【書評特別篇】ケーニヒスベルク人の夢をたどる観光客──東浩紀『観光客の哲学』評|ユク・ホイ 訳=伊勢康平

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webゲンロン 2023年3月10日配信

 あらたに英訳が刊行された東浩紀の『観光客の哲学』は、私たちの時代が直面する政治的な袋小路とでも言うべきものに応答しようとする、きわめて重要な哲学的実践だ。本書はとりわけ、パンデミックいらい起きている地政学的な対立の激化について検討している。もっとも、パンデミック自体がその原因なのではない。パンデミックはむしろ、ほかでもない国民国家ネーションステートの概念のなかにすでにきざしが見えていた対立を加速させる引き金となったのだ。ここ数年にわたり、ナショナリズムの高まりと並行して、各国が国境を厳格に管理しはじめている。それによって、世界市民主義〔Weltbürgertum〕はかなわぬ夢となってしまった。ましてや、個々の主権国家の利害を超えた枠組みでしか解決できないグローバルな生態系の危機への対応については、言うまでもない。

 こうしたことを念頭におけば、本書における東の努力をだれもが歓迎するはずだ。それは、国民国家の限界を乗り越える可能性を告げる形象☆1として、観光客を再発明しようというものだ。日本の批評家で哲学者の東は、率直にこう語っている。「普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界[……]ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している」(154頁)。

 

『観光客の哲学』を柄谷行人の『世界史の構造』(2010年、英訳は2014年)と比較しないのは無知だといえるだろう。その根拠はいくつもあるが、まず柄谷と東は、日本において、それぞれの世代で最高の批評家であり、もっとも独創的な思想家である。そして東は柄谷から影響を受けたことを認めており、じっさい本書を「柄谷の他者論の更新」(214頁)とみなしている。さらに両者は国民国家の揚棄という共通の哲学的課題をもっており、どちらもイマニュエル・カントの「永遠平和のために」(1795年)を、自身のプロジェクトを展開する出発点にしているのである。

 だがこうした共通点にくわえて、ふたりには根本的なちがいもある。柄谷の仕事は、「世界共和国」という来るべき大きな統治機関の枠組みを想像するものだが、東の仕事の中心には、観光客という個人の形象がある。柄谷は、戦争を回避しうるだけでなく、あらゆる敵対関係を終結させられるような国家の連合について考えようとしている。この哲学的なプロジェクトは、政治的な国家の概念を揚棄することを課題としている。このような国家の概念は、ヘーゲルが『法の哲学』(1821年)のなかで、自由と倫理的生活を実現させる唯一の政治形態として提示したものだ。柄谷は、マルクスではなくヘーゲルこそが「資本゠ネーション゠国家」の三位一体を把握した哲学者だったとはっきり理解している☆2。そのため柄谷は、国家を揚棄しうる政治形態を考えるための出発点として、国家そのものを取り上げる──ここで言う揚棄は、保存と否定の両方というヘーゲル的な意味で理解されている──のだが、結局その試みは国家の連合というかたちを取ることしかできない。

