【書評】「価値」のフィルターを切り替える──ハナムラチカヒロ『まなざしの革命』評|小川さやか

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ゲンロンα 2022年4月15日配信
 少し前まで新型コロナの話題で持ちきりだったのに、いまやメディアの報道もSNSもロシアによるウクライナ軍事侵攻のニュースに染まっている。地球温暖化やAIなどのテクノロジーの進展を含め、未来の予測不可能性が強調される中、何をどうすればよいかに戸惑い、眼前の出来事や目下の関心に身を任せているという人々も多いのではないか。  本書は、ランドスケープ・アーティストである著者が、世界を変革するのではなく、私たち自身の「まなざし」を変革することで、混沌とした状況の中から未来を切りひらく方途を論じた力作である。全9章で構成される本書が扱うのは、「常識」「感染」「平和」「情報」「広告」「貨幣」「管理」「交流」「解放」と実に幅広い。これらの多様なテーマを貫くのは、「まなざしのデザイン」という著者独自の視座である。  本書は2017年に出版された『まなざしのデザイン』(NTT出版)と対をなすものだ(282頁)。同書では、多様なランドスケープ・デザインを通じて「まなざし」をデザインする実践的な方法が提示されている。たとえば、鉄道模型の人形をマンホールに置く。すると、いつもそこを歩いているのに見えていなかった風景が視界に入ってきたり、「ガリバー旅行記」の小人の国にたどり着いたようにこれまで見ていた風景が違ったものに見えてきたりするのだ。このような異化を意図的に引き起こす風景の改変や創造を通じて「まなざしのデザイン」を提示してみせた前著に対し、本書では私たちの「まなざし」がすでにデザインされている可能性に警鐘を鳴らし、それに目を凝らすことで自らが生きている世界を別様にまなざす必要を提示する。  たとえば、新型コロナウイルスが蔓延した日常ですっかり変わってしまったのは、風景ではなく、私たちの世界のまなざし方(認知の仕方)である。物理的には以前と変わらない居酒屋も、パンデミックという名称やそれに関わる情報が与えられ、「感染症を引き起こす危険なウイルスが付着しているかもしれない」という「記号」が貼り付く(イメージと結びつく)と、突如として恐ろしい場所に見えてくる。そうした認知は、「マスクをする」といった特定の行動パターンの「型」が導入され、パーテーションやPCR検査といった「道具」が与えられることで、「確かにウイルスは存在する」といったかたちに強化されていく。
 ここで重要な点が、私たちはデザインされ異化された風景にもやがて慣れ、それ以外の見方ができなくなるという「まなざしの固定化(馴致、自動化)」に陥りがちであることだ。 「常識」(第1章)とは、まさに「まなざしの固定化」の権化である。本来、その時々で変化してしかるべき常識は容易に「固定観念」や「偏見」に変貌し、独善的正義の暴走や社会の分断を引き起こす。だが「何が常識で、何がそうでないのか」を問うのは難しい。そこで著者は「常識はどのように生まれるか」「常識はどこにあるのか」へと問いをシフトさせる。言い換えれば、「まなざしの固定化」を引き起こしたプロセスを逆に辿ってみることを提案するのだ。私たちが常識だとみなす何かも、ある時点で名づけられ、情報が与えられて生まれた認知が特定の行動の型や道具などによって強化されたものかもしれない。そう示唆して、多数決や非常識、民主主義等の陥穽を掘り下げながら、「当たり前」がデザインされる契機に立ち戻って考える重要性を説く。  残りの各章のテーマも、その直前の章を引き継ぐかたちで同様の視座で検討されていく。 「感染」(2章)と「平和」(3章)は、2022年4月現在の世界において、大いなる関心を集めている。人々の怒りのみならず共感や善意、正義感にもつけこみ、対立を煽り、特定の正しさへとまなざしを固定化していく情報戦。著者は陰謀論を唱えているわけではなく「もしこの一連の騒動を演出するとしたら、どうするか」という冷静な思考実験を行うことを提案する。現在の社会的分断や混乱がいかなる情報や行為、しかけで創られたのかという問題にまなざしを向け、不確かな情報や扇動的な演出に注意深くなれば、恐怖や不寛容の蔓延から抜けだすヒントが得られるだろう。 「情報」(4章)は個々の認知的ゆがみや混乱を引き起こす最大の原因だ。ポストトゥルースという概念が生まれ、マスメディアの信用が揺らいだ。だがエコーチェンバー現象が吹き荒れるSNSも信用できない。「広告」(5章)はますます巧みになり、フィルタリングやアルゴリズムによって私たちの欲望や不満そのものがデザインされる。「貨幣」(6章)や数値に置き換えられる人生の豊かさすらも。こうした社会で生きていくためには、各種の情報をフラットに精査すると同時に、「情報は情報でしかない」と構え、情報に固執したり遮断したり過剰な価値判断をしたりせずに行動する賢さが必要になる。
 デジタル技術で人々を「管理」(7章)する「デジタル社会主義」の時代。著者はその状況を分析するため、対になったABCなるものを挙げる。それは、──Against(対抗する)/Along(寄り添う)、Better(より良く)/Balance(バランス)、Control(管理する)/Cooperation(協力する)──の3対である。著者によれば、怒りを攻撃のかたちで正当化せず、欲をより良いものと間違えず、無知によって管理されることを選ばないことによって、私たちにはまなざしの方向性を選択する可能性が残されている。「交流」(8章)に肯定的変化を引き起こすことも、私たちのまなざし次第だ。  とはいえ、日々選択して生きるのに疲れた私たちは、誰かにまなざしをデザインされたいという欲望に駆られることもあるだろう。私たちの多くは、何から「解放」(9章)されたいのかという点でまず混乱しているのだ。  それに対して著者は次のように主張する。「本当に私たちをラディカルに解放する革命とは、私たちが自らを開放すること」であり、「誰かや何かに対して変革を迫ることではなく、社会的価値観や常識、欲や怖れに取り憑かれている自らのまなざしに革命を起こすこと」(267頁)だと。そのヒントとして著者は「利」「理」「離」という三つの「り」を補助線に引く。曰く、個々が短期的な視野で自分だけの利益を見つめれば、欲に絡めとられ、反目しあい潰しあう社会になる。だから道理、理想、理念が必要だが、「理」だけで物事を見ると正しさの固着に囚われる。そこで「利」や「理」から離れて物事を観察するニュートラルな視点、「離」が必要だ。だが「離」だけでは当事者としての関心を抱けず、大きなものに身を委ねる「無知」や「痴」を胚胎させる。三つの「り」のバランスが大事だ。ただしその際、「利」を得るために「理」を振りかざし「離」を決め込んで責任逃れするという順番ではなく、「離」から出発し、そのつどの「理」や多くの人々の「利」を目指すかたちにするべきであると。

