ゲンロンβ83|編集長=東浩紀

収録記事を読む

2023年9月5日[火]発行
1|東浩紀 終刊にあたって
今号で終刊を迎える本誌『ゲンロンβ』。編集長の東浩紀による終刊のことばです。
2|小松理虔 当事者から共事者へ 最終回 当事者から共事者へ
4年ぶりに福島第一原子力発電所を訪れた小松さん。同地で進む「観光地化」に驚きながら、壊れた原発の風景からある希望を見出します。連載の最終回で「共事者」はどのような像を結んだのでしょうか。
3|プラープダー・ユン 福冨渉訳 ベースメント・ムーン 最終回
ヤーニンの物語が唐突に中断したのち、作家プラープダーは2016年の廃墟の空き部屋で目を覚ます。「ベースメント・ムーン」とはなんだったのか。連載小説がついに完結です。
4|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 最終回 「移動」の文学について考え続けること──多和田葉子『雪の練習生』を読む
コロナ禍下の2021年に始まった連載の最終回。移動が不要不急とされる時代に、海外文学や翻訳、異言語はなにを問いかけるのか。日本文学を学ぶ留学生にも人気の多和田葉子をあらためて読み解きます。
5|石田英敬 飛び魚と毒薬 第3回 68年5月3日
16歳のベルナール・スティグレールが書店の店先で本を物色していたその日、五月革命が起こる。なぜ学生たちはパリ大学ソルボンヌ校舎の中庭に集結していたのか? その中心人物だったダニエル・コーン゠ベンディットとは?
6|山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第9回 「二級市民」という立場
ユダヤ人のなかにもいくつかの宗教的立場があり、ユダヤ人にかぎらずさまざまな人種や出自をもつひとびとが暮らす現代イスラエル。最高裁判所の力を弱めようとする現政権がもちいた「二級市民」という言葉を読み解きます。
7|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回 見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア──3月1日から9月2日
10月発売予定の『ゲンロン15』から一部を先行公開。ドクメンタ15を批判し、岡山芸術交流を評価することは妥当なのか? 現代アートにおける「制度批判」が、たんなる批判に終わることなく、ほんとうに制度を変える道筋を探します。
8|東浩紀 『観光客の哲学』中国語簡体字版四冊刊行に寄せて
かつて日本には「哲学すること」に2つの道があった──中国語簡体字で同時期に刊行される著書に付される共通の序文。新しい読者にむけて、補助線を引きます。
表紙写真:表紙写真:批評誌『ゲンロン』の姉妹誌として2016年に創刊された『ゲンロンβ』。終刊号の表紙には、『ゲンロンβ』全83号の書影があしらわれている。本誌の連載からは、小松理虔『新復興論』、大山顕『新写真論』、渡邉大輔『新映画論』、星野博美『世界は五反田から始まった』の4つの書籍が生まれた。また今年から来年にかけては、本田晃子『革命と住宅』、吉田雅史『アンビバレント・ヒップホップ』が刊行予定である。これからもゲンロンの出版事業に期待されたい。

4 コメント

  1. 終刊号『ゲンロンβ83』へのみなさまのコメントをお待ちしております。
    2023年10月1日(日)までにいただいた投稿は、『ゲンロンβ』の読者プレゼントの抽選対象となります。
    ぜひ、みなさまのご感想をお聞かせください!

    感想の非公開をご希望のかたは、Googleフォームに感想をお寄せください。→https://forms.gle/v1CLVGDRdWVPQy8JA

  2. 1. 東浩紀 終刊にあたって

    ゲンロンの会員になってから毎号拙いながらも感想を送らせていただいたゲンロンβの終刊は一時代の終わりを感じて寂しい。振り返ると、私はゲンロンβ18から読んでいたようだ。
    ゲンロン観光地化メルマガも購入して読んでもいた。
    一時代の終わりと書いたが、一方私の読書スタイルは未だに、長い本を買い読み耽るといったものだ。
    新しい一歩はなかなか困難になる予感がする。

    2. 小松理虔 当事者から共事者へ 最終回 当事者から共事者へ

    連載毎に微妙に変化してきた共事者の概念。確かその概念の定義に悩んでいる文章もあったはずだ。
    しかし今回でやっと私としても腑に落ちる定義が発表された。「ピントを合わせる」という言葉には物事への積極的な参加を思わせるニュアンスがあるが、確かに対象との「距離」が重要だ。
    「付かず離れず」という言葉があるように、適切な距離感でもって対象をしっかり捉えられる思考を培っていきたい。