 いっぽう東は、国家からはじめるのではなく、ヘーゲルの『法の哲学』があつかう最初の問題、つまり個人の権利の問題系から出発している。ヘーゲルの『法の哲学』は、なによりまず近代的な権利の批判的考察である。ヘーゲルによると個人の自由とは、もっとも重大で破壊力をもつ権利として、宗教改革とフランス革命のあとに生まれたものだ☆3。この権利は、あいまいだが即座に行使される。だからそれは、単なる恣意的な(willkürlich)もの、いわばやりたい放題の状況にもなりうる。ヘーゲルに言わせれば、このような権利は自由ではない。自由とはむしろ、このあいまいな権利が揚棄されたもののことだ。そのため、政治的な国家のなかでのみ、自由は可能とされる。しかし東は、恣意性(zufällig)を排除しようとするヘーゲルの果てしない試みには追随せず、むしろ恣意性を極限までつきつめようとするのだ。
 東は観光客をじつに明快に定義している。すなわち観光客とは「『訪問地で報酬を得る活動を行うことと関連しない』『日常の生活圏の外に旅行したり、また滞在したり』する」ひとのことだ。だが、より本質的にいえば、観光とは「大衆社会や消費社会の誕生と結びついたもの」である(27頁)。なので、観光客は移民や求職者とはすぐさま区別される。観光客は本質的に消費者だ。チケットを買ってどこかに行き、モノやサービスを消費する存在だ。そして消費とは恣意的なものである。なぜなら、それは欲求を満たすことではなく、単にどれを選ぶかの問題でしかないからだ。
 東が『観光客の哲学』や以前の著作である『動物化するポストモダン』(2001年、英訳は2009年)で想起させてくれるように、アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の初版のなかで、アメリカ的な生活様式の実現、つまり人間の動物化とともに歴史の終わりが到来したと考えている。動物化とは、要は人間がただの消費者になることだ。さらにコジェーヴは、1959年に日本を訪れたのち、『入門』の第2版にとある注釈をくわえている。そこでかれが主張しているのは、歴史の終わりのあとに残った主体は、アメリカ的な動物と日本的なスノッブ☆4のふたつであるということだ。コジェーヴが「動物はスノッブになれない」と言うように、両者は互いに排他的である。とすると、観光客とは日本的なスノビズムをもつ動物なのか、それとも動物性をもった日本的スノッブなのか、どちらなのだろう?
 この問題によって、私たちは東の論考全体の中心をなすアイデンティティの問題にたどり着く。東自身はあまり乗り気でないのかもしれないが、かれは観光客の形象を再発明しないわけにはいかないだろう。東は自分を観光客とみなしている。だがこの観光客が動物であるとは思えない──少なくとも『動物化するポストモダン』に描かれたデータベース的動物ではない。じっさい、かれは「この数年ほとんどアニメも見ていないしゲームもプレイして」いないと語っている(45頁)。
 観光客は人間である。けれども、カール・シュミット的な意味で友と敵の境界を決断したり、ハンナ・アーレントの言う「労働する動物」と「工作する人ホモ・ファーベル」を区別したりしなければならないような人間ではない。観光客はあらたな主体であるべきだ。それは、世界市場の拡大と統合がもたらす新しい政治的領域を利用することで、ナショナリズムとリバタリアニズムのイデオロギーを乗り越える。だから、観光客は単なる消費主義の犠牲者ではない。むしろ、消費する権利と訪問する権利という、ふたつの権利のあいだに立つものだ──つまり観光客は、前者の側面では動物であり、後者の側面では人間である。まさにこの重なりのなかに、東は国民国家の枠組みを乗り越える可能性を見いだそうとしているのだ。

 永遠平和にかんするカントの論文のなかで、柄谷が国家の連合を重要なものと認識しているなら、東は諸外国を訪問することや、その権利の大切さを強調している。カントにまつわるこの東のひらめきはアイロニーである。私たちはそれを認識し、きちんと評価しなければならない。というのも、よく知られているとおり、カントはケーニヒスベルクの外へ一度も出かけたことがなかったのである。このアイロニーは、カントを脱構築する完璧な近道を与えてくれる。なぜなら、たとえば『判断力批判』における崇高なものの分析のなかで例示されたピラミッドのように、カントが自分の哲学を説明するために用いる事例は、そのほとんどが生きた経験に根づいておらず、書かれた文章にもとづく想像でしかないからだ。

 観光客の形象によって、東は「国家への所属を介さずに、普遍と特殊を重ね合わせる」道を想像できるようになる(96頁)。いわば観光客とは、普遍と特殊の揚棄から生まれる個人のことだ。また、観光客はある種の無関心を示す。「観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない」(111頁)。では、東が構成しようとするこのじつに大きな哲学的プロジェクトに対して、よその土地でただお金を使うだけの観光客がどのように貢献できるのだろう? いったいどうすれば、私たちは、観光客になることを一種の抵抗として語れるのだろうか?

