる驚きだ。
    無思考に戒律を鵜呑みにすることを認めないということか?
    誰でもWelcomeではなく、何重にも改宗のイニシエーションがあるというのもそうした精神を反映しているように思う。
    信じるのではなく、思考する。教義も自分の身に落とさなければならない。
    ユダヤ教に興味が湧いた。

    7|松山洋平 イスラームななめ読み 第8回 ニッポンのムスリムが自爆するとき

    〈テロによる加害が存在することは、差別による加害を正当化する根拠にはならない。二つの加害は峻別して考えるべきである〉この点にすべてが集約されているのかもしれない。
    まるでムスリムという属性にテロが内在され、テロを非難して切り離していかなければ存在を認めないような空気。それがいつの間にか充満しており、テロリズムへの非難をムスリムが表明すればするほど、その空気の統制下にムスリムが収められてしまう。なんて恐ろしいんだろう。
    そしてこの空気はなにもムスリムに限ったものでないように思う。
    被害者と加害者が生じた際に、徹底的に被害者と同化して加害者を断じなければ加害者と等価として扱われる。そうした空気が今、蔓延していないだろうか?
    共感ということばで当事者性を侵害し、他方、当事者でないからこそできる、冷静な加害の腑分け、検分には加害のレッテルを貼り封じ込めようとする。
    こうした空気はどこから生まれているんだろうか?
    真摯に被害者と第三者として向き合うこと。そして、被害者に配慮しつつ、罪を非難しつつ、それとバランスをとりながらも丁寧に加害の背景を吟味していくこと。
    そうした複雑で骨折りな行為から逃げたいための単純化なのではないだろうか?こうした空気は結局こうした第三者の怠惰な甘えが醸成しているのではないだろうか?
    〈マイノリティの経験にこそ、耳を傾けるべきではないだろうか〉という筆者の1つの解答は、第三者がそうした怠惰な姿勢から立ち上がることのように思えた。

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