ゲンロンが読んでみた【書評特別篇】宇宙を狂気か...

【書評特別篇】宇宙を狂気から救う哲学──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』評|石田英敬

webゲンロン 2022年8月31日配信
 2022年8月30日、ユク・ホイ『中国における技術への問い』がゲンロンより刊行されました。ユク・ホイの邦訳としては、『再帰性と偶然性』が青土社より2月に刊行されています。以下に公開するのは、石田英敬さんによる『再帰性と偶然性』の書評です。書籍の紹介をはるかに越え、ユク・ホイの哲学全体を、そして現代のサイバネティクス化したメディア環境を射程に収めた論考を寄せていただきました。ホイの哲学への入り口として、ぜひ『再帰性と偶然性』、『中国における技術への問い』とともにお読みください。(編集部)

 いまユク・ホイの仕事が世界の哲学に静かな熱狂をもたらしつつある。その波の拡がりは従来の西欧哲学の伝播経路とは少し異なっている。香港から出発し、ロンドン・ゴールドスミス・カレッジを経て、パリのポンピドゥーIRIで修行。その後、ドイツや香港、あるいは杭州で教えるという、本人の移動軌跡も型破りだが、受容の方も、ロンドン、ドイツ、スペイン、中国、韓国、台湾、さらに南米へと、アーキペラーゴ状に拡がってゆき面白い。従来の西欧哲学の伝播経路を逸れるように、東洋医学のいう「経絡」のようなネットワークというべきか、いままでにない〈哲学の友〉のつながりができつつある。今後それはさらに拡大してゆくだろう。

『再帰性と偶然性』が原島大輔訳で2月に青土社から出た。8月には『中国における技術への問い』が伊勢康平の訳でゲンロンから刊行される。ユク的なファルマコロジーが日本でも拡がってゆくのはうれしい。

 本人が5月に東京芸術大学の招聘で講義にやってきた。そのタイミングをとらえて、シラスチャンネル『石田英敬の現代思想の教室』でもユク(と随分前からの知り合いなのでファーストネームで記させてもらう)を囲むことにした[★1]。訳者の原島さん、伊勢さん、また後半は東浩紀さんも友情出演し、6時間半にわたる超長時間ディスカッションが花開いた。まずはみなさんたいへんお疲れ様でした。そして視聴してくれたみなさんほんとうありがとう。

 こうしてユクの著作が身近になり、分かりやすい日本語で読めるようになってきたことはまことによろこばしい。本稿では、読者がすぐに手に取って読むことができる、原島訳『再帰性と偶然性』についてなるべく分かりやすく入門的な書評を書くことにしよう。

 まず言っておかなければならない。原島大輔の手になる翻訳はほんとうにすばらしい。原著はまさしくハードコアの哲学書だから決して平易ではない。それが、たいへんによくこなれた分かりやすい日本語になった。日本語訳を追うだけで原著の哲学的議論の細部まで分け入ることができることはたいへん大きなメリットだ。

 これまでのユクの著作を、簡単にふりかえっておこう。

1)Yuk Hui On the Existence of Digital Objects(Electronic Mediations Series, volume 48 University of Minnesota Press 2016;『デジタル・オブジェクトの存在について』、未邦訳)が、ユクの最初の著作。ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952-2020)の指導のもとで書き上げた博士論文の書籍化で、スティグレールの序文が付されている。   

 ジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon 1924-1989)の博士論文副論文Du mode d’existence des objets techniques(1958:『技術的対象の存在様態について』、未邦訳)が技術的対象の存在を問う研究であったとすれば、それを発展させてデジタル・オブジェクトの存在を問う存在論の試みだ。

 ポスドク研究員による博論の書籍化は未熟なものだろうと見くびられがちで(この傾向は残念ながら洋の東西を問わない)、まともに読んでもらえなかったりする。だが、ユクのこの本についてそんなふうに考えるとすれば大きな間違いだ。

 ここでは詳細は追えないが、この本は、デジタル・オブジェクトが存在するとはどういうことなのかという情報技術の「オントロジー」問題を扱っている。アリストテレスの形而上学に遡って西欧形而上学の実体観を批判し、中世哲学の検討を経たうえで、シモンドンのテクニカル・オブジェクト論、ハイデガーの技術論・時間論を手がかりに究めようと試みた、まことに本格的な哲学書なのだ。そして、その射程は、少し前に流行した「オブジェクト指向の哲学」や「新実在論」をはるかに超えていると見てよい。21世紀に情報文明を考える人間はぜひこの本を読むことから始めるべきだと私は考えている。だから、この本の翻訳もぜひ早く出てほしい[★2]

