【書評】「語る建築」とフェイク──本田晃子『都市を上映せよ』評|大山顕

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ゲンロンα 2022年3月12日配信
 いきなり自分の話で恐縮だが、ぼくがシラスで配信している番組の名前は『都市を現像する』という。都市の姿は、生身の眼だけではなかなか見えない。だから「現像」が必要だ、と写真家であるぼくは思っている。  本書『都市を上映せよ』のタイトルに同じような意味をくみ取った。かつて、社会主義という一大プロジェクトを体現したソ連の都市、主にモスクワがどういうものであったのかを、映画という「現像」されたフィルムを通じて見ていくのが本書である。「映写」することを英語では「プロジェクト」ともいう(日常的に使われる映画の「上映」は「play」あるいは「show」「screen」などを使うのが普通で、どうやらロシア語でも同様のようだが)。この「プロジェクト」はしばしば都市開発に対しても使われる用語だ。映画と都市の建設は言葉のうえで結びついている。  どちらも「前方に(pro)+投げかける(ject)」ものであるところからそう呼ばれるわけだが、ソ連の場合、この結びつきはより強いようだ。本書が、社会主義リアリズムとは「現実を写実的に描くのではなく、間もなく到来するはずの理想的『現実』、あるべき『現実』を描くものであるとされた」(43頁)と言うように、いずれ未来(=前方)において実現すべき理想社会を投影するのがソ連の映画だったからだ。映画館が、同じ方向に向かって観客を並べ、黙らせ、暗くしてお互いの姿を見えなくしたうえ で、彼らの背後の密室から前方のスクリーンに向かって強烈な光で像を拡大投影する空間であることを思うと、なおさらその感が強くなる。本書の最後の2つの章では、ポスト・ソ連時代の映画が、社会主義体制の作品とどのように異なるかを論じているが、その変化は、投影からタッチスクリーンへという視聴体験の変容になぞらえられるかもしれない。  この問題は『新映画論』における議論を参照することで深められそうな予感がする。ちなみに「現像」は英語で「development」だが、この語もまた都市開発を意味する。

 

 さて、本書は1920年代から2010年代までの約90年間にわたるロシア映画の中からおよそ40本を取り上げ、その劇中における都市(主にモスクワ)の描かれ方を分析し、制作者や当局の意図、あるいは無意識のうちに表現されてしまったこと、を明らかにしている。別の言い方をすれば、映画における都市の姿を、ソヴィエト社会主義の表象として見る、ということになるだろう。  こう紹介してしまうと、とてもマニアックな内容のように思われるかもしれない。ソ連の研究かー、と。しかしそれは誤解だ。これは、現在日本をはじめさまざまな都市で起きていることを「現像」するのにたいへん役立つ研究である。  本書では大きく2つの構造物が取り上げられる。ひとつは地下鉄。ソ連崩壊の以前と以後で、スターリンが主導した社会主義の描かれ方がどのように変化したかを見るために、主に本書の後半で登場する。  もうひとつはソヴィエト宮殿だ。全高415メートルというこの建造物が、1930年代の映画の中でどのように描かれているかを見ていく第2章の後半は、この本のハイライトだ。この構造物はついに建設されなかった。415メートルという高さは、現在でも容易には建設できない。当時はまず不可能であっただろう。実際、技術的問題が未解決のまま見切り発車で着工した。それがドイツ軍の侵攻により中断され、それっきりになった。にもかかわらず、完成した姿は市民によく知られていたという。なぜなら、その威容が当時の映画にしばしば登場したからだ。ついに完成することのなかったものが、映像を通して存在するものとして広く受け入れられた、というのはたいへん興味深い。「いわば社会主義リアリズムとは、その名とは裏腹に、『現実』の名の下に実質的には理念上の世界を描く、イデアリズムだった」(4頁)と著者は言う。  この建造物の上部は身長100メートルのレーニン像になる予定だった。仮に完成したとしても、高すぎてその姿を地上から見ることはできなかっただろうと言われる。しかしそれは欠陥ではない。なぜなら「レーニン像は、比類ない重要性のために、もはや現実の空間ではなくイデア界に属している。それゆえ、レーニン像はそもそも地上の世俗の人びとの眼からは不可視であるべき」(85頁)だからだ。つまり、見えないものをつくろうとして、ある意味、その通りに「完成」したわけだ。ドイツがそれを「手助け」したというのもおもしろい。社会主義という「プロジェクト」は永遠に「未来=前方に+投げかける」ものとして、映画の中にその姿をとどめる。  ソ連映画を代表するエイゼンシテイン監督作『十月』(1928年)は、その名の通り十月革命を描いたプロパガンダ作品だ。その内容は歴史的には不正確だとされるが「それでも同作は『ソ連』という共同体がどのように誕生したのかをソ連人民の前に指し示す、建国神話となった。換言すれば、ソ連という共同体のアイデンティティは、その誕生時から映画というメディアと深く結びついていたのである」(53頁)という指摘には膝を打った。肉眼では見えないが、映像の中に確かに存在する。だからこそそれが「本物」であると信じられる。フェイクニュースを経験しているぼくらにはよく理解できる現象ではないだろうか。  本書終盤では、ロシア版『ウェストワールド』と呼びたくなる『ソ連ランド』(2006年)や『DAU』プロジェクト(2005-2011年)といった、作り物として蘇る社会主義ユートピアをモチーフにした作品を取り上げ、フェイクが現実との境界をあいまいにしている現在について論じている。