 この問題に答えるにあたって、東は、10年前のほぼすべての左翼知識人のように、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリの3部作☆5を再訪している──かつてはだれもがこの壮大な著作に敬意を表さなければならなかったのである。ハートとネグリは、自分たちの仕事が新しい『資本論』になると主張してはいるが、しかしあれを革命の指南にするというのは、まるでコウモリに洞窟の外までの案内を期待するようなものだ。じっさい、東はかれらの「マルチチュード」の概念に数多くの異議を唱えてゆきながら──「致命的な欠点」によって損なわれている(144頁)、「あまりにもあいまいで、ときに神秘主義的」(146頁)、「あくまでも否定神学的」(159頁)──ふたりの仕事を旅しているのである。それは観光客をマルチチュードと区別するためだ。両者の根本的なちがいは、つぎの主張が簡潔に示している。「マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする」(160頁)。

 観光客が連帯なしにコミュニケーションするのは、ただ通りすぎてゆくだけだからだ。たとえデモを見かけても、観光客はすぐにスマホを取りだして写真を撮る。そしてインスタグラムにアップしてなにが起きているのかをたずねたあと、ホテルにもどって「いいね」の数をチェックするだろう。これに対して、マルチチュードは街頭へゆき、仲間たちと一本のウイスキーを分けあって、警棒から互いをかばいあう。このふたつのカリカチュアを念頭におけば、観光客がソーシャルメディアの見せ物を超えて合理性や現実的な有効性(Wirklichkeit)をもつとすぐさま肯定するのは疑わしいことだ。しかし、このステレオタイプに甘んじていては、東浩紀の真髄を見逃してしまう。この本に書かれている文章は、ヘーゲルがいくつか引用された単なる軽い読みものではない。そこには、かれが博士論文の『存在論的、郵便的──ジャック・デリダについて』(1998年)を執筆したときから考え抜いてきたプロジェクトがあるのだ。このプロジェクトの本質をつかむためには、東の立場を3つの公理で理解するのがよいだろう。

(1)抵抗はつねに現実主義的で、それゆえ存在論的でなければならない。★1 (2)世界はネットワークであり、観光客はパケットである。 (3)抵抗は、誤配というかたちでのみ存在しうる。

 観光客はマルチチュードと対立する形象である。なぜなら、マルチチュードの理論は否定神学的だからだ。東の理解では、否定神学とは「神はどこにもいない。だからこそ神は存在する」といった主張をあらわす(ただし、存在と所与性が等しいと考えてはいけないことに注意する必要がある。かりになにが即座に与えられてはいないとしても、それが存在しないことを意味するわけではないからだ)。マルチチュードは否定的な観念としてのみ存在する。それは、それでないもののことだ。だからマルチチュードはあいまいで、文学的で、ロマン主義的である。読者のなかには、おなじ非難が柄谷の「世界共和国」にも当てはまるのではないかと考えるひとがいるだろう。柄谷の言う「交換様式D」は、それ自体として与えられることがなく、決して到来しないであろう観念だからだ。統制的な原理のもとで展開されるあらゆる活動と同様に、それは正確な知識としてではなく、大体それらしいかたちでしか到来しないだろう。これはたとえば、自然の目的を問われたとき、厳密には何なのかを答えられないようなものだ。私たちは、せいぜい自然が目的をもつ「かのように」語ることができるだけなのである。とはいえ、これはより専門的な議論に値する別の問題であり、この書評があつかう範囲を超えている。
 東にとって観光客は、観光客であるかぎり、抵抗のみなもとである。『観光客の哲学』には、「郵便的」なものがなぜ否定神学を批判の的にしているのかが書かれている。「それに対して『郵便』は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である」(156頁)。観光客の実存は郵便的だ。観光客はまるでパケットのように、(東が本書の一章を割いて論じた)ネットワーク理論から知りうるものとよく似たルーティングアルゴリズムによって、ある末端から別の末端へと送信される。東は、把握しえないものというカテゴリーを否定していない。むしろそれを誤配とみなすのである。そしてネットワーク理論とは反対に、私たちは、成功した配達にではなく誤配にこそ抵抗を見いだすのだ。
 なぜ誤配はひとつの抵抗になるのだろうか? ここで言う誤配とは、たとえばアメリカへ旅行するはずなのに、あなたを乗せた飛行機が北朝鮮へ飛んでいる、といった意味ではない。たしかにこれも誤配ではあるだろう。だがそれが抵抗に転じることはない。これは惨事とまでは言わずとも、システムの機能不全である。東はむしろ、偶然や予期せぬ出来事がもつ力に目を向けている。このような発想は、東の著作の第二部である「家族の哲学(序論)」の根底をなしている。観光客とは、それ自体がまず偶然の存在であり、しかも偶然性に開かれている──偶然性とは、すべてのものが別のかたちでもありうるということだ。
 例をあげよう。私は4月に空路で東京へ行きたいと思っている。東京には美しい桜が咲くという話を以前読んだし、ゲンロンカフェへ行けば東さんに会うチャンスがあるかもしれないからだ。けれども、私はこの4月に東京へ行かなくてもよい。それは別のかたちでもありうるからだ──たとえば私も番組を購入すれば、オンラインで話をする東さんを見られるし、来年のおなじ季節に行くこともできる。また、かりに私が4月に日本へ行ったとして、そこでもっとも印象に残るのは、桜でも東さんでもなく、なにか別の予期せぬものかもしれない。観光客は、ヘラクレイトス主義者のように予期せぬものを予期していなければならないのだ(断片18)☆6。現代においては、観光客の形象がよりはっきりと現れている。まさにこのときを逃すことなく、東は結論を下す。「ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。二一世紀の新たな連帯はそこから始まる」(192頁)☆7

