批評再生塾定点観測記(1) 導入・批評・媒体|横山宏介

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初出:2016年8月12日刊行『ゲンロンβ5』
 自己紹介から始めよう。私は〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉第1期の修了生で、ここで「観測」される2期生たちの先輩にあたる。ゲンロンが主催する「ゲンロンスクール」のひとつである批評再生塾は、批評家の佐々木敦を主任講師に迎えた、新たな批評の書き手/読み手の育成を目的とするプログラムだ。私は昨年度にその課程を終え、今期の模様を観測・報告するという任を与えられ、こうして文章を書いている。

 ところで、「先輩」というのは奇妙な立場である。教師でもないのに偉そうで、同級生でもないのに馴れ馴れしい。かといって、完全な部外者でもないので邪険にもできない。先輩に対してタメ口か敬語かという葛藤は、その距離感の危うさをあらわしている。

 その危うい距離感は、批評家という立場のそれに似ている。


 僕は、批評は「外から目線」だと思う。批評は常に、内輪の言説にどうやって抗うかが命で、どのジャンルに対しても、外からの視線を持とうとすることが重要だ。けどそれは、そのジャンルと無関係に、無責任に外側からやって来て、中で起きていることを面白がって書き、飽きたら出て行くということではない。


 これは第1期の初回講義における、佐々木の言葉だ。批評家は「内輪」には属さないが、決して「無関係」な、完全な外野ではない。そんな内側でも外側でもない「外」とはまさに、先輩が属する微妙な領域である。だからここでは批評再生塾第2期の模様を、先輩=批評家の奇妙な立ち位置から、外に/内に向け発信していく。その身振りは、多分に「偉そう」なものになるだろうが、ご笑覧いただければ幸いである。

 その前準備として、批評再生塾の概要を紹介しよう。基本的には「課題提出」と「講義&プレゼン」がセットになった得点レースである。まず、毎回1人招かれるゲスト講師★1から出された課題が、web上で発表される。総勢40名の塾生たちは、これに応える4000字程度の批評文を、2週間以内に提出する(この時点で提出者には提出点1点が付与される)。

 期日の翌週には「講義&講評」がある。前半はゲスト講師による講義であり、後半では事前に佐々木が選出した優秀論文の筆者3名が、自身の論稿の特長をプレゼンテーションする。提出論文にそのプレゼンの出来を加味し、10+その回の未提出者数の点数が、佐々木とゲスト講師により登壇者3人に割り振られる。ニコ生で無料放送されるこのプレゼンは、批評再生塾の醍醐味である。塾生は衆人の、そして講師の目に晒される中、圧に負けず説得的な発表を行わなくてはならない。講師からは、歯に衣着せぬ評価と質問が飛び、順位が画然と決する。塾生にとって得難い体験であるのはもちろん、緊迫した雰囲気での応答は、ショーとしても非常に面白い。

 このセットが10ヶ月で15回繰り返され、総合点により順位が決定される。講義を除く全てのプロセスは、Web上で誰にでも追えるようになっており★2、この文章はそれらのコンテンツへの橋渡し兼補遺にあたる。

 と、紹介はさしあたりこれくらいだ。百聞は一見にしかずという言葉もある。今期の批評再生塾の内側では、実際になにが起こっているのか、報告に移ろう。

第2回「批評再生塾第1期を総括せよ」!


 先輩は驚いている。第1期と同じく東浩紀がゲスト講師を務めた第2回講義(第1回は佐々木による導入のため、課題提出が求められる講義としては初回)が、にもかかわらず第1期とまるで違っていたからだ。批評再生塾第2期は、初めから高レベルだったのである。

主任講師の佐々木敦(右)とゲスト講師の東浩紀(左)。前半の講義では批評の再生とはなにを意味するか、対象とどう向き合うかなど、活発な対話が交わされた
 

 変化の予兆は、東の出した課題にもすでにあった。第1期の課題が「ポスト昭和はどこにあるのか」★3という抽象的なものだったのに対し、今期は「批評再生塾第1期を総括せよ」★4。すなわち、第1期総代の吉田雅史・次点の上北千明の論文★5を読み、それ(を選んだ批評再生塾自体)を批評せよという極めて具体的なものだった。

