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プラープダー・ユン+東浩紀「タイと日本の一般意志2.0」イベントレポート|福冨渉

初出:2016年04月15日刊行『ゲンロンβ1』

 個人的な話を少し。今から6年前、2010年1月のことだ。大学生だった筆者は大分県別府にいた。黴が生えたような色の蛍光灯の光が照らす食堂で、ほとんど味のないとんこつラーメンを食べていた。隣にはタイの作家プラープダー・ユン。そこに至るまでに色々あったのだが、ともかく彼と2人きりで会うのは初めてで、別府どころか九州も初めてで、タイ語も覚束なく、何をどうしたら良いものか困惑しきりであった。ほぼ初対面の人間同士らしい話題も尽きた2人は店を出て、アーケードに残る「混浴温泉世界」開催の跡を尻目にトキハ別府店4階のリブロに向かった。

 平積みの本を2人で眺めていると、そこに東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』が置かれていた。「思想家が小説を書いて…」「著者は元々デリダの研究者で、オタク批評の『動物化するポストモダン』という本が思想書なのにすごく沢山売れて…」というありきたりの説明に続けて、未読の小説ではなく『動物化する~』の内容を危なっかしいタイ語で要約し(ようと試み)た。プラープダーの反応は「なんでいまデリダの研究者が…?」だった。

 時は流れ、2015年8月。筆者はバンコクの美術館BACC、1階のコーヒーショップにいた。タイ北部産のコーヒーが注がれたカップを挟んだ向かいには、プラープダー・ユン。このBACCの4階には彼が経営に携わる独立系書店Bookmoby Readers’ Cafe★1がある。近況報告もそこそこに彼は「日本の思想家が書いた『OTAKU』っていう本がすごく面白かったんだ。読んだか?」と訊いてきた。それが『動物化するポストモダン』のことだと理解するまで、さらに数分かかった。

 その会話は、英訳された東浩紀のもう1冊の著書『一般意志2.0』(General Will 2.0)に及び、気がつけば2016年3月4日、東京、ゲンロンカフェ。東京国際文芸フェスティバル2016のオリジナルイベントとして、プラープダー・ユン×東浩紀「タイと日本の一般意志2.0――アジアにおける現代思想」★2が開催され、筆者は通訳としてその場にいた。本論はそのイベントレポートである。

 

【図1】イベントの様子。左から順に東浩紀、プラープダー・ユン、通訳中の筆者
 

 プラープダー・ユンは1973年タイ生まれ。ニューヨークのクーパー・ユニオンを卒業したのちタイに帰国。2000年に発表した短編集『存在のあり得た可能性』が2002年の「東南アジア文学賞」を受賞し、彼とその作品を「新世代の代表」「タイのポストモダン」だとする激賞と批判に満ちた「プラープダー・ブーム」が巻き起こった。2005年には自身の出版社Typhoon Booksを設立し、2012年には上述の書店Bookmobyの経営にも携わるようになる。

 2006年の軍事クーデター以降、タイの政治的混乱は激化し、2014年5月の軍事クーデターでその混乱が1つのピークを迎えた。言論統制の続く軍事政権下のタイにおいて、プラープダーの作品そのものが極めて「政治的」であるわけではない。だが政治動乱における論点の1つである、タイ国刑法第112条(王室不敬罪)の改正を要求する作家集団「セーン・サムヌック(意識の光)」★3で中心的役割を果たすなど、さまざまな形で、作家・知識人としてのメッセージを発している。

 プラープダーが東浩紀の著書『一般意志2.0』に興味を持った理由は、そんなタイの政治的状況にあった。「哲学を現代的状況の中でどう応用するかに興味があった」、「社会の人々が特定の思想哲学について一定の理解を共有していれば、よりよいコミュニケーションが生まれると信じている」。東の著書に書かれた思想と、現代タイ社会における「民主主義に関する問題」を接続して思考をめぐらせた彼は、著者である東に宛てたいくつかの質問を用意して、本イベントに臨んだのであった★4

プラープダー : 現在のタイは、前政権を(クーデターで)倒した軍事政権によって統治されている。それゆえ「民主主義」という言葉が、力を持たないものになっている。選挙も実施されなければ、法律なども軍政によって簡単に変えられてしまい、民主主義は実質的には存在していない。

