第6回 「映画を『擬態』せよ」!
先輩は懐かしい。今回のゲスト講師である映画批評家の渡邉大輔は、批評再生塾第1期における、主催者の佐々木敦と東浩紀以外で講義を担当した最初の講師だった[★1]。思えばその際、(佐々木が選ぶ登壇者とは別に)渡邉が選んだ上位3名として挙げられたのが、批評再生塾で私の名が呼ばれた最初だった。その回では佐々木・渡邉の選出を合わせると、吉田雅史、上北千明、富久田朋子、野村崇明、横山宏介の名が挙げられており、得点レースの、そして最終課題の上位3名が出揃っていたことになる(後に総代となる吉田は佐々木と渡邉の両氏から選ばれ、かつその回の1位を取っている)。今振り返れば第1期の渡邉の回は、早くも天下分け目の戦いの様相を呈していた。
だから2期目の今回が「両雄相まみえる」という構図になったことも偶然ではないのかもしれない。この回までの累計得点31点で1位の山下研と、わずか3点差の28点でそれを追う福田正知が、共に登壇者として選出されたのだ。3位の谷美里が17点であることを考えれば、両名がツートップと言っていいだろう。共に批評家養成ギブスの修了生で、同人誌『ヱクリヲ』の編集メンバーでもあるふたりは、講評中もライバルとして扱われていた。残るひとりの登壇者もこの時点で4位(15点)の渡辺かをるであり、得点レースに大きな影響を与える回であったのは間違いない。
対決のテーマとなったのは映画。「映画を『擬態』せよ」[★2]と題されたその課題は、大澤聡、五所純子のものに続く、模倣を要求する3つ目の課題である。しかも今回、その対象となるのは映像作品の特徴そのものだ。映像の模倣を文字で行う必要がある以上、そこには必然的にアクロバットが求められる。講義中に渡邉が繰り返したように、批評対象となる作品選択の段階で勝負の大部分が決まる課題だったと言ってよい。
では登壇者たちはそれぞれ、どのような対象を選択し、どのような特徴に「擬態」したのか。
ライバルたる山下と福田の論稿は、ある点で似ており、ある点で対照的だった。
類似点は擬態のポイントである。山下は、講師の渡邉も本メルマガの連載「ポスト・シネマ・クリティーク」で前号に取り上げた映画『イレブン・ミニッツ』を、「対象作品における時間軸の遡行と混交を擬態」しつつ論じた[★3]。
一方の福田は、「五輪旗引継ぎ式の映像をイメージ群のコラージュ、パッチワーク的映像として捉え、最低限に意味は伝わるものの、所々に唐突な飛躍感のある文章を狙」ったという[★4]。つまり両者とも映像の「混交=コラージュ」性を模倣したというわけだ。
にもかかわらず、そのアプローチは正反対だった。その差異は、引用される固有名の数にあらわれる。山下は『イレブン・ミニッツ』を、無限に編集がきくデジタル編集映画の代表とし、対比としてフィルム映画『アラビアのロレンス』のモンタージュを取り上げ、両者を交互に論じるという手法を取った。その結果(おそらくは本人の意図に反し)、時間軸の乱雑な混交=デジタルシネマの特徴というよりも、フィルム映画的な、ふたつのシーンのモンタージュを模倣したような文章に仕上がっている。これも無意識だろうが、節を交互に区切る「■」と「□」の並びも、さながらフィルム側部のパーフォレーションのようである。とはいえ結論はモンタージュこそが映画であるというものであり、結果として論旨に馴染む擬態であった。
それに対して福田は、映像から喚起されたイメージを、ふんだんに盛り込んだ。「エドワード・ホッパーの《ナイトホークス》」にはじまり、「柄谷行人」、「あるぱちかぶと」と次々に繰り出される固有名は、数え方により多少増減するとはいえ両手ではとても数えきれない。むしろこちらのほうが『イレブン・ミニッツ』的な群像劇を擬態したかのようだ。好意的に読み込めば、それは映像で喧伝される「東京」の「交通都市」としての側面、あるいは「五輪」という世界的「祝祭」の猥雑さを捉えているとも言えるかもしれない。
こうして交互に眺めると、コラージュ性の擬態という点では福田の方が成功しているように見える。が、結果として直接対決を制したのは、山下の方だった。
勝因となったのは、文章の精緻さ。身も蓋もない言い方をしてしまえば、論旨の追いやすさである。比較対象を『イレブン・ミニッツ』と『アラビアのロレンス』に絞ったことにより、「デジタル/フィルム」「モジュール/モンタージュ」という対比が効き、分析が明快だった(とはいえデジタルな「モジュール」と「データベース」の差異が不問に付され、「この砂嵐が象徴するものは『モジュール』ではなく『データベース』である」という論旨の転換がうまくいっていないなどの瑕疵はある)。
1991年生。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾第一期優秀賞。批評再生塾TAを経て、ゲンロン編集部所属。