【書評】二枚腰の道徳論──ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』評|平尾昌宏

ゲンロンα 2022年4月8日配信

 ベンジャミン・クリッツァーさん初の著書『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(2021年、晶文社)。刊行間もなく増刷。まずはめでたい。面白い本だから、当然と言えば当然。私も夢中で読んだ(途中までは)。

 しかし、実を言えばこれは、かなり論評しにくい本だ。

 

 第1章。リベラルは人間、人権を大事にするあまり、人間が動物と地続きだという進化の事実に目をつぶり、科学を無視しているのではないか、との苦言から入る。我々も、「そうそう、リベラルにはそういうところあるよね」と思う。だから、もっと生物学や心理学といった科学が見出した事実を押さえて、フラットに考えよう、事実を無視して理想を繰り広げても妄想にしかならない、というのがクリッツァーさんの、そして本書を貫く基本的なスタンスである。

 道徳を論じる主要な学問は倫理学。その倫理学では伝統的に、価値規範と事実を峻別する傾向が強かった(その例外が功利主義)。科学は事実を研究するが、価値の問題は事実の問題とはレベルが違うのだと言って、自分たちの領域を確保しようとするわけだ(科学に口出しさせないように!)。実際、端的に言って心理学と倫理学は犬猿の仲である。だけど、クリッツァーさんの態度は違う。いわば、倫理学のくびきから自由なのだ(私も同感で、心理学と倫理学はもっと協力してよいと思っているが)。

 第2章はちょっと話変わって、「人文学は何の役に立つのか?」。前の政権の時に学術会議問題が起こった。学術会議が推薦してきたメンバーを、首相が任命するのが筋だが、菅首相(当時)は、理由を示すこともなく、そのうちの数人の任命を拒否した。これは学問に対する政治の介入ではないかと、学界では大騒ぎになったが、橋下徹氏をはじめとしたポピュリストたちの手で「人文学者は役にも立たないのに上から目線で、国民の敵」みたいなキャンペーンも登場して、そうでもなくても絶滅に瀕している人文学はまたしても壊滅的な打撃を受けた。しかし……。学者たちもそれなりに人文学の意義を主張してきたが、果たして効果的だったろうか。結局のところ人文学者たちは、彼らの業界内でのファッションに依存して(つまりカッコつけのポーズだけで)、結局は正面から答えることを回避しているのではないか、そんなカッコつけが外の世界に通用しないことに気づいていないのではないか、とクリッツァーさんは言うのだ。耳は痛いがもっともな見方。ここには、クリッツァーさんの持ち味がよく表れている。

 と思ったら、第3章は動物倫理。多くの人はまだまだ肉を食べているし、テレビの料理番組でも相変わらず肉、肉、肉。だが、ここ数年でヴィーガンの人たちも増えてきたし、大豆から作った唐揚げなんてのがスーパーでも並ぶようになった。こうした流れに対して、他方では「食い物くらい好きにさせろよ! だからコイツらは!」といったホリエモン的な反発もありがち。だけど、この流れは無視できないと考えるクリッツァーさんは、功利主義的な観点からの理路を示してみせる(クリッツァーさんは元々、動物倫理に関心が深い)。

 この3つの章で第1部だ。各章それぞれに面白いし、少なくとも私のつまらない要約・紹介より、実物を読んでもらえれば、もっとコクも切れもあるのが分かるだろう。読んでいて楽しい。だから、どれかのテーマに関心があれば、読んで損はない。他にもたくさんの話題が満載だから、むしろ、お得だと言ってよい。万華鏡のように次々に場面が変わるのも愉快だ。

 だが……、いかにもバラバラ。この第1部に付けられたタイトルは、「現代における学問的知見のあり方」という大上段なもので、まぁ、なるほどとは思う。だけど全く方向性が見えて来ない!

