【書評】「みんなネコのおかげ」──『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』評|菅浩江

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webゲンロン 2022年10月7日配信

 J・F・ドフューによる1758年の物理の試験問題。

 「問九四 三階から道に投げ落とされた猫は、落下の最初の瞬間には四本の脚が上を向いていても、四本すべての脚で着地して怪我一つしない。なぜか」

 「答 猫はある種の本能的な恐怖に突然襲われ、(略)重心が下がると、身体が回転して腹や頭や足が地面のほうを向く。そうして最終的に四本の脚で着地し、ますます生意気になる。」

 ますます生意気になる!

 ああ、この人はネコが大好きなんだ、と思わされた一文だ。人類の科学の発展のために実験台となったネコは、人類の科学の発展など毛ほども意に介さずしなやかに着地し、「なにすんのよ」とチロリと人間を見た後、フン、とばかりに顔を上げて去っていく。そのさまがまざまざと目に見えるようではないか。

 『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』は、このように、ネコ愛にあふれた記述が頻出する。なにせ、著者のグレゴリー・J・グバーも冒頭から、(たとえこの本で興味が出ても)「どうか猫を高いところから落とさないでほしい!」との注意を記しているくらいなのだ。しかも太字で。

 しかし、愛猫家は騙されてはいけない。このように気の利いた描写やかわいらしくくだけた装幀に誘われて手に取れば、この本は思いがけず噛み応えがあったりするのだから。マクスウェル、デカルト、さらに遡ってイスラムの始祖ムハンマドまでもが登場し、姿勢検討に必須のカメラに至っては、その発達から書き起こされる。研究されるネコは、円筒や球体にたとえられて物理や幾何学をあてはめられ、目や内耳という生物学、果てにはフーコーの振り子まで出現して地球全体との関連も語られていく。いまやその問題は無重力空間での姿勢制御や、ロボット開発、コンピュータシミュレーションの発展にもかかわる大きな問題であり、まだ謎は綺麗に解けたわけではない、とか。

 

 私にとって、ネコは宙返りをするのが当たり前だった。当たり前すぎて、どのようなメカニズムで、どのような生体反応で、ちゃんと着地できているのかなど、考えたことがなかった。

 たかがネコの宙返り。

 しかし、科学者たちは「なぜ」を追い求める。自由落下中でどこも蹴ったりできないのに、作用反作用の法則にとらわれずに下を向くのはどうしてなのか。尻尾がないネコでも、目隠しされたネコでも、きちんと着地するのはどうしてなのか。

 科学者たちはネズミをねらうのにも似て、目の前でひらひらする謎に対してはしつこかった。

 簡易モデルで考える。背骨は反ってるか、関節はひねってるか、そのときを物理で考えるとどうなるか。

 いやいや、ネコは剛体ではないのだから、流体力学や重心の位置が重要だ。

 四肢を使って回転速度を調節。反応するのは加速度ではないか。直前の体位より、数秒前の体位を覚えているのでは……。

 この大部の書籍を読んで、よくぞまあこれだけのことを調べられるものだと、私は感心した。と同時に、反省もした。世の中の「当たり前」に対して、私はなんと鈍感だったのだろうか、と。

 うちの飼い猫のうちの一匹、ジャニがまだ子猫だったとき、吹き抜けの2階の手摺りを踏み外し、1階に背中から落ちたことがある。慌てて駆け寄る私の腕の中で、ジャニはイヌみたいにピスピスと鼻を鳴らしていた。ジャニは、ジャニーズのタレントのようにハンサムだがだいぶのんびりしたところがあって、私は、ネコなのに宙返りもできないくらいに抜けているのか、と大いに心配し、ずっとそういう個性なのだと思い込んで接していた。

 今回、神経科学や認知の関係でその月齢なら宙返りできなくてもしかたがないのだと知り、ほっとした反面、おバカのレッテルを貼っていたジャニにはすまないことをしたと、頭を撫でて謝った。「できて当たり前」に慣れていると、「できなくても当たり前」に気がつけない。抜けていたのはジャニではなく、謎を謎とも感じないで心配するだけにとどめてしまった私のほうだったのだ。
 

 生き物の謎はいまだに数多い。発生、進化、機能、再生、疾病、薬剤や環境への反応、心理、などなど、すべてが綺麗に解明されることはまず望めない。けれども私たちは生きている。人間だけではなくネコたち動物だって、澄まし顔で毎日を生きている。不快なものからは手をひっこめ、怒るとうなり、脚の動きを自覚しないままに平気で歩いたり走ったりしている。仕組みは判らないけど、とりあえず不便はない。日常の多少の不便は、道具や薬が解決してくれる。

 その道具や薬は、科学者たちの「なぜ」のおかげだ。私のように当たり前と捨て置かないで、彼らが目の前でちょろちょろする「なぜ」をしっかり捕まえようと、必死に追い、爪を出して挑んだ結果なのだ。

 これから、ネコたちが提示する謎は、宇宙やロボット工学にまで影響を及ぼしていく。生意気なネコと、ネコ好きで真摯な科学者たちの追いかけっこは、まだまだ続くのだ。

 おそらく、その研究はとても楽しい。謎は、ときおりやわらかく寄り添ったかと思うと、ツンと顔をそむけて離れたりするだろう。そのたびに、しかめっつらの科学者は愛するネコの背中を撫でる。ネコはしらんぷりしながらも、ちょっと腰を上げて、「ここんとこを軽く叩いてくれたら、いいことを思い付くかもよ」、と励ましてくれる。科学者は、そのつっけんどんなネコが、無重量空間でうまく宙返りができずおたおたする姿を、ロボットに驚いて毛を逆立てるさまを、想像して笑みこぼし、気を取り直してまた研究にいそしむ。

 ネコがいたら大丈夫。

 いままでも、これからだって、私たちが安寧に暮らせているのはすべてはネコのおかげなのだ。

 
菅さんの愛猫、ジャニくん。2枚目の写真、鼻についているのはヨーグルトだとか(編集部)
 


『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』
グレゴリー・J・グバー 著/水谷淳 訳(発行:ダイヤモンド社)

菅浩江

1963年、京都生まれ。高校在学中、同人誌『星群』に発表した短編「ブルー・フライト」が『SF宝石』(光文社)に転載されるかたちでデビュー。1992年『メルサスの少年』(新潮文庫)で第23回星雲賞日本長編部門受賞。1993年『そばかすのフィギュア』(ハヤカワ文庫JA)で第24回星雲賞日本短編部門受賞。2001年『永遠の森 博物館惑星』(早川書房)で第54回日本推理作家協会賞、第32回星雲賞日本長編部門を受賞。2021年『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(早川書房)で第41回日本SF大賞を受賞した。『五人姉妹』(早川書房)、『ゆらぎの森のシエラ』(創元SF文庫)、『カフェ・コッペリア』(早川書房)、など著書多数。
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