【書評特別篇】ケーニヒスベルク人の夢をたどる観光客──東浩紀『観光客の哲学』評|ユク・ホイ 訳=伊勢康平
あらたに英訳が刊行された東浩紀の『観光客の哲学』は、私たちの時代が直面する政治的な袋小路とでも言うべきものに応答しようとする、きわめて重要な哲学的実践だ。本書はとりわけ、パンデミックいらい起きている地政学的な対立の激化について検討している。もっとも、パンデミック自体がその原因なのではない。パンデミックはむしろ、ほかでもない国民国家の概念のなかにすでにきざしが見えていた対立を加速させる引き金となったのだ。ここ数年にわたり、ナショナリズムの高まりと並行して、各国が国境を厳格に管理しはじめている。それによって、世界市民主義〔Weltbürgertum〕はかなわぬ夢となってしまった。ましてや、個々の主権国家の利害を超えた枠組みでしか解決できないグローバルな生態系の危機への対応については、言うまでもない。
こうしたことを念頭におけば、本書における東の努力をだれもが歓迎するはずだ。それは、国民国家の限界を乗り越える可能性を告げる形象[☆1]として、観光客を再発明しようというものだ。日本の批評家で哲学者の東は、率直にこう語っている。「普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界[……]ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している」(154頁)。
『観光客の哲学』を柄谷行人の『世界史の構造』(2010年、英訳は2014年)と比較しないのは無知だといえるだろう。その根拠はいくつもあるが、まず柄谷と東は、日本において、それぞれの世代で最高の批評家であり、もっとも独創的な思想家である。そして東は柄谷から影響を受けたことを認めており、じっさい本書を「柄谷の他者論の更新」(214頁)とみなしている。さらに両者は国民国家の揚棄という共通の哲学的課題をもっており、どちらもイマニュエル・カントの「永遠平和のために」(1795年)を、自身のプロジェクトを展開する出発点にしているのである。
だがこうした共通点にくわえて、ふたりには根本的なちがいもある。柄谷の仕事は、「世界共和国」という来るべき大きな統治機関の枠組みを想像するものだが、東の仕事の中心には、観光客という個人の形象がある。柄谷は、戦争を回避しうるだけでなく、あらゆる敵対関係を終結させられるような国家の連合について考えようとしている。この哲学的なプロジェクトは、政治的な国家の概念を揚棄することを課題としている。このような国家の概念は、ヘーゲルが『法の哲学』(1821年)のなかで、自由と倫理的生活を実現させる唯一の政治形態として提示したものだ。柄谷は、マルクスではなくヘーゲルこそが「資本゠ネーション゠国家」の三位一体を把握した哲学者だったとはっきり理解している[☆2]。そのため柄谷は、国家を揚棄しうる政治形態を考えるための出発点として、国家そのものを取り上げる──ここで言う揚棄は、保存と否定の両方というヘーゲル的な意味で理解されている──のだが、結局その試みは国家の連合というかたちを取ることしかできない。
永遠平和にかんするカントの論文のなかで、柄谷が国家の連合を重要なものと認識しているなら、東は諸外国を訪問することや、その権利の大切さを強調している。カントにまつわるこの東のひらめきはアイロニーである。私たちはそれを認識し、きちんと評価しなければならない。というのも、よく知られているとおり、カントはケーニヒスベルクの外へ一度も出かけたことがなかったのである。このアイロニーは、カントを脱構築する完璧な近道を与えてくれる。なぜなら、たとえば『判断力批判』における崇高なものの分析のなかで例示されたピラミッドのように、カントが自分の哲学を説明するために用いる事例は、そのほとんどが生きた経験に根づいておらず、書かれた文章にもとづく想像でしかないからだ。
観光客の形象によって、東は「国家への所属を介さずに、普遍と特殊を重ね合わせる」道を想像できるようになる(96頁)。いわば観光客とは、普遍と特殊の揚棄から生まれる個人のことだ。また、観光客はある種の無関心を示す。「観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない」(111頁)。では、東が構成しようとするこのじつに大きな哲学的プロジェクトに対して、よその土地でただお金を使うだけの観光客がどのように貢献できるのだろう? いったいどうすれば、私たちは、観光客になることを一種の抵抗として語れるのだろうか?