 それでもなお軍政を、クーデターを支持する人々が一定数存在している。それはつまり、その国の「一般意志」がそう望んでいるのか? 日本のインターネットにおける嫌韓的言説、ヘイトスピーチの例にも触れながら、東が応答する。

東 : それはつまりポピュリズムにどう抵抗するかという問題だと思う。日本の政治状況もあって、僕はこの本を書いているあいだにも意見を変えていた。簡単に言うと、一般意志は間違える。大衆の意志の間違いを可視化する装置として、インターネットや情報テクノロジーを利用すべきだ。だがそれをどう抑え、コントロールするかを考えなければ、SNSは新しいポピュリズムの道具になるだけだ。

 タイの事例を考えると、SNSで起きる変化は「本当の変化」とは呼べないと述べるプラープダー。東は答える。SNSは人々が「今」何を感じているか、ということを知る上では重要なメディアだが、「これから何をするか」ということを与えるメディアではない。「今、感じていること」を長期的な問題に、未来につなげていくのが「人間の理性」であり、「今ここ」ではない別の時間軸を作るのがこれからの作家と知識人の使命だ。

 しかしその実現にはどんな方法があるのか、その先にある「理想の社会」を東は信じているのか? 「何が理想であるか、誰にも答えられない」と述べる東。

東 : (『一般意志2.0』の執筆中は)個人と社会をどううまくつなぐか、個人が自由を保ったまま、孤独なままつなぐことができるかを考えていた。だが、それは無理であると思うようになった。あいだにもう1つレイヤーが必要。真ん中・中間がないと人間は生きていくことができない。

 だがこの「中間」は、血縁が弱く、地域共同体の崩壊した日本においてはどうあるべきなのか。この「中間」こそ保守主義・ナショナリズムの出発点になってしまうかもしれない。そこに東のジレンマがある。

 続けて日本とタイの状況が比較される。タイでは表現の自由の行使が「自己中心的」で「社会のことを考えていない」行為だと見なされることがある。「日本の人々は一般的に、民主主義、表現の自由についてどれほどの重要性を認めているのか?」

 日本の大衆に関して言えば「ほとんど重要性を認めていないと思う」と答える東。敗戦後の日本に浸透した「はず」の人権や、表現の自由という理念。1990年代以降のインターネットの普及によって可視化されたのは、それらの理念を「どうでもいい」と考える人間が多かったという現実だった。

東 : SNSの誕生のあとに起きたことは、そこに人々の感情が集まり、それがデータとして可視化されるということ。感情は「今この瞬間」であり、「今」感じていることが正義だ。論理はそうではない。SNS時代の政治は、感情を可視化する仕組みが強力になってしまった。その結果、議論や論理が「弱く」なってきている。

「アラブの春」のように、政府が民衆を抑圧している状況においては、民衆の声を可視化するSNSはとても大きな力を発揮する。だが可視化された民衆の声に従うだけでは、それはポピュリズムになり、ナショナリズムになる。そこを区別すべきだと東は強調する。タイにおける政治とSNSの関係はどうか。

プラープダー : 現在のタイでは、政府が危険だと判断したSNSの投稿が、拘束や出頭命令といった法的手続きの対象になる。表現や感情の可視化は、利用者自身によって自己検閲されてしまっている。

 東は、たとえ権力の側からの統制・抑圧がなくとも、結局は利用者同士の相互監視が起きるのがSNSであると指摘する。確かにタイでもSNSの利用者同士、民衆同士の相互監視・批判が起きている。だがそれはあくまで「言葉」の問題だ。政府や警察組織は、実際の「身体的危険」を及ぼすことができてしまう。そのような「これから変化があるのか分からない」状況の中で、プラープダーはどのような活動をし、どのような立場をとっているのか。

プラープダー : 作家として、芸術活動をする人間としてできることは、できる限り誠実に意見を表明することだ。人間の基本的権利、表現の自由といった一見とても古臭い論点であっても、それが社会で一般的に共有されていないのなら、そこに言及していく。