 

 スターリンの時代、理念の実体化として社会主義リアリズム建築に求められたのは「物語ること」だった。党が求めるイデオロギーをテクストのように読めること。つまりプロパガンダである。  しかし、物理的制約のある建築にこの役割は荷が重い。このような要請に対して映画はうってつけだった。「映画は建築物を容易に操作可能なイメージに変え」た。そうして「映画こそが『語る建築(architecture parlante)』を実現したのである」(6頁)と著者は言う。ここで、社会主義の建築を「語る建築」の語で表すのはたいへんおもしろい。というのも、この言葉は、建築の民主主義性を意味する、という解釈があるからだ。 「語る建築」とは、18世紀のおわりから19世紀前半までのフランスを中心としたヨーロッパの建築思想のひとつで、クロード・ニコラ・ルドゥーの建築を評する際にはじめて用いられた言葉だと言われる。フランス革命の思想を体現する理想主義者であったルドゥーは、球体や立方体、四角錐など幾何学的なシルエットを持った革新的な建築を提案した。その多くが実現不可能なものであったということも、ソヴィエト宮殿の顛末と考え合わせると意味深い。それらは、階級にかかわらず、読み書きができない市民でも誰もが等しく、語られたメッセージを受け取ることができるメディアとしての建築を目指したものであったという。  思うにこれは現在当たり前のように言われる「建築のコンセプト」の発祥だ。万人に物語を伝えるメディアとしての建築は、フランス革命の思想のもとに生まれ、それがソヴィエト社会主義において花開いたというわけだ。そしてそういう建築の使い方は現在世界中で普通のことになっている。「ひとりひとりがいきいきと輝くまちへ」などというポエムが綴られる再開発プロジェクトの完成予想ムービーは、ソヴィエト映画の後継者といえる。スターリンがいま生きていたら、SNSで映える建築をデザインさせたのではないか。  巨大な像と映画の組み合わせによって、愛国心を醸成するというやりかたは、現代のロシアでも健在だ。2016年にロシア映画『VIKING バイキング 誇り高き戦士たち』(原題:Viking/監督:アンドレイ・クラフチュク)が公開された。ロシアの前身となったキエフ大公国のウラジーミルⅠ世(キエフ大公)の伝記物語である。ウラジーミルⅠ世は、自らと家臣および国全体をキリスト教(東方正教)に改宗させ聖人となった。これが現在のロシア正教につながっている。ソ連時代は「人民の阿片」として蔑まれた宗教だが、いまやロシアにおいて政治とずぶずぶの関係にある。国民を一体化させるために、社会主義に代わってかつて否定された宗教が利用されているわけだ。  この映画が公開された同じ年に、高さ17メートルのウラジーミルⅠ世像がクレムリンのすぐそばに建てられた。除幕式にはプーチン大統領とロシア正教会の最高指導者も出席した。それまで最大のウラジーミルⅠ世像があったのはキエフだ。キエフのウラジーミルI世像は全高は20メートルを超えるが、像本体の高さは4.4メートルで大部分が台座である。ロシアの新像は当初キエフの全高を超える24メートルの巨像を計画していたという。2014年に武力を背景としてクリミア半島を一方的に併合したことに連なる、宗教を利用したイメージ戦略の一環であることは明らかだ。像の完成を讃えてプーチンは「キリスト教を受洗した選択が、ロシアとベラルーシ、ウクライナの国民に共通する精神的な源になった」と語ったそうだ。  その後のロシアとウクライナの関係はご存じの通りである。本稿を書いているいま(2022年2月)、ロシア軍のウクライナ侵攻が危ぶまれている。プーチンの名もウラジーミルである。

