荒俣宏と田中康夫を通してみた東京|速水健朗

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初出:2016年7月8日刊行『ゲンロンβ4』
 本を書き終わった直後は、なぜこれを書かなかったのだろうという後悔期がやってくる。『東京β』『東京どこに住む?』という2冊を書き終えて、まさに今はそんなモードだ。

 新潟という裏日本の典型的な中規模地方都市で中高時代を過ごした僕は、それなりに東京に対する憧れを持っており、それこそ上京した当初は、不慣れなこの街をあれこれ歩き回った。そのとき参考にした作家が2人いる。荒俣宏と田中康夫である。

 普通なら同じ個人の本棚には並びにくいはずの2人だが、僕の本棚にはこの2人が共存していた。いや時代的に見れば、この2人は同時に読まれてもおかしくない存在だ。むしろ、1980年代前半から半ばにかけての東京を、たっぷりの虚飾をつけて想像力豊かに描いた作家として、並べて論じるべきではないかということに最近気がついた。それは、『東京β』において書くべきことだったかも知れない。



『東京β——更新され続ける都市の物語』(筑摩書房、2016年)


 25年前、上京した18歳の僕が最初にわざわざ出かけていった東京のスポットは、大手町の平将門の首塚だった。荒俣宏の大長編小説『帝都物語』のスタート地点であり、物語上、何度も立ち返ることになる重要な場所だ。小説は明治末期に始まる。風水などの妖術で帝都東京を壊滅させようと目論む、強力な霊力の持ち主であり帝国軍人でもある加藤保憲が登場。小説最初期の主人公で大蔵官僚の辰宮洋一郎もそこにいるが、なんと物語は、この2人のキスシーンから始まる。『帝都物語』の始まりは、BL伝奇小説だったのだ。
『帝都物語』の内容は、ほぼ100年にわたる霊的なレイヤーでの東京の攻防戦である。将門の霊を呼び覚まし、帝都の破壊を目論む加藤。それに立ち向かうのが、寺田寅彦に幸田露伴、渋沢栄一といった近代史の実在の登場人物たち。彼らが戦うのは、表だって登場する悪や組織ではない。彼らは、誰の目にも映らないところで戦いを繰り広げる。術士、陰陽師、宗教者たちが闇の中に放った、式神や土蜘蛛といった鬼や妖怪の類いによる戦いが、都市の水面下で巻き起こっている。

 戦いの第1ラウンドは加藤の勝利となり、東京は霊的に引き起こされた関東大震災によって破壊されてしまう。これを再興させるのが、渋沢栄一であり、後藤新平でありといった実在の人物たち。単なる異世界のファンタジーではない。近代の東京の興亡史を、現実とは別レイヤーで起こるファンタジーとして描いたのだ。おそらく誰もが一度読み出せばはまるであろう類いの作品である。僕がこれにはまったのは、高校3年生の終わり頃だっただろうか。悪い時期に出会ってしまったものだ。ちなみに、中3の受験時にはレイモンド・チャンドラーと山田風太郎の忍法帖シリーズにはまっていたっけ。

 それに比べて、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は、『帝都物語』のように、読んでその世界に引き込まれるような小説ではない。ストーリーは平坦で、陰陽師の類いが出てきてバトルなんてことは特に起こらない。モデルの仕事もする大学生のヒロインが、同棲しているボーイフレンドが家を空けている間に、他の男子大学生と浮気をする話だ。ディスコやカフェバーやブティックホテルが登場する。とはいえ、これらもある意味、ファンタジーだった。もちろんこじつけだが、あまり矛盾を感じることもなく、荒俣宏と併読していた。

 僕がこれを読み、出てきたばかりの東京の街と照らし合わせて、小説の舞台を歩いたりしたのは、『なんクリ』がもてはやされた時代から、さらに10年くらい後のことだ。田中康夫を読み始めたきっかけは、角川文庫版の『ぼくだけの東京ドライブ』(元々は『たまらなく、アーベイン』として1984年に刊行されたものの改稿版)の発売時期だから、90年代初頭くらいだと思う。なので、ちょうど10年遅れて後追いした読者である。バブル後の東京を、田中康夫片手に巡る。今考えると、僕がしていた聖地巡礼は、そういう類いのものだった。