 ここで休憩を挟み、議論は後半へ。「緊張して固い話」から「より柔らかく」★5。自身が装丁を手がけた自らの著書★6の話から、プラープダーが日本のポップカルチャーに興味を持ったきっかけについて語っていく。彼の世代のタイ人は、マンガや音楽といった日本のポップカルチャーと共に育ってきた。初めて自分のお金で買った本は『ドラえもん』だと言うプラープダーは、大学で芸術を学び始めてから、日本への興味を本格的なものにしていった。日本に「毎日失望している」と言う東と「失望したことはない」と言うプラープダーの対比が、悲しくも滑稽だ。

 論点はタイの文学状況に移る。本人はその影響関係を否定するが、プラープダーは村上春樹と比較されることも多い★7。「日本の作家、海外の作家の中で、タイの純文学の読者が一番よく知っている作家」としての村上春樹について、東が疑問を投げかける★8。政治がない都市、国、社会について書く「ポスト政治」の作家としての村上春樹が、まだ生々しい政治の存在するタイにおいてどのように読まれているのか?

プラープダー : タイで村上春樹が人気になったのは、近年の政治的状況の加熱の前だった。当時の中間層の読者の大部分は、小説のイマジネーションや、創造性を好んでいた。現代では作家の多くが政治の問題に重きを置くようになった。以前から村上春樹を好んでいた人と、現在も好んでいる人のあいだでは、考え方が違うはずだ。★9

「タイはある時期ポストモダン化して、その後再び政治の季節がやって来たのか」と驚きを見せる東。1990年代半ば頃から、現在の政治動乱の端緒とも言える2006年の軍事クーデターまでのタイはポストモダン化し、社会が政治を意識しない時期にあった。その時期に創作活動を始めたプラープダーは「タイらしさ=Thainess」のない作家としての批判を受けることもあった。「生きるための文学」と呼ばれる政治・社会派文学の伝統においては、「タイらしさ」は農村生活の苦悩、農民の貧困、階級格差を描かなければならなかったからだ★10。都市の人間の物語を描くプラープダーはその意味での「タイらしさ」を欠いているし、その意味での「村上春樹らしさ」を持ってもいる。プラープダーの自伝的短編「存在のあり得た可能性」★11は、タイの都市化、消費社会化の中での「喪失」を描いた作品だと、東は指摘する。

 だんだんとイベントも終わりに近づき、議論が会場に開かれていく。丸山眞男や柳田國男が示したような「日本らしさ」にまつわる理論や思想。タイにも「タイらしさ」に関する理論は存在するのか? 会場からの質問が、「タイらしさ」の問題にも呼応した。だが19世紀の日本が、西洋との遭遇の中で始めたような「日本人とは何か」を思索する知的伝統や議論の蓄積が、タイにはあまり存在しない★12。時にはそういった議論そのものが不適切だと見なされることすらある。そこは日本とタイの大きな違いだと、東は言う。

 質問は続く。『一般意志2.0』はTwitterが一般的になっている環境が前提とされた書物なのでは? そういった疑問に東は「すごく日本的な本」だと答える。靖国神社の英霊が「個」の名前を失って1つの魂に統合される。Twitterもそういうアノニマスな集合性を持っている。「個」と「全体」が調和してしまう日本だからこそ、そこに中間共同体が必要だ。東はそう繰り返す。

 そんな前提で書かれた書物は、Facebookという「個」を重視するSNSが一般的なタイの状況の中では異なる意味を持ちうる。とある場所、とある文脈のもとで生まれた1冊の書物が翻訳されて流通し、また別の場所で、別の文脈で受容される。その書物を起点に、新しい出会いが創造される。「タイ」と「日本」を足がかりに、とりどりの論点を旅した議論は、現代世界における極めて根源的で、本質的な疑問に終着した。

プラープダー : 情報技術の世界になって、これまで文化的エリートとされてきた人々と、一般の人々の境界線が消えていっている。社会は文化的エリートを持つべきだろうか? 僕たち自身ですら、一部の人々にとっては文化的エリートたりうる。けれどもその役割が重要にならない社会では、何がどうなるのだろうか。

東 : エリートというのは、「今ここ」から外れている人間のことだと思う。今この世界から外れることのできる人間がすごく重要。知識人にとって重要なのは、今の時代の価値観、今ここに生きている人たちをみな幸せにするためにどう動くか、ということとは別のことを言うことだ。哲学とか文学は、そのためにある。

 今ここではない時間、今ここではない場所のことを考える人々が集まった空間。そこにはどんな「一般意志」が生まれるだろうか?