 

 このように、本書が批評する射程はとても長く、広い。マニアックなソ連研究ではない。しかも、たいへん読みやすいということを言っておきたい。  映画批評となれば、そこで紹介される作品を観ていなければ読みこなせないように思われるかもしれない。しかしその心配は無用だ。なにせソ連時代の映画である。日本語翻訳もほとんどされておらず、DVD化も配信もされていない作品がほとんど。よほどのマニアでなければ観ているものではないだろう。もちろん著者はそういった事情をよく分かっていて、文中でストーリーの紹介からその制作背景、役者の履歴などを丁寧に解説している。さらに、各章の間には、各時代の政治的状況を分かりやすく説明したコラムもあって、まったくソ連・ロシアについて詳しくなくても(ぼくがそうだった)、問題なくすらすらと読める作りになっている。むしろ、学校でも習ったし自分でもいくつか本を読んだりしたにもかかわらず、あいかわらず近代ロシア史のあらましが頭に入ってこない人にこそ勧めたい(これまたぼくがそうだった)。  著者は、これらの映画を「博士論文執筆の息抜きに見ていた」というからおもしろい。「映画がここまで建築や『建てること』に注目した時代は、スターリン期のソ連をおいて他にはないのではないか」(269頁「あとがき」)と思ったことが出発点になったのだそうだ。このエピソードからも分かるように、本書全体にみなぎるのは著者の「うきうきした感じ」だ。楽しんで研究していることが伝わってくる。  そのクライマックスはモスクワ地下鉄を舞台にした映画について論じる第4章と第5章だ。画面の端にわずかに映り込んだ装飾や照明の形から、ロケ地となった地下鉄駅を同定している。あとがきで本人も、モスクワ地下鉄のほとんどすべての駅で降りて観察・調査したと言っている。特に『パイロットたち』の各場面に映っている地下鉄駅がどこなのかをまとめた表(223頁)にはおもわず笑ってしまった。要するにマニアである。これはいわゆる「聖地巡礼」の記録でもあるわけだ。  読み終わって見事だなと思ったのは、前半のソヴィエト宮殿を主題とした「高さ」から、後半の地下鉄映画を取り上げた「深さ」へという展開だ。そういう意味では、この本自体が空間性を持った一種の「語る建築」なのであった。

 

(2022年3月追記)本稿の校正作業中にロシア軍がウクライナに侵攻した。2016年にゲンロン主催のチェルノブイリツアーに参加しウクライナを訪れ、街に愛着を持ったぼくはたいへんショックを受けている。著者の本田さんも心を痛めていることだろう。いまや本書の帯にある「夢のソ連ランドにようこそ」という言葉は挑発的に響くが、現在の状況をよりよく理解するためにも本書はたいへん役立つ、と付け加えておく。一日も早い平和を。

『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』
本田晃子著(発行:東京大学出版会)

大山顕

1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。
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