人文的、あまりに人文的(2) 『子どもは40000回質問する』『思索への旅』|山本貴光+吉川浩満

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初出:2016年06月10日刊行『ゲンロンβ3』

「好奇心」の効果



イアン・レズリー『子どもは40000回質問する──あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』、須川綾子訳、光文社、2016年
 

吉川 2回目の今回は、ちょっと搦め手からというか、普通ならあんまり人文書というかたちでは紹介されないような、あるいは、いまや誰も読んでないんじゃないかというような、そういう作品を取り上げましょうか。

山本 「人間に関することで私と無縁なことはない」じゃないけれど、あらゆる本は人文書として(も)読むことができる、なんていったらあまりに人文的かな。

吉川 今回、山本くんから真っ先に提案されたのは、イアン・レズリー『子どもは40000回質問する──あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』。ちょっと意表を突かれた選書だったんだけど。

山本 そうそう、この本、書名や帯だけ見ると自己啓発書やビジネス書のようにも見えるんだけど、原題は『Curious』といって、ズバリ「好奇心」がテーマ。好奇心というものが、どう育まれたり機能するか、さらにはどんな影響をもたらすかということを、ノンフィクション作家のイアン・レズリー氏が書いた本です。

「好奇心」って言葉だけ聞くと、あまり面白くもない、それこそ好奇心をそそられないテーマだと思われるかもしれない。でもじつは人文学の歴史やこれからを考えるとき、好奇心というのはとても重要なものなんですね。たとえば古代ギリシアのプラトンとアリストテレスは師弟そろって、哲学や探究というものは「驚き」からはじまると言っている。ここでいう驚きとはつまり、好奇心のこと。もちろん驚いただけで終わっていたら、なにもはじまらないわけだけれども(笑)。

吉川 ビックリするだけならただの反射だもんね(笑)。

山本 そうそう。この場合の驚きというのは、なにかを「知りたい」という動機をもたらすものなんだよね。「なんだろう、これは?」という気持ちを出発点として探究がはじまる。別の言い方をすれば、「そんなの当たり前じゃん」と当然視しているものについては探究ははじまりにくい。現代に近いところではレイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と言ったりしているのも同様だね。自然や対象について驚き目を瞠る感覚。

 要するに、驚きがあるから探究がはじまると彼らは言っている。この意味はときどき思い出してみたいというか、受け止めなおしたいというか、人文学の現状や未来を考えるうえでも意味があるだろうと思う。それで、じつは「好奇心」については、関連書が出るとチェックするようにしてるんだよね。

吉川 ほう。じゃあいつか、好奇心について山本くんが書いた本が出るわけだ。

山本 いやいや、そういう前振りじゃないから(笑)。それはそうと、この本に戻ると、最初はちょっとうさんくさい本なのかなとも思ったんだよね。帯を見ると、結構センセーショナルに「好奇心格差が経済格差を生む!」なんて煽っているし。

吉川 今風だね(笑)。

山本 だけど読んでみたらそんなことはなくて、自分の第一印象に騙されなくてよかった。大事なことがいくつも指摘されています。たとえば、好奇心は放っておくとしぼんでいってしまうものだけれど、どうしたら維持したり育んでいけるかという問題について、さまざまな角度から検討を加えている。

吉川 子どもの頃は親を困らせるぐらい質問攻めにしていたのが、年とともにだんだん疑問を持たなくなったりするとかね。で、どうしたらいいのかな。

山本 好奇心が働く条件がある。一方ではまったく手がかりがないことについては興味が湧きようもない。他方では複雑すぎたりして、あまりに手に負えないものにも興味は湧きづらい。

吉川 ほどほどに知ってるのがいい。

山本 そう。なにかについてある程度知っているけど、自分がまだ知らないこともある、と知識の空白を感じている状態。ただし、自分の無知に気づかないとそもそも探究したくならない。