この問題に答えるにあたって、東は、10年前のほぼすべての左翼知識人のように、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリの3部作[☆5]を再訪している──かつてはだれもがこの壮大な著作に敬意を表さなければならなかったのである。ハートとネグリは、自分たちの仕事が新しい『資本論』になると主張してはいるが、しかしあれを革命の指南にするというのは、まるでコウモリに洞窟の外までの案内を期待するようなものだ。じっさい、東はかれらの「マルチチュード」の概念に数多くの異議を唱えてゆきながら──「致命的な欠点」によって損なわれている(144頁)、「あまりにもあいまいで、ときに神秘主義的」(146頁)、「あくまでも否定神学的」(159頁)──ふたりの仕事を旅しているのである。それは観光客をマルチチュードと区別するためだ。両者の根本的なちがいは、つぎの主張が簡潔に示している。「マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする」(160頁)。
観光客が連帯なしにコミュニケーションするのは、ただ通りすぎてゆくだけだからだ。たとえデモを見かけても、観光客はすぐにスマホを取りだして写真を撮る。そしてインスタグラムにアップしてなにが起きているのかをたずねたあと、ホテルにもどって「いいね」の数をチェックするだろう。これに対して、マルチチュードは街頭へゆき、仲間たちと一本のウイスキーを分けあって、警棒から互いをかばいあう。このふたつのカリカチュアを念頭におけば、観光客がソーシャルメディアの見せ物を超えて合理性や現実的な有効性(Wirklichkeit)をもつとすぐさま肯定するのは疑わしいことだ。しかし、このステレオタイプに甘んじていては、東浩紀の真髄を見逃してしまう。この本に書かれている文章は、ヘーゲルがいくつか引用された単なる軽い読みものではない。そこには、かれが博士論文の『存在論的、郵便的──ジャック・デリダについて』(1998年)を執筆したときから考え抜いてきたプロジェクトがあるのだ。このプロジェクトの本質をつかむためには、東の立場を3つの公理で理解するのがよいだろう。
※本文中に示されたページ数は、すべて日本語版(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年)のものである。
★1 ここで使っている「存在論的」という用語は、東自身の解釈からは離れているかもしれない。というのも、東は、自身のデリダ論のなかで「論理的-存在論的脱構築」と「精神分析的-郵便的脱構築」を区別しているからだ。しかし私としては、デリダの脱構築は存在論的-郵便的であったと思う。なぜなら、『「幾何学の起源」序説』(1962年)のなかで、郵便的なものが余剰なもの、つまりある世代から別の世代へと伝えられてゆくであろう相補的なものとされているからだ。デリダにおいて残されている問題は、相補的なものの歴史、またそれゆえ郵便的なものの歴史である。私は、この論点をめぐる東とのさらなる議論を歓迎したい。
☆1 原文は figure 。じっさいに見たり触れたりできる姿やかたちをあらわすほか、象徴や表象をも意味する。本稿でホイは、figureという語を一貫して「観光客」と結びつけている。これはおそらく、東の「観光客」が、哲学の対象となる抽象概念であると同時に、きわめて具体的で現実的な側面をもっていることに由来している。じっさい、柄谷の言う「世界共和国」に「想像」という言葉が使われていることを考慮すれば、ホイがfigureという語に込めた意図や評価は明白だ。また『観光客の哲学』の179頁には、東の観光客論が単なる「イメージの刷新」にとどまらないことが明記されている。当初訳者は、figureになるべく普段づかいの言葉を当てたいと考えていたが、このような抽象と現実の両義性をきちんとあらわすことを優先し、「形象」という訳語を選択した。
☆2 柄谷行人『世界史の構造』、岩波現代文庫、2015年、ix頁。
☆3 この点にかんして、ヘーゲルは以下のように述べている。「ここに規定された意志の一側面──[……]制限としてのすべての内容からの逃避──[……]これは否定的な、ないしは悟性の自由である。[……]この自由が現実に向かうときには、宗教的な場面においても、政治的な場面においても、いっさいの存立する社会的秩序を破壊し尽くす狂信となり、秩序維持の嫌疑のある諸個人を追放し、ふたたび台頭しようとするどんな組織をも壊滅することになる」。ヘーゲル『法の哲学──自然法と国家学の要綱 (上)』、上妻精ほか訳、岩波文庫、2021年、70頁、強調は省略した。
☆4 スノッブとは、東によると「与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、『形式化された価値に基づいて』それを否定する行動様式」をもつひとを意味する。アメリカ的な「動物」が消費社会の環境に順応し、否定も闘争もしないのに対して、スノッブは「それをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる」。コジェーヴは、このような日本的スノビズムの例として「切腹」を挙げているが、東はそれを特撮やロボットアニメに熱中する「オタク的感性」に見いだしている。東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年、97-99頁。
☆5 ネグリとハートの「三部作」は、一般的に『帝国』『マルチチュード』『コモンウェルス』を指すが、『観光客の哲学』では『コモンウェルス』はとくに言及されておらず、後年の『叛逆』が参照されている。
☆6 ヘラクレイトスの「断片18」(クレメンス『雑録集』第2巻第17章4節)は、以下の警句となっている。「予期しなければ、予期されていないものを発見できないであろう。それは、見いだしえないもの、獲得しがたいものだから」。G・S・カークほか『ソクラテス以前の哲学者たち(第二版)』、内山勝利ほか訳、京都大学学術出版会、2006年、252頁。
☆7 引用元と強調箇所が異なるが、ここでは評者のホイにしたがう。
☆8 該当箇所(日本語版では299頁)には、以下の記述がある。「かつてリベラリズムは他者の原理をもっていた。けれどそれはもはや力をもたない。他方でいま優勢なコミュニタリアニズム(ナショナリズム)もリバタリアニズム(グローバリズム)も、そもそも他者の原理をもたない。二〇一七年のいま、他者への寛容を支える哲学の原理は、もはや家族的類似性ぐらいしか残っていない。あるいは『誤配』ぐらいしか残っていない。それがぼくの認識である」。
ユク・ホイ
伊勢康平