撮影=編集部

 

★1 拙筆だが、Bookmobyについて紹介したブログ記事がある。
福冨渉「バンコクの独立系書店bookmoby」 http://soimusic.com/blog/?p=255
★2 プラープダー・ユン×東浩紀(東京国際文芸フェスティバル2016 オリジナルイベント)2「タイと日本の一般意志2.0――アジアにおける現代思想」
http://genron-cafe.jp/event/20160304/
★3 「セーン・サムヌック」の活動については、以下も参照のこと。作家集団セーン・サムヌック「セミナー『文学における市民』」福冨渉訳、『東南アジア文学』12号、2014年、31‐84頁。以下URLよりPDFファイルのダウンロード可。
http://sealit2013.tumblr.com/post/90149907129/
★4 プラープダー・ユンから東浩紀に宛てた質問は、以下URLよりダウンロード可。
http://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2016/03/20160304prabda.pdf
★5 だがこの休憩中、在京タイ大使館のスタッフがイベントの観覧に来ていることを知ったプラープダーが、身を固くする場面があった(杞憂に終わったが)。そこに現代タイの言論空間の空気が感じ取れる。
★6 装丁を手がけた書籍など、彼のデザインポートフォリオは以下のURLから閲覧できる。
https://prabdayoon.com/
また、イベント内で言及のあった、小林エリカ氏が表紙イラストを手がけたプラープダーの中編の邦訳が、『文藝』 に掲載されたことがある。プラープダー・ユン「パレイドリアの日々」宇戸清治訳、『文藝』2012年春季号、194‐213頁。
★7 その一方、『早稲田文学』の企画により、村上春樹の短編「蜂蜜パイ」を元にプラープダーが書き下ろした短編が発表されたことがある。プラープダー・ユン「月の国の神と悪魔」宇戸清治訳、『早稲田文学』5号、2012年、96‐118頁。
★8 タイでもいわゆる「純文学」と「大衆文学」は区別される。「韓流が好きな若者向けのロマンスやBL小説、主婦層向けのロマンス」などの大衆文学について、純文学の世界にいる人間はなかなかその存在に気がつかない。プラープダーはイベント内でそう述べていた。
★9 補足までに、「現在」のタイにおける村上春樹人気を牽引しているのは、Gamme Magieと呼ばれる出版社だ。それまで多くが英語からの重訳として出版されていた村上春樹の作品の権利を買い取り、次々と日本語からの新訳版を出版している。3月29日から4月10日までバンコクで開催されていた第44回ナショナル・ブックフェアでは、フェアに合わせて出版された『女のいない男たち』のタイ語版が、開催わずか6日でほぼ在庫切れの状態になり、増刷をおこなったようだ。(Gamme MagieのFacebookページ、2016年4月4日の投稿より:https://www.facebook.com/GammeMagieEditions/
★10 タイ社会に巻き起こったプラープダー・ブームを諧謔的に描いた短編「バーラミー」に、伝統の「タイらしさ」と自身の「タイらしくなさ」の対比を描く記述がある。興味のある方はご一読を。プラープダー・ユン「バーラミー」宇戸清治訳、『鏡の中を数える』、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年、7‐41頁。
★11 同書、43‐66頁。
★12 会場でプラープダーが言及した思想家スラック・シワラックが、タイの知的伝統について考察した著書の邦訳がある(やや古いが)。スラック・シワラック『タイ知識人の苦悩――プオイを中心として』赤木攻訳著、井村文化事業社、1984年。「タイ人とは何者か」という問題に直接言及している書物として、作家・歴史家のチット・プーミサックの著書も挙げておく。チット・プーミサック『タイ族の歴史――民族名の起源から』坂本比奈子訳、井村文化事業社、1992年。
新しい目で世界を見るため、内的な旅へ。

ゲンロン叢書|004
『新しい目の旅立ち』
プラープダー・ユン 著|福冨渉 訳

¥2,420|四六判変形・上製|本体256頁|2020/2/5刊行

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ふくとみ・しょう/1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者。株式会社ゲンロン所属。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)がある。

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