 

 第2部は「功利主義」。

 第4章。権利の概念に依拠すると、権利と権利の衝突という問題が生じる、それよりも、別種の発想に立つ功利性の方が優位だ、と論じられる。第5章は功利主義に付きものとも言える、例の「トロッコ問題」の意味を、改めて。第6章は利他主義の功利主義的基礎づけとなっている。うん、この部分はなるほど功利主義でまとまっている。

 しかし、第3部「ジェンダー論」はまたバラける。第7章ではフェミニズムといわゆる「有害な男らしさ」問題が取り上げられ、第8章ではフェミニズム絡みで「ケア」や「共感」が論じられる。ネットなんかでは特に加熱しがちなジェンダー問題についてのクリッツァーさんの切り込み方は、やはり共感を誘うところが多いし、この2つの章は繋がっている。で、第9章、いきなり「ロマンチック・ラブ」がテーマになる。なんとなく繋がる。しかし、実際のところ、どう繋がる?

 その次の第4部はなんと、「幸福論」と来た!

 つまり、全体は4つの独立した(バラバラな)パートから出来ていて、しかも、各パート内でもバラバラなのだ。

 

 話題だけではない。読み進めていくと、基本的な観点にもブレがあるように思えてくる。第6章では、ニュース番組などでちらっと見るけど、そして、「ふむ、大変だなぁ」とつぶやいたりはするけど、手出しもできずにそのままになっている遠い異国の貧困問題をどう考えるかが扱われる。かなりの人は、「だって、自分の国のことだけで手一杯」と思うかもしれない。しかし、落ち着いて理性的に考えてみると、こうした問題を放置したままにするのは倫理的に問題があるし、我々にも害になる。こうした(一見すると直観に反するような)議論を説得的に展開した、現代倫理学界の大スターで功利主義者のP・シンガーの考えが紹介される。そう言えば、第1章、第3章でもクリッツァーさんはシンガーを援用しており、特に第2部に見られるように、全体に功利主義推しだった。

 ところが、第9章の恋愛論では、ロマンチック・ラブなんてものを擁護し出すのだ。功利主義の元祖であるベンサムやその信奉者のゴドウィンは恋愛や結婚も否定していたのに? それに、この直前の第8章では「ケア」や「共感」への批判が展開されている。他者への「ケア=気づかい」や「共感」なしにロマンチック・ラブ? どうやって?

 

 各章はそれぞれ、見事な整理がなされていたり、近年の知見や書籍が紹介されていたり、少々捻った議論が見られたり、だから、そう、それぞれに面白い。私も最初、楽しんでグイグイ読んだ。ところが、読んでいる途中にこの書評の依頼を受けた。それからである、とたんに読むスピードが落ちてしまった。部分部分は面白い。しかも、それぞれの場面で違った面白さがあるから飽きさせない。それで十分じゃないか(実際、この原稿を書き終わったら、もう一度始めから読み直したいと思っているくらいだ)。著者も、これはアカデミックな本ではなくて「おもしろさ」を目指したものだと言っているんだし。しかし……、読むのは楽しくても、これでは書評にならない! 全体としてこれはどういう本なのだ?!

 

 クリッツァーさんはアカデミックキャリアに乗って学者になるという道を選ばなかった人である。その理由も「あとがき」に書いてある。学者の共同体みたいなものに馴染めなかったからだ、と。しかし、日本では学者よりも大きく言論に影響を与えてきた存在がある。批評家である。だから私は、これは批評なのだと思った。実際本書は、優れた批評集と言ってよいのだ。

 しかし、読んでいくと、どうもそれを目指したものではないことが分かってくる。少なくとも、「ほら、尖ってるでしょ?」的な、ファッショナブルな批評とは、最初から全然無縁だったのだ。