2)その次に出したのが、ちかぢかゲンロンから出版される『中国における技術への問い』だ(Yuk Hui The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics Urbanomic / Mono 2016)。この本については、これから日本語訳が出ていろいろな論が興るだろうから、ここでは書かない。書名を見るだけで、ハイデガーの『技術への問い』を受け継いでいることが分かる。またジョゼフ・ニーダムによりそうかたちで中国文明における技術の問題を解こうという本書のコンセプトは、第一作とそして第三作である『再帰性と偶然性』の問いの脈絡を明かしてもいるだろう。東洋の哲学、日本の京都学派への言及も多いから、私たち東アジアで哲学をしている人びとへの問いかけの書でもある。私たちはユクの立てている問いに真剣に応答しなければいけない。

3)そして、第三作が『再帰性と偶然性』(Yuk Hui Recursivity and Contingency Rowman & Littlefield Intl 2019)だ。この本についてはこれから論ずることになるが、ここでは1)で述べたデジタル・オブジェクトの存在論を技術システム論として発展させて、サイバネティクスを考究しているという連続性を指摘しておきたい。本書に登場する「第三次予持 third protension」や「間オブジェクト性 interobjectivity」といったユク独自の概念も、すでに1)の段階で発明されていた。

4)ユクはさらに昨年2021年、四番目の著作 Art and Cosmotechnics (Eflux Architecture 2021:『芸術と宇宙技芸』、未邦訳) を世に問うている。こちらは、ヘーゲルの芸術の終わりやハイデガーの哲学の終焉を受けて、アートとテクノロジーの関係を改めて考える美学へのチャレンジだ。ギリシャ悲劇から現代芸術にいたる西欧の美学と同時に、中国における山水の美学やときに日本の「もののあはれ」を問い、悲劇のロジックから「宇宙技芸」にいたるテクノロジーとまだ見ぬ論理学を論じるこの本は、ユクがますます独自の境地へと向かっていることをいかんなく示している。とくに後半で西田の場所の論理や三木の技術哲学などが縦横に論じられていることをみれば、日本の読者はますます無関心でいられるはずがない。

 以上のように、ユク・ホイのポストヨーロッパ哲学の道は開かれつつあるわけだ。

1 〈サイバネティクス化した世界〉を哲学する

 さて、前置きが長くなってしまったが、ここからが『再帰性と偶然性』についての書評本論だ。分かりやすさを優先してときに単純化を厭わない書き方でまとめることを許してほしい。

 ユクは冒頭で、「本書は、まずもって、サイバネティクスの研究である」と宣言する。この本の目標は、「システム一般の進化、とりわけ技術システムの創発を理解すること」とある。初期近代を支配していた「機械論的な世界観」から脱却して、「有機体」のシステム理論が、どのように成立し進化していったのかを哲学的に跡付けてゆくのだ。

 そのとき鍵となる概念が、本のタイトルにもなっている、「再帰性」と「偶然性」だ。この二つの概念が、哲学的にも技術的にも、「システムの創発と絶えざる改良」をもたらしてきたからだという。

 もう少しかみ砕こう。

 まず、そもそも、なぜ、サイバネティクスの研究なのか?

 それは端的に21世紀の私たちの生活環境──その技術システム──がサイバネティクス化しているからだ。いまさかんに第三次人工知能ブームといわれるけれど、そのとき、インテリジェントな環境とかスマートな技術と呼ばれるものが、つまりサイバネティクスなのだ。あなたも周囲を見回してほしい。私たちの生活世界は完全にサイバネティクス化しつつある。

 

図1 環境のサイバネティクス化
 

 図1は、私が授業などでよく使う21世紀初めの「環境のサイバネティクス化」の図だ。ハイデガーが『存在と時間』(1927)で一世紀前に考えたような「〈現存在〉の構造」をもとにして作図している。

 100年前ハイデガーが『存在と時間』(1927)を書いた頃の〈世界-内-存在〉の構造では、技術的対象としての「用具」はハンマーを典型例にしていた。しかし、現代におけるそのような用具は、例えばスマートフォンだ。モノたちはお互いに、ユクの用語でいうなら「インターオブジェクティヴ」にコミュニケートし合っている。

 位置情報もGPSで捕捉されてシステムにフィードバックされ、あらゆるコトはデータ化され、人びとのコミュニケーションもソーシャルネットを通して「再帰化」されている。

 いったいどのようにして人類は、このような普遍的にサイバネティクス化した世界へたどり着いたのか。この世界は今後どこへ向かおうとしているのか。それを考えるための哲学とはどのようなものでなければいけないか。ユクはこの本でそれを示そうとしているのだ。

 ところで、このような技術システムの進化には、自然概念──自然観──の変化が対応しており、それを考えてきたのがカントに始まる近代の哲学システムだった。

 ユクによれば、それはドイツ観念論が考えたようなロマン主義的な「第一の自然」に始まる。そしてハイデガーが言うような技術システムの総かり立て体制(Gestell)に対応する「用象」(搾取の対象)としての「第二の自然」を経て、「宇宙技芸(cosmotechnics)」とユク自身が呼ぶ技術的多様性に特徴づけられた「第三の自然」観へいたるべきなのだという。このような見通しのもと、技術と自然と哲学との関係を、機械と有機体(生物)、システムと自由といった諸問題に関して問うていくこと。本書はそのような問題提起で始まる。