    3. プラープダー・ユン 福冨渉訳 ベースメント・ムーン 最終回

    筆者であるプラープダーも作品の登場人物のプラープダーも、タイ王国における抑圧、特に表現に対する冷淡さに憤っている。
    本稿では国家への抵抗と戦いを「配達人」として愚直に遂行する「静かな戦争」を決意し、物語を書くことで変革していくことに希望を持っているが、同時に筆者はこれが2060年代に至っても未だ続いているであろうことを暗に示唆してもいる。
    不気味な未来を予感しながら、それでも抵抗する気概を私は持てるだろうか。

    4. 河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 最終回 「移動」の文学について考え続けること──多和田葉子『雪の練習生』を読む

    文学は虚構と現実を移動しながら、著者と読者の思考も移動する。
    国境を越える物理的な行動がコロナ禍や紛争により人為的にコントロールされてもなお、人間はあらゆる移動的な行為を渇望してやまないことが、多和田葉子さんのような日本語とドイツ語を行き来する作家への注目からも伺える。
    河野さんのおかげで、日本の文学が他国でも受け入れられ、研究もされていると言う単純な事実にすら思い及ばなかった私の視点を移動させてくれたことに感謝申し上げたい。

    5. 石田英敬 飛び魚と毒薬 第3回 68年5月3日

    世界大戦の残滓による社会的な混乱はあるとしても、何をしに大学に行ってるのかわからない!

    6. 山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第9回 「二級市民」という立場

    宗教だけではなく出身地によるカテゴリーも存在するイスラエルに住む人々は、こんなにも複雑ではっきりと線引きできていない階層を把握しきれているのだろうか?
    更にここには、交友関係などの人間関係も絡まり、個人では割り切れない気持ちも作用することを考えるとイスラエルに住む山森さんがどのようにバランスをとった生活をしているのかが気になる。

    7. 田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回 見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア──3月1日から9月2日

    “現実を無視する態度を持つアーティストの作ったものに希望なんて持てるだろうか。”
    制度批判が成立するには鑑賞者側の意識にもある程度の批判的目線が必要だろう。だから尚更、制作側の情報開示が必要となる。
    展覧会に参加するキュレーターや作品製作者が積極的に負の側面も含めた情報開示をする気概を持たなければアートが成立しない時代に転換している、と言う感性が「アート好き」な人達に芽生えるのはいつになるだろうか。

    8. 東浩紀 『観光客の哲学』中国語簡体字版四冊刊行に寄せて

    中国はおそらく政治性の強い国だろうし、おそらく国民が政治について積極的に参加し辛いだろう。そして農村と都市では分断があると聞く。
    そんな中で東さんの以前から軸として変わらない「友と敵の分断」に対する問題意識や政治から何歩も引いた視点は新鮮に思われるはずだ。
    今、バブルを体験して更に崩壊も囁かれる国のエリート層がこの本を手に取って数年経ったのちの感想に興味がある。