 

 ここまでが本書の概要である。まず評者なりに本書の提案の重要性を評価したうえで、若干の疑義について述べたい。
 著者は、言う。先行き不透明で、あるべき未来が想像できない中では、現在の延長から未来を予想する「フォアキャスティング思考」も、理想像からいまを考える「バックキャスティング思考」も役に立ちそうもない。それゆえ、誰もが釘付けになっている問題、誰もが囚われている解決策、絶対視されている意味や価値をひとまずリセットし、無法者か革命家のように常識の外側から物事を考える「アウトキャスティング思考」が必要になる(16-17頁)と。  文化人類学を専門とする評者は、異なる文化を持つ社会に深く入り込んで「他者」のまなざしや世界との関わり方を身体化し、そこから翻って自らが生きている世界をまなざし直し、自文化や自社会の論理や機序を問い直し、再度、異なる文化や社会の論理や機序を普遍的な理論に照らして検討し直すという往還を繰り返すことを仕事にしている。つまり、評者の研究は、アウトキャスティング思考を不可欠な一部にしている。実際、アフリカ諸国で長期調査をし、当初は奇異に思えた人々の行為や世界に独自の論理や機序があることを体感してしまうと、逆に日本での「当たり前」のほうが奇異に見えてきて、なぜそれが当然とされているのかを追究することになる。まなざしの革命だ。  そのためには、いかに奇異でいかに受け入れ難くても、自身の「常識」や「正義」「倫理」をひとまず括弧に入れて、他者を真剣に受け取るという姿勢が必要になる。あらゆる世界をニュートラルに見る姿勢は人類学という学問が自らに課しているギブスのようなもので、それは真摯なアウトキャスティング思考を世界中の人々が実践し、学びあい交換しあうことで、オルタナティブな世界が構築できるという信念に基づいてもいる。それはおそらく著者の信念と共鳴している。
 人類学者でありアクティビストでもあったデヴィッド・グレーバーは、私たちが「価値」だとみなすものは、私たち自身の行為がパターン化したものだと論じた。より正確には、特定の行為が想像上のものも含めた、何らかの社会的全体性に取り込まれ、行為者たち自身にとって意味を成す、その成され方であると述べた★1。逆に言えば、それが王であれ、貨幣であれ、常識であれ、情報であれ、私たち自身がそんなものは存在しない、あるいは絶対的なものではないかのように行為を積み重ねれば、その価値は疑問に付される。このような視座は、「自分たちが理想だと思う世界が予め実現していると示唆してみせる」という「予示的政治」という実践的な運動にも連なっている。  本書では、特定の行為の型(パターン)や道具立て(モノや環境)が生み出す「まなざしの固定化」を焦点化している。それはグレーバーが言う、私たちがいつの間にか自然化し、絶対的なものだとみなすに至った「価値」と近しいものだろう。そして世界をより良いものに変えるためには、対立や混乱を煽る異議申し立てをするよりも、多様な価値をいったん相対化し、自らのまなざしの変革を通じて望ましい世界を個々がデザインしていくほうが大事だというのが本書の主張だとすると、評者はその主張に強く共感する。  ただ、評者のように物理的に異なる社会へと移動することなしに、日々を何気なく過ごしながら意識的に自らのまなざしを変えることは至難の業だと思う。実際、本書は啓発書のようにシンプルな解決策を提示しているわけではない。むしろまなざしを変革する切実な必要性を提示するために、各章のテーマのアポリアを丁寧に解きほぐすことに紙幅を割いている。まず自らが置かれている混沌がどのように構成されているかを理解し、他者ではなく自らを問い直すことの重要さを気づかせてくれる点で本書はとても豊かである。だが、まなざしの革命を実践に移すことを具体的に想像すると、本書の提案には危うい側面もあるように感じられた。