 例えば2章の人文学の価値を論じた部分、クリッツァーさんはつまり、人文学者たちが(無意識かもしれないが)カッコよさに拘りすぎだ、と言うのだ。逆に言えば、クリッツァーさん自身はカッコ悪いことも回避しない。引証、引用の仕方もそうだ。クリッツァーさんが言うように人文学者もカッコつけたがるが、昔の批評家はもっともっとカッコつけてナンボだった。何か参考にしたものがあっても敢えて出典を示さなかったり(単に著作権意識が低かっただけかもしれないが)、自分が参考にしたものを批判する素振りで自分の優位を見せつけようとしたり(いわばマウント取り?)もしていた。クリッツァーさんにはそういうところがない。参考書もきっちり示すし、自分が何に依拠したかも隠す素振りはない。そういう意味では、批評家的ではない。むしろ、良心的な学者風なのである。

 そもそも、一昔前の批評家だったら、「幸福論」なんて、とてもカッコ悪くて口に出せなかった。しかし、4つの大きなテーマのうちの1つが幸福で、第4部は何の衒いもなくそのまま「幸福論」と名づけられている。しかも、ここで持ち出されるのが古風なストア哲学である。

 確かにカッコよさとは無縁かもしれない。だが、我々にとって大事なものは結局何かと言えば、それはつまり「幸福」だと言うしかない。だったら、それをちゃんと扱おう……。ものすごく正論というか、まっとうなのである。

 もちろん、念のために言えば、ここで登場させられるのは、実際には古臭いストアそのままというより、現代の心理学者の目から見て刷新されたストア派だったりする。そして実は、ご本人はあまり意識していないかもしれないが、ここもクリッツァーさんが伝統的な倫理学から自由である面が見られる。倫理学は哲学の一部で、研究するとなれば、まず古典的な哲学のテキストを厳密に読む訓練をする。この厳密さは、学問として重要だが、そこに足を取られると浮世離れになるし、最悪の場合はカッコつけだけになる。ところがクリッツァーさんは、「ストアのテキストを厳密に読む」なんていうことより、立ってる者ならストアでも使え、というスタンスなのだ。

 だが、それにしてもこの並び。「幸福、ストア派」。保守系高齢層のための教養雑誌に載っていておかしくない(しかも一昔前の!)。

 

 別にラベルが必要なわけではないにしても、こうしたクリッツァーさん的なあり方は何と呼べばいいのだろう。

 ご本人もあれこれとポイントやキーワードは打ち出してくれている。「読み方は読者に任せる」的な無責任な、あなた任せの態度は、やはりクリッツァーさんには無縁なのだ。

 ものすごく分かりやすいのは、やはり功利主義へのコミットである。ただ、これには背景になる理由がある。ケアや共感、感情、あるいは有徳性(ないし卓越性)といったものではなく、理性的な思考に基づいた合理的な結論を引き出すという点では、功利主義に分がある、というのがクリッツァーさんの見立てだからである。だから、クリッツァーさん自身が功利主義者だというのではないのだ。クリッツァーさんにとって重要なのはむしろ、端的に言って理性かもしれない。私が勝手に持ち出したのではない。ご本人が大事なところで出してくるのだ。一昔前には(ポストモダーンの時代には)毛嫌いされた理性を。

 そして、これと絡んで、最後に登場して特に印象に残るのが啓蒙の標榜である。ヒースの『啓蒙2.0』なんていう本もあったが、そして、啓蒙というのは実際に終わりないもので、どこまでも継続するしかないものだが、それにしても、もう何の迷いもなくこう言い切っている。「わたしの考えるところの『中庸』から世間の標準がズレていて一方の極に傾いているから、……読者を啓蒙することで世間の標準を真ん中へとすこしでも戻らせる」。やはりすごいと言わざるを得ない。

 みなさん、コレはね……。ホンモノですよ。本気でやってる。

 

