ゲンロンβ82|編集長=東浩紀

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2023年6月22日[木]発行
1|高橋ユキ 前略、塀の上より 第2回 殺人未遂で逮捕されていたはずでは……通称「罪名落ち」がもたらす不利益
逮捕時には「殺人未遂」と報道されていたのに、裁判を傍聴してみるとより罪の軽い「傷害」で起訴されていた──ほとんど報道されることのない「罪名落ち」を読みときます。
2|さやわか 愛について──符合の現代文化論 第15回 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)
家族になるのに恋愛は必須なのか? 同居しなくても家族になれるのか? テレビドラマ『恋せぬふたり』に、前回論じた『逃げ恥』を超えた新しい家族のかたちを見出します。
3|石田英敬 飛び魚と毒薬 第2回 詩とアルコールと革命と
哲学者ベルナール・スティグレールと著者の人生がクロスする〈一・五人称〉のクロス・バイオグラフィー。アルジェリア戦争から1968年の五月革命へ──揺れるフランスでスティグレール少年は「革命」に引きこまれていく。
4|小松理虔 当事者から共事者へ 第21回 共事者の困難と、新しいスタートライン──沖縄取材記(後篇)
「共事者」を生み出した著者が、その可能性と困難の両方を深めていく人気連載。沖縄で暮らすガイドと、妻と娘とめぐる沖縄取材。米軍基地からショッピングモールまで、見て、食べて、考える。
5|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第9回 ベルリンで思い出す、大江健三郎が残したもの
プリンストン大学で大江健三郎の授業を受け、アメリカの文芸誌のインタビューで大江の通訳をつとめた著者が、当時の思い出を振りかえりながら、日本を離れる「隔離」体験の意味を考えます。
6|まつい 島暮らしのザラシ 第2回 島暮らしの移動事情編
船でしか行き来できない離島の暮らしって? アザラシが主人公のほのぼのエッセイマンガ。
表紙写真:本誌収録のマンガエッセイ「島暮らしのザラシ」の作者、まついさんが暮らす佐賀県の離島の風景。遠くには航跡を描く船が見える。船は離島の生活には欠かせないインフラであると同時に、「一番大変なこと」でもあるという。詳しくは本編を参照されたい。 撮影=まつい

4 コメント

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  2. 1. 高橋ユキ 前略、塀の上より 第2回 殺人未遂で逮捕されていたはずでは……通称「罪名落ち」がもたらす不利益

    逮捕時の報道は大々的だが起訴から裁判の判決へと段階を経る毎に関心は薄まっていく。
    「罪名落ち」というワードは事件を継続的に追わなければ現象として発見しづらいであろうが、いったんこの視点を得てしまえばニュースの見方も、関心の持ち方も変わる、重要なものに思える。
    傍聴マニアの世界が詳らかにされる連載に期待大である。

    2. さやわか 愛について──符合の現代文化論 第15回 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)

    『恋せぬふたり』における新しい家族像の模索を支える基体が「家」に依拠するという極めて伝統的な型ちに立ち返る点が興味深い。
    性愛に依らない「養子」を迎え続けて仮想的に子々孫々を繋いでいくことで記号と意味に齟齬をきたしながらも新しい家族像を創造できるのでは、と感じた。

    3. 石田英敬 飛び魚と毒薬 第2回 詩とアルコールと革命と

    第二次世界大戦直後の植民地国の独立機運と、共産主義の世界同時革命、知識人や若者たちの「言葉の力」と実力行使であたかも世界が良くも悪くも揺り動く実感がその当時に多大な高揚感を与えていたように思える。酒とジャズの高揚感も後押ししたのだろうか。
    ベルナールのような後の哲学者になるような人物が高校時代に極左組織で活動し、高校生の極右組織と対峙するという壮絶な政治の時代がフランスで巻き起こっていたのに対し、石田少年のユルい社会との関わりが対照的で印象的だった。

    4. 小松理虔 当事者から共事者へ 第21回 共事者の困難と、新しいスタートライン──沖縄取材記(後篇)

    小松理虔さんの娘さんが書いた取材メモには地域に住む人々の心情や、小学校の上空を飛ぶ軍用機が及ぼす具体的な被害の予想が書かれていたりと、至って真面目に取り組んでいるが、一方、「憧れのアメリカ人」と大人であれば配慮するフレーズを発してしまう不真面目さが両立している点に共事を感じた。
    取材メモの時点である程度の真剣なコミットが必要であり、それが入り口となって共事へ通ずるのであれば、(不)真面目であるという不真面目さを内包した真面目さこそ共事となるのであろう。

    5. 河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第9回 ベルリンで思い出す、大江健三郎が残したもの