2 〈有機的なもの〉

 では、サイバネティクスの問題とは、もっとも簡単に言えば──つまり、根本的には──どういうことなのだろうか。それは、技術進化によって、道具や機械が生物のようになることだ。言い換えれば、技術が〈有機的なものthe organic〉になっていくことを意味する。

 ならば、その〈有機的なもの〉についてはどのように考えればよいというのか。そんなふうに問い始めると、そこからがまさに哲学の問題となる。

 始まりはカントだった。

 ユクは書いている──「カントの第三『批判』[=『判断力批判』]が一七九〇年に刊行されてこのかた、有機的なもの[the organic]という概念が、哲学することの新たな条件であり続けてきた」、と[★3]

 カントは、一本の樹木を例に、有機的な存在者を定義する三つの要素をあげる──

第一に、樹木はみずからをその類に則して再生産する。つまりもう一本の樹木を再生産する。
第二に、樹木は環境からエネルギーを吸収してみずからの生命を持続させる栄養へと転ずる一つの個体としてみずからを産出する。
第三に、この樹木のさまざまな部分たちは互酬的な関係を確立することで全体を構成する──カントいわく、「一つの部分の保存は他のすべての部分の保存に互酬的に依存している」。[★4]

 カントが言いたいのは、一本の木はもう一本の木を再生産する再帰的なプロセスであり、環境の偶然性に左右されながらもその偶然を自己の成長の必然性へとリサイクルするシステムであり、さらに全体と部分が有機的に連関したシステムでもある、ということだ。

「或る物が[……]みずからの原因でもあり結果でもあるならば、それは一つの自然目的として実存している」とカントは言う。

「自然目的」とは客観的に外部からは観察できない何ものかだ。「われわれにはあれこれの樹木や動物は見えても、一つの全体としての自然はもろもろの機械的法則を通じて捉えることはできない。理性にできるのは自然目的を反省的判断力を通じて理解することだけである。つまりそれは何らかの自己組織的な存在者へと再帰的に到達するのである。目的論的な思考はこの意味で円環的である。A→B→C→A」(79頁)とユクは解説している。

『純粋理性批判』、『実践理性批判』につづく、第三の批判の書である『判断力批判』でこのように「反省的判断力」を理論化したカントから、〈有機的なもの〉を新たな思考の条件とする哲学が始まったのである。シモンドンは、「カントがサイバネティクスの問いに取り組めるようになるには『判断力批判』をまたねばならなかった」と書いている。このとき機械論の時代が終わり、〈有機的なもの〉の思想は、生気論(vitalism)、有機体論(organicism)、システム理論(system theory)、サイバネティクス(cybernetics)、そして器官学(organology)へと発展していくことになった。

3 ドイツ観念論とサイバネティクス

 カントを受け継いだドイツ観念論は、20世紀のシステム理論やサイバネティクスの直系の先祖なのだと聞くとみなさんどう思うだろうか。私自身は、率直に言うと、まいったな!と思った。20世紀以降の構造やシステムの思想は、思弁的な観念論の伝統とは切れたところで成立したと考えていたからだ。

 ところがまったくそうではないのだ。カントの第三批判を発展させて、精神と自然を同一化するようなシステム的な思考をうちたて、自由と必然、偶然性と論理をめぐる思弁的な哲学システムを組み立てていったのがドイツ観念論だったのである。

 ユクの『再帰性と偶然性』のめざましい論証がそこから始まる。

 図2を見てもらいたい。次の三つの図はこの本のなかで「再帰の諸形式」として示されている(35頁)。

 真ん中の図は、ハイデガーが1936年の講義「シェリング『人間的自由の本質について』」(邦訳『ハイデッガー全集』42巻、第18節)のなかで描いたもの。他の二つは、フィヒテ、ヘーゲルにおける再帰性をハイデガーにならってユクがモデル化したものだ。

 

図2 ドイツ観念論における再帰性のシステム
図版上部は『再帰性と偶然性』、p.35より引用。各哲学者の肖像はPublic Domain
 

 フィヒテにおいては、精神は自我から出発し、非我に直面するたびに自我に回帰し、再帰的で反復的な運動のなかで実在が実在として明かされる。自我と非我とのこの絶えざる再帰の運動がフィヒテの哲学システムだ。