 本書には、もし利益を得ようとする者が、情報の拡散や様々なしかけを通じて「騒動を意図的に演出するとしたら」と、著者自らその例を披露してみせる箇所がある。評者は、もし私がずる賢いデザイナーならば、「人々が自らのまなざしがデザインされた可能性に目を凝らし、自らのまなざしに向きあう努力」もデザインに織り込むだろうと考えた。なぜなら、自らのまなざしを自覚的にコントロールできる人間は、自己をまなざす他者のまなざしにも自覚的であり、それを管理したり操作したりすることも得意だと想定するからだ。それでは、「他者のまなざしをまなざす」メタなまなざしが二重、三重に築かれるだけではないだろうか。もちろん著者は悪人ではないし、「デザイン」という語がはらむ危うさにも気づいている。しかし評者は素朴に思うのだ。人間はいかに公平無私であろうとしても、いかに複雑な物事を複雑なままニュートラルに受け止めようと試みても、何がしかの価値に囚われることからは逃れられないのではないか。たいてい個々のまなざしには何重ものフィルターがかかっており、一つのフィルターをはぎ取ってもその奥底からより手ごわいフィルターが立ち現れる。あるいは剥き出しになった裸のまなざしを保護し覆ってくれる、別のフィルターを探し求めたりする。醒めた目で世界をまなざすには強靭な精神がいるからだ。  他方で、自身のまなざしすら思うようにできないという日々の経験を通じて、人間は他者のまなざしがままならないことや世界が混沌としていることを赦してもいる。彼らの目は曇っている、ゆがんでいると感じても、それらの人々が絡めとられている諸々の現実に思いを馳せ、赦し、混乱を受け入れ、何とか絶望的な状況や絶対的な対立にならぬよう関わりあう知恵も人間は育んできたと思う。自己のまなざしを飼い慣らすことと他者のままならなさを飼い慣らそうとすることの境界は、本来、紙一重だと評者は思う。  実際、人類史的に見れば、人間は自らの自由を奪い、混乱に陥れる可能性があるもの──国家や権力や正しさ、貨幣等──に意外と敏感で、それらを払いのけ、何でもないものへと変える努力もしてきた。しかし、個々の努力や意志ではどうにもならない出来事や偶然的な結果によって、人間はつねに自らを縛るものを自らで生み出し、進んで取り込まれることを繰り返してきたようにも思われる。人間の歴史は、そうした人間の存在論的な脆弱性とともに、小さな「まなざしの革命」があちこちで試みられ、成功と失敗を繰り返してきたものではなかっただろうか。
 ゆえに迂遠ではあるが、まなざしの革命は「いま・ここ」の事態がデザインされている可能性やそれを生み出した人間やモノ、環境、情報、しかけ、システム等のアッサンブラージュだけでなく、人間存在や、人間が世界のあちこちで繰り返してきた、より多様で長いスパンのまなざしの革命に目を向けて構想されるべきではないかと評者は考える。  とはいえ「まなざしのデザイン」の深淵をどこまで掘り下げるかは、ひとりひとりの読者に課せられた宿題かもしれない。そのような心躍る宿題を提示し、いま・ここの世界の動きに個々ができることを提示してくれた本書が多くの人の手に取られることを願う。