    大江健三郎さんには「華麗なる一族」やノーベル賞、政治的発言などの本業の外縁への注目が目立つ。
    だからこそ”quarantine”により異国で自らを身体的にも精神的にも隔離することが作家生命を延命する方法として機能したのだと思う。
    そこで起きた河野さんとの接点は、もしかすると大江さんにとっても心の避難場所として癒しとなったのかもしれない。

    6. まつい 島暮らしのザラシ 第2回 島暮らしの移動事情編

    離島と本土の交通手段においては海のコンディションが大変影響するとのエピソードに、利尻島に赴任した親戚の話を思い出した。
    離島では生肉の確保が困難で、島を離れると肉を食べるという逸話と、船の時間が生活リズムに影響する話はどことなくマンガと似ている。
    自然の波長と現代的生活の波長を合わせて暮らす生活は、スローライフなど流行の言葉で回収できないリアリズムを含んでいる。

  3. 前略塀の上より
    裁判員裁判では検察側が負ける可能性が高いので、罪名落ちで確実に求刑通りにできるよう
    つまり勝ちを狙いに行っているのではないかという指摘を高橋さんはされています
    刑事裁判とは、検事と弁護人がお互いの主張をして、裁判官がより適切な判決を出すという
    純粋無垢な理解でしかないので、何故勝ち負けがあるという考え方になるかが不思議です
    検察側が求刑通りにいかなかったからといって職を奪われるわけでもないでしょうに
    冤罪事件でもそうですが、犯人が誰かどうかは関係なく、裁判で求刑通りに行けばいいという
    検察側の論理がどうにもわかりませんね
    より多く求刑通りの刑をゲットできれば出世できるという事なのでしょうか・・?

    愛について
    家族とは何かについて大事な論点が書かれていると思いました
    性もスペクトラムであれば、家族像もスペクトラムであってもいいのではないか
    ということでしょうか
    昔からあるのは、結婚していても、どちらかが単身赴任で長期間別居している家族とか、
    もし同性婚が可能になったら、同性同士で恋愛関係がなくとも、結婚した方が
    経済的にも良いという事で、結婚する同姓友人カップルが出てくるかもしれないですしね
    それも家族と言ってもいい、家族の言葉の意味は常に変わっていく
    まさにヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論的ですね

    飛び魚と毒薬
    ベルナール・スティグレールは、優秀な兄や兄の友人といった人間関係に恵まれていたと
    今風の表現で言えば、人間関係ガチャでSSSがでていたといったところでしょう
    アルコールを「単調な生活を揺るがせ日常に起伏を与える薬」という表現するはかっこいいです
    『アルジェの戦い』やセーヴル焼、知りませんでした
    石田さんがいつもさらっと「知っているでしょうけど」と言われることを大体知らないので
    石田さんの領域にたどり着けるようになりたいです
    トロツキーって共産主義の人だということは知っていましたが、どういう主義主張かはわからず
    国際共産主義運動を目指す人だったんですね
    そしてどこかで前に書いたかもしれませんが、トロツキーはめっちゃさやわかさんに似ているんですよねえ・・
    模試の成績が良くて、中学で大学の教科書を読んでいて、学級委員長もしていたが、東大では普通だから、とさらっと書いていますが
    一般人の普通が通じない世界を垣間見させていただきました

    当事者から共事者へ
    観光と監視の同居
    嘉手納基地の観光地としての監視塔について
    観光と監視と言えば、過去のゲンロンβの記事にあった
    リアルDMZプロジェクトを想い出した
    沖縄も福島もできるだけ多くの人に現状を知ってもらって、
    時に現地の人にとって迷惑と思うような人も出てくるかもしれないが、
    一方でちゃんと理解してくれる人も出てきてくれればいいということだろうか
    理虔さんの娘さんの「憧れのアメリカ人」という発言は。DA PUMP のU.S.A.を思い浮かべた
    米軍基地があって、米軍関係者の犯罪などが起きることもあるが、憧れる対象でもある
    アンビバレントな対象であるアメリカ
    物事はいろんな側面から考えないといけないという事を感じさせられた
    当事者の語る言葉に正しさを感じてしまうという理虔さんの話
    今回の芥川賞では、当事者性を前面に押し出した著作が受賞した
    作品内で難病の主人公は、健常者の傲慢さを批判するような表現があった
    今回の沖縄取材では、シマさんやユマチンのように、被害者・加害者の枠組みをとっぱらって
    関わってくれる当事者であった
    もしシマさんやユマチンが当事者性を強く主張してくる立場だったら、この取材はどうだったろう
    非当事者は当事者に甘えている、非当事者は勉強不足だと言われてしまったら・・
    その場合でも、共事者としてあるにはどうしたらいいだろう
    当事者の側にも、そういう態度は関わる人を限定し、結果問題が解決されないまま、
    多くの人に関心を持たれないままに、なってしまうのではないかと語り掛けていくことだろうか
    理虔さんならどう考えただろうということも思いめぐらせた

