【書評】ファンタジーの力──鷲谷花『姫とホモソーシャル』評|木下千花

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webゲンロン 2023年2月21日配信
 鷲谷花は、日本映画史に軸足を置きつつ、アニメーション、漫画、幻灯などの隣接メディアにも関心を寄せ、過去視覚文化の研究者として分野を牽引してきた。一方で、鷲谷は、ジェンダーとセクシュアリティを中心的テーマとして、様々なジャンル、地域、言語の映像作品についての批評を世に問うてきた。『姫とホモソーシャル』は、映画批評家としての鷲谷が放つ待望の論集である。  
 さて、本書の副題には、「半信半疑のフェミニズム映画批評」とある。しかしながら、この「半信半疑」という語は、「フェミニズム」、つまりジェンダーや生物学的性別による差別を廃し、女性の権利を伸張せんとするイデオロギーについて、あるいは「フェミニストであること」について、躊躇いや疑念を表明しているわけではない。私が知っている鷲谷花は、研究者としても批評家としても人間としても、一般に女性、とりわけ日本人女性を特徴づけるとされてきた躊躇い(「私がこんなところにいていいのかしら」)や、自信がないふり(「私なんて」)、「アホのふり」といったジェスチャーからは限りなく遠く、確信と気迫に満ちている。  
 本書における「半信半疑」とは、「自己の直観と、外部から届くフェミニズムの言説の両面に対して、半信半疑で向き合い、対話を重ねようとする」(4頁。以下、本書からの引用はページ数のみ表記)方法論の謂いである。つまり、英語で言うなら真の意味でのradicalさ、議論の根っ子や土台に対しても躊躇わず疑義を呈するということであり、例えばフェミニズムとは何か、女性とは何か、フェミニズムは女性だけのものなのか、などの問いを積極的に招き寄せる方法論にほかならない。

 

 本書の第1部「魅惑の家父長制」は、『マッドマックス 怒りのデスロード』(ジョージ・ミラー、2015年、以下『マッドマックスFR』)と「バーフバリ」二部作にそれぞれ一章をあて、ジェンダーによる厳しい隔離と分業の規範が存在し、堅固な階層秩序によって組織された架空の世界を描くファンタジーを分析している。  

 冒頭を飾る『マッドマックスFR』論のインパクトは特筆に値する。『マッドマックスFR』の舞台は近未来、カルトリーダーのイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)が徹底した家父長制を敷き、マッチョな軍事集団を率いている砂漠化したディストピアである。その部下のフュリオサ(シャーリーズ・セロン)は、一匹狼の元警官マックス(トム・ハーディー)らとともにイモータン・ジョー体制に反旗を翻し、性奴隷や子産み機械として囚われていた女性たちを救うため、過酷な逃走と闘争を繰り広げる。男性監督の手になる本作については、フェミニスト映画であるか否かが熱く議論されてきた。ところが鷲谷は、本作を宝塚歌劇として・・・・・・・夢想するところから語り起こす。つまり、本作の冒頭近くのシーンを、専科(性格俳優)トップスターが演じるイモータン・ジョーがライトを浴びて大階段上に君臨し、「二番手クラスの男役スターが『女装』して演じるのにふさわしい」(26)フュリオサがソロを歌いながら銀橋を渡っていると、「客席中央通路を走ってトップスターのマックスが登場する」(16)という舞台情景でもって上書きするのだ。読み手をクラクラさせる妄想力と論述の異様なまでの説得力には、他の追随を許さないものがある。  

 本書の他に最近読んで面白かった本として、クェンティン・タランティーノの『映画思索=妄想』(Cinema Speculation, Orion Publishing Group, 2022)があるが、ここにも、映画作家=批評家が、例えば「マーティン・スコセッシではなく、最初にポール・シュウレイダーが話を持ちかけて断られたブライアン・デ・パルマが、『タクシードライバー』を監督していたら?」などと過去の「名作」をめぐって妄想を延々と展開する章がある。もちろん、タランティーノの圧倒的な映画的知性および教養によって実に楽しく読めるのだが、鷲谷の「『マッドマックスFR』宝塚版」のほうが振り切れている。さらに、鷲谷は、『マッドマックスFR』という妄想の政治的正しさを云々するのではなく、もう一つの既存の妄想体系である宝塚をぶつけている。かくして、ジェンダー秩序自体が多分にファンタジーとパフォーマンスによって成り立っていることが示唆されるのである。  