「カッコ良くない」と言えば、貶しているように思われるかもしれないが、もちろんこれは褒め言葉だ。「おもしろさ」を目指したと言うご本人の言葉に、私もまんまと騙されたのだが、理性、啓蒙、中庸といった、いかにも地味なキーワードから見ていくと、実はクリッツァーさんの本筋はこっちにあったのではないかと思えてくる。第5章のトロッコ問題もそうだ。ブレーキの故障したトロッコが二股に分かれる線路を走っている。一方の線路には1人、他方の線路には5人の工事夫がいる。えーっと、要するに、どっちかをひき殺さざるを得ないとすると、どっちを選ぶか、というエグい、エモい思考実験である(しかも、いろいろとバリエーションがあって、隣りに太った男がいて、それを線路に突き落とすとか、そういうバージョンもある)。小学校の授業で使ったら、子どもにトラウマを与えたとの報道もしばらく前にあった。それに、NHKの仕掛けで大ヒットしたテレビ番組、マイケル・サンデルさんの『ハーバード白熱教室』で取り上げられて、すごく有名になったけど、それだけにかえってみんなが飽きてしまった例の思考実験。だが、クリッツァーさんは、功利主義の問題を考えるには、こういう問題もキワモノとして扱うのではなく、ちゃんと考えるべきだと言うのである。そう、基本、クリッツァーさんは、やっぱり真面目なのだ。そして、一昔前は、それが「カッコ悪い」ものだった。しかし、真面目なのがなぜカッコ悪い? クリッツァーさんは、何よりもそうしたふんわりした通念から自由だ。

 

 クリッツァーさんは本気だということが分かった。

 だとすれば、私の方でも話を少し早くできる。ひとさまの本の論評をするのに、自分の見解を持ち出すのもどうかと思っていたのだが、分かってしまった以上、私もまともに対応すべきだろう。

 

 手がかりになるのはやはり、本書の終章である。著者の基本的なスタンス、展望がよく示されている。ここでは道徳を「つめたい」ものと「あたたかい」ものに分ける試みがなされている。理性に基づく、普遍化可能な道徳と、感情に基づく、内輪志向の道徳。そしてクリッツァーさんは、「道徳とは『つめたい』ものであるべき」だとするのだ。

 クリッツァーさんは第4章、第5章でも、この区別と重なる、脊髄反射的な「オートモード」と、熟考に基づく「マニュアルモード」という2つのモードの区別を展開している。権利論の批判(第4章)でも、「トロッコ問題」に絡めて功利主義を論じる場面でも(第5章)、「オートモード」による「あたたかい道徳」路線が退けられ、理性に基づく「マニュアルモード」の「つめたい道徳」路線が推奨される。

 この区別は、最近の心理学で主流になっている二重過程理論(スタノヴィッチによる)が1つの源になっているのだろう。しかし、従来から、倫理学でもなかったわけではない。代表的なのはヘアの二層理論である。ヘアも基本的には、直感的、自動的に湧いてくる身内の道徳感情よりも、普遍化できる道徳原理の方を重視し、結果として功利主義を支持する。ヘア以降も倫理学は様々に展開しているが、こうした普遍化志向、功利主義の重視というのは、現代倫理学の主流になっていると言ってよいだろう。クリッツァーさんも第3章で示しているように、動物倫理を始めとして、倫理の実践という観点からも、元気なのはやはり功利主義者だ。

 だが私は、アマノジャクかもしれないが、こうした流れにちょっと不満である。功利主義によって様々な問題が解決できることはその通り。だが、クリッツァーさんの言葉を借りるなら、「わたしの考えるところの『中庸』から倫理学界の標準がズレていて一方の極に傾いている」ように見えるのである。いや、正確に言えば、一方に傾いているというより、焦点を絞ることで、唯一原理主義をとろうとした結果、何だか大事なものを無くしているように思えるのだ。だから私も「読者を啓蒙することで世間の標準を真ん中へとすこしでも戻らせる」ことを考えた。その結果、クリッツァーさんとは違って、功利主義だけじゃなくて、複数の原理を確保するという路線を取った。そうしてできたのが『ふだんづかいの倫理学』という本である(クリッツァーさんの本と同じ晶文社の、同じシリーズから、少し前に出た)。私がクリッツァーさんを最初に知ったのは、実を言うと、『ふだんづかい』をブログで取り上げてくれていたからだ(出版されて間もなくの頃に出てきた反応だったから、嬉しかった)。