 田中の『ぼくだけの東京ドライブ』は、ディスクガイド、デートガイドという形をとった東京論である。広尾に住んでいる女の子を誘うには、どこでクルマを停めて電話をかければいいかとか(公衆電話の時代なので、待ち合わせはラクではない)、都心でランチに行くなら、ホテルオークラのガーデンラウンジでサンドウィッチを頼むのが通だとか、そんな、当時の僕には、なんの汎用性もない情報だったが、なんやかんやで何度も読み返していた。ちなみにガーデンラウンジには、オークラが取り壊される前の週になって初めて足を踏み入れた。

 当時の僕は、アナログのレコードも集めるような、ちょっとはマニアックな音楽好きではあったが、『ぼくだけの東京ドライブ』に登場する音楽はまったくどれも知らないものばかり。というか、すでにレコード屋の100円箱ですらあまり見ないくらいのものが多かった。「アレッシー・ブラザーズ」とか、そういうやつだ。その辺も含め、もう終わってしまった文化を再確認するような気持ちで、東京を歩いていた。

『なんクリ』の舞台、さらに田中康夫のエッセイなどに登場する東京のエリアは、渋谷、神宮前、青山、六本木といった辺りで、小田急線沿線で独り暮らしをしていた身としては、それなりにわざわざ足を運ばなくてはならない場所が多かった。『帝都物語』と『なんクリ』を想いながら歩く東京。式神も土蜘蛛もカフェバーもオークラのガーデンラウンジも、かつての東京には存在したが、今は存在しない。

『東京β』は、まさに小説や映画に出てくる架空の東京を論じた東京論である。それだけではなく、東京について饒舌に語る、それ自体「東京論」とでもいうべきフィクションを取り上げた「都市論」論のつもりで書いた本だ。誰も指摘してくれないけど、僕が書いた最初の「評論」になるはずだ。で、本来だったら田中康夫の小説の話や『帝都物語』の話をこれに入れるべきだったのだろうが、それがなぜかまったく触れていない。大体こういうことは、後になって気がつくのだ。
 そして、もう1冊、近刊の『東京どこに住む?』は、近接性、住む場所が重要度を増す時代、みたいなことを踏まえて、エビデンスを少し超えたところで書いた「住む場所論」。こちらは、ノンフィクション、ジャーナリズムの類いの本だけど、なぜかこちらの最後には田中康夫の話が出てきている。
『東京どこに住む?——住所格差と人生格差』(朝日新書、2016年)

『東京β』と『東京どこに住む?』。たまたま同時期に東京を題名に冠する本を2冊書いたが、これが裏表の関係であるとか、そういう意図はあまりない。うーん、ないよな。とはいえ、この2冊を結びつける何かはあるのだろう。ちなみに、『東京どこに住む?』のあとがきは、『33年後のなんとなく、クリスタル』で、田中康夫が現在の東京を掴めなくなっているのではないかという話である。ここに、『東京どこに住む?』と『東京β』の接点がある気がする。書いた本人が「気がする」くらいの、頼りないものでしかないんだけど。もし、そこまで考えてくれる読者がいたら、ちょっとうれしい。
 

 2016年7月8日、速水健朗さんによる2冊の東京本の発刊を記念して、ゲンロンカフェでは速水さんと東浩紀との対談イベントが行われました。こちらのイベントの動画が、Vimeoにて販売中です。ぜひこちらもご視聴ください!(編集部)
速水健朗×東浩紀「新・東京から考える」

https://vimeo.com/ondemand/genron20160708

速水健朗

1973年生まれ。フリーランス編集者・ライター。著書に『ケータイ小説的。 〝再ヤンキー化〟時代の少女たち』(原書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『1995年』(ちくま新書)、『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)など。
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