 シェリングにとっては、自然と精神とは類比的な関係にあって、精神とは不可視の自然であり自然とは可視の精神である。この類比構造が自己再帰の円環的な生成運動を作り出していく。偶然の出来事の障碍に出会っても、「能産的自然」としての精神はそれをきっかけにさらに「所産的自然」を生み出していく(ハイデガーの図で、偶然の障碍は渦巻きの上位レヴェルへの移行のきっかけとなっている)。シェリングにおいて、自然と精神、主体と客体は、自然のなかで「一般有機体」として発展的に同一化していくのである。

 ヘーゲルの弁証法はよく知られているだろう。彼の反省的(つまり再帰的)論理は、二重否定(つまり弁証法)を特徴としており、精神は自然を自己にとっての他者として措定し再認することで螺旋状に──つまり、再帰的に──止揚し統合してゆく。

 このように図式化してみれば、ドイツ観念論御三家の哲学システムは、三者三様に、哲学的な再帰的システム論なのであり、偶然性に開かれつつ偶然を必然化していくフィードバック回路をそなえた哲学マシンなのだと分かってくる。

 ここではこれ以上詳しくは書けないけれど、ドイツ観念論の大哲学者たちは、一般有機体の自然哲学を生み出し、再帰性の論理学を発展させていったのだ。

4 20世紀に回帰した有機体論

 ドイツ観念論の大哲学者たちは、まだ産業革命以前の時代の人びとだった。彼らの哲学システムは、ロマン派的な「第一の自然」観をもたらしたにとどまったのである。

 有機体の哲学がじっさいの科学や技術の進化と結びつき、新しいパラダイムが生まれていくためには、近代が深まり、技術システムが進化する必要があった。ハイデガーの言う「用象としての自然」への移行がそれに当たる。

「シェリングの自然哲学が生物的有機体論の一つの前駆であるなら、ヘーゲルの論理学は一つの機械的有機体論たるサイバネティクスの予料である」(123頁)とユクは述べる。

 19世紀を通じた科学や技術の発達によって技術システムが組み上がったときに、シェリングの自然哲学とヘーゲルの反省論理学の延長上で、システム論やサイバネティクスや器官学が構想されていく。その百花繚乱については、本書の第2章と第3章を読んでいただくしかない。大筋だけをここでは確認しておくことにしよう。

 

 20世紀初頭における有機体論の回帰およびシステム論の開花をシェリングの自然哲学の延長上で論じていくのが第1章、ヘーゲルの反省論理学の延長上にサイバネティクスを位置づけ、チューリングにまで論が及ぶのが第2章だ。

 シェリングの自然哲学の基礎とされた「有機的な全体」という思想は、20世紀初頭に回帰した。それが「生物的有機体論」の諸学派の展開だ。

 有機体の哲学の還帰を代表するのは、有名なホワイトヘッドの「有機体の哲学」だろう。一本の木は、孤立した一本の木ではなく、森のなかの一本の木である。その木は周囲を取り巻くあらゆる他の樹木と相互作用しており、その動態は内在的な諸関係と外在的な諸関係を通じて理解されなければならない。ホワイトヘッドの有機体の哲学は、20世紀の有機体論者たちに大きな影響を及ぼしていく。そのなかには、ユクの『中国における技術への問い』にとって決定的に重要なジョゼフ・ニーダムもいる。

 本書でとりわけクロースアップされるのは「組織化された複雑性」を問題にするベルタランフィの「一般システム理論」である。そしてまた、「有機体とその周囲の外部世界の関係性についての科学全体」を指すという、エルンスト・ヘッケルに始まる「生態学」、つまり「エコロジー」の思想もまた、こうした生物的有機体論と深く結びついている。

 一般有機体の思想はまた、「地球は一つの有機体であり、その適切な研究は生理学でなければならない」と述べたハットンの「超有機体」から、ジェームズ・ラヴロックやリン・マーギュリスが発展させた「ガイア仮説」にいたる系譜を生んできた。そのように考えるなら、「人新世」とは「人工地球が一つのサイバネティクス的なシステムとして達成された」時代のことなのだとユクは言う。このように生物的有機体論の系譜は、シェリングの自然哲学の延長上に展開してきたのである。

 他方、ヘーゲルの反省論理学はどのような展開を生んだのか。ヘーゲルにおいて自然は、外側から観察する理性の対象である。しかし、ヘーゲル弁証法によって、精神は自然を否定しつつ再認することを繰り返すことでそれを同化して進歩していく。上記の図2で示した螺旋運動が示すように、自然の偶然性を必然化して再帰的に進化していく。

 このヘーゲル弁証法の自己反省的な論理を機械化できるかと問い始めると、20世紀サイバネティクスの機械的有機体論へと結びついていくと言うのである。「ヘーゲルを意訳すれば、この機械的有機体論がわれわれの時代における絶対精神の新たな形式を特徴づけているといえるかもしれない」(144頁)とユクは書く。

