【書評】弾圧の記憶とポップカルチャーの夢──四方田犬彦『戒厳』評|速水健朗

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ゲンロンα 2022年4月22日配信
 BTSがコロナ禍の最中に発表した『Life Goes On』のMVには、蚕室チャムシルのオリンピックスタジアムが映っている。コロナ禍で延期になったライブの会場。その姿をひと目見ようと、メンバー全員が2台の車に分乗し出かける。トンネルを抜けて視界が広がった先に、緑に囲まれた美しいスタジアム。高層住宅が立ち並ぶソウル市街のイメージの中で、ひときわ緑の多いエリア。だがそれゆえに、人工的な都市計画によって生まれたエリアである事実がより鮮明に浮かび上がる。  四方田犬彦の『戒厳』は、1979年のソウルを舞台に、自らの経験を元にして執筆された半自伝小説だ。どんな都市でも40年の歳月でがらっと変わる。だがソウルの40年の変化は、とりわけ際立つもの。1970年代、街の中心を流れる漢江の南側の江南カンナムと呼ばれる新興の中心市街地で、将来のオリンピック誘致を見据えた総合開発が始まった。高層住宅密集都市としてのソウルの姿は、このころから形成されつつあった。韓国で最初に高層ビルエリアとして計画が手がけられたのが蚕室である。 『戒厳』の主人公は、東京の大学でフランス文学を専攻していた20代半ばの青年だ。韓国語もできないし、その文化に惹かれていたわけでもなかったが、ひょんなきっかけからソウルの大学に職を得て、1年の赴任生活を送ることになる。間借りするのは、蚕室に住む裕福な夫婦の3LDKのマンションの一室。彼らの末息子が兵役に就くため、四畳半の部屋が空いていたのだ。  まずは、生活文化の違いに直面する。教授と学生とで食事をするときでも、勘定は誰か1人がまとめて支払う。韓国には割り勘の慣習がない。食事代をおごったり、おごられたりが日常。ちょっとした駆け引きで人間関係のバランスが形成される。また、主人公が休日に普段着のまま「場末」の映画館通いを続けていたところ、それが問題視される。教授たるもの立派な映画館でスーツを着て映画を観てもらわないと困るというのだ。見栄や権威が重んじられるもの韓国社会の特徴。  ただ、これらは異文化のぶつかりあいという範疇におさまるもの。やがてその枠を超えた状況に主人公は突き当たる。夜の12時が近づくと、街から人の姿が消える。夜12時から4時までの外出禁止令が出ているからだ。タクシーを捕まえるのも困難。なんとかタクシーを捕まえた主人公だが、乗っている最中に12時を超えてしまう。運転手は、行き先を警察署に変え、主人公を警察に突き出した。夜間外出の手助けというやっかいごとを避けたのだ。外出禁止令は、名ばかりのものではなく、厳格に運用されていた。
 一応、断っておくが、北朝鮮の話ではないのである。東西冷戦時代の西側 "自由諸国" に属していた韓国の話。時代も1979年だから遠い過去というほどではない。ある年齢以上の日本人にとっては、自分が生きている時代に隣国で起きていた出来事である。  当時の韓国は軍事独裁で、終身大統領の朴正煕パクチョンヒの政権がすでに17年続いていた。主人公も、手紙の検閲を受け、夜間に外出ができない状況に戸惑う。読み手のこちらも実感としてわからない。軍事国家では、なぜ夜間に外出が禁じられるのか。主権の制限ってなぜ必要? 夜に外に出ないと街の治安って維持されるの? ちょっと理解できるのは、市民が酒を飲んで議論を交わしたりしているうちに、民主化運動は盛り上がったりするのだろうということ。後年の韓国映画の中でよく描かれる場面である。これは、どの独裁国家も同じようなもの。表現を規制し、検閲しようとする。韓国もまたそうだったと小説内で描かれる。  許可を受けて上映される映画の多くは、共産主義や北朝鮮を悪者に見せる目的で作られた反共反北映画だ。露店などではビートルズのレコードが売られているが、海賊版ばかり。韓国で流行っている歌を尋ねると、学生は、「スカボロー・フェア」の韓国語版を歌う。サイモン&ガーファンクルのヒット曲が、韓国では南北統一の願いが込められた自国の歌と認知されているのだ。さらには『あしたのジョー』や『パーマン』といった日本でもなじみのある漫画が、設定や登場人物を韓国のものに描き換えられ、オリジナル作品として普及していた。  もう一度断っておくが、北の話でなく、韓国の1979年の状況だ。こうした姿は、ポップカルチャー輸出大国である現在の韓国の姿から、あまりにかけ離れている。ここ40年で韓国の文化輸入、輸出への姿勢は激変したのだ。
 さて、小説の題名である「戒厳」令の話に立ち戻る。主人公が経験した深夜の行動制限や手紙の検閲などは、戒厳令によるものではない。あくまで当時の韓国の日常の一部だ。だが、1979年10月26日に大統領の朴正煕が暗殺されると、国全体に非常戒厳令が敷かれる。その戒厳令下のソウルを、主人公は歩き回る。バスは動いているがいつもよりも混んでいる。勤め先をはじめ大学は門を閉じ、入ろうとするとM16ライフルを持った兵士に制止される。仲間で集まっていると、反政府デモを企んでいると目されるので、みなバラバラに行動をしている。  大学が封鎖されているのは、物語の20年前、李承晩イスンマン政権が倒されたきっかけが学生デモであったからだ。街で出会った顔見知りの教授は「たかだか学生のデモでひっくり返るような脆弱な政府しか、わが民族は造り上げてこなかったのか」と、当時を振り返り嘆く。  