吉川 「私はなにを知っているか?」(モンテーニュ)の心だね。

山本 考えてみれば、小説や映画やゲームなんかも、ほとんどこの仕組みで成り立っている。少しずつ場面を見せるのでわかることが増える。でも同時にわからないことも増える。たとえば画面に男が現れて、どこかに向かって歩いている。でもどこに? 見てると銀行に入っていく。でもなにしに? 入り口にいた女性に目配せしたのはどういうこと? という具合。

吉川 マンガの連載ものとか連続ドラマの終わり方はその典型だね。「どうなってしまうのか!? 次回を乞うご期待!」というやつだ。

山本 つまり、わかるけどわからないという状態が、知りたい気持ちをそそるんだね。

 もうひとつ重要なのは、ではなにかがわからない状態をどうやって維持するか、ということ。そういう意味では、現代はわからない状態を維持しづらいかもしれない。検索すればすぐにわかることも多いから。でも、ここにはちょっとした罠がある。知識の場合、求めているものがたやすく手に入ると、好奇心もそこで途絶えてしまうということもある。

吉川 すぐわかる代わりにすぐ忘れる。

山本 そう、だからもし物事を深く探究したい場合には、意識してわからない状態を維持する必要もある。わからないから考え続ける、考え続けるからいろいろな角度から吟味されたり、さまざまなものと結びつけられたりして、長期記憶に刻まれて頭に入る。

 レズリー氏はこれを「パズルとミステリー」という印象的な対比で表現している。パズルには明快な答えがあって、わかりやすい。対してミステリーは明快な答えがなくて、複雑に絡み合った要因を解きほぐす必要がある。だから人を考え込ませる。好奇心を発揮するうえで重要なのはパズルではなくミステリーというわけだ。煎じ詰めていえば、問いが大事という話だね。
吉川 ひと口に問いといっても、面白い問いを立てるのはなかなか難しいからね。

山本 「学んで問う」と書いて学問というように、学んだことに応じてしか問いは作れない。そして学べば学ぶほどわからないことが増えてくる。知れば知るほど知識とともに謎が増える。ミステリーが尽きないのは、そういう構造があるからなんだよね。

吉川 パズルとミステリーというのは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』なんかも連想させるし、使いでのあるレトリックだね。

山本 さらに、こうした好奇心の社会的な効果を視野に入れているのが、本書のもうひとつ面白いところ。要するに、学校での学習にせよ、創造にかかわるような仕事にせよ、好奇心を原動力として探究したり知識を増やしていくことが肝心。それだけに好奇心のあり方が、将来の学業成績や仕事における差を生み出すという次第。

吉川 これが例の「好奇心格差が経済格差を生む!」の内実だね。学びと問いのサイクルを自分のなかでどれだけ回していけるかにかかっていると。だから、もし好奇心を持続させたいと思えば、いろんな工夫や仕掛けを使って、自分がそれをやり続けられるように生活を組み立てていくというのが大事だね。意識だけ高くても無理なわけだ。

山本 そう、自覚的な取り組みが必要になる。それと著者は本書をつうじて強調しているんだけど、好奇心はすでに脳裏にある知識(記憶)をベースとして働き、そこから次の問いや探究が生まれる。つまり知識が知識を呼ぶわけだね。だから基礎となる知識をどう習得しておくかは無視できないポイントでもある。

 手元にある知識をもとに好奇心を働かせて問いを立てること。これは吉川くんと私の師である赤木昭夫先生から教わったことのひとつでもあるよね。自分なりに面白い問いを作って頭の片隅に入れておくと、その問いが一種のフィルターとなって、そんなことでもなければ目や耳に入らなかったかもしれないものが飛び込んでくる。本を読んだり人と話すのもいっそう愉快になる。これは人文学に限らず学術全般や研究にとっても重要なことだね。