 

 ここでは厳密な議論はできないが、クリッツァーさんの「あたたかい道徳/つめたい道徳」論は、かなりふくよかな概念なので、たぶんいくつかの問題レベルを含んでいる。直観と理性、感情と熟考といった、我々の思考のあり方に関わるレベルもあれば、その適用範囲の点で、普遍的か、それとも身内的かという問題もある。だが、話を簡単にするために、細かい詮索は抜きにして、この二分法をちょっと(かなり?)ずらして、ジェイン・ジェイコブズの『統治の倫理 市場の倫理』に重ねてみたい。あまり話を広げてもアレだが、なぜジェイコブズを持ち出すかというと、実は、私自身が『ふだんづかいの倫理学』を書くきっかけになったのがジェイコブズだったからである(それに、話の整理をするのに便利だし)。

 ジャーナリストだった彼女が最初に知られるようになったのは都市論でだったが、素人の特権で、経済、都市開発、色んな分野を独学し、自説を展開し、広く読まれた。人呼んで「常識の天才」。その彼女が晩年に取り組んだのが、道徳の問題だった。彼女は歴史書、新聞や雑誌その他、あらゆる資料から道徳的な規範を抜き出してきて、それをまとめあげるという、いかにも素人臭い作業に取りかかった(なんと15年かかったそうだ)。そこで彼女が見出したのが、「統治の倫理/市場の倫理」の二分法である。つまり、組織を重視し、身内に忠誠を誓うタイプの倫理と、自由な個人ベースで商売する際に大事になる倫理の区別である。

 日本でも、ジェイコブズのこうした区別を、社会心理学者、経済学者、歴史学者など、主に人文社会科学の分野で取り上げる人たちが出てきた。そして、彼らが一様に主張するのは、「統治の倫理」は旧弊な道徳であり、我々はそこから抜け出して「市場の倫理」に一元化しなければならない(それが歴史の必然だ)、ということである。

 だが、私の見るところこれらの人々は、ジェイコブズを引き合いに出すわりには、ジェイコブズをまともに受け取っているように思えない(ええっと、すぐにクリッツァーさんの話に戻ります)。ジェイコブズは、この2つはそれぞれに必要で、場合に合わせて柔軟に切り替えなければならない、と言っていたからである。

 いや、別にジェイコブズに義理立てしなくてもいいのだが、私は、「あれかこれか、どっちか1つ」ではなくて、「両方とも、それぞれが大事」というジェイコブズ路線の方がまともだと考えたのである。

 

 もうお分かりだと思う。倫理学での功利主義への傾きも、人文社会学者たちの「市場の倫理」重視も、私には同じ唯一原理主義への志向という点では共通に思えるのである。

 もっとはっきり言うと、「理性/直観」では理性、「普遍/ローカル」なら普遍というように、一方だけを重視して他方を退けるのは、(再び引用するが)「わたしの考えるところの『中庸』からズレていて一方の極に傾いている」と思えたのである。そう、心意気(だけ)はクリッツァーさんと同じである。だから、私は私で、「世間の標準を真ん中へとすこしでも戻らせる」ために『ふだんづかいの倫理学』を書いた。

 だが、たとえ心意気は同じでも、クリッツァーさんは、道徳は「あたたかい」ものではなく、「つめたい」ものでなければならないとする。もっと言えば、「あたたかい道徳」は、脊髄反射の感情的な反応で身内を贔屓するだけだから、排除しなければならない、とする。つまり1本立てだ。