 じっさい20世紀の前半に、再帰性の形式化とシステム化がノルベルト・ウィーナーのサイバネティクス、そしてそれと平行して発展していく計算理論(ゲーデル-チューリング-チャーチ)やオートマトンの理論(ジョン・フォン・ノイマン)が登場した。それらは「機械的有機体論」と呼ばれるべきサイバネティクスの系譜で、その流れが今日の人工知能(AI)や機械学習およびさまざまな自動化のテクノロジーにまでダイレクトにつながっているのだ。

 こうしたサイバネティクスの理論と技術の中心的な問いは、「生命や意識や自己反省が究極的には何であるのか」ではなくて、「われわれの宇宙がその自然な進化の中で産出してきた、一切の自己反省的なシステムたちの行動上の諸特徴を、われわれは機械の中に再現できるのか」だ(ゴットハルト・ギュンターの言葉。強調は石田)。この引用につづけて、ヘーゲルについてのハイデガーの評言「形而上学の成就はヘーゲルによる精神の意志としての絶対的な知識の形而上学から始まる」を重ねてみれば、ハイデガーによるあの有名な言明 「サイバネティクスこそ形而上学の終焉である」の含意は明快だ。

 サイバネティクスがいかなる意味で哲学の終焉であるのかを十分に理解すべく、第2章ではサイバネティクスの系譜を跡付ける精緻な議論が展開される。「情報」、「フィードバック」という中心概念をめぐって、一般再帰性とチューリングマシン、ウィーナーのライプニッツ主義、セカンドオーダー・サイバネティクス、弁証法と情報、計算可能性とアルゴリズム的偶然性……。実に整然とした理論整理が繰り広げられるので、ぜひ熟読してみんな勉強しよう。

5 「一般器官学」

 本書の第二部──第3章「組織化された無機的なもの」(Organized inorganic)と第4章「組織化する無機的なもの」(Organizing inorganic)──は、「一般器官学」の問題に充てられる。
第4章の冒頭を引用してみよう──

われわれは今これまで以上にサイバネティクスの時代に生きている。装置と環境が有機体のようになろうとしているからである。環境はわれわれの日常生活に能動的に関与してくる。惑星規模のスマート化が到来するとなれば、まさにわれわれの未来の環境における計算と作動の主要な様態は、再帰性が構成することになるわけである。ビッグデータを活用するアルゴリズムの再帰性が人間の諸器官と社会の諸器官の全側面に浸透してゆく。かかるテクノロジーの参加様態は、根本的に環境的であると同時に、その環境そのものを変容させる。[★5]

 お分かりだろうか。これこそ私が図1で示した現代の「サイバネティクス化した環境」の記述そのものといえる。

 環境がサイバネティクス化するとは、例えばシリコンとかメタルのような無機的なもの(inorganic)からできた機械が有機体化=組織化(organized)されることである。サイバネティクス化した機械たちは、そういう意味で、有機的-機械的な存在者である。今日ではそれらの技術は生活世界に実装されて私たちを取り巻き、環境をつくっている。そして「再帰的なアルゴリズムの中に刻印された何らかの明確な目的または何らかの相対的に開かれた目的により条件づけられた物質の組織化」を実行している(194頁)。平たく言うと、サイバネティクス化した環境はアルゴリズムで動いているから、私たちがいちいち指図しなくても私たちの目的を、明確に、あるいは部分的に、理解して自動的に作動している。

 例えば、あなたのテスラはあなたがハンドルを操作しなくても前のクルマを追い越しもっとも効率のよい道筋であなたを目的地に到着させるし、あなたの留守宅ではクーラーが室温を調整し、スマートスピーカーがコーヒーメーカーと会話して勝手にコーヒーを沸かしてあなたの帰宅を待っている。

 サイバネティクスとは、道具や機械が生物のようになることだと上に書いたが、生物のようになるとは、まだ喩えにすぎない。ほんとうはこの際、サイバネティクス技術を超えて、機械と生物との関係を、根本的に哲学的に究める必要があるのだ。

 その道筋を示唆するのが、フランスの科学哲学者ジョルジュ・カンギレムが、1947年(つまりウィーナー『サイバネティクス』出版の前年)に提起した「一般器官学」である。カンギレムはベルクソンの『創造的進化』にその企図の先駆を見ている。ベルクソンこそ、「機械の発明を生物的機能と見なし、生命による物質の組織化の一側面」(カンギレム『生命の認識』原書125頁)を考えた最初の哲学者だったからだ。

 一般器官学とは、サイバネティクスが扱うような「機械的な再帰性」を、「生命という根拠ないし地に添付し直す」企てだとユクは言う。どういうことだろうか。

 ユクからちょっと離れて説明する。

 