吉川 まあ、そうじゃなきゃ面白い研究ができないだろうし、それを続けることもできないだろうしね。

山本 そうそう。

人類学者かつ歴史学者として



ロビン・G・コリングウッド『思索への旅──自伝』、玉井治訳、未來社、1981年
 

吉川 でね、山本くんから勧められて『子どもは40000回質問する』を読んでみて、私も大きな刺激を受けたんだけど、そのときに思い出したのが、ロビン・G・コリングウッドというイギリスの哲学者なんだよね。歴史哲学や芸術哲学で有名な人。

山本 20世紀半ば頃まで活躍した人だね。『自然の観念』とか『歴史の観念』『芸術の原理』などは邦訳もある。

吉川 地味な人だし、いまではあまり読まれていないだろうなと思っていて、しかもここで取り上げる自伝は現在品切れで、図書館や古書店で探してもらうしかない。こんな本を紹介してほんとに申し訳ないなと思うんだけど、たまにはということで許してください。でも、今回のテーマに関して、すごく大事なことが書かれている。

 自伝と聞いたら、そんな昔のおっさんの人生とか興味ないしと思うかもしれないけど(笑)、まあそう言わずに、騙されたと思って読んでみてほしい。自伝といっても、この人の場合、自分の研究についてしか書いていなくて、一種の学問的遺言書のような感じ。

山本 その点、邦訳はタイトルを工夫してあるわけだね。『思索への旅──自伝』で、単なる自伝じゃないよと。彼が学んだ20世紀はじめ頃のオックスフォード大学の様子なども垣間見えて面白い。

吉川 そうそう。それで、レズリー本でテーマになっていた好奇心と問いというテーマが、この自伝の第5章「問いと答え」で非常に明快に定式化されているんだよね。

 コリングウッドはこの本で、名前が面白いんだけれども、「問答論理学」というのを提唱していて。彼によると、アリストテレスの古典論理学にせよ、フレーゲ以来の記号論理学にせよ、我々が知っている普通の論理学は、個々の命題の真偽を独立に決定できると想定している。それに対して問答論理学は、その名のとおり、それがどんな問いに答えるものなのかという観点から、命題──命題に限らず作品やパフォーマンスなんかも含むんだけど──を理解しようとする。つまり、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度で臨めということ。命題や作品はそういう問題状況のなかではじめて固有の意味を持つのだから、それらを独立に取り出して云々しても仕方ないんじゃないか、そうコリングウッドは言っている。

山本 言ってみれば、知的探究なり創作なりの動機も視野に入れるというわけだ。
吉川 考えたら当たり前のことなんだけどね。我々が興味を持つことの多くは、特定の時と場所で、特定の状況のもとで生まれるものだから、その状況というかコンテクストのなかで理解しないといけない。そうでなきゃ我田引水、さらにはトンデモになってしまう。

 でもこれ、原理だけを確認すれば当然のことなんだけど、実行するのはとても難しいんだよね。というのも、ある命題なり作品なりが答えようとした問いというのは、明示的に示されることもあるにはあるんだけど、多くの場合には暗黙の前提となっているから。だから読者が自分で問題を発見あるいは再構成しないといけない。

山本 事件の犯人を捜すホームズじゃないけど、一種の推理が必要になるね。

吉川 コリングウッドという人は、哲学をやる前は考古学をやっていたそうなんだけど、考古学調査の経験が問答論理学のアイデアに役立ったみたい。遺跡を発掘していると、わけのわからないものが出土するよね。そのときにどうするかというと、これはいったいなんのためのものなのかという問いを発するわけだよね。それが昔の人びとの生活を理解するとっかかりになる。

山本 ものを読んで考えるのもそれと似た面があるよね。とくに哲学書が典型だけど、人が取り組んだ研究って、結論とかそこに至る議論だけを読んで受け取ろうとしても、うまく飲み込めないことが少なくない。その手前で、そもそもその人はなにを探究しようと思ったのか、なにを知りたいと考えてその研究に乗り出したのかという出発点にある動機がわからないと、ついていけなくなっちゃうことも多い。