  3. 私がゲンロンのメルマガを読み始めたのは、ゲンロン観光通信創刊号からだったと記憶しています。会員証をみると、友の会に入ったのもちょうどその頃のようです。
    最初はメルマガが来ても、読まずにスルーするような、良い読者ではなかったと思います。
    あるとき、ふとプレゼントがもらえるという事でアンケートに答えたら、サイン付きのしそちずが当たったので、これは読んでアンケートに答えねば、という不純な動機でちゃんと読み始めたんだと思います。読んでみるとはまってしまい、毎回の配信を楽しみにしていました。今回終刊ということで、大変残念なのですが、引き継がれるWebゲンロンに期待をしています。
     具体的な記事の内容としては、後に『観光客の哲学』になる東さんの記事、山本さんと吉川さんの「人文的、あまりに人文的」、『新映画論』となる渡邉大輔さんの「ポスト・シネマクリティーク」、星野博美さんの「世界は五反田からはじまった」などは楽しみにしていましたし、ゲンロンでの各講座のレポートを読んで興味を持ち、新芸術校の展覧会などにも行きました。
     中でも一番楽しみにしていたのが、小松理虔さんの「浜通り通信」と「当事者から共事者へ」です。震災被災者の当事者とは何かという論点から、広く「当事者」について論じる記事は、私にとって大きな刺激となり考えにも影響がありました。共事者論についても、専門職の立場としても大変示唆を受ける内容が書かれており、毎回本当に楽しみでした。被災者と被災していない側、当事者と非当事者、原発推進派と反対派、などの二項対立を脱構築する哲学的な内容だったと思います。東さんの「観光客の哲学」を福祉の領域への視点に応用していったと言えるのではないでしょうか。東さんの哲学を、実践の場で活用した理虔さんはすばらしいと思います。共事者についての考え方も、当事者ではないから関係ないと思っていた自分を変えていくきっかけをくれる、まさに訂正可能性の哲学につながるものかと思います。
     今回の小松さんの記事で印象に残ったのは、福島第一原発1号機に生えていた木の事です。廃炉手続きは長期的に続くものですし、もしかしたらいずれ一号機を包む森となるかもしれないと夢想しました。それは、菌類が包み込み、蟲たちがそれを守る、風の谷のナウシカの腐海を思わされます。文明技術の最先端であった原発も結局は植物に包まれて自然に帰っていくのであれば、私たちのやっていることは大きな自然のシステムの中で踊らされているだけかもしれないですね。
     記事の中では次の言葉がぐっときました「中途半端でもいい。専門性はなくてもいい。何者でなくてもいい。何かの当事者じゃなくてもいい。ただ自分の、今ある暮らしの些細なものや小さな疑問からも、社会や哲学や思想は立ち上がるのだ。自分を起点に生まれていくものをおもしろがっていくことが、だれかの生きやすさや、だれかの自分らしさにどこかでつながっている。」
     「当事者から共事者へ」について、今後ゲンロンから書籍として出版される予定はあるのでしょうか?その場合は更にブラッシュアップされた共事者論が読めると思うので、大変期待しています。

  4. ゲンロンβ終刊お疲れさまでした。
    毎号読み、考える。それが自分の中でリズムになるほど染みついていたので、
    慣れ親しんだものが失われる名残惜しさは感じています。
    ただ、東さんの『終刊にあたって』や、最後の編集後記を読ませていただき、ゲンロンβに展開されていた精神は脈々と続くことも再確認させていただいています。
    これまであまりWebゲンロンの記事までは読めていませんでしたが、これからは読者である自分もそちらへシフトし、新しいリズムを刻んでいきたいと思います。
     
     1|東浩紀 終刊にあたって
    ゲンロンβの担ってきたコンテンツの震源地としての役割の継承。それはどのように進められていくのだろう。ゲンロンカフェやシラスという大きなプラットホームの中に言及されている多様な星を線でつなぎ、ゲンロンの空に新しい星座を描き出す営みを担っている。そうした場がなければ出会わなかっただろう方々の対話は数え切れないほどあるし、先ごろ発刊された『日本の歪み』などはそうした新しい星座から生まれたものだとうかがう。もはやそこはコンテンツの震源地とよんで差し支えない状況であると思う。しかし、テキスト媒体であるゲンロンβはそうした動的な場とも少し違う役割を担っていたのではないだろうか。生もののトークショーでこそ生まれる星座もあれば、腰を落ち着けて推敲を重ねられた言葉たちが並ぶことで浮かぶ星座も確かにあった。それはWebゲンロンに引き継がれていくのだろうか?東さんがおっしゃる通り、記事単位で文章が売られる時代である。Webゲンロンも現状は記事単位で形成されている。今後その場においても新しい形の星座形成が展開されていくのだろうか?
     
    2|小松理虔 当事者から共事者へ 最終回 当事者から共事者へ
    最終回も新鮮な切り口が展開され、驚いた。木野ツアー参加で見えてきた増加する観光客たちの姿は多くの日本人にとって可視化されていない情報だと思う。1日多いと600人もの人がイチエフを訪れているとは知らなかった。多くの人が新たな記憶としてイチエフを更新しているということは意外であり、大切にしていくべき動きではと感じた。
    また、廃炉に関わるあらゆるものが放射性廃棄物になるという視点は距離が近ければ自明のこととして迫ってくることだが、距離が少しでも離れてしまうと抜け落ちてしまいやすいように思う。
    廃炉というある種のリセット地点のようなものを巡って多くの思惑がぶつかっているが、そもそも新たな廃棄物が生産され続けていく中で、リセットなんてもの自体幻想なのではという視点は非常にアクチュアルかつ必要な視点だと感じた。常に持続的に考えたり、考えなかったりを繰り返し続けていくしかないし、出来事の焦点を絞って語り合うことは多様なスタンス、距離感の人間たちの対話として時に必要ではあるが、常に焦点を緩めて多様な意見に耳を傾けることも必要なのだろう。当事者に焦点を絞ることで見えなくなることもあるし、無関心さに身を委ねて遠く離れると当然ながら何も見えなくなる。
    時の流れや物理的距離のこともあり、遠く離れがちな自分にとって、小松さんの言葉たちは絶えず焦点を変化させて、様々なかたちで福島を映してきてくれた。
    これからも小松さんの言葉を読み続けていきたいです。
     