    記憶バーチャルのベルリン
    私にとって大江健三郎と言えば、九条の会の左翼知識人という印象が強く
    これまで左翼アレルギーが強かった自分が、大江の著作を読むことはありませんでした
    最近ではアレルギーも弱まり、著作を読んでみてもいいかなと変わってきました
    記事の中で河野さんが紹介されている『新しい文学のために』『人生の親戚』
    『取りかえ子』『私という小説家の作り方』『セヴンティーン・性的人間』は手に取って読んでみたいです
    大江がミラン・クンデラの『カーテン 7部構成の小説論』をよい著作として紹介していたので
    手に入れたのですが、その後にクンデラの訃報を聞きました
    この記事で読まなければ、ミラン・クンデラの死を気にすることはなかったでしょう

    島暮らしのザラシ
    離島というと島の中で生活して、たまに本土に行く生活を想像していましたが
    小さい離島だと、本土にちょくちょくいくことになるので
    行き来のフェリーや天候に合わせて生活しなくてはいけないんですね
    漫画そのものは、見やすいし、わかりやすいし、
    ゲンロンβのなかでも、ほんわかして読めるものでした

  4. 1|高橋ユキ 前略、塀の上より 第2回 殺人未遂で逮捕されていたはずでは……通称「罪名落ち」がもたらす不利益

    罪名落ち。そんなことがあるとは…
    判決が予測しづらくリスキーな裁判員裁判。もしそれを回避するための罪名落ちならば、それはどうなんだろう?許容していいのか?
    引用された記事ではどちらかというとその背景の起訴後有罪率の低下などに焦点があたり、長時間の取り調べや強引な証拠固めといった“取り調べの現場”から公判での証言重視へシフトしているとし、冤罪を生まない司法制度改革が進んできたと好意的に結んでいる。
    確かに冤罪が生まれにくいシステムは大事だと思う。しかし、罪名落ちはそのために生まれてよいものなんだろうか?逆ブレを起こしているだけではないか。
    もちろん、取り上げられた事件の真実はわからない。
    そもそも真実なんてものは、生きている人間が紡いだ後付けの物語ではある。しかし、亡くなった方を思うに、生きている関係者や、関係することになった捜査関係者、司法関係者はその物語をああでもないこうでもないと考えるべきなのではないか?
    ハンマーで殴られたうえ熱湯をかけられ、その後亡くなった夫。傷害罪という焦点にその死は乗っていないわけで、〈夫はなぜ亡くなった?〉は争われない。
    本当に由々しきことだと感じるのは少数派なんだろうか?
    高橋さんの記事が眠っていることにゾワゾワしてしまう。
     
    2|さやわか 愛について──符合の現代文化論 第15回 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)
     
    前回に続いて当時熱狂にうかされていた私には言語化できていなかった『逃げ恥』が晒されていく。
    確かに古田新太さんの演じていた沼田は振り返ってみると扱いのぞんざいさは明らかだ。LGBTQへの単純でステレオタイプなレッテルが個を隠すように貼られている。そして、その沼田との接触が津崎に〈自分が男性やゲイについての旧来的な記号性で捉えられること〉に対する拒否反応を引き起こし、新しい家族構築へ向かわせるという図式自体どうかとおもってしまう。
    津崎を通して旧来的記号性への違和を唱えているにもかかわらず、その根っこで沼田を都合良く旧来的記号として使っているのは土台がぐらつく不整合に思える。
    またみくりが新しい家族の構築ではなく、結局従来のロマンティックラブに回収されるというのも当時はそういうものかと流してしまったが新しい家族構築の失敗としか言い様がない。
    もし、このドラマが旧来的恋愛や結婚というものへ異議を唱え、新しい家族像を探すものならば、最終的な構築の放棄はとても許容し難い点かも知れない。ただ、旧来的記号への回収はそれにどっぷりと浸かってきた人間には安心できる筋ではあり、問題提起の失敗は余所に爆発的なヒットに結び着いたのかもしれない。
    『恋せぬふたり』はリアルタイムでちらちら観ていたに過ぎないが、なるほどこの逃げ恥文脈から紐解くとむしろ異議申し立てを貫いた物語と感じられた。〈そもそも「家族」という言葉に縛られる必要はない〉という結論は旧来的記号がどうにでも変更可能なものであると、ぐじゃぐじゃに境界を壊す強烈な結論だ。
    ただ、その時、その場ではしっくり来ている関係性はしがらみは少ない分安定性に乏しい。さやわかさんが指摘するとおり、恋せぬふたりの祖母の家はその安定性を支える機能を暗に示しているように思うが、恋せぬふたりは暗に示すところで留まってしまっているのかもしれない。
    繰り返される固定と固定の解除。
    東さんの訂正可能性にもつながる気がするし、千葉雅也さんの仮固定も頭にちらついてくる。
    最終回、実に楽しみです!