 『マッドマックスFR』論が、『バーフバリ 伝説誕生』(S・S・ラージャマウリ、2015年)、『バーフバリ 王の凱旋』(同、2017年)の二作を女性の意志/遺志を男性(=バーフバリ父子)が実現する物語として読み解く第2章とともに示すのは、一見したところ堅固な家父長制のスペクタクルが、古典的なスペクタクルとしての魅惑を維持しつつ、現代の観客にオルタナティヴな物語として語りかけてくる可能性であった。

 一方、第2部「黒澤明と逆らう女たち」が試みるのは、70年近く前に製作された二本の黒澤作品、『羅生門』(1950年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)を現代のフェミニズムの視点から読むことである。第3章「真砂サバイバル──『羅生門』における『ぐじぐじしたお芝居』とその放棄」には、こうある。「今日、『羅生門』を観るにあたり、男性登場人物一同の性暴力に対する認識や、女性嫌悪に付き合う義理はわれわれにはなく、孤立無援の『どうにもならない立場』に陥れられつつ、自らのパフォーマンスのみを武器にサバイバルを果たす真砂=京マチ子に対して、改めて敬意を表することをためらう必要もまたない」(75)。これまで『羅生門』は、盗賊・多襄丸(三船敏郎)による真砂の強姦と、真砂の夫の武士・武広(森雅之)の殺人を巡る物語であると言われてきた。しかし、鷲谷が重層的な語りへと分け入って白日の下にさらしたのは、『羅生門』において、二人の男性当事者も、雨の羅生門に集って遺体発見者(志村喬)と事件について語り合う二人の男も、多くの批評家も、強姦が女性に対する性暴力であるという認識を欠いているということであった。「ホモソーシャリティ」の概念を世に広めたイヴ・K・セジウィックの議論を援用する鷲谷の言葉の力によってついに、性暴力のサバイバーとしての真砂の闘争とその果ての栄光が救い出されたのである。  

 「真砂サバイバル」は日本映画批評史に残る文章である。私がそう考えるのは、上記の如く、レイプファンタジー──性暴力の暴力性と女性の被害者性の抹消のうえに成り立つホモソーシャルなファンタジー──という日本映画史に取り憑いた悪性の憑物を、ついに調伏してくれたからだけ・・ではない。同様に威力をもつのが、「女性嫌悪的な世界と人間たちを描く映画それ自体が、完全に女性嫌悪的であるとは限らない」(75)という一文である。鷲谷がこう書き付けてくれたからこそ、『羅生門』のように女性嫌悪の過酷かつ詳細な描写を積み重ねる映画が、まさにその苛烈なディテールそのものによって、真砂=京マチ子のようなヒロイン=女優のサバイバルを、鷲谷のようなフェミニスト批評家による読みの創造を、それを通しての女性──あるいは、「女性」という位置を占める観客──によるテクストの再領有(reappropriation=あえて単純化して言えば、奪い返して自分のものにすること)を、可能にするテクストとして浮上する。  

 一方で、『姫とホモソーシャル』の映画批評としての白眉は第5章「悔恨の舟」と題された高倉健論であるかも知れない。この章は、鷲谷が敬愛し本論集をその思い出に捧げている淡島千景を論じた第6章とともに、第3部「内田吐夢の『反戦』」を構成する。「悔恨の舟」は、高倉健がアイヌの青年を演じて巨匠・内田吐夢との最初の仕事となった『森と湖のまつり』(1958年)のエンディングの描写で始まる。ここでは、船と高倉健という主題系が鮮やかに浮かび上がるとともに、かつて姉を捨てた和人(加藤嘉)の水死体との遭遇を通して、内田の戦後作品の核となる「自殺者」の主題系と交差している。さらに舟上の男の系譜を追う鷲谷は、必然的に「宮本武蔵」三部作における佐々木小次郎=高倉健へと帰着する。やや長くなるが、引用しよう。

シリーズ第三作『宮本武蔵 二刀流開眼』(一九六三年)で最初に登場するとき、小次郎は、白絹の小袖に緋色に染めた裾の袖無し羽織を重ね、前髪の総髪を緋の糸でくくり、腰の大小に加えて背に三尺の長刀を背負い、原作の記述と同様の派手派手しい衣装を身にまとい、四国から京へと向かう便船の舳に立ち、アニメーションの合成によって作られた白い海鳥の飛翔を眺めている。典型的な優男やさおとこというよりは、むしろ無骨で硬質なタイプの高倉健に、「前髪立ちの美少年」風のいでたちが似合うとは言いがたく、時代劇の所作や着こなしの「型」が身についていないこと、周囲から飛びぬけた長身も相まって、多の船客たちの間にあっての浮き上がりぶりは、実写の空を舞うアニメーション製の白い海鳥と同様に甚だしい。(126)