    3|プラープダー・ユン 福冨渉訳 ベースメント・ムーン 最終回
     
    一気に世界観が変わる回でした。豊饒な想像力で描かれた世界は言葉だからこそ誘われる世界でした。情報を受け取り運ぶ、配達人。誰から情報を受け取るかも、誰に情報を運ぶのかも明確ではない。読者に語り掛けるようになされたその配達人という役割は小説家のある種の本質をついているのかもしれない。
    生きる中でよくわからないが受け取り続ける情報を、その配達人だからこそ渡されたそれを、誰かに運ぶ。そのよくわからない営みこそ物語を誰かに語るということなのかもしれない。

    4|河野至恩 記憶とバーチャルのベルリン 最終回 「移動」の文学について考え続けること──多和田葉子『雪の練習生』を読む

    最終回。再び多和田葉子に話が戻ってくる。移動の意義を巡る思索、人間のもつ移動することへの渇望。筆者が文学の担うものとして語るそれはなんなのだろう。それは『雪の練習生』の中で繰り返される移動が体現しているのだろうし、そもそも越境する作家である多和田葉子自体の経験から語られるものなのだろう。ベースメント・ムーンの最終回を顕現したような構図。
    この移動を巡る問いは開かれた問であり、今後も問われ続けるのだろう。
    結局、人間はどこか見知らぬものとの出会いを渇望しているのだから。

    5|石田英敬 飛び魚と毒薬 第3回 68年5月3日
    今回はかなり5月3日に焦点をあてた回だった。近距離からその日が記されて、石田先生自体の思い出は軽めだった。主役であるベルナールも姿を見せない。
    次回への濃厚な場面説明だったのかもしれない。
    時間単位で、多角的に描かれる68年5月3日。変貌するサン・ミシェル通りの光景には息を飲んだ。振り向いてその光景を受け取ったベルナール少年の中でそれはどう動いていくのだろう?次回が楽しみです。

    6|山森みか イスラエルの日常、ときどき非日常 第9回 「二級市民」という立場
    二級市民。強烈な言葉。今の世にあって、一国の政権がそんな言葉をつかえるなんて、その尋常ならざる土壌が強烈に想像されてしまう。そして非ユダヤ人に対して使われる傾向のあったその言葉を、対立するユダヤ人にも使用する。なんて皮肉な構図だろう。後半で語られるように虐げられているという意識のもとその言葉を市民側も受容している構図があり、実に根深く複雑な問題と言わざるを得ない…。

    7|田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回 見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア──3月1日から9月2日

    非常にわかりやすくドクメンタ15とそれを批判した人々の背景がわかる貴重な文章。田中さんが淡々と説明する岡山芸術交流の背景はなかなかショッキングな内容だった。そうした丁寧な解説の上に改めてドクメンタ15を批判し、岡山芸術交流を評価するということを考えると、どうにもその動機が分からなくなってしまう。ただ表面的なドクメンタ15理解と利害関係から発生した言葉たちなんだろうか?そうだとしたら確かに俄かに信じがたいほど残念なことのように思える。そうした出来事の背景を可視化し、議論の俎上にあげるだけでも有意義なことだと思うが、田中さんの展開しようとしてる話がさらに興味深い。
    <批判を下支えするロジック、制度そのものを作り替えるような別のインフラを構築する仕事>
    ゲンロン15で語られるであろうそれがどういったものなのか、気になって仕方がない。とても楽しみです。

    8|東浩紀 『観光客の哲学』中国語簡体字版四冊刊行に寄せて
    中国語簡体字版ということで中国及びシンガポールやマレーシアの読者に向けて編まれた言葉である。
    実に情熱的なもののように感じるし、実際このメッセージを受けて読者の方がどういった意見を抱くのかとても気になる。
    脱政治、友と敵の分割から身を引き離す。そのうえで展開された思考なのだというメッセージは関係性の緊張をとく種になる気がするし、そうなるといいなと期待してしまう。そして、そういう前置きをしっかり置いたうえで東さんの著作が読まれたならば、その思考はしっかりと伝わるのではないかと思う。

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