日本では、1960年、1970年に前後し安保反対デモが起きたが、政府はびくともしなかった。同じような時期に韓国で起こったデモはクーデターに発展している。その度に体制が変わった。政府が脆弱で、それゆえビクビクしているから、夜間外出を禁止しポップカルチャーを検閲する。この国のデモで左翼(学生、民主派)が勝つと、それは北朝鮮側に近寄ることを意味する。空白を作れば、実際に北が攻め込んでくる。兄弟国と彼らが思っているベトナムは、実際にそうなった。クーデターで軍が権力を握れば、再び軍事独裁政権が続くことになる。  そんな複雑な政治状況に置かれているソウルの中心部は静かだった。主人公は、バスの車窓から戦車を見る。だが、その日、何かが変わったわけではない。社会の変化は、もっと長い時間を経てみなければわからない。主人公は朴正煕の国葬をテレビで見とどけ、東京へと戻る。
 そして韓国社会は、しばしの空白を経たのちに、内部闘争で権力を掌握した全斗煥チョンドゥファン時代に引き継がれる。違う性質を持った指導者が誕生するが、やはり独裁は続く。光州事件は翌年の出来事。主人公は、事件前の光州に立ち寄っていた。光州市出身の教え子に誘われて観光旅行に訪れていたのだ。エピローグでは事件を東京で知った主人公の動揺も描かれる。  光州事件では、自国の軍隊が自国民を虐殺した。背後には、民主化運動とその弾圧がある。そんな衝撃的な事件がなぜ起きたのか。その正確な経緯は、当時の韓国内では伝えられていなかった。これを北朝鮮の扇動による暴動とする、統制された報道もされた。だが、のちに市民運動の弾圧だったのだと、歴史認識が変更されていく。  事件への関心は世界に広がった。2000年以降、光州事件を題材にした映画が複数作られていった。『光州5・18』や『タクシー運転手』などだ。これらの映画はエンターテイメント作品として公開され、韓国の内外で話題を巻き起こした。日本人にとっては、初めて知る隣国の衝撃的な事件。少なくとも僕は、これらの映画に触れるまで事件の存在すら知らなかったし、視聴したのはエンターテイメント映画として取り上げられていたからだ。韓国に興味があったわけではなく、映画の舞台、背景として、韓国現代史に興味を持った。そして、韓国の民主化運動やその弾圧の歴史に関心を寄せるようになった。  かつての韓国は、国内にのみ向いて反共映画を作り、国民の北への怒りを増幅させ、軍事政権存続を目論んでいた。一方、現代の韓国映画は、国外に向けた "輸出産業" だ。ポン・ジュノ、Netflixの『愛の不時着』。いまさらタイトルを挙げる必要もないだろう。自国の政治、歴史に踏み込みつつも洗練されたエンターテイメント作品として受容されている。  民主化の経緯の困難がポップカルチャーを成熟させたという単純な話でもないだろう。では、政治状況ゆえに抑え込まれていた表現が爆発したのか。または急速に変化する社会の中で、映画もそれに耐えうる強度を持たざるを得なかったのか。どれもしっくりこない。
 ただ言えるのは、ポップカルチャーは、その国の背景にある政治状況を映しだすし、占領経験や戦争の相手──つまり韓国においては日本とアメリカだ──への憎しみと憧れが混ざり合ったアマルガムとして生成されるということだ。『戒厳』のラスト、後年に韓国を訪れた主人公は、日本文化が全面解禁され、国際都市に変貌した江南の姿を目の当たりする。  最後に、ソウルに住む主人公から見た日本文化についても触れておく。主人公は、日本の友人からの手紙で、サザンオールスターズの新曲『いとしのエリー』(1979年3月発売。サザンの3枚目のシングル)の評判を知る。さらに、日本から来た友人が置いていった小説『風の歌を聴け』(同年7月単行本刊行)を読み、それまで読んだことのある小説との「様態(モード)」の違いを感じとる。  桑田佳祐と村上春樹。アメリカの生活様式から強い影響を受け、その自覚を強く持ちながら、日本人になじむ作品を作ってきたミュージシャンと小説家。1979年の時点では、まだまだ駆け出しだった彼らが、いつしか日本の "国民的" 存在となる。   桑田佳祐のつくったCM曲を聴かない日は、1日たりともない。映像化作品がアカデミー賞(国際長編映画賞)を受賞した村上春樹は、これまでも国民的作家だったが、さらに揺るがない地盤を固めた。良くも悪くもだが、1979年で日本の文化は歩みを止めてしまっている。そんなことを指摘する僕自身も、ユニクロで売っていた春樹RADIOのコラボTシャツを二種類買い揃えた。かかっていた店内BGMは桑田だった。国民的作家だろうが、反国民的作家だろうが、どっちでもかまわないし、彼らにそれに加担しているつもりがないのもわかる。ただ1979年で止まっている日本が快適だからそれでいいのかという疑問、煩悶がある。その時代を過去にする手段が思いつかないだけなのだ。

『戒厳』
四方田犬彦著(発行:講談社)

速水健朗

1973年生まれ。フリーランス編集者・ライター。著書に『ケータイ小説的。 〝再ヤンキー化〟時代の少女たち』(原書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『1995年』(ちくま新書)、『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)など。
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