 この描写がとりわけ目を引くのは、私が舟上の男の立ち姿に対するシネフィル的フェティシズムを共有するからだろうか(シャンタル・アケルマン『オルメイヤーの阿房宮』(2011年)のスタニスラス・メラールなど最高だと思う)。いや、やはり鷲谷の映画批評家としての強みがひしめいているが故であろう。伝統芸能から文学、大衆文化までカヴァーする深い教養を基盤に堂に入った衣装描写を提供しながら、そこから「浮き上が」った男性の硬質な身体を愛でつつ、それをまがい物のアニメーション/特撮に準える、一筋縄ではゆかない感受性センシビリティ。もちろん、続く淡島千景論に十全に表れているように、そして第10章「孤高のナウシカ、『ポンコツ』のハウル」での『風の谷のナウシカ』(1984年)論でも示されるように、鷲谷は女性同士の親密さに傾注してきた。にもかかわらず、というよりはそれと同時に、男性キャラクターや俳優について開陳される豊かな洞察は、スペクタクルや商業的ジャンルへの志向性とともに、鷲谷の批評がいかにジェンダー、セクシュアリティ、そして映像文化の領域で既存の制度やそれがもたらす快楽と深く交わりつつ、覚醒と陶酔のあわいで折衝と闘争を続けているかを示している。  
 「フェミニズムとホラー」と題された第4部は、二つの密接に連動したプロジェクトから成る。すなわち、一方では、キャロル・クローヴァー、リンダ・ウィリアムズ、バーバラ・クリードら、1980年代のフェミニスト映画理論家のホラー映画論の極めて的確な解説がなされる。日本では、フェミニスト映画理論というフィールドを丸ごと創造した論文であるローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」(1975年)が1990年代に翻訳され紹介されてからというもの、「男性−主体−能動/女性−対象−受動」というジェンダー化された視線の力学が、三〇年一日の如く繰り返し見出されては批判されてきた。もちろん、マルヴィの論文の歴史的インパクトと現在まで続く(社会も映画も根本的には変わらず男中心だから?)妥当性に疑いはない。しかしながら、1970年代に欧米で興隆したいわゆるモダンホラーではしばしば、女性が好奇心を湛えた眼差しの主体となり、禍々しい力を発揮する加害者として描かれ、あるいは化物と果敢に対決して「ファイナルガール」(最後に勝利する犠牲者=ヒーロー)として生き残る。クローヴァーやウィリアムズの議論は、このようなホラー映画への応答として、ジェンダーやセクシュアリティの境界線をまたぐ流動的で両義的な観客性や同一化の在り方を理論化した。鷲谷の明晰な議論によって英語圏フェミニスト映画理論の重要なフェイズが日本の言説に導入された意義は果てしなく大きい。  
 他方で、第4部は、第7章「恐怖のフェミニズム」で『サスペリア』(2018年)のルカ・グァルダニーノ、『ヘレディタリー/継承』(2018年)のアリ・アスター、第8章「破壊神創造」では『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007年)のクェンティン・タランティーノと、豊かな才能に恵まれた三人の男性監督を取り上げ、それぞれ作品のなかで上述のようなフェミニズム映画批評の問題系にいかに応えているかを鮮やかに論じている。さらに正確に言えば、彼らは、1980年代以降の「フェミニズムが取り組むべき性的差異と権力の問題」(179)、すなわち、仕事や芸術制作の場、あるいは家庭におけるにおけるジェンダー化された権力関係、ハラスメント、さらには性暴力の問題が「解決」されたかに見える、「ポストフェミニズム」(第7章副題)の世界を、心身ともに怪物的に強力な魔女たちが弱者を隷属させる地獄絵図として描いている。こうした「魔女」たちの暴虐を、そして彼女たちが行使する暴力の美学化を、「ファイナルガール」の勝利として言祝いではならない──鷲谷はそう警鐘を鳴らす。  さらに鷲谷は、こうして女の物語を簒奪した男性作家たちが、「魔女」たちが概ね「フェミニスト的」主張を行いつつ男性登場人物、すなわち『サスペリア』のクレンペラー(ティルダ・スウィントンが演じている)、『ヘレディタリー』のピーター(アレックス・ウルフ)、『デス・プルーフ』のマイク(カート・ラッセル)を糾弾し、辱め、痛めつけるさまをグラフィックに描きつつ、その実、これらの男たちを犠牲者──さすがに「無垢な」とまでは言えないかも知れないが──にしていると指摘する。このような儀式的暴力による男の免罪のメカニズムは、思えば、本書には収められていない鷲谷の初期の傑作であり、フェミニストJホラー批評の嚆矢として国際的に認知されるべき『リング』論において、ヒロイン・浅川(松嶋菜々子)の前夫・高山竜司(真田広之)に見出されたものと同一である★1