図3 石器からスマホまで、技術進化をトータルに考える。猿人から新人までの脳と手の進化は、ひとつの石塊から効率よく石器を切り出す方法を生み出した。その効率化の曲線は、集積回路の進化が描く「ムーアの法則」の曲線と似た形状になる
上記図1、アンドレ・ルロワ=グーラン『身振りと言葉』(ちくま学芸文庫)p.79図 8、p.161図46、p.174図48、p.232図65および
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PPTMooresLawai.jpg(CC BY 1.0 Courtesy of Ray Kurzweil and Kurzweil Technologies, Inc.)
をもとに編集部制作
 

 図1に技術進化の要素を書き加えたのが図3だ。

 カンギレムが論文「機械と有機体」で、ベルクソンに言及しつつ一般器官学を提起したのは、先史学者ルロワ゠グーランの技術論にかんする註においてであった。そのルロワ゠グーランの技術進化論における旧石器時代における石器(チョッパー)の進化の例を付け加えたのである。

 作図のポイントは二つある。

1)環境のサイバネティクス化はいまに始まったわけではないことを示すこと。ヒトが直立二足歩行による手と脳の解放を経て、道具において脳の活動を外化するようになって以来、スマホにいたるまで、ヒトの技術進化はつねに心を外化して再帰的に環境をつくってきたということだ。

2)道具とは人間にとって外部化された器官(organ)なのであって、人間―機械系とはつねにすでに器官学的な存在者とその組織化の問題なのだ。

 石器の例で明らかなように、技術は、無機的なものを有機体化──組織化──する。石器はそれ自身の制作の記憶をとどめその再生産を先取りしている──差延作用──という意味で再帰的である。だから、一般器官学は「無機的なものの組織化」を扱う研究ということになる(一定量の石材からどれだけの刃渡りの石器が生み出されたという技術進化も、一定量のシリコンチップにどれだけの集積回路を書き込むことができるようになるかという技術進化のムーアの法則も、同じようなカーブを描くことが興味深い)。

 一般器官学は、サイバネティクスが扱うような「機械的な再帰性」を、「生命そのものという根拠ないし地に添付し直す」企てだとユクは言う。このとき、サイバネティクスの問題を現代技術に限定せずに、より大きな生命と技術をめぐる〈存在-生成=個体-発生〉(onto-genesis)の問題に定位しなおす狙いがあることが分かっていただけるだろう。

 そのために、第3章では、一般器官学の問題系を、カンギレムによるデカルト批判、カント『判断力批判』の読解、『創造的進化』における「器官」概念の検討、カンギレム自身の「規範」および「正常と病理」の理論、カンギレムとクルト・ゴルトシュタインとの関係の検討等々をめぐり詳細に跡付けている。

6 一般器官学の現代的射程

 再帰性の問題を生命と技術の問いへと掘り下げたのち、一般器官学の現代的射程を一気に拡げてみせるのが、第4章「組織化する無機的なもの」だ。

 この章で中心的に論じられるのは、ジルベール・シモンドンとベルナール・スティグレール、そして、ユク自身の独自の「宇宙技芸論」ということになる。

 なぜシモンドンなのか。シモンドンが明示的に「器官学」を追究した事実はない。ただ、シモンドンには独自のサイバネティクスの理解があり、それは「アラグマティクス」と呼ばれる「作動の学」、あるいは「普遍サイバネティクス」の構想である。そこに一般器官学──シモンドンは「機械学」を語っていた──に通ずる要素があるのだ。

 シモンドンの哲学の軸には、まず学位論文の主論文『形態と情報の概念に照らした個体化』に詳細に展開された、個体化の理論および情報の理論がある。そして技術哲学者シモンドンの名を高からしめた副論文『技術的対象の存在様態について』で展開された「技術的対象」論がある。「技術的対象」とは「器官」そのものといってよく、「連合環境」と結びついて「個体発生=存在生成」する。シモンドンの「個体化」の理論は、「実体論」と「質料-形相論」の根底的な批判にもとづき、個体化における地と図の理解をつくりなおす独自の「情報」理解、そして「心理的―集団的個体化」や「超個体性」の展望へと開かれる。

 難解を極めるシモンドン哲学ゆえ、ここでユクによる詳細な読み解きを紹介することができないのだが、ベルクソン-カンギレムにおいて生物学の哲学をめぐって器官学的な思考が展開されていたのに対して、シモンドンは個体化の哲学をテクノロジーの哲学へと接続する枠組みを提供しているということなのだ。

 そしてシモンドンの個体化の理論を再解釈しつつ、一般器官学をテクノロジーの哲学として受け止めて実行してみせたのがベルナール・スティグレールだ。

 スティグレールにおいて再帰性の概念は、フッサール現象学の「把持」と「予持」の時間論の問題系に現れる。フッサールの内的時間意識の現象学に対してスティグレールがもたらした器官学的イノヴェーションは、なんと言っても「第三次把持」の理論である。第三次把持とは、要するに外化された記憶の媒体、つまりメディアのことだ。それが第一次把持(現在時の意識)、第二次把持(想起の意識)を重層決定する、というのが、スティグレールの『技術と時間』の技術存在論の肝である。

