2022年11月10日[木]発行
1|梶谷懐+東浩紀 悪と公共性をアジアから考える
中国を専門にする経済学者の梶谷懐さんと東浩紀による対談。『ゲンロン12』の東の論文への応答のほか、戦争責任や村上春樹らの文学作品について、そして中国にとって「公共性」とはなにかまで、さまざまな角度から議論がなされました。
2|柿沼陽平 【『ゲンロン13』より】動物と人間の中国古代史
『古代中国の24時間』が話題の中国古代史研究者、柿沼陽平さんによる動物エッセイ。『もののけ姫』は中国古代の動物観に基づいていた? いにしえの価値観は、現代の私たちにどのような教訓を与えてくれるのでしょうか。
3|さやわか 【特別掲載】イギリス人はなぜ “Sorry” が口癖なのか──アフターコロナのイギリス訪問記
事前計画をしない、気ままな旅行が好きだというさやわかさん。ひさしぶりのイギリスでさまざまな変化を発見します。イギリス人の口癖、街並み、そして料理がおいしくなっていること。
4|プラープダー・ユン 訳=福冨渉 ベースメント・ムーン 第7回
バンコクに到着した虚人ヤーニン。彼女がシャワーを浴びると、脳にインストールされた写識(わたし)の中に、かつてバンコクで結ばれたエイダの両親の、意識と記憶が流れ出す。それをきっかけに、虚人と写識に変調が生じはじめる──。連載小説第7話。
表紙写真:本誌収録のエッセイで、著者のさやわかが降り立ったロンドンのパディントン駅。ひさしぶりに訪れたイギリスでは、以前にも増して人々が ”Sorry” を連発するようになっていた。なぜ彼らはすぐに自分から謝るのか。その理由は本文を参照されたい。 撮影=さやわか
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1.悪と公共性をアジアから考える 梶谷懐+東浩紀
本対談で言及されていた加藤典洋さんの「敗戦後論」の「語り口の問題」を読み返してみた。
そこではハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」におけるフリッパントな語り口を、彼女がユダヤ人でありながらユダヤ人虐殺を綴ることに対する心理的距離を取るための方法として評価しているように思う。
彼女の語り口は軽薄であると批判されたが、加害者と被害者の意識のズレから生ずる諍いに対して観光客的に眼差す第三項を放棄してしまうと、
安易に自閉的なままの自己を功利主義や監視社会に投げ入れて虎の威を借りた万能感に浸ってしまい我を見失う危険性があるのではないだろうか。
そして「理大囲城」に登場する学生に必要だったのもヒロイズムに浸かりきった恍惚感に一撃を喰らわす理不尽かつ暴力的な「親父のカミナリ」だったのではないだろうかと思う。
2.【『ゲンロン13』より】動物と人間の中国古代史 『もののけ姫』を越えて 柿沼陽平
宮崎駿監督は博識で、民俗学や考古学など膨大で緻密な情報量でもって映画製作をすることで知られる。もののけ姫は室町時代が舞台であり、関連の知見が取り込まれている。
そこで柿沼さんのような研究者から見ても古代中国ともののけ姫に共通点が見出せるというのも面白い。
至上神の「帝」と森の守り神の最高に位置する「シシ神」というコミュニケーション不可能な畏怖される神の存在や、「邑」と「たたら場」の類似点、照葉樹林文化論の知見を通した文化伝搬と共通性など、深掘りしていけばまだ多くの共通手製が見出せそうである。
ここで逆説的に、古代中国の自然観や宗教観との類似点が見出せるということは、その時代の精神性や思想、政治が高度に発達していたと言うと考えすぎだろうか?
3.【特別掲載】イギリス人はなぜ “Sorry” が口癖なのか アフターコロナのイギリス訪問記 さやわか
イギリス人における”Sorry”の位置付けが、素性や得体の知れない他人を配慮する言葉として機能しているという見立ては興味深く感じた。
インド系、中華系、アラブ系や中南米系など多様な人種の坩堝と化した現在のイギリスで、観光行政の一環で意識高くオーガニックや菜食主義が流行るのではなく、宗教を考慮したハラル料理も増えているという点にイギリスの開かれた配慮が伺える。美食のレベル向上も同様にその影響なのだろう。
4.ベースメント・ムーン 第7回 プラープダー・ユン 福冨渉訳
今回の文章には夢が多く語られているように思う。
睡眠時の夢や理想という夢に含まれるであろう革命という希望の夢や生殖という未来への夢。
夢が単なる記憶の断片のアレンジメントではなく精神や思考に基づくのであれば夢は思考する生き物における根源的現象なのかも知れない。
最後にはついに人間の意識のような絶望の感情が湧いて出た。
このまま人口意識が人間本来の意識へと突き進むのか、また違う展開となるのか続きが楽しみだ。
1|梶谷懐+東浩紀 悪と公共性をアジアから考える
このイベントを視聴した際の衝撃が蘇った。
特に「名前」と「数」の対立の部分はお二人の掛け合いでどんどん内容が深まっていき、対談だからこその生成物に胸が高鳴ったのを思い出した。
未来から見下ろす私たちは過去の悪を強固な絶対悪として対岸に据える。しかし、現実は生体解剖当事者やウイグル監視システム当事者にみられるように、無自覚の中で悪は生まれる。正義の真向かいを張るような壮大な悪などそこにはなく、まるで日常と陸続きのような凡庸な悪こそ現実を占めているのかもしれない。被害者の物語を絶対化するため、その構成要素である悪も絶対的な悪へと語り直してしまう。