 言い方をかえれば、著者がどういう動機に導かれて本を書いたのか、という観点から問題を共有したり共感できれば、俄然面白くなってくる。それに気づけば哲学書を読むのも楽しくなる。

吉川 プラトンとかアリストテレスとか、書かれた内容だけを取り出してみれば、わけがわからなかったりするんだけど、でも彼らがどんな問いに直面していたかという観点から見れば理解可能になって、独自の意味と価値が見えてくる。

 いわゆる炎上発言なんかについても、問題を再構成してみれば、それなりに納得できるものだったりするよね。片言隻句を取り上げて断罪してもしょうがない。問題そのものが面白くないという場合には、それごと捨て去っちゃえばいいと思うんだけれども。

山本 そういう意味では、「火星の人類学者」(オリヴァー・サックス)の視点が必要なんだろうね。ある人間や集団において、当人たちにとっては当たり前すぎて明示されない問題を再構成する視点。文化人類学者から経済誌の編集長に転身したジリアン・テットが、最近評判の『サイロ・エフェクト──高度専門化社会の罠』で指摘したのも、この問題だった。組織を動かす規範や慣習が自明視されて見えなくなってしまうのがサイロ効果。これが企業にさまざまな問題を引き起こしている。そこで必要なのが、インサイダーであり、かつアウトサイダーでもあるという視点。つまり人類学者の視点から、自明視された暗黙の前提を可視化することで、知というものを問いと答えのセットで扱うという姿勢です。これはコリングウッドの問答論理学と同じことを言っていると思う。

吉川 そうだね。こういうふうにまとめられるかもしれない。インサイダー兼アウトサイダーというあり方には、共時的な側面と通時的な側面がある。共時的な側面を取り上げると、テットのいうような人類学者の仕事になる。通時的な側面を取り上げると、コリングウッドのいうような歴史学者の仕事になる、と。誰それはこの命題をどんな問題に対する解答にしようとしたのか、という問いは歴史的な問題にほかならないわけだから。読書を楽しむ王道は、作品に対して人類学者かつ歴史学者として接することだといえるかもしれない。

山本 さらに言えば、これこそまさに、この連載のタイトルにもある「人文」的思考の核心だよね。

吉川 まったく。というわけで今回は、いっけん人文書には見えないような、自己啓発書っぽい売られ方をしている本から入ったわけだけど、最終的には「人文的、あまりに人文的」な思考の中心的課題へと至りついたと。

 せっかくいい感じにまとまったところなんだけど、最後にひとつ補足。今回コリングウッドについて調べる過程で、面白い研究者をふたり見つけました。どちらもこれまで存じ上げなかったんだけど。ひとりは大阪大学の入江幸男さんで、問答論理学の主張を証明するという仕事をされている。私は論理学が不得手できちんと評価できないんだけど、腕に覚えのある人は検討してみてください。そして結果を教えてください(笑)。講義ノートが公開されているので検索してみて。もうひとりは早川健治さんという20代の研究者で、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン哲学科の修士課程にいらっしゃるらしい。この人がコリングウッドの邦訳をKindle版で2冊出している。こちらも検索してみてください。

 次回はもうちょっと王道っぽい人文書を紹介しましょうか。まだなんにも決めてないけど。どうかお楽しみに。

山本 ごきげんよう。

山本貴光

1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。著書に『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著、太田出版)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。翻訳にジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川と共訳、ちくま学芸文庫)、サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ。ニューゲームズオーダーより再刊予定)など。

吉川浩満

1972年生まれ。文筆家、編集者、配信者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。晶文社にて編集業にも従事。山本貴光とYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を主宰。 著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)、『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)、『人文的、あまりに人文的』(山本貴光との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(山本との共著、筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(山本との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。翻訳に『先史学者プラトン』(山本との共訳、メアリー・セットガスト著、朝日出版社)、『マインド──心の哲学』(山本との共訳、ジョン・R・サール著、ちくま学芸文庫)など。
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