 本書で唯一アニメーションを正面から論じた第5部「アニメキャラの破格の魅力」は、第9章「美しい悪魔の妹たち」では高畑勲の『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)のヒルダ、第10章ではナウシカを取り上げ、ヒロインと共同体の関係を論じている。第9章はそもそも本書に収められた多くの論考と同じく『ユリイカ』の依頼に応えて執筆されたものであり(2018年7月臨時増刊号「高畑勲の世界」)、ということは一ヶ月前後の執筆期間しかなかったはずである。それにも拘わらず、本章は、資料と聞き取りに基づいて、日本アニメーション史に燦然と輝く高畑のデビュー作の原作ということのみが知られていた人形劇『春楡チキサニの上に太陽』(1959年)の物語、制作、上演、日本共産党主流派の国民的歴史学運動との関わりを明らかにした。この点で、本章は、映画批評家ではなく視覚文化研究者・歴史家としての鷲谷花の卓越した仕事へと本書の読者を誘う糸口となるだろう。  

 鷲谷は、日本共産党をはじめとした左翼政党や政治団体、労働組合の文化活動の一環として幻灯、紙芝居、人形劇、あるいは映画上映運動を発掘し、記述・分析してきた。基本的にこうした運動にシンパシーを持つ鷲谷は、しかし、映画批評家として、しばしば運動の公式メッセージとテクスト、とりわけ女子どものキャラクターのディテールが、仕草や動きが、齟齬をきたす瞬間を鋭くとらえてきた★2。それは『春楡の上に太陽』および『ホルス』でも同様である。いや、鷲谷の春楡/ヒルダ論を読んでしまった者は、もはや、家父長制のジェンダー秩序に対する若い女性の違和の物語としてしか、『ホルス』を見ることができないだろう。村娘の花嫁衣装を共に縫い、ヴェールを着てみせることをヒルダが拒むのは、心の闇や悪魔のような、個人的な、あるいは超自然的な理由からではない。鷲谷の批評が、現在の女子どもたちに「ヒルダは私だ」と言うことを可能にさせ、そうすることで、高畑勲が共同体に対して抱いていた深い違和の念を、今日のフェミニズムへと水路づけるのである。

 

 これまで出版された折に読んできた論考も多いものの、加筆・修正を経て纏められ、『姫とホモソーシャル』という単著として再読してみて改めて気づかされたのは、鷲谷の批評とファンタジー、あるいは非リアリズムとの親和性である。『マッドマックスFR』を宝塚として妄想し、舟上の高倉健を合成アニメーションに準えるのは、ファンタジーにファンタジーをぶつけ、非リアリズム性を言祝ぐ批評的営為にほかならない。また、本書後半で論じられる童話とホラーは一見すると全く違うモードだが、その実、現実世界の法を無化しうる点で通底している。鷲谷はおそらく、ファンタジーに信を置いているのだと、私は思う。ファンタジーにおいては、艱難辛苦の物語のなかに既存の制度とそれが生み出す欲望や、快楽や、悲惨が、テクニカラーでもCGでもよいけれど、極彩色で分節化されているから。そして、まがい物の金糸銀糸で織りなされたテクストを解きほぐし、言葉によって批評という新たなファンタジーを紡ぐことで、鷲谷は一筋縄ではゆかない女子どもの連帯と闘争を可能にしている。

 


★1 鷲谷花「『リング』三部作と女たちのメディア空間―怪物化する「女」、無垢の父」、内山一樹編『怪奇と幻想の回路──怪談からJホラーへ』(森話社、2008年) 
★2 たとえば、全日本自由労働組合の委託によって望月優子が監督した『ここに生きる』(1964年)について、以下を参照。鷲谷花「望月優子」、日本映画における女性パイオニア、2021年10月31日。URL=https://wpjc.h.kyoto-u.ac.jp/woman/346/ 『ここに生きる』(英語字幕付)および鷲谷の解説は、下記で公開されている。URL=https://vimeo.com/704233727

 


『姫とホモソーシャル: 半信半疑のフェミニズム映画批評』
鷲谷花著(発行:青土社)

木下千花

1971年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は日本映画史。著書に『溝口健二論ーー映画の美学と政治学』(法政大学出版会、2016年、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞、第8回表象文化論学会賞受賞)、分担執筆に「胎児が密猟するまでーー原水爆禁止運動と生政治」『対抗文化史ーー冷戦期日本の表現と運動』(大阪大学出版会、2021年)など。
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