 これは第2期の課題の方がイージーだった、ということを意味しない。論じる対象を選べた第1期に比べ、今回は対象が固定され、かつそれ自体が批評文である。つまり批評の素養がなくては、文章を書くことはおろか、対象を読むこともままならないわけだ。実際、提出された34本(未提出者6名)の中には批評の形になっていないものが散見され、それらは等しく対象文の読解も稚拙だった。

 だが繰り返せば、第2期は概して高レベルであった。上位3名に選ばれた福田正知、谷美里、横山祐(名簿=プレゼン順)の論稿★6を一読すれば、それぞれ既に魅力的な文章であるのが分かるだろう。福田と横山の2人は批評再生塾の前身「批評家養成ギブス」の受講生であり、やはり批評の知見がアドバンテージとなった形だ。

 福田と谷の論はいずれも、上北の最終論文における「擬日常」(日常が非日常に揺るがされたあとに、それでも営まれる日常)という中心概念を取り上げた。福田はその裏に「擬非日常」という概念が隠されていると主張する。前者が失われたはずの日常を演じる態度であるのに対し、後者は過剰に非日常を演じる姿勢である。分析対象である浅野いにおが前者を主人公に据え後者を露悪的に描いているが故に、上北は無自覚にその構図に則り、後者を等閑視している、というのが福田の論旨だ。彼はさらに、批評再生塾自体もまた「批評の危機」という「擬非日常」を演出していると展開し、論の射程を広げている。

 一方谷によれば、その一語は「日常と非日常がともにある感覚」と「終わりのない日常感覚」のふたつの意味を担っている。彼女はそれを柄谷行人『言葉と悲劇』の、言葉の両義性が失われた際に悲劇が起こるという議論に接続し、前者こそが日常と非日常の共存する両義的=本義的な「日常」であり、後者はそれが一義化した頽廃形態だと分析した。

 と、類似した着眼点を持った両者だったが、講師の評価ははっきりと分かれた。分水嶺となったのは、「批評の型」ができているかどうかだ。福田の論が上北の問題点→原因としての浅野いにお批判→批評再生塾自体の「擬非日常」性★7へと論を広げているのに対し、佐々木が「実直さで選んだ」と評する谷は、ひとつの概念を7000字にわたり論じる丁寧さの半面、論理のジャンプや応用力に欠け、展開の単調さは否めない。佐々木はしばしば「批評はロジックとレトリックだ」と述べるが、まさにレトリックの差で福田に軍配が上がった。

 とはいえ谷の文章も初回ながら「擬日常」の解説としてクリアであり、講評も穏やかに進んだ。私の前任者である中谷径によれば「だれひとり肯定的な言葉を引き出すことはできなかった」第1期東浩紀ゲスト講師回の殺伐とした空気など、悪い夢だったかのように★8

 そんな中、事件は起こった。渦中にいたのは残る横山だ。

 彼は上の2人とは趣を異にし、東の課題自体を批評するというスタイルを採った。曰く、本来「危機(Krisis)」と同義であったはずの「批評(Kritik)」は、今や「危機」を喧伝することで逆説的に安定を手にしている。そのような言説はもはや「鼻かみ紙(Kleenex)」の如き消費財であり、先行世代を批評せよという東の課題、ひいては「批評の危機」を叫ぶ批評再生塾自体が、その流れに手を貸している。一見して挑発的な内容である。
 が、最大の問題はプレゼンにあった。彼は事前に発表内容を全く準備せず、その場で思弁したことを、脈絡のないまま独り言ちるに留まったのだ。10分にもわたるそれは端的に冗漫であり、ニコ生のコメントもブーイングで溢れた。だから東が「文章は興味を惹かず、プレゼンも真面目に考えていると思えないので、コメントはない」と切り捨てた時、ニコ生が沸いたのも当然だったのかもしれない。それに反比例し、会場は凍りつく。その後の応答も要領を得ず、東からは「批評を舐めすぎ」「真面目にやってほしい」「選んでくれた佐々木さんに失礼」「これを書いて君の人生は先に進んだのか」と辛辣な言葉が飛んだ。会場の空気はその後、槍玉に挙げられた吉田と上北が総評を行う段になって持ち直したが、塾生たちにはジャングルへ丸腰で臨むことへの戒めが刻まれた。