これは確かに東さんが言うとおり自分たちの世界に転がっている凡庸な悪を思考の視界に入れないことであり、そこからは建設的解答は生まれないように思う。
そこから展開される村上春樹、ケン・リュウ、大江健三郎、吉本隆明らのアジアの記憶、暴力性にまつわる解釈もとても興味深い。
特に東さんが“「偶然の記憶」の感覚”を村上作品の魅力としてあげるくだりは観光客の哲学にもつながる思考のように感じ、世界の奥行きが広がる心地がした。
また梶谷さんの“「人民の敵」ではない存在が人民”という定義も中国の思考を解きほぐす魔法の定義だと思う。
最近、『AI監獄ウイグル』というルポ的本を読んだが、これはあくまで中国を外部として描き、監視されるウイグルの視点、現実を描こうとしたものであった。
そこには中国は他者を冷徹に排除していく得体のしれない存在として浮かび上がっているようであった。被害者側の言葉達なのだから当然といえば当然なのかも知れない。
しかし、当事者ではない私たちはこうした許容しがたい現実に関心を寄せると同時に、当事者としては冷静には見据えられない加害者側の視点にも想像力を働かせるべきではないだろうか。
そうした時、梶谷さんが紐解こうとしている中国の行動原理というのは非常に大切なものだと思う。
当事者ではなく、偶然同時代に居合わせたものとして、共感はとても大切な第一感情だとは思うが、被害者に同化するのではない在りようがあるべきなのだろう。
2|柿沼陽平 【『ゲンロン13』より】動物と人間の中国古代史
中国は本当に知らないことの宝庫だ。
殷のアンタッチャブルな帝から西周のコミュニケーション可能な天への転換は天動説から地動説へばりの転換のように思える。当時の人々はどう折り合いを付けて切り替えていったのだろう?中には唐突に供犠対象とされてしまうひともいただろうに、そうしたひとの葛藤たるや察するに余りある。
もはや現代人はアンタッチャブルどころか自分たちの都合の良いように天をModifyするような段階であり、むしろその都合良いModifyを自己規制したくなるほどなのだろう。
私は比較的、動物やら自然やらと近しい土地で生まれ育った。
そして、小学生の頃にもののけ姫を劇場に観に行き、子どもながらにたたら場の人間達の傲慢さの上に築いた生き生きとした姿が気にくわなかったのを覚えている。エボシとか本当にきらいだった。あんなふうになるくらいなら、サンのように自然と同化したかった。
だがどうだろう。大人になってかえりみると、私たちはたたら場の人間達そのものだと気づかされる。土台自分たちの行為の影響をすべて把握することはできないし、かといって周辺世界を大量に巻き込んだ現代人的生活を捨て去ることなんてできない。たたら場の人達のように回りすら変化させる自分には何処か鈍感さを押し当てて、人間的生活を享受するしかないのだろう。
せめて神殺しすらもModifyしないよう自覚的に立ち戻ることは忘れたくない。
3|さやわか 【特別掲載】イギリス人はなぜ “Sorry” が口癖なのか──アフターコロナのイギリス訪問記
巧みな伏線回収ミステリーのように鮮やかな文章でした。
イギリスを感じていない日本人にイギリス人の性質を教えてくれる文章でありつつ、最後にざくっと日本人達を刺して行く。
更にイギリス料理まずい神話も効果的で、皮肉にもこの神話の真実がイギリス人の変化を厭わないスタンスと容易にステレオタイプな空気に流されがちな日本人のスタンスの違いを晒してしまう。
この鋭い指摘に胸を刺され、誰しもヴィジョンを持つことの大切さに思いを馳せるのではないだろうか。もちろん思いを馳せても一朝一夕に凝り固まった日本性を変化させられないだろうし、そもそも思いを馳せる人々は圧倒的マイノリティに過ぎない。
だからこそ、さやわかさんはこれからも我々を刺し続けるに違いない。
刺され、刺され、刺激され続け、私たちはようやくそれを学習し、社会に落とし込み、新規参入者が刺されることなくヴィジョンを持つ日もやってくるやもしれない。
「イギリスって料理まずいからなー」そんな声を巷で拾ったとき、お前ら本当に食べたことあるのかよ?というさやわかさんの声が反響していく。
4|プラープダー・ユン 訳=福冨渉 ベースメント・ムーン 第7回
人工意識と夢の関係。
虚人が夢を見ることで生まれる写識への影響。確かにありそうだ。
物語の中でも夢がなんなのかは定義されておらず、必然的に人工意識自体が夢をみるかは描かれない。ただ、夢の影響は考慮され、強制的に夢をシャットダウンする薬すら生まれている。
夢。本当になんなのだろうかといつも思っているが、間違いないのは、それは私から生まれる私への再生だということ。
その上で、その意味を考えると、
〈目覚めているときの、偽物の世界に束縛されているという閉塞感を癒やしているのかもしれない〉という言葉は本当に心地良い解釈だ。
そして、そんな夢の持つ閉塞感を突き破る力を私たちの現実に抱く夢に付与しようという想像力もなんだか素敵だ。
折り重なり合う人工意識やクル・ウェブに投じられた死者の意識の交歓はどう着地していくのか全く予想が付かないが、また次回も読みたい。