 観光客は、私たちが思い込んでいたような受け身の消費者ではない。むしろネットワークとして考えられた世界を再構成する、積極的なつなぎ役なのだ。だから観光客は好奇心をもち、果敢でなければいけない。現に東は、観光客に向けて「出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻す」という課題を与えている(192頁)。
 この偶然性というテーマは、本書の第1部「観光客の哲学」から第2部「家族の哲学(序論)」にかけて、さらに広げられている。東が説明しているとおり、第2部は、今後の仕事のなかで展開される暫定的なアイディアのいくつかをスケッチしたものになっている。とはいえ、どうして東は、観光客の哲学のなかに家族を含めようとするのだろうか? よく知られているとおり、ヘーゲルの『法の哲学』では、家族が(時系列的ではなく)論理的な意味で、家族-市民社会-近代国家という3つの組み合わせの起点とされる。なので、家族への回帰とは、いわば近代国家よりまえにあるものまで引き返し、(再帰的な意味で)あらたな循環をはじめることなのだ。じっさい、本書で東が取り扱っている家族が『法の哲学』に見受けられる家族と別物なのはまちがいない。後者においては、愛が揚棄されて市民社会の利害関心になるのだが、家族とは、個人の権利がこのような愛へと揚棄されたもののことである。他方で、東の明快な整理のなかでは、家族的類似性と誤配こそが、国民国家のあとの政治を支えるふたつの哲学的原理として立てられている(222頁)☆8。だが結局のところ、これらはおなじひとつの原理なのだろう。そのわけは、最後に記された東の主張が物語っている。「なぜならば、親であるとは誤配を起こすということだからである。そして偶然の子どもたちに囲まれるということだからである」(300頁)。
凡例 ★=原注 ☆=訳注 []=著者補足 〔〕=訳者補足 
※本文中に示されたページ数は、すべて日本語版(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年)のものである。