 その講評中、東は何度も「責任」という言葉を口にしていた。しばしば挑発的であらざるをえない批評家は、自身の態度にも責任が求められる。それが疎かでは遡及的に文章の価値も下落してしまうというのが、批評再生塾でプレゼンが評価対象となる理由だ。その意味で横山の最大の落ち度は、反論を求められた際に沈黙してしまったことだろう。

 急いで付け加えれば、私は横山の文章を全提出文中もっとも評価している(彼を含む各人への評価は批評再生塾のFacebookページ★9で読める)。第1期では誰にも実現できなかった課題自体を批評するという応答は、疑いなくクリティカルなものであるからだ。残念ながら、今回のプレゼンではその批評的=危機的な姿勢は失われていたが、懲りずに果敢な批評文を提出してほしい。それは初回で鮮烈な(?)登場をしてしまった者の「責任」であるかもしれない。

上位に選ばれた3名は講師の前でプレゼンをする。左から横山祐、谷美里、今回首位となった福田正知
 

 と、いうわけで各人の得点は11点(福田)、3点(谷)、2点(横山)。約4倍の差がついた。他の提出者に対する個別の感想は上のFacebookページに譲り、ここでは総評で文章を締めたい。全体に吉田or上北の最終論稿の分析に留まるものが多く、2人の過去の論稿や、2人(や3位以下の論稿)の対比を射程に入れた論がほぼ皆無だった点は気になる。(横山などの例外を除き)課題に素直過ぎる印象だ。より技術的なことを言えば、「この論には〇〇が書かれていない」という指摘は、福田のように原因に言及しない限り、批判として弱い。これも佐々木の言葉だが「批評文は思いついたこと全部を書けるわけじゃない」以上、〇〇の不在は取捨選択の結果の可能性があるからだ。また先に触れた通り、初回ゆえそもそも批評に触れたことがないといったふうの、「型」がない文章も多かった。

 「批評の型」。それにしても私自身何度か書きつけてきたそれは、一体なにの謂なのだろうか。次の大澤聡の課題によって問われたのは、まさにそのことであった。

第2回終了時の得点表(表内で山下研が2位になっているのは誤り。正しくは2位が谷美里4点、3位が横山祐3点である)

第3回「『型』をインストールする」!


 先輩は戸惑っている。前章に矛盾があることに気づいてしまったからだ。東浩紀によれば「批評」とは「魔法」のように「存在しない」ものだったはずだ([★7]参照)。にもかかわらずその東が、「批評の型」の有無によって塾生の評価をし、その指導さえしていたのだ。どうして存在しないものに「型」などありえるのか。この問いはきっと、「批評とはなにか」という幾度も繰り返されてきた問いと地続きだ。

 だから2回目という早さで「『型』をインストールする」という課題が出たのは塾生にとって僥倖だった。内容は『ゲンロン2』所収の「【年表】現代日本の批評1989-2001」に載った批評家を1人選び、文体や構造を模倣すること。論述対象は自由。出題講師は当該年表の作成者、大澤聡だ。彼は『ゲンロン1』所収の共同討議「昭和批評の諸問題 1975-1989」のための基調報告に次のような一節を書いている。


 だが、私たちはそれを「批評」と呼ぶべきなのか。批評の線引きを遂行的に随時決断していく。そうした作業が討議の要諦となる――★10


 これは課題と共鳴する。批評の定義は「随時決断」するしかない。つまり、それは前もっては「存在しない」。が、確かに「型」は存在する。その都度その都度、これは批評だ、という「遂行的」な確信として。だから「インストール」は、自身が批評だと感じた文章の模倣=反復としてしかありえない。「型」とは常に、それが破棄された時に遂行的に完成するものである。この課題は今後、批評再生塾の長い道程を乗り切るための、足腰の訓練として位置づけられる。

右が講師の大澤聡。登壇者は左から小田一貴、福田正知、鈴木巌朗。客席の塾生が見つめる中、講師の質疑にどう応えるかも試される
 

 選出されたのは、福田正知、小田一貴、鈴木巌朗。福田は前回に続き2度目の登壇となった。今回は論述対象が自由だったため、対象の選択に塾生の関心が色濃く反映された。それぞれの内容を概観しよう。