    3|石田英敬 飛び魚と毒薬 第2回 詩とアルコールと革命と

    ベルナール物語が熱を帯びてきました。
    夜な夜な酒を飲みながら文化を語らう…
    そんな世界があるのですね。しかも、兄弟達もかなり刺激的な人達の様子。そうした環境がベルナール少年を育んだのか、はたまたベルナール少年がそうした環境をたぐりよせたのか。
    それにしても本当に濃密なバイオグラフィー。生前お二人がいかに深い語らいをしてきたかがうかがい知れます。
    並行して描かれる石田先生の少年時代。振り返るとついつい現代の目線で加工したくなるけれど、石田先生はただし書きの上でそのまま晒される。この赤裸々感が時代空気を文章に纏わせているのだろう。
    自分も未熟さ故にカチッとした答えのない国語なるものを小学生の頃は小馬鹿にしていた気がする。多くの子どもが時代をこえて辿る通過儀礼なんだろうか?
     
    4|小松理虔 当事者から共事者へ 第21回 共事者の困難と、新しいスタートライン──沖縄取材記(後篇) 
     
    引き続き沖縄。
    前回の連載に触発され、今年の夏休みは沖縄に家族旅行に行くことにした。
    夫婦、子二人の家族旅行。
    下の子はまだ未就学児ではある。
    前回の連載で描かれていたように思うが、“子ども=南の島のリゾートの側面しか見ていない存在”とどう共事者になるかは当事者性とどう向き合うかを考える原点のように思える。
    自分の子ども時代を振り返ると、修学旅行で強制的に運ばれた広島は原爆資料館の印象は残るもあとはスカスカな状態である。対して、ある程度思うところあり、後年自分で計画して訪れた長崎に関して残っているものは平和記念公園だけでない。直接的にシンボル化していない場所・建物にも過去との繋がりを感じたうえで、今の長崎もとても印象深く残っている。
    きっと目線が違ったのだろう。
    そうした自分の経験や今回記された理虎さんの葛藤を思うに、子ども達にも「まじめ」であることを押しつけるのではなく、ゆるくふまじめに構えたい。
    南の島のリゾートを楽しみながらも、理虎さん家族がおとずれた地を参考に共事の芽がある場所も訪れようと思う。そうした中で、私も含め子どもたちの頭に、芽生えないかも知れないし芽生えるかも知れない共事者性を待ってもいいのかもしれない。理虎さんFamilyにおける100デシベルだとか娘さんの取材ノートのようなものがそこから生まれるのかも知れない。
    “共事者性”、“家族”と対象は違いますが、そうした言葉を壊したり再定義しながら硬直化を脱け出そうとする様は同号に載っているさやわかさんの連載と呼応しているようでした。
    やはりこちらも最終回が楽しみです!
     
    5|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 第9回 ベルリンで思い出す、大江健三郎が残したもの 
     
    大江健三郎さんは自分も学生時代から影響を受け続けていた方です。
    そのため、今回の訃報は私にとっても大きな出来事であり、その行き場のない戸惑いから、文芸誌にずらりと並んだ追悼文を逃げるように読んでいました。
    もちろん、中には追体験として大江健三郎の気配を感じさせてくれるものもありましたが、個人的な、もはや追悼者の自己語りにシフトしていくようなものもありました。
    そんな失望を重ねた上で読んだわけですが、大江健三郎という人物及び晩期よりの作品理解が深まるような充実の文章でした。
    The Paris Review の記事は知らなかったので率直な言葉の数々に驚きました。大学で文学を学ぶものへ大江さんが本を選んでくださったEpisodeも興味深いものでした(クンデラも先日亡くなってしまいましたね)。
    こうしたEpisodeはまさに”quarantine” のときだからであり、大江健三郎の”quarantine” に立ち会った河野さんは本当にうらやましい。
    “quarantine”を自分もそろそろとるべきなのかも知れない。それこそ”quarantine”の中で『取り替え子』や『水死』などを読むべきなのかも知れない。

    6|まつい 島暮らしのザラシ 第2回 島暮らしの移動事情編

    いいですね。島暮らし。
    私も無類の魚好きであり、東京の魚を受けつけなくなる地というのはそれだけで魅力的。
    フェリー事情は観光客として鉢合わせたことはありますが、生活者のそれとは重みが違いますね。
    東京にいるといろいろな必要不可欠なものが増えていきますが、本当はそんなものは自分で必要不可欠と思い込んでいるにすぎないのでしょう。
    何が本当に大切なのか。
    自分が今見失っていそうなそれをまついさんは掘り起こされているのやもしれません。
    マンガを読み、ちょっとでもそれをお裾分けいただこうと思います。

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