 技術的対象は、つねにすでに、私が生きたわけではない時間の──ルロワ゠グーラン的に言えば「民族的」な──記憶を宿しており、それらが作り出す環境において、ヒトは心理的-集団的に個体化を繰り返していく。人間は本質を欠いた存在であり、記憶も注意力も有限な存在だから、その「不可欠な欠如」を、避け得ない生の「偶然性」の条件として環境を技術的に「再帰化」して生きていくのだ。創発とは人間の有限性ゆえの偶発事であって、それをきっかけとして新たな心理的──集団的個体化が引き起こされていく。芸術的創造とはそのような「時代(エポック)」の更新の原動力なのである。

 器官学的な時間論にとって重要な理論を提供したスティグレールの「第三次把持」に対して、ユクが付け加えためざましい貢献が「第三次予持」の理論だ。スティグレールが論拠にしたフッサールの『内的時間意識の現象学』(1928)は、フッサールが1893年から1917年にかけて書いたテクストから成り立っている。フッサールの時間論には、これ以外に、「ベルナウ草稿」と呼ばれる1917年から1918年にかけて書かれた草稿、および、「C草稿」と呼ばれる後期草稿(1929-1934)が存在していて、「予持」の理論に関してより明確な記述がされていることが知られている。

 この原典に立ち返ることで、ユクは「第三次予持」の概念を提起する。「第三次把持」が現在時の意識および想起を重層決定するのと平行するように、外化された時間対象は予持をも重層決定するのではないのか。例えば、キーボードの予測入力やレコメンドシステムを考えればよい。現代のように、デジタル・テクノロジーによって時間構造が再構成されることが日常的になれば、現象学のいう「予持」も補助具により代補されて成立していると考えるべきではないか。そうすれば、アルゴリズムによって自動化された社会で起こっている、「組織化する無機的なもの」の作動を明らかにする手がかりが得られるわけだ。

7 ポストモダンと宇宙技芸

 本書はまずもって「サイバネティクスについての研究」だと著者は冒頭から宣言した。そして、膨大な文献の検討を通してサイバネティクスの哲学的系譜を追い、そのシステム全体の作動を鮮やかに描き出してみせた。

 だが、じつは、決して──たとえそれが、第二世代、第三世代、あるいはネオ……であろうと──サイバネティクスを擁護する書ではない。

 最後まで読むとそれが分かる。あるいは、序に「サイケデリックな生成」という奇抜なタイトルがついていたことの意味がやっと分かるのである。

「無機的なもの」がすべてを「組織化」していくと、この地球はいったいどのようになっていくだろうか。テスラという、マッド・サイエンティストの名をもつメーカーの深紅のクルマが、まるで宇宙のゴミのように地球の軌道をめぐり、用象としての役割をすでに終えつつある青い星に別れを告げようとしているかのごとくだ。トランスヒューマニストたちは火星への移住に自分たちの未来をかけて、乗り遅れた人びとだけを砂漠となっていく星に置き去りにしようとしている。無機的なものからなる赤い星に「総かり立て体制」を移転することで、「組織化する無機的なもの」のサイバネティクスにより、シンギュラリティーを超えた機械―人間系は赤い星を「有機化」できるというのだろうか? マッド・サイエンティストにふさわしいLSD的幻覚がこのヴィジョンにはちらついている。

 そのようなことになれば、「宇宙」が失われてしまうではないか。かつて、「大地」が失われてしまったように。

「宇宙技芸」に見合った「第三の自然」へといたる必要がある、そうユクが序で言っていたことの意味がよく分かる。「機械的な再帰性」を、「生命という根拠ないし地に添付し直す」企てとしての一般器官学を語っていたことの含意も分かってくる。

『中国における技術への問い』がこの問題について私たちを大いに考えさせることになるだろうが、技術とはつねにすでに、技術的個体化であり、心理的―集団的個体化であり、したがって連合環境を不可欠とする。技術的個体化という図が生まれるためには、地としての連合環境が必要なのだ。これは、平たく表現すると、技術はいつも宇宙を地として持つのでなければならない、となる。

 技術とはつねに「宇宙技芸」だとユクが言うとき、私がいつも思い浮かべるのは、ジョゼフ・ニーダムが『中国の科学と文明』で描き出した、中国北宋の蘇頌が設計した天文時計「水運儀象台」のことだ。

 星の動きを追尾する望遠鏡である「渾儀」、星の位置を表示する天球儀である「渾象」、時刻を表示する「昼夜機輪」が歯車で連動し、水力で動くようになっている。地上の時刻はいつも天の星の動きと方位と不可分なのである。

 