 ファッションを対象にB級グルメの話題から書き出される福田の論★11は異彩を放っていた。彼は「B級」を「理想形として完成されえないもの」と定義し、ファッションを「モデル」=「A級」の理想的身体と、常に「B級」であらざるをえない人間との緊張関係から捉え直した。論の前半で取り上げられる川久保玲は、あしらわれたコブでモデルの身体を奇形化する「コブドレス」によって、後半のAitor Throupは、生身のモデル以上の理想的「モデル」としてマネキン人形を用い、それを爆破により欠損させてしまうショーによって、「A級」を脱臼させる。

 小田の論稿★12は、石田スイの『東京喰種 トーキョーグール』における「喰種」(=人喰い)になることを、「童貞」を脱することの隠喩として読み替える。食欲=性欲に適応することは社会参入の条件であり、それゆえ「喰種」になることを受け入れらない主人公は最終巻で作中から退場する。それを受け続編の『東京喰種 トーキョーグール:re』では、「かっこ悪くても、いきろ。」という台詞で、童貞のまま「醜くても不安定でも他者と生きること」が肯定されるというのが小田の見立てだ。

 鈴木は『マクロスΔ(デルタ)』のヒロイン「フレイア」が持つ、感情によって色が変わる器官「ルン」を、マンガ表現における「漫符」(昂ぶった際の目の炎、怒った時の青筋の類)と同じ役割として析出し、同作は鈍感なオタク主人公が、感情が可視的でコミュニケーションの容易な彼女と、もう一方のヒロイン「ミラージュ」(「ルン」を持たず、当然ディスコミュニケーションが生じる可能性がある)のどちらを取るかという三角関係(「Δ」)の物語だと論じた★13

 こうして論旨を抜き出すだけで、どの論も独自性に富み、(福田のものが頭ひとつ抜けているものの)それぞれに面白いことが分かるだろう。が、岡崎乾二郎を模倣した福田を初め、課題への応答度は大同小異だったというのが率直な感想だ。講師たちも、非登壇者も含めた内容の水準の高さは認めつつ、模倣は語彙や文体に留まり、課題となっていた「構造」にまで踏み込めたものがほぼいなかったと総評した(小田は小谷野敦の議論の展開を意識したようだが、氏の博覧強記に太刀打ちできず、模倣度は低かった)。
 この点で、鈴木の論稿は象徴的である。彼は斎藤環の著書から論の展開に合わせた文章を抜き取り、単語を自分の論に合わせて論を組み立てるという、パッチワーク的な手法を採ったのだ。つまり文体はほぼ忠実にトレース(ペースト?)され、かつ斎藤の得意とする「戦闘美少女」が対象だったにもかかわらず、講師たちの評価は「模倣は上手くいっていない」というものだった。文章を継ぎ接ぎしたことにより、逆に全体の構成が斎藤のものから乖離してしまった形だ。

 構造の模倣の拙さは誰もに見られ、結果として点数は14点(福田)、7点(鈴木)、6点(小田)と、福田の内容面での優位がそのまま反映され、模倣度ではほぼ差がつかなかった。

 では結局、構造の「型」とはなんだったのか。ひとつの解として、大澤が指導の中で何度も問題とした「引用」の作法が挙げられるだろう。彼は全体の傾向として、大御所に論旨を代弁させるためだけに引用を使い、あまつさえ語彙や展開が引きずられてしまっていることを批判した。言い換えれば、それをバネとした論旨の跳躍や、元の文脈とのずらしがないということだ。効果的な引用のためには、相手の文章を自分の文脈に組み込み、奪ってしまう必要があるわけだ。

 大澤が縷述した引用についての「型」は、私見では「批評の型」にも敷衍できる。それは自分の外にある対象をもとに、独自の文脈を形作る営為であるからだ。さらに「『型』をインストールする」という課題もまた、他人の「型」を自身のものとする点で、極めて「引用」的な仕草である。