★1 ここで使っている「存在論的」という用語は、東自身の解釈からは離れているかもしれない。というのも、東は、自身のデリダ論のなかで「論理的-存在論的脱構築」と「精神分析的-郵便的脱構築」を区別しているからだ。しかし私としては、デリダの脱構築は存在論的-郵便的であったと思う。なぜなら、『「幾何学の起源」序説』(1962年)のなかで、郵便的なものが余剰なもの、つまりある世代から別の世代へと伝えられてゆくであろう相補的なものとされているからだ。デリダにおいて残されている問題は、相補的なものの歴史、またそれゆえ郵便的なものの歴史である。私は、この論点をめぐる東とのさらなる議論を歓迎したい。   
☆1 原文は figure 。じっさいに見たり触れたりできる姿やかたちをあらわすほか、象徴や表象をも意味する。本稿でホイは、figureという語を一貫して「観光客」と結びつけている。これはおそらく、東の「観光客」が、哲学の対象となる抽象概念であると同時に、きわめて具体的で現実的な側面をもっていることに由来している。じっさい、柄谷の言う「世界共和国」に「想像」という言葉が使われていることを考慮すれば、ホイがfigureという語に込めた意図や評価は明白だ。また『観光客の哲学』の179頁には、東の観光客論が単なる「イメージの刷新」にとどまらないことが明記されている。当初訳者は、figureになるべく普段づかいの言葉を当てたいと考えていたが、このような抽象と現実の両義性をきちんとあらわすことを優先し、「形象」という訳語を選択した。 
☆2 柄谷行人『世界史の構造』、岩波現代文庫、2015年、ix頁。 
☆3 この点にかんして、ヘーゲルは以下のように述べている。「ここに規定された意志の一側面──[……]制限としてのすべての内容からの逃避──[……]これは否定的な、ないしは悟性の自由である。[……]この自由が現実に向かうときには、宗教的な場面においても、政治的な場面においても、いっさいの存立する社会的秩序を破壊し尽くす狂信となり、秩序維持の嫌疑のある諸個人を追放し、ふたたび台頭しようとするどんな組織をも壊滅することになる」。ヘーゲル『法の哲学──自然法と国家学の要綱 (上)』、上妻精ほか訳、岩波文庫、2021年、70頁、強調は省略した。 
☆4 スノッブとは、東によると「与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、『形式化された価値に基づいて』それを否定する行動様式」をもつひとを意味する。アメリカ的な「動物」が消費社会の環境に順応し、否定も闘争もしないのに対して、スノッブは「それをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる」。コジェーヴは、このような日本的スノビズムの例として「切腹」を挙げているが、東はそれを特撮やロボットアニメに熱中する「オタク的感性」に見いだしている。東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年、97-99頁。 
☆5 ネグリとハートの「三部作」は、一般的に『帝国』『マルチチュード』『コモンウェルス』を指すが、『観光客の哲学』では『コモンウェルス』はとくに言及されておらず、後年の『叛逆』が参照されている。 
☆6 ヘラクレイトスの「断片18」(クレメンス『雑録集』第2巻第17章4節)は、以下の警句となっている。「予期しなければ、予期されていないものを発見できないであろう。それは、見いだしえないもの、獲得しがたいものだから」。G・S・カークほか『ソクラテス以前の哲学者たち(第二版)』、内山勝利ほか訳、京都大学学術出版会、2006年、252頁。 
☆7 引用元と強調箇所が異なるが、ここでは評者のホイにしたがう。 
☆8 該当箇所(日本語版では299頁)には、以下の記述がある。「かつてリベラリズムは他者の原理をもっていた。けれどそれはもはや力をもたない。他方でいま優勢なコミュニタリアニズム(ナショナリズム)もリバタリアニズム(グローバリズム)も、そもそも他者の原理をもたない。二〇一七年のいま、他者への寛容を支える哲学の原理は、もはや家族的類似性ぐらいしか残っていない。あるいは『誤配』ぐらいしか残っていない。それがぼくの認識である」。

 

「ゆるさ」がつくる新たな連帯。待望の増補改訂版!

『観光客の哲学 増補版』
東浩紀

¥2,620(込)|四六判|432頁|2023/6/19刊行

ユク・ホイ

エラスムス大学ロッテルダムの哲学教授。著書に『デジタルオブジェクトの存在について』(ミネソタ大学出版、未邦訳)、『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(アーバノミック、邦訳はゲンロン)、『再帰性と偶然性』(ローマン&リトルフィールド、邦訳は青土社)、『芸術と宇宙技芸』(ミネソタ大学出版、未邦訳)など。著作は十数カ国語に翻訳されている。2014年より「哲学と技術のリサーチネットワーク」を主宰。2020年よりバーグルエン哲学・文化賞の審査委員をつとめる。 Professor of philosophy at the Erasmus University Rotterdam, author of several monographs that have been translated into a dozen languages, including On the Existence of Digital Objects(University of Minnesota Press), The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics (Urbanomic), Recursivity and Contingency (Rowman & Littlefield), and Art and Cosmotechnics (University of Minnesota Press). Hui has been the convenor of the Research Network for Philosophy and Technology since 2014 and a juror of the Berggruen Prize for Philosophy and Culture since 2020.

伊勢康平

1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。
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