 


★1 David Graeber, Toward an Anthropological Theory of Value: The False Coin of Our Own Dreams, Palgrave Macmillan, 2001.

『まなざしの革命──世界の見方は変えられる』
ハナムラチカヒロ著(発行:河出書房新社)

小川さやか

立命館大学先端総合学術研究科・教授。1978年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ研究。国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同助教、立命館大学先端総合学術研究科准教授を経て現職。主な著書に『都市を生きぬくための狡知—タンザニアの零細商人 マチンガの民族誌』(2011年、世界思想社、第33回サントリー学芸賞)、『「その日暮らし」の人類学—もう一つの資本主義経済』(2016年、光文社)、『チョンキンマンションのボスは知っている—アングラ経済の人類学』(2019年、春秋社、第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞)など。

1 コメント

  • itks2022/09/14 10:04

    ▼本書評を読んだことがきっかけで本書(「まなざしの革命」)を知り読んでみた。 論旨は本書評前半の通りだが、「感染」や「戦争」などの時事テーマだけでなく、「広告」「貨幣」など社会の基本的な要素についても扱われることで、一定のまなざしを持つよう誘導する力が、いかに自分のまわりの隅々にまで働いているかが理解できた。また、単なる分析に留まらず、他者によるまなざしのデザインから「解放」される方法(3つの「り」、とくに「離」)が提唱されているが、実践的な内容であるように感じた。 読みごたえのある本だった。 ▼そして、本書評の後半では、「まなざしに本当に革命を起こすとはどういうことか」が、ほかならぬ本書への「若干の疑義」を通じ高次元で実践されている。 「自分こそ中立だ」「自分は、他者(他人・国家・メディア・SNSなど)にまなざしをコントロールされている人たちとは違う」という考えを持っている状態自体が他者に設計されているのかもしれず、またそのような状態こそが、実はコントロールしようとする他者に付け入る隙を与えているのかもしれない。 抗うべき(あるいは、抗いきれないにしても、少なくとも自覚するよう努めるべき)対象は、「他者によるまなざされ」「まなざしの固定化」だけでなく、「『自らのまなざしに向き合う努力』すら他者にデザインされること」というメタレベルも含まれるのだろう。 深く考えさせられる、素晴らしい書評・論考だった。

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