 それに絡めて総評を書けば、鈴木のように模倣先と類似した対象を選択するパターンは他にも多く見られた(サブカルチャー=大塚英志、文学=渡部直己、アメリカ=江藤淳など)。これは引用に逆に引きずられるという上の問題の、マクロな変奏である。それ自体悪ではないが、やはり批評には文脈の跳躍がほしいところだ。中には渡部直己→『忍たま乱太郎』★14、柄谷行人→宮藤官九郎★15、蓮實重彦→「セカイ系」★16などのアクロバティックな選択もあったが、いずれも文体の模倣度や論理展開の拙さが目立ち、登壇には至らなかった。やはり「批評の型」とは、異なる議論を自分の文脈に接続する牽強付会(レトリック)と精緻さ(ロジック)の両立なのかもしれない。

 「型」をめぐる今回の課題では、批評は内容も形式も、外部の対象を「引用」=模倣する、略奪的な言説であることが問題となった。そして奇しくも、五所純子による次回の課題もまた、同様の視点から出題されることになる。

 



 ――と、引きを作ったところで今月の報告はここまでである。最後に得点レースの現状を確認しておこう。大方の読者は気づいたはずだが、2連続1位の福田がぶっちぎり(提出点込みで27点!)の状況だ。続くのは鈴木の9点であり、3倍の差がついている。今後しばらく、誰が彼を追い抜けるかがレースの見どころとなるだろう。とはいえ、2度目の課題が終わったばかりで判断を下すのは性急である。批評家養成ギブスで培われた彼の批評力と周囲の差は、今後埋まっていくだろう。あるいはその予想に反し、批評再生塾第2期が福田正知という人材発掘のための独擅場となる恐れもまた確かにある。先輩は引き続き、2期生たちの動向を観測していく。

第3回終了時点の得点表。(こちらも山下研が2位になっているが、正しくは2位が鈴木の9点、3位が小田の8点、4位が谷の5点、5位が横山の4点と続く)


撮影=編集部

 




★1 その顔ぶれは批評再生塾公式サイトで確認できる。

★2 論文は「新・批評家育成サイト」に提出される。プレゼンはニコニコ動画「 ゲンロン完全中継チャンネル」内で無料生放送される。チャンネル会員は講義も視聴可。

★3 第2回「ポスト昭和はどこにあるのか」

★4 第2回「批評再生塾第1期を総括せよ」

★5 吉田雅史「漏出するリアル ~KOHHのオントロジー~」、上北千明「擬日常論

★6 福田正知「二分の一の双生児として」、谷美里「『擬日常論』をよむ」、横山祐「批評(Krtick[ママ])・危機(Krisis)・鼻かみ紙(Kleenex)

★7 この点について東の、「批評(critic)」はそもそも「危機(crisis)」であり(この2語は同一語源。為念)、存在しない危機を煽ることで思考を動かす「擬非日常」的なものだという指摘は印象的だった。この指摘からは「批評家=魔法使い」であり、「魔法」と同様「批評なんて本当は存在しない。」(https://twitter.com/hazuma/status/12850387185)とする東の批評観が垣間見える。

★8 中谷径「批評再生塾ガイドブック #1 導入・批評・映像」、『ゲンロン観光通信 #3』、2015年5月。

★9 批評再生塾Facebook、2016年6月22日投稿ページ。

★10 大澤聡「批評とメディア――『史』に接続するためのレジュメ」、『ゲンロン1』、2015年、38頁。

★10 大澤聡「批評とメディア――『史』に接続するためのレジュメ」、『ゲンロン1』、2015年、38頁。

★11 福田正知「川久保玲→Aitor Throupにおける「モデル」の問題系」

★12 小田一貴「『童貞であること』を超えて―『東京喰種』にみる自己否定と自己肯定の葛藤」

★13 鈴木巌朗「『戦闘美少女』との『コミュニケーション』 『マクロスデルタ』について」

★14 ☆大山結子☆「《ジェンダー序説》あるいは逆ミソジニー/『忍たま乱太郎』論」

★15  堂本剛美「クドカン論~『社会派ドラマ』に憑かれた視聴者~」

★16 秤佑介「セカイの限界を『こえ』る方法」

横山宏介

1991年生。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾第一期優秀賞。批評再生塾TAを経て、ゲンロン編集部所属。
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