図4 水運儀象台
Public Domain
 

 中国の例に限らない。

 旧石器時代2万8千年前のブランシャールの骨に月のアナレンマが刻まれていたように、技術はつねに星辰や土地との結びつきにあり、その場所のエレメントにおいて心理的集団的に個体化していたのである。

 アナレンマも水運儀象台も時計の前身と解釈できるが、機械論のモデルとなる振り子とゼンマイ、バネと歯車の機械式時計がホイヘンスにより発明された17世紀半ばの初期近代以来、時間が単一の軸に還元されてしまった。機械時計は地上の時間を星の運行から切り離して、抽象的な文字盤上の物理的運動に変えてしまったのだ。

 その「時計との比喩で連想された機械論的還元」から脱却して、ロマン派の哲学が有機体論へと転回するところから本書は始まった。本書が辿ってきた「組織された無機的なもの」から「組織化する無機的なもの」へと進化する再帰性の論理は、現代ではシステムの全体化と自動化へと向かい、「用象」としての自然をかり立て尽くすところにまで来た。

 サイバネティック・システムは、「組織化する無機的なもの」として「生命」の地を失い、惑星化するその技術は「宇宙」という地をも失いかけているのではないか。だから、技術に「宇宙技芸」としての本来的次元を回復し、「第三の自然」を技術の哲学によって取り戻さなければならないとユクは考えているようなのである。

 

 最終章「非人間のなごり」は、リオタールの後期の著作『非人間的なもの』に述べられたサイバネティクス批判を再解釈して、トランスヒューマニズム的傾向を示すサイバネティクス化する文明へのポストモダンな抵抗を考察している。

 リオタールはサイバネティクスに、目的も終わりもなく、偶然を自動的に必然化していく、非人間的でパフォーマティヴな自己発展システムを見ていた。その「発展の形而上学」の非人間性に対する抵抗の拠り所となるのは、「人間的なもの」の回復ではなく、人間の最内奥に見出される、もうひとつの、「非人間的なもの」であると、リオタールでは考えるのである。

 リオタールの議論の元にあるのは、フロイトにおける「排除」の理論だ。人間における「人間的なもの」が、それを排除することによって成り立つような、根源的な「非人間的なもの」を、自己組織化するシステムに対する抵抗の根拠にしようというのだ。

 情報文明の発展のなかで人間の居心地の悪さは否応なく拡がる。なぜなら、サイバネティクス化する文明の根本には、人間的なものを生み出した「非人間的なもの」の「排除」──[forclusion =心からの締め出し]── があり、それゆえ情報文明には根源的な不安が取り憑いているからである。

不安とは、自分を揺らがせる親密だが未知の客に取り憑かれた精神の状態であり、それは精神を狂わせもするが思考させもする。それを取り除こうとしたり、その出口を塞いだりすれば、不安は重症化する。居心地の悪さは、この文明とともに増大し、排除[forclusion =心からの締め出し]が情報とともに拡がるのだ。[★6]

 マッド・サイエンティストの名をもつ深紅のクルマに乗って、火星まで「組織化する無機的なもの」による文明を拡げていこうと企てる男に取り憑いているのも、増大する情報文明の大元にある不安夢だ。だからその男はすべての情報をコントロールすべく、地球規模の企業買収を反復強迫的に繰り返している。だが、宇宙を全面的に用象化しようなどという、トランスヒューマニストの不安には出口はない。

 狂気から地球と宇宙を救うために、別のパラダイムへと向かうときだ。

 テクノロジーには唯一の道しかないのではない。技術的多様性を根源的に考えうる新たな技術の思考は可能なのだ。『中国における技術への問い』のユク・ホイが提起するように、「第三の自然」のツボを押さえるべく、「宇宙技芸」の経絡ネットワークが、いまこの世界に拡がらねばならないのである。

 

★1 「ユク・ホイと『現代思想』を語る」。URL= https://shirasu.io/t/nulptyx/c/igitur/p/20220525110758
★2 この本の紹介と位置づけは、私の『石田英敬の現代思想の教室』No 8 「オントロジーの劇場」(2022年6月15日放送 。URL= https://shirasu.io/admin/t/nulptyx/c/igitur/p/20220615111007 )で詳しく行っているので、視聴していただけるとよく分かるはず。ぜひ、どうぞ。
★3 ユク・ホイ『再帰性と偶然性』、原島大輔訳、青土社、2022年、25頁。以下、引用元の傍点は太字にあらためた。
★4 同書、78頁。
★5 同書、242頁。
★6 Jean-François Lyotard L’inhumain : Causeries sur le temps, Galilée, 1988 p.10 より訳出。

 


『再帰性と偶然性』
ユク・ホイ著(原島大輔訳)(発行:青土社)

+ その他の記事

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。

コメント欄に表示する名前を入力してください。
コメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

注目記事

ピックアップ

NEWS

関連記事