 それに対してジェイコブズは「統治の倫理」と「市場の倫理」の2つが必要で、それを柔軟に切り替えなければならないとする。だから、2本立て。その際の彼女のキーワードは、「モラル・フレキシビリティ」(ただし残念なことに、邦訳ではこれが「倫理選択」と訳されてしまっているのだが)。

 そして私自身は、『ふだんづかいの倫理学』では、3本立てを採用した。個人、身近な関係、社会の3つの領域を設定し、その重層性を生きる我々のふだんの生活に使えるように、それぞれの倫理のあり方を整理する、というのがその志である。

 もちろん、2本立て、3本立てにするよりは、1本だけで行く方がすっきりする。明確に答えが出せる。普遍的である。功利主義が1本立てを選ぶ理由、クリッツァーさんが功利主義を押す理由だ。逆に、原理を増やせば、その分だけ、ブレが出る可能性がある。困ったものだが、確かにそうである。

 しかし、人間の生活はそれほど単純なものだろうか、という疑問が私にはある。だから、あちこちでコンフリクトを起こす可能性があっても、その都度つどで判断しなければならない難しさを残しても、複数の原理を確保しておいた方が、バランスが取れるのではないかと考えたのである。というより、いくら普遍的で理性的であれ、原理が唯一であることによって押さえつけられた力が、いつか暴れ出すのではないか、と心配でもあるのだ。

 

 しかし、クリッツァーさんは実はかなり周到で、「あたたかい道徳」にも一定の役割を与えようとひと工夫をしてくれている。「あたたかい道徳」に属する「ロマンチック・ラブ」が擁護されるのもそのためなのだ……。そう、実はクリッツァーさん、そういう意味では1本立てではないのである。

 それぞれの部分は気持ちよく読めるのに、他のところで言われていることと突き合わせてみると、なかなか鮮明な像が結べない。リベラルやフェミニズムに批判的で、妙に保守的に見えるところもあれば、怪物ベンサムよろしく人情を無視した理性的な議論を展開しているようにも見える。うう、ブレブレで気持ちワルい。……そう、これ自体がクリッツァーさんの仕掛けだった。バラバラなのではなくて、独特の粘り腰というか……、二枚腰だったのである。

 一方では「つめたい道徳」、しかし、他方では「あたたかい道徳」、この2つは、それぞれに役立つ領域というか、場面が異なるのである。いわば社会の表側では「つめたい道徳」がいい。だから、この本でもその点が目立つ。だけど、その裏側では、「あたたかい道徳」も大事になってくる……。

 ほらね、そうすると、ジェイコブズ的な切り替え、道徳的な柔軟性が重要になってくるわけだ。

 しかし、その「あたたかい道徳」の中にも、恋愛のような身近な人との関係と、幸福のように個人的なものがあるんじゃないだろうか。だったら……、これって3本立てにしたらどう? ほーらね、だんだん私の方に近づいてきたんじゃない?

 

 他にも、個別のテーマで取り上げたいところはあったが、それはクリッツァーさんのこれからの本(もうすでにそういう予定があるようだ)でより本格的に展開されるだろうし、こっちとしてもすでに依頼された原稿の倍以上の分量を書いてしまったし、それに、少なくともポイントは取り出せたかと思うし、後は、……。そう、クリッツァーさんの読者の方には、『ふだんづかいの倫理学』を読んでもらい、また、『ふだんづかいの倫理学』を読んでくださった方には、『21世紀の道徳』を読んでもらえればいいと思う。

 バランスと中庸を目指した我々2人の本を両方読めば、いよいよバランスが取れるに違いない(ふふっ)。


『21世紀の道徳
──学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』
ベンジャミン・クリッツァー著(発行:晶文社)

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1965年、滋賀県生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門は哲学、倫理学。追手門学院大学、大阪産業大学、佛教大学、立命館大学などで講師を務めるかたわら、現在は邦訳スピノザ全集の計画に携わっている。主な著書に『哲学、する?』『愛とか正義とか』『哲学するための哲学入門』(以上、萌書房)、『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)など。

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