批評再生塾定点観測記(2) 趣味・漫画|横山宏介

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初出:2016年9月9日刊行『ゲンロンβ6』

第4回「一人称を略奪して書け」!


 先輩は凹んでいる。批評再生塾第2期の課題提出者数が、第4回にして17人にまで落ち込んでしまったのだ。第1期が同じ人数にまで減ったのは第8回のことで(しかもその後やや持ち直した)、減少の早さは明らかである。オブザーバーとしては早急に原因を探り対策を打つ必要があるが、今回の課題が突出してハードルが高かったわけでもない。後輩を焚きつける術に頭を悩ませるのは、先輩という存在の宿命なのかもしれない。

 と、いきなり愚痴めいてしまった。気を取り直すべきだろう。が、あえて気を取り直さないまま進めてみたい。率直に言って私は今回、提出者数だけでなく、提出された文章のクオリティにも、満足いっていないのだ。

 とはいえ繰り返せば、今回の課題が難問だったというわけではない。出題者は五所純子。テーマは「一人称を略奪して書け」★1。出題文中に示されているとおり、「登場人物の気持ちになって作品を考えましょう」という課題だ。前回の大澤聡の課題が実在の批評家の文体といった形式の模倣を求めるものであったのに対し、今回は作品の中の架空の登場人物が考える内容を模倣するという点で、奇しくも対となる課題が出たと言えるだろう。

 だがここで、五所はひとつ注意を促している。それは「作中人物の気持ちを考える」のと、「登場人物の気持ちになって〇〇を考える」のは違うということだ。だから厳密には、上で内容を模倣すると書いたのは誤りである。真に要求されているのは、作中人物の思考の形式の模倣に他ならない。にもかかわらず私見では、この陥穽に落ちた論稿が多かった。
 

ゲスト講師の五所純子(右)と佐々木敦(左)。五所は全提出作を読み込み、登壇者以外の論稿にもコメントを送った
 
 だがそれでも、登壇者3名の論稿は一定の水準を保っていた。選出されたのは山下研、谷美里、横山祐。谷と横山はいずれも東浩紀の課題で上位に選出されており、新顔の山下は横山と、そしてこの時点で得点レーストップ独走中だった福田正知と同じく、批評再生塾の前身である批評家養成ギブスの修了生だ。その点で、いずれも実力者が順当に選ばれたと言える。

 興味深いのは3名の中に、真っ向から「登場人物」の一人称を略奪した者がいなかったことだ。出題に「便宜的に登場人物としたが、人物である必要はない」という付記があり、作中のモノを選択する可能性が示唆されていたとはいえ、各人が戦略的に模倣対象を選択したことが伺える。

 山下が選択したのは、「記憶」である★2。彼はドキュメンタリーアニメーション作品という異色の形式を持つアリ・フォルマン『戦場でワルツを』(2008年)を取り上げ、作家(フォルマン)自身の記憶という実在物の略奪を試みた。同作は普通、作家が失ったレバノン侵攻の記憶を取り戻すための作品だとされるが、山下はこれを、むしろ完全なる忘却のための作品だと捉え返す。最後に唯一実写で映される核心部「サブラ・シャティーラの虐殺」は記憶の正しさの証左として受け取られるが、それは裏を返せば、彼が自身に固有の記憶を客観的な事実に隷属させたということを意味するからだ。こうして事実に上書きされ消えつつある彼独自の記憶が、フォルマン=「あなた」に語りかけるという論稿だ。

 谷は登壇した3名のうち、唯一、人物の一人称を略奪したが、物の一人称とセットであった★3。彼女は梶井基次郎「檸檬」と安部公房「赤い繭」を、「動かされるもの」と「動かすもの」という観点から対比させる。前者では動かされる「檸檬」の、後者では動かすものであるが動かされるものを持たないがゆえに自己運動=彷徨を続ける「おれ」の一人称が奪われた。彼女によれば物語自体を運動させるためには、動かされるものと動かすものが必要である。ゆえに「檸檬」は芳香を発して自らを手に取らせ、「おれ」は最後、繭=動かされるものになり通りすがりの男に拾われる。

横山宏介

1991年生。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾第一期優秀賞。批評再生塾TAを経て、